COSMOPOLITANのSTARGORA内,こちらのページに新しいゴジラの画など詳しい情報が載っています.
続いて,シュピーゲルに掲載されたトレイラーです.
日本風に題名をつけるならば,『ゴジラ対モト』にでもなるのでしょうか.
続いて,シュピーゲルに掲載されたトレイラーです.
日本風に題名をつけるならば,『ゴジラ対モト』にでもなるのでしょうか.
日本語の公式サイトはこちらです.(日本での公開は,7月25日だそうです.)
そういえば,今年はゴジラの第一作が公開(1954年)されてから60年とのことで,神保町シアターではゴジラの全作品を上映しているようですが,第一作の完成度があまりにも高かったために,それ以降に制作されたもののうち,観たものの数自体も少なく,印象に残った作品もありませんでした.(最後に映画館で観たゴジラシリーズの作品は,1966年公開の『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』でした.)
しかし,普通ゴジラをローマ字で書くとGojiraになるはずなのに,外国でのタイトルはGodzillaになっています.(本来,ゴジラという名前はゴリラとクジラを合わせたものとも聞いています.)たまたまなのか,意図したものであるのかは判りませんが,Godzillaの中にGodが入っているのは面白いと思います.実際,日本で製作された一連のゴジラ映画を観て行くと,最初はまさに荒ぶる悪神であったものが,やがて善神に変わって行くことに気づき,いかにも日本的であるように思えて興味深いものがあります.(もちろん,マーケッティングの対象が子供に絞られて行ったためでもあるでしょうが,ガメラにしてもそうですね.)
ところで,ゴジラの第一作の原作者は冒険小説家の香山滋ですが,その他,東宝の空想科学映画では,彼の小説を映画化したものとして『獣人雪男』(1955年公開)があります.ただ,1957年に公開された『地球防衛軍』*1)では,原案(丘美丈二郎)の潤色者としてオープニングクレジットに名前が表れます.
それを知って『地球防衛軍』を観ると,確かに第一作の『ゴジラ』と共通している点があることに気がつきます.例えば,登場人物においては,山根博士(『ゴジラ』)=安達博士(『地球防衛軍』),同様に尾形=渥美,芹沢博士=白石博士といった具合です.そして,ラストの展開においても,オキシジェンデストロイヤーでゴジラを倒すために自らの命を犠牲にする芹沢博士とミステリアンの基地を内部から破壊し,彼らと運命を共にしてしまう白石博士といったように.
最後に,あまり映画はたくさん観ていませんが,それでも,もし後世に残したい日本映画を三本選べと言われたら,1954年公開の『ゴジラ』(東宝,監督:本田猪四郎),『雨月物語』(1953年,大映,溝口健二),『警察日記』(1955年,日活,久松静児)を挙げたいと思います.もし,さらにもう一本と言われたら,やはり溝口健二の『元禄忠臣蔵』(1941年,松竹)でしょうか.こちらは,子供のころ,確か親に勧められて観たと思いますが,やたらに長く,おまけに忠臣蔵というと普通は楽しみにしている討ち入りの場面が一切無かったので唖然としたことを思い出します.*2)
*1) やたらに戦闘シーンが多く,日本が世界のリーダー(今の国連安全保障理事会の議長国のようなもの)になって地球を侵略しようとする宇宙人と戦うというストーリー.ただ,伊福部昭の音楽が素晴らしい.なお,東宝の俳優の中で特に好きな人というと『ゴジラ』で芹沢博士を演じた平田明彦,そして,『地球防衛軍』の終盤でベータ号に搭載された電子砲でミステリアンのドーム要塞を攻撃する関隊長役の伊藤久哉です.
以下は,子供のころ,よく観ていた日本のSF映画と今の日本映画を比べた勝手な感想です.
両者を比較して,まず感じることは前者に出演する俳優層の広さです.つまり,軍人は軍人らしい人が,科学者は科学者らしい人(例えば,村上冬樹や中村伸郎など.もちろん平田昭彦もそのうちの一人です)が,技術者には技術者らしい人が,政治家には政治家らしいひとが,実業家は実業家らしい人が演じていたように思うのです.そして,例えば同じ軍人でも,司令官クラスというと藤田進や田崎潤,また現場の指揮官クラスというと伊藤久哉などが思い浮かびます.それらしく見えるということは,演技はもちろんですが,俳優が役柄にふさわしい容貌,あるいは,極端な言い方かもしれませんが,はっきりとした個性を持っていた,あるいは,そうした個性を創り出すことができたということかも知れません.
そうした俳優たちの配役,そして彼らの演技が,たとえストーリーは荒唐無稽なフィクションであっても,観るものを引き込むリアリティーを創り出していたのだと思います.
もちろん,一時期に比べて日本映画の市場は縮小し,その結果,出演する俳優の層も限られて行ったことは事実でしょう.しかし,今の日本映画(それほど多くを観ているわけではありませんが)を見る限り,なんとなく,俳優層が二極化しているように思えてなりません.ひとつの極として,若く美しい男性や女性たち,そして,もうひとつの極は,どこかコミカルな側面を持つ年配の男性や女性たちです.
その結果,極端なケースでは時代設定が現代であっても全くのお遊び,または,人間がライブで演じていてもコンピューターゲームのように見えてしまい,過去に経験した,スクリーンに映し出される各シーンに実際に居合わせるような臨場感を感じることができない場合も往々にしてあります.
世代のせいもあることは事実でしょう.自分が持っている社会のイメージが,今の映像作家たちが持っているものとは異なっていることは否定できません.ということは,個人的に最近の日本映画に関して持っているこうした印象は,単に自らの過去に対するノスタルジーから生まれたものかもしれません.それとも,全体主義的傾向が強くなり,個人の個性が尊重されにくくなっている今の日本社会の状況が映画に反映された結果なのでしょうか.
*2) 忠臣蔵で思い出すのは,三波春夫の歌謡浪曲『三波春夫 〜元禄名槍譜 俵星玄蕃〜』ですが,この作品の映画版として,やはり子供のころ観た東映の『血槍無双』(1959年,佐々木康)があります.杉野十平次を大川橋蔵が演じ,彼に宝蔵院流の槍術を教える俵星玄蕃を片岡千恵蔵が演じていました.この宝蔵院流の名人で他に有名な人というと丸橋忠弥がいますが,もう一人,かなり時代は下って明治期の日本基督一致教会の牧師だった奥野昌綱が挙げられます.この人は,元幕臣で上野におけるクーデター軍との戦闘において彰義隊の一員として戦った経歴の持ち主でした.また,和歌の名手でもあり,ヘボン博士らの聖書の日本語訳のプロジェクトにおいて,それを美しい文語体に仕上げる上で重要な役割を果たしたことでも知られています.まさに文武両道に秀でた人だったようです.
そういえば,今年はゴジラの第一作が公開(1954年)されてから60年とのことで,神保町シアターではゴジラの全作品を上映しているようですが,第一作の完成度があまりにも高かったために,それ以降に制作されたもののうち,観たものの数自体も少なく,印象に残った作品もありませんでした.(最後に映画館で観たゴジラシリーズの作品は,1966年公開の『ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘』でした.)
しかし,普通ゴジラをローマ字で書くとGojiraになるはずなのに,外国でのタイトルはGodzillaになっています.(本来,ゴジラという名前はゴリラとクジラを合わせたものとも聞いています.)たまたまなのか,意図したものであるのかは判りませんが,Godzillaの中にGodが入っているのは面白いと思います.実際,日本で製作された一連のゴジラ映画を観て行くと,最初はまさに荒ぶる悪神であったものが,やがて善神に変わって行くことに気づき,いかにも日本的であるように思えて興味深いものがあります.(もちろん,マーケッティングの対象が子供に絞られて行ったためでもあるでしょうが,ガメラにしてもそうですね.)
ところで,ゴジラの第一作の原作者は冒険小説家の香山滋ですが,その他,東宝の空想科学映画では,彼の小説を映画化したものとして『獣人雪男』(1955年公開)があります.ただ,1957年に公開された『地球防衛軍』*1)では,原案(丘美丈二郎)の潤色者としてオープニングクレジットに名前が表れます.
それを知って『地球防衛軍』を観ると,確かに第一作の『ゴジラ』と共通している点があることに気がつきます.例えば,登場人物においては,山根博士(『ゴジラ』)=安達博士(『地球防衛軍』),同様に尾形=渥美,芹沢博士=白石博士といった具合です.そして,ラストの展開においても,オキシジェンデストロイヤーでゴジラを倒すために自らの命を犠牲にする芹沢博士とミステリアンの基地を内部から破壊し,彼らと運命を共にしてしまう白石博士といったように.
最後に,あまり映画はたくさん観ていませんが,それでも,もし後世に残したい日本映画を三本選べと言われたら,1954年公開の『ゴジラ』(東宝,監督:本田猪四郎),『雨月物語』(1953年,大映,溝口健二),『警察日記』(1955年,日活,久松静児)を挙げたいと思います.もし,さらにもう一本と言われたら,やはり溝口健二の『元禄忠臣蔵』(1941年,松竹)でしょうか.こちらは,子供のころ,確か親に勧められて観たと思いますが,やたらに長く,おまけに忠臣蔵というと普通は楽しみにしている討ち入りの場面が一切無かったので唖然としたことを思い出します.*2)
*1) やたらに戦闘シーンが多く,日本が世界のリーダー(今の国連安全保障理事会の議長国のようなもの)になって地球を侵略しようとする宇宙人と戦うというストーリー.ただ,伊福部昭の音楽が素晴らしい.なお,東宝の俳優の中で特に好きな人というと『ゴジラ』で芹沢博士を演じた平田明彦,そして,『地球防衛軍』の終盤でベータ号に搭載された電子砲でミステリアンのドーム要塞を攻撃する関隊長役の伊藤久哉です.
以下は,子供のころ,よく観ていた日本のSF映画と今の日本映画を比べた勝手な感想です.
両者を比較して,まず感じることは前者に出演する俳優層の広さです.つまり,軍人は軍人らしい人が,科学者は科学者らしい人(例えば,村上冬樹や中村伸郎など.もちろん平田昭彦もそのうちの一人です)が,技術者には技術者らしい人が,政治家には政治家らしいひとが,実業家は実業家らしい人が演じていたように思うのです.そして,例えば同じ軍人でも,司令官クラスというと藤田進や田崎潤,また現場の指揮官クラスというと伊藤久哉などが思い浮かびます.それらしく見えるということは,演技はもちろんですが,俳優が役柄にふさわしい容貌,あるいは,極端な言い方かもしれませんが,はっきりとした個性を持っていた,あるいは,そうした個性を創り出すことができたということかも知れません.
そうした俳優たちの配役,そして彼らの演技が,たとえストーリーは荒唐無稽なフィクションであっても,観るものを引き込むリアリティーを創り出していたのだと思います.
もちろん,一時期に比べて日本映画の市場は縮小し,その結果,出演する俳優の層も限られて行ったことは事実でしょう.しかし,今の日本映画(それほど多くを観ているわけではありませんが)を見る限り,なんとなく,俳優層が二極化しているように思えてなりません.ひとつの極として,若く美しい男性や女性たち,そして,もうひとつの極は,どこかコミカルな側面を持つ年配の男性や女性たちです.
その結果,極端なケースでは時代設定が現代であっても全くのお遊び,または,人間がライブで演じていてもコンピューターゲームのように見えてしまい,過去に経験した,スクリーンに映し出される各シーンに実際に居合わせるような臨場感を感じることができない場合も往々にしてあります.
世代のせいもあることは事実でしょう.自分が持っている社会のイメージが,今の映像作家たちが持っているものとは異なっていることは否定できません.ということは,個人的に最近の日本映画に関して持っているこうした印象は,単に自らの過去に対するノスタルジーから生まれたものかもしれません.それとも,全体主義的傾向が強くなり,個人の個性が尊重されにくくなっている今の日本社会の状況が映画に反映された結果なのでしょうか.
*2) 忠臣蔵で思い出すのは,三波春夫の歌謡浪曲『三波春夫 〜元禄名槍譜 俵星玄蕃〜』ですが,この作品の映画版として,やはり子供のころ観た東映の『血槍無双』(1959年,佐々木康)があります.杉野十平次を大川橋蔵が演じ,彼に宝蔵院流の槍術を教える俵星玄蕃を片岡千恵蔵が演じていました.この宝蔵院流の名人で他に有名な人というと丸橋忠弥がいますが,もう一人,かなり時代は下って明治期の日本基督一致教会の牧師だった奥野昌綱が挙げられます.この人は,元幕臣で上野におけるクーデター軍との戦闘において彰義隊の一員として戦った経歴の持ち主でした.また,和歌の名手でもあり,ヘボン博士らの聖書の日本語訳のプロジェクトにおいて,それを美しい文語体に仕上げる上で重要な役割を果たしたことでも知られています.まさに文武両道に秀でた人だったようです.
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