Friday 31 July 2009

アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ忌

今日は、サン・テグジュペリの命日です。

65年前の1944年7月31日、『星の王子さま』の作者アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの搭乗機ロッキードP-38ライトニングF5Bは、マルセイユの沖で消息を絶ちました。連合軍のプロヴァンス沿岸上陸が2週間後に迫っていたその日の朝、ドイツ占領下のリヨンの東方地域偵察のため、グルノーブルを目指してコルシカ島のボルゴ(Borgo)基地を飛び立った後まもなくのことでした。1500馬力のエンジンを2基搭載し、時速650Kmで高度10000mまで上昇可能という高性能を有するとはいえ、サン・テグジュペリ少佐の搭乗機は偵察機仕様で、機銃も爆弾も搭載されてはおらず、装着されていた数台の写真機が、彼の唯一の"武器"でした。

それから50年以上も経った1998 年9月7日、付近で漁をしていた地元の漁師ビアンコさんは、引き上げた網の中に、跳び跳ねる魚に混じって鈍く光る小さな金属片を見つけました。それは、以下の文字が刻まれた、金属製のブレスレットでした。

" ANTOINE DE SAINT-EXUPERY (CONSUELO), c/o REYNAL AND HITCHCOCK INC., 386 4TH AVE. N.Y.C. U.S.A."

* CONSUELOは、彼の妻の名前(Prénom)

やがて、この小さな遺品の発見がきっかけとなって調査が開始され、2000年、海洋考古学者ヴァンレルさんにより、当該地点の海底に横たわる残骸が、この著名な航空作家が操縦していた飛行機のものであることが最終的に確認されました。


マルセイユ近郊の入り江を巡る遊覧船から望むリウ列島(l'Archipel de Riou)。7つの島から成るこの小列島付近の海底から彼の搭乗機の残骸が発見されました。

昨年、ドイツの研究者たちの調査により、彼の搭乗機を撃墜したのが、当時24歳のホルスト・リッペルト(Horst Rippert: 終戦時少尉)が操縦する、エックス・アン・プロヴァンスに駐留していたドイツ空軍第200航空戦隊所属のメッサーシュミットBf 109 G型機であったことが判明しました。戦後は、第2ドイツ放送(ZDF)の記者として活躍したリッペルト氏ですが、少年時代、サン・テグジュペリの作品を愛読し、彼に憧れてパイロットの道を選んだと言います。半世紀以上前のその日、マルセイユ沿岸から制空圏内に侵入しようとする自由フランス空軍(F.A.F.L.)のP-38を発見し、その翼めがけて銃撃を加えたとき、やがて海に向かって墜ちてゆく同機の操縦かんを握っていたのが、敬慕する空の英雄だったことに気づくすべもありませんでした。パイロットは、最後まで脱出せず、彼の顔を見ることもできませんでした。数日後、自分が撃墜したのがサン・テグジュペリの搭乗機であったことを知らされ、それが間違いであることをひたすら願いつづけたそうです。しかし、その願いも空しく、否定しようのない事実が明らかになります。リッペルト氏は、当時を振り返り、「もし、あの操縦席に座っているのが誰なのか知っていたら、攻撃はしなかった...」と述べたそうです。撃墜されたとき、サン・テグジュペリは44歳。その最後の飛行の途中、遭遇した敵機の操縦士が20歳年下の、かつて自分が大空を自由に駆け巡る夢を与えた若者だったことなど想像もしなかったでしょう。

* F.A.F.L. = les Forces Aériennes Françaises Libres

サン・テグジュペリの作品を通じてパイロットになる夢を抱いたドイツ人少年は、自分だけではなかったとも語るリッペルト氏。祖母は、ユダヤ人だそうです。自分がユダヤ人の血統に属していることは軍に打ち明けていましたが、不思議なことに一度も問題視されたことはなく、技量的にも相当優秀なパイロットだったようです。

* 2008年3月15日付電子版『La Provence』(www.laprovence.com)の記事「Ils ont retrouvé le pilote qui a abattu Saint-Exupéry」参照。さらに、ドイツ語ですが、電子版『Frankfurter Allgemeine』(www.faz.net)の記事「Antoine de Saint-Exupéry in die Geschichte abgetaucht」にもリッペルト氏の発見に至った経緯が詳しく述べられています。

マルセイユ市では、今日からサン・テグジュペリの栄誉を讃えるための様々な催し物が開催されます。(因みに、今日は、研究者たちによるシンポジウムや、フランス空軍のミラージュ戦闘機による編隊飛行などが予定されているとのことです。)

詳しくは、マルセイユ市の公式サイト(www.marseille.fr)、そして一連の行事の公式サイト(www.marseillesaintex.org)をご覧ください。

また、パリ近郊のル・ブゥルジュ空港(Paris-Le Bourget)内にある航空宇宙博物館(musée de l'air et de l'espace)でも、現在、サン・テグジュペリ展を開催中です。(www.mae.org)

* 瑣末なことですが、サン・テグジュペリが操縦していたP-38ライトニング戦闘機は、速度、加速性能共に我国の零式艦上戦闘機を上回る性能を備えた優秀な双発戦闘機であり、1943年4月18日、前線視察のため、ソロモン諸島ブーゲンビル上空を飛行中の山本五十六連合艦隊司令長官搭乗の一式陸上攻撃機を撃墜したのもP-38でした。

Thursday 30 July 2009

Shimpei君へ

確かにそのとおり、マルセイユの旧名は、ギリシア語のΜασσαλίαです。紀元前600年ごろの、後にフランスとなる地域を含む東地中海周辺世界と言えば、もちろんギリシア文化の独擅場でしたものね。

さすが、西洋史の専門家。ブラボーでした。

では、こちらの単語は何と読むのでしょうか。⇒ Εὐαγγέλιον
Shimpei君の好きなものです。

もう向こうに行っちゃったでしょうけど。

プロヴァンス小紀行(5) 旅の終わりに

というわけで、ささやかながら以上が今回の小旅行のご報告です。

最後にご覧にいれるのは、エクス・アン・プロヴァンスのセザンヌのアトリエ(L'Atelier de Cézanne)の庭で見かけた《夢見る猫》君(左)と、同じくエクスの街角で見つけた《夢見る猫》(Chat Rêveur) 屋の看板(右)の写真です。

ではまた、いずれかの折に。


プロヴァンス小紀行(4) マルセル・パニョルのこと

マルセル・パニョルといえば、カミュやジオーノと共に南フランスを代表する作家であり、彼の代表作である『少年時代の思い出』(『Souvenirs d'enfance』)シリーズに含まれる4作品、『La Gloire de mon père』、『Le Château de ma mère』、『Le Temps des secrets』、『Le Temps des amours』のタイトルがすぐに頭に浮かぶ方も多いのではないかと思います。

この4作品には異なる邦題が存在しているようなので、とりあえずは直訳、あるいは意訳すると、それぞれ『我が父の栄光』、『母の館』、『少年時代の秘密』、『恋するころ』というようになるでしょうか。(パニョルファンの方へ - イメージをこわしてしまったらごめんなさい。)

最初の2作品は、1990年に映画化され、日本でも公開されたようです。そして、残りの2作品は、それから17年後の2007年に、国営テレビ局のFrance2及びFrance3が中心となってテレビドラマ化され、France2において放送されました。これら4作品とも、とても素晴らしい作品ですが、個人的には、特に1990年に制作された最初の2作品が好きです。そこでは、ごく平凡な家族の幸せが描かれ、同時にそれがいかにはかなく、壊れやすいものであるかも表現されているように感じました。同様に、それを一緒に育み、分かち合った相手の死によっていきなり終止符が打たれてしまう友情も。ただ、だからこそ、それらは守ってゆくべきなのではないだろうか、そして、それこそが人生に意味を、また、価値を与えることではないかとも。

(これらの作品のDVDは、原作本も含めて、Amazon.frにて購入可能です。なお、老婆心ながら、これらフランス製のDVDの再生時に出力される映像信号はPAL方式のため、一般の家庭用テレビで鑑賞する場合は、PALからNTSC方式に変換可能なDVDプレイヤーが必要です。パソコンでは、通常、問題なく再生されます。)

そういえば、ふと感じたことですが、子どもを主役とした映画は、どうもスペインや、イタリア、そしてフランスとラテン系の国に名作が多いように思えます。私の好みの問題かもしれませんが。

それと、改めてパニョルが制作した映画のリスト(上掲の4つの小説各巻の終わりに掲載されています)を見ると、ジャン・ジオーノの原作の映画化が少なくないことにも気がつきました。実際、パニョルが制作した作品は、1931の『Marius』から1967年の『Le curé de Cucugnan』まで、3回制作された『Topaze』を含め、合計23本に及びますが、そのうち、ジオーノの原作に基づくものは4本で、これほど多くの原作をパニョルの映画作品に提供している作家は他にいません。なぜでしょう。例えば、マルセイユ出身の名喜劇俳優フェルナンデル(Fernandel : 1903-1971)が研屋(rémouleur)の役で登場する、初期の代表作『Regain』(1937)も、ジオーノの原作に基づいています。( オーバーニュにあるマルセル・パニョル記念館の学芸員の方から、「なにか、質問はありませんか」と聞かれたとき、質問しておけばよかった~!やはり、どこへ行くにも予習が大切ですね。)

また、彼は、父親の期待どおり、一時期教職についていますが、エクス・アン・プロヴァンスの大学で専攻したのは、英文学だったのですね。フランスを代表する作家の一人で、しかもアカデミー・フランセーズ会員だったマルセル・パニョルが、若いころ英文学を勉強していたとは。これも、少々意外な、でも嬉しい発見でした。

なお、パニョルについての情報をとても丁寧にまとめているサイトがありましたので、以下にお知らせしておきます。

www.marcel-pagnol.com

また、オーバーニュ市観光局の公式ウェブサイト(www.oti-paysdaubagne.com)にも、パニョル縁の地を訪ねるトレッキングについてなど、パニュル関連の情報が掲載されています。(ホーム・ページの「Nos collines」にポインターを合わせると表示されるメニューの「Le Garlaban de Pagnol」をクリックしてみてください。)

さて、今回、折角マルセイユに来たのだからと、友人に勧められて一緒に訪ねたパニョルゆかりの場所はというと、その生家(現在は、記念館)があるオーバーニュ(Aubagne) 、その近郊の彼の墓があるラ・トレイユ(La Treille)の墓地、『母の館』に登場するラ・ビュジヌの城(Le Château de la Buzine)、マルセイユ10区に残る、1897年から1900年にかけて彼の父が勤務した公立サン・ルウ初等学校跡(L'Ecole communnale de Saint Loup - 彼の家族もそこに住んでいました。)などです。

ラ・トレイユは、もちろん、彼が少年時代に家族と共に休暇を過ごした村。周囲に広がる自然は、上記作品の中で語られるさまざまな思い出を育んだ舞台です。

なお、ラ・ビュジヌの城は、現在、映画資料館として公開されるべく改修工事中で入館はできません。詳しくは、マルセイユ市の公式ウェブサイトをご覧ください。


サン・ルウ初等学校の跡に建てられた建物の壁面に掲げれらたプレート


オーバーニュにあるマルセル・パニョル記念館の学芸員は、柔道をたしなんでいると言うとても親切な若い男性で、どことなく小学校の先生を思わせる雰囲気の方でした。地図の上に、その学芸員の方が書いてくれた道筋を頼りにたどり着いたパニョルの墓。近くに、『母の館』の舞台となった水路がありました。また、墓地に向かう途中、やはり『母の館』の中のワン・シーンで、父親の元教え子で、水路管理人のブジーグとマルセルの家族が一緒にテラスのテーブル囲む、居酒屋のレ・キャトル・セゾン(Les Quatre Saisons)の側を通りました。
ラ・トレイユの教会 墓地から少し登ったところにあります。

Wednesday 29 July 2009

プロヴァンス小紀行(3) マルセイユと近郊の入り江巡り

プロヴァンスを旅行する上でお奨めしないことを2つほど。

まず、

今回、マルセイユとその近郊を友人の運転する車で移動していて気がついたことですが、相当運転に自信がある場合は別ですが、マルセイユの市内をレンタカーで移動するのは避けたほうがよさそうです。何しろ、土地の人たちの交通法規についての意識といえば、進路変更の際にウィンカーを点滅させるかどうかはオプションに過ぎないと豪語するほどのレベルなので...(実際、高速道路の走行中、それが決して誇張ではないことがすぐにわかりました。フランスの他の地域においても、13という番号(マルセイユの番号、まさに納得の行く番号です)付きのナンバー・プレートをつけた車が側に来たら要注意です。)

レンタカーを借りる場合は、Aix-en-Provenceのような比較的小さな地方都市で借りることをお奨めします。(Euorpcarなどで。)

モンプリエ(Montpellier)に向かう際に通った高速A55線マルティーグ(Martigues)付近。右側に広がるのは、ベル湖(Etang de Berre)。

次に、

これはフランスを旅行する上で、どこでも共通することですが、ICチップ付でないクレジットカードの携行はお奨めできません。必ずICチップ付のものを携行しましょう。(スイスなど、他の国でも断然便利です。)なぜなら、都市の公共交通であろうと、フランス国鉄だろうと、すべての交通機関の自動券売機において、それ以外のクレジットカードは受け付けられないからです。(自動券売機を使おうとすると、まず、そういった旨の注意書きが表示されます。使えないカードとして、特に、American Expressのカードは、固有名で表示されます。)このことは、また、日本国内において、voyages-sncf.comなどを使って列車の予約をする場合でも、頭に入れておくと良いでしょう。というのは、日本で予約をして、現地の最寄の駅の自動券売機で切符を受け取る場合も、受け取りの際に使えるのはICチップ付のクレジットカードのみだからです。そして、その場合、予約の際に情報を入力したカードと同一のカードであることが必要です。

さて、このマルセイユですが、ご存知のように、フランスを代表する港町のひとつで、紀元前600年ごろ、フェニキア人達が現在の旧港(Le Vieux-Port)のあたりに住み着いたのが、その起源とされています。今や、ユーロ・メディテラネ(Euroméditerranée)と名づけられた総合開発計画に基づき、新たな港湾施設や市内各所の整備が進められ、地中海を代表する港湾都市の名に恥じない姿に生まれ変わろうとしています。聞くと、日本から訪れる観光客は比較的少ないとのことでしたが、北アフリカやその他の、旧フランス植民地からの移民やその子孫が多く、彼らが持ち込んだ文化と地元の文化が融合しあった独特の異国情緒を味わうことができる町です。

ところで、マルセイユとパリとでは、どちらの面積が広いと思われますか。答えは、マルセイユなのです。(パリ市の10540 Ha、すなわち105.4 Km²に対し、マルセイユ市の面積は、なんとその2倍以上の24062 Ha、204.62 Km²!)

以下、マルセイユの市内と、入江巡りの船上にて撮影した写真を数枚アップします。今回参加した入江(Les Calanques)巡りは、船でマルセイユ近郊の12の入江を3時間半かけて巡るというもの。船は、旧港から出航します。


マルセイユの守護聖母教会(Basilique Notre-Dame-de-la-Garde)から見た海。

沖に見える、一番左の島の左辺りがサン・テグジュペリが操縦する偵察機が墜落した地点だそうです。数年前、そこで発見された残骸が、彼の搭乗機のものであることが確認された後、撃墜したと思われる元ドイツ空軍パイロットへのインタビューがニュースで紹介され、その際、この元パイロットは、「もし、彼が乗っていることがわかっていたら、撃墜しなかっただろう...」と語ったそうですが、戦時下だった当時のこと、もちろんそんなことは不可能だったでしょう。

会堂の中には、遭遇した海難から救われた善男善女から、お礼として奉納された、彼らが実際に乗っていた船や飛行機の模型が吊り下げられていました。


旧港(le Vieux-Port)から見た守護聖母教会。画面の左側、丘の上に建っているのが見えます。


第7区の海岸沿いに住んでおられる、友人の知り合いのお宅に夕食に招かれたときに、近くで撮影したもの。左下から上に続く階段を昇りきった左奥がそのお宅。海を見下ろすテラスで黄昏行く空を眺めながら食事をするなど生れて初めての経験。食後は、皆で近くを散策。オレンジ色の照明に照らされた小路の雰囲気が印象に残りました。

じく、第7区にあるヴァロン・デ・ゾッフ(Vallon des Auffes)という入り江(漁港)。左端に見える窓のある建物が、シェ・フォンフォン(ブイヤベースで有名なレストラン)


入り江巡りに出かける日、港で見かけた漁犬(?)。さすがに魚が好物のようで、このあとご主人から与えられた魚に早速舌鼓


入り江巡りの最後に訪れたカシス(Cassis)の入り江。


同上

プロヴァンス小紀行(2) ブイヤベースのこと

もともと今回の小旅行の目的は、大学時代のルームメートを訪ねるというものだったため、せいぜい数日程度当地に留まるつもりだったのですが、折角26年振りに会うのだからと先方から言われ、結局彼の家で1週間過ごすことになってしまいました。「長崎といえばちゃんぽん」程度の知識しか、マルセイユについても持ち合わせていなかった私のわずかな関心の対象といえば、当然そのブイヤベースくらいなもので、先月25日、リヨンから乗ったTGVでマルセイユのサン・シャルル駅に夕刻到着し、それまで滞在していた天候不順のスイスの涼しさが恋しくなるほど容赦なく照りつける太陽の下にいきなり降り立ったときは、率直な感想として、「やれやれ、こんな暑いところで1週間も過ごすのか」とため息まじりに心の中でつぶやいたものでしたが、このブイヤベースが思いがけなく最高の思い出のひとつとなりました。

本物のブイヤベースが味わえると、長く当地に暮らしている、友人の知り合いの方から教えていただいたのは、シェ・フォンフォン(Chez Fonfon)というお店でしたが、結局私たちが訪れたのは、マルセイユの東南端、第8区に位置するレ・グード(Les Goudes)という小さな漁港にあるレストラン、レスプライ・デゥ・グラン・バー・デ・グード(l'Esplaï du Grand Bar des Gourdes - なんだか、お経のように聞こえる長い名前のお店です)。オーナーは、生れも育ちもこちらという生粋のグードっ子で、魚や料理法についての知識はもちろん豊富。ブイヤベースについて詳しく、しかもとても親切に教えてくれました。(ご興味がある方は、お店のサイトをご覧ください。)

このお店、実は、マルセイユ近郊の入り江めぐりの船に乗った際に、船員さんから教えていただいたお店で、なんでもオーナーはその方のご友人とのこと。

上述したシェ・フォンフォンもそうですが、とにかく、その日の獲りたての魚が船から直接厨房に上げられ、料理されるということなので、新鮮さは請け合いです。そして、もちろん出される料理の味のほうも。ただ、魚の種類によっては、肉などと同様に少し熟成させたほうがいいものもあるとのこと。初めて知りました。

個人のブログでお店について紹介してもいいですかと尋ねると、「もちろん、よろこんで」ということだったので、以下がお店のサイトのURL及び連絡先です。

www.grandbardesgoudes.com

29, av. Désiré-Pellaprat, les Goudes, 13008 Marseille

04 91 73 43 69

夏の期間は、1週間から10日前までの予約がお奨め(海側の席を確保するため)だそうですが、オーナーによると、10月なども良いですよとのことでした。

なお、日本のフランス語仲間のTさん(フランスでの勤務経験を持ち、相当なフランス通で特にワインに詳しい)によると、ブイヤベースには、ロゼ・ワインが合うそうです。プロヴァンスのロゼでしょうか。そういえば、近くのテーブルに着いていた年配のご夫婦が、やはりロゼ・ワインを味わっておられました。


レ・グードの町の様子、右側が海(港)。レストラン レスプライは、右側の奥の建物の並びです。


レスプライ店内


スープが終わり、切り分けられ、皿に盛り付けされる前の具材


店の左にある船着場

プロヴァンス小紀行(1) プロヴァンスとは?

今回、訪れた地方ですが、一般に"プロヴァンス"と呼ばれているところです。では、具体的にプロヴァンスとは地理的にフランスのどのあたりに位置するのかというと、これまではっきりとは知りませんでした。

念のため、Wikipediaで調べてみると、かつては某伯爵の領地で、現在の行政区分にあてはめると、Provence-Alpes-Côte d'Azurの大部分に相当し、西はローヌ川(Rhône)、東はヴァル川(Var)によって区切られた地域だそうです。しかし、文化及び観光の視点から眺めたとき、さらに広い地域にプロヴァンスは広がっているようです。すなわち、西は、ローヌ川を越えて、ヴィドゥールル川(Vidourle)に至り、現在のガル県(Gar)、アルデッシュ県(Ardèche)、そしてドゥローム県(Drôme)のそれぞれの南部分を含むとされています。

ただ、今回、私が携行した『GEOGUIDE Provence』(Gallimard出版)という観光案内書では、上記よりやや狭い地域がプロヴァンスとして定義されていて、単純に、アルプ・オートゥ・プロヴァンス(Alpes-Haute-Provence) ブッシュ・ドゥ・ローヌ(Bouches-du-Rône)、そしてヴォークリューズ(Vaucluse)の3県が含まれているだけでした。

そのため、観光地としてのプロヴァンス地方は、上記3県と考えていいでしょう。(参考までに、『木を植えた男』(JEAN GIONO 『L'homme qui plantait des arbres』)舞台となった地域は、この地方のすぐ上(北)に位置します。)

プロヴァンスの特徴として挙げられるのは、まず、かなり野生的な地域であるということ。海、山ともに、素晴らしい自然の造形美に出会うことができます。ただし、プロヴァンスに含まれる地域で海(地中海)に面しているのは、マルセイユとその近郊のみです。トゥーロン、サン・トロペ、カンヌ、ニースなどは、一般にプロヴァンスには含まれません。

Tuesday 28 July 2009

帰国報告

ご無沙汰しております。なんだか、永遠に梅雨が続いてゆくような昨今の気象ですが、体調をくずしたりしておられませんか。

さて、ご報告が遅れましたが、今月の13日にこちらに戻ってまいりました。結局、スイスからフランスへ移動して後、現地で投稿する機会は得られずじまいでしたが、少しずつながら、これから時間を見つけて現地で見聞き体験したことをご紹介したいと思います。

その前に、7月27日付の電子版『Spiegel』にひとつ、気になった経済関連の記事があったので、簡単にご紹介します。

「Europas Banken furchten Kreditkartenkrise」というタイトルのその記事によると、クレジットカードの不払いによってクレジットカード会社が被る損害が、現在相当な額に昇っているおり、今後、拡大が予想されるというものです。

米国において、この6月にはクレジットカードの不払い額が、史上最高に達し、この影響が欧州に及ぶことは間違いないだろうとのこと。すなわち、欧州においても今後数ヶ月間に同様の状況が出現するだろうということです。もちろん、その原因は上昇し続ける失業率にあるわけですが、クレジットカード会社は、最悪の事態を想定しているそうです。

専門家によると、欧州において、クレジットカードによる商取引の未払い額は、現在およそ2兆5千億ドル。そのほとんどが、英国のクレジットカード会社のものだそうです。国際通貨基金は、この金額のほぼ7パーセントの焦げ付きを予想しています。("Financial Times"より)

英国において、クレジットカード会社への支払いが困難となり、専門機関によせられた相談の件数が、この5月には4,1000件にも及んだそうです。昨年同月は20,000件だっということですから、今年になって倍になったわけです。

もちろん、今回の金融危機の震源地である米国においては、現在クレジットカード会社や銀行がこうした状況によって被っている損害は、Citigroup、Bank of America、JPMorgan Chase、Wells Fargo、そしてAmerican Expressなどにおいて、すでに数十億ドルに及び、Moody's-Indexの発表によると不払い額の率は、5月の10.62%から6月の10.76%に上昇したそうです。1割以上回収できていないわけですね。さらに、Moodyは、失業率もまもなく10.5%程度まで上昇が予想しています。

同様の状況は英国にても現れており、今後さらに問題は深刻化するだろうとみられております。

日本では、まもなくカードローンの総量規制が実施されるようですが、ショッピングに関してはそういった規制が今後実施されていくのかどうか。

ただ、クレジット会社自身も生き残りをかけて、策を講じているようで、例えば、英国のBarclaysは、分割払いの期間を短縮したり、さらに発行するクレジットカードの数も、5月に比べ、6月はほぼ半分に減らしたそうです。

などと、いきなり暗い記事の紹介になってしまいましたが、次回の投稿は気分を変えて、訪れた南仏のお話を投稿させていただきます。