Friday 20 November 2009

プロヴァンス小紀行II - エックスの秋

13日から14日にかけて、再び、エックス(Aix-en-Provence)を訪れました。前回は盛夏の頃でしたが、今回、街はすっかり秋の装いを身にまとっていて、しかも時折小雨も降るといった、どこか物憂げな雰囲気の、それでいてシックな佇まいを見せていました。


夏から引き続き、『ピカソとセザンヌ展』が開催されているグラネ美術館
(Musée Granet)のそばの小路。夏とはまったく異なる表情。


一夜の宿を取ったのは、駅に近い、比較的静かな界隈。大学の学部なども近いようで、学生たちの姿が目につきました。


投宿したHôtel Les Quatre Dauphins近くの広場(Place des Quatre Dauphins)。
中央に、名前の通り、4頭のイルカが形どられた噴水があります。

アルジェリアの風の便り

先日、夕方仕事から車で滞在先に戻る途中、走行中の国道の向こうに広がる風景を見ながら、「自分の国からこんなに離れたところにいても、ちゃんと息ができる。ということは、当然、日本で吸っている空気と成分がそれほど、というかまったく変わらない空気がここにも存在しているわけだ」という思いが、なぜか突然頭の中に浮かびました。ここに書くほどのことも、敢えて人に伝えるほどのことでもないのですが、なぜか、そのことがしきりに不思議に思えたのです。(なんだか、別の星にいるように感じているような物言いで、土地の人たちには申し訳ないのですが。)

そして、「人間というものは、この地球という星の大体どこでも生きることができる生き物で、逆に言えば、地球という星も、人間が生きることのできる環境を、大体どこでも提供してくれているわけだ...」ということを改めて実感し、ちょぴり新鮮な感動を味わった瞬間でした。


夕暮れ間近の風景。Didouche Mourad近郊。


コンスタンティンの子供たち。人懐っこさ(正確には、無邪気な
馴れ馴れしさというべきかも知れませんが)には驚かされます。

Friday 23 October 2009

プロヴァンス小紀行(おまけ)

日本では、そろそろ錦秋の時期を迎えているころと存じます。

私の素性と身の上をご存知の皆様は、すでにご承知ですが、現在、仕事でアルジェリアに滞在しています。

入国にあたり発給されたのが、三ヶ月間有効のビジネス(商用)ビザといわれるものなのですが、これによって滞在する間、最低一ヶ月に一度の出国が義務付けられています。このありがたい(?)義務を果たすため、一ヶ月に一度、滞在地に程近い空港とフランスのマルセイユ間に就航しているアルジェリア航空の直行便を利用して、前回訪れたプロヴァンス地方の小旅行を楽しんでいます。

先日、訪れたのは、Salon-de-Provenceという、今まで聞いたこともない町で、マルセイユ空港から直行バスで50分のところに位置しています。小さい町ですが、いわゆる観光都市とは異なり、土地の人々の普段の暮らしがゆったりとしたペースで営まれているといった印象を受けました。

一夜の宿を取ったのは、ホテル・セレクト(Hotel Select)という、これまたこの町の佇まいと調和がとれた、いたってこじんまりとしたホテルで、若いオーナーが言うには、開業したのは今から1年ほど前とのこと。この町は初めてという私に、サロンの町の歴史や見所、そしてお勧めの町一番の高級レストラン*1)まで紹介してくださり、その店でゆったりと夕食をとって、ホテルに戻ってからは、ご主人と、お互いのこれまでの人生についてなど四方山話に花が咲き、初対面にもかかわらず、しまいにはすっかり親しくなっていました。

*1) Restaurant La Salle à Manger
文字通り、「食堂」という意味の名前の店ですが、壁画や天井画で飾られたダイニング・ルームでとる食事はなかなかの趣があります。町一番の高級店というので、「ネクタイもジャケットも持ってきてないし…」とためらう私の背中を押してくれたのは、ドナルドさんの「ここはパリじゃないし、ジーンズとTシャツでも大丈夫ですから」という言葉。恐る恐る入ってみたところ、もう夜は冷えるのでと暖炉に火が入れられた店内の雰囲気と、スタッフたちの
ユーモアのこもった暖かいもてなしですっかり緊張もほぐれ、いただいたのは鴨のベリー・ソース添え。かなりボリュームがありましたが、久しぶりに味わう鴨料理でまさに絶品の味。前菜、メイン・ディッシュ、デザート、コーヒー、そして飲み物で、50ユーロ程度でしたが、まぁ、一人旅でもたまには許される贅沢かなと心のなかでつぶやきながら、「Bon week-end!(楽しい週末を!)」というお店の方の言葉に送られ、夜の静かなサロンの通りをホテルへ向かいました。途中訪れた、修復がほぼ終わったという近くの教会の、ライトアップされた美しい姿とその上に広がる星空が印象的でした。オーナーのドナルド(Donald)さんは、サロンでホテルの経営を始めるまで、パリのホテル・リッツなどのホテルの菓子職人として働いていたそうで、奥様のラエリリア(Laeriria)さんもやはりホテルに勤務されていたとのこと。そして、ドナルドさんは、サロンに来る直前は、マドレーヌ広場にあるLucas Cartonという高級レストランのチーフ・パティシエだったそうです。

そんなご夫妻が、パリでの生活に疲れを感じ、新たな人生の一歩を踏み出す場所として選んだのがこのサロンだったというわけです。

さて、このサロンの町ですが、いくつか興味深いところがあります。これからお伝えするのは、すべてドナルドさんから伺ったことの受け売りですが、まず、その昔ノストラ・ダムスが44歳のとき、故郷Saint-Rémy de Provenceを離れて移り住み、人生の終焉を迎えたのがこの町で、彼がカトリーヌ・ド・メディチと出会ったことを記念するページェントが毎年9月末ごろ、市民総出で行われるそうです。もちろん、彼の記念館もあります。そして、もうひとつ。マルセイユ石鹸という商品名を耳にされた方も多いと思いますが、この町は、唯一マルセイユ石鹸の製造工場が現存している地でもあるのです。そして、やはりマルセイユ石鹸の博物館もあります。(そういう意味では、一応観光客を意識しているようですが、絵葉書すら売っている店も見つけることができませんでした。)

ほかにも多くの興味深いものがあります。ご興味がありましたら、是非一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか。そして、滞在は、是非ホテル・セレクトで。(ホテルのサイトから直接予約が可能です。もちろん、英語でも対応してくれます。) 場所は、マルセイユ空港から17番のバスに乗ってその終点、Place Jules Morganから歩いて5分程度のところ、rue de Suffren 35番地です。

それでは、町で撮影した風景とドナルドさんからご提供いただいた、先ほど述べた野外ページェントの写真を数枚。


旧市街(これまた小さい)の入り口の門の上の時計塔。


野外ページェントでは、町全体が中世一色に染まります。
りりしい少年騎士君。もちろん、乗っているのは本当の馬です。

この日ばかりは、衣装同様エレガントに。(?)

そして、ホテル・セレクトもこの日ばかりは、
王家のシンボルである百合の紋章でデコレーション。


もちろん、ドナルドさん夫妻もこのとおり。奥様が持っている籠のなかは、ラベンダです。

最後は、普段のご夫妻です。
頼んでもいないのに、愛犬(11歳)もしっかりフレームにおさまってくれました。
さすがは、ホテルの犬。サービス精神は旺盛です。

最後に、テオドール・ジュルダン(Théodore Jourdan:1833-1906)という画家について一言。今回、サロンで出会ったものの中で、非常に印象に残ったのが、主に羊の群れや、それを牧する羊飼いを描いた作品で知られる、このプロヴァンスの画家でした。町の中心に位置する城砦の中で彼の絵の展覧会が開催されていたので訪れたのですが、そのとき会場にいたのは、私のほかにはやさしい笑顔で迎えてくれた案内の女性のみ。ゆったりと流れる午後の時間の中でそれぞれの絵の中に吸い込まれてしまいそうな、そんな温もりを感じさせる作品ばかりの、やはりこの町にふさわしい展覧会でした。プロヴァンスというと、セザンヌを除くと、パニョルを始め、どちらかというと土地にゆかりの作家たちが思い出されますが、さらにここにも一人、プロヴァンスを代表する偉大な画家がいることを改めて知り、とても豊かな気持ちになってサロンを後にしました。

Monday 31 August 2009

「ウグイス譲」をフランス語でいうと

ひとつ忘れないうちに。

選挙運動で、宣伝カーから候補者の名前を連呼する《ウグイス譲》ですが、フランス語でなんというかご存知ですか。

答えは、Demoiselle rossignolです。日本語の単語を、そのままフランス語の単語に置き換えただけですが、そう言うみたいです。

cf.: Le Japon prêt à tenter une alternance historique
Par Philippe Mesmer, publié le 29/08/2009 11:00 - mis à jour le 29/08/2009 11:43

選挙結果についての記事

朝から冷えますね。なんでも今日の気温は、10月ごろのものだとか。

正直言って、選挙の結果には驚きました。まさか、これほど大きな変化が起きるとはさすがに想像しておりませんでした。

そこで、一通りフランスの主要新聞・雑誌のサイトに掲載された日本の今回の選挙関連記事に目を通してみました。(『Le Monde』、『Le Figaro』、『Obs』、『Libération』、 『L'Express』、そしてドイツの『Spiegel』など)

上記メディアのうち、ほとんどは選挙の結果を淡々と伝えているだけでしたが、エクスプレスとシュピーゲルの記事は、事の本質を捉えているように思えたので、少し紹介しておきます。もっとも、その内容は、日本では多かれ少なかれ誰もが知っていることなのですが。

まず、エクスプレスの記事(Le Japon prêt à tenter une alternance historique
Par Philippe Mesmer, publié le 29/08/2009 11:00 - mis à jour le 29/08/2009 11:43)から。

なお、日付を見るとお分かりのように、これは投票日の前日に書かれた記事です。でも、政権交代がほぼ確実に実現する見通しと書かれています。面白いと思ったのは、リードの部分で、ちょっと引用させていただきますと

Séisme électoral en vue! Après plus d'un demi-siècle, les conservateurs du PLD
devraient céder le pouvoir au PDJ réformateur lors des législatives de ce
dimanche. La fin du soutien aveugle à Washington, mais pas des dynasties qui
gouvernent l'archipel.

と書かれてありまして、最後のLa fin du soutien aveugle à Washington, mais pas des dynasties qui gouvernent l'archipel.というところが、さすがに良くわかっていらっしゃるといった感じです。つまり、「アメリカに対する無条件の支持の終焉、でも、"王朝"による日本の支配が終わるわけではない」といったような意味です。ここでいわれている王朝とは、天皇家ではもちろんありません。敗北した自民党総裁麻生太郎氏も、勝利した民主党代表の鳩山由紀夫氏も、それぞれ祖父が首相経験者なので、結局日本は、そのような"王朝"による支配が継続している国なんだということを記者は言いたいのです。その意味では、今回の政権交代は、吉田王朝から鳩山王朝への支配(王権)の移動というわけですね。フランス人にとって、王朝や王家などという言葉は、革命以前の時代の語彙に属するわけですから、彼らの感覚にとっては、日本は到底近代市民国家とは程遠い政治形態を持っている国と映るのでしょう。

記事の本文には、両氏ともお金持ちの息子(botchan:《ぼっちゃん》)であること、さらに、日本の議員には世襲が多いこと(自由民主党では、35.1%、民主党でも、10.6%)が紹介されており、特に世襲議員の代表格として小泉元首相の息子進次郎氏が挙げられていました。ただ、麻生自民党が小泉総裁時代に続いてアメリカべったりだったのと異なり、民主党が政権に就いたら、ワシントンとはかなり距離を置くことになりそうだとも書かれてありました。

それともうひとつ感心したのは、日本のメディアが取り上げていない、老人党が言及されていたことでした。

次は、ドイツのシュピーゲル誌の記事です。

30. August 2009, 16:27 Uhr
Historischer Wahlsieg
Hatoyama beendet Japans Einparteienherrschaft

こちらの記事は選挙の結果が確定してから書かれたもので、内容で目を引いたのは、Keine Partei im westlichen Sinneという中見出しに続く段落でした。自民党のことを言ったもので、ようするに、同党は西洋の概念では、ひとつの政党とは定義できない存在ということです。

日本でもよく言われてきたこと(シュピーゲルの記者も日本のメディアを通して知ったのでしょう)ですが、自民党という集団は、それ自身の中に与党と野党を含んでいるようなもので、所属議員たちは、社会に存在する様々な団体と結びつき、それらにとっての利益を獲得することが彼らの仕事でした。もちろん、それによって、彼らも利益が得られるからです。そして、党は、そうした団体の代表である政治家間の調整役として機能していたわけです。しかし、自民党議員の支持基盤である農村の経済的疲弊や、大企業の経営不振などにより、個々の団体へ分配できる利益が大幅に減少した結果、このような仕組みは働かなくなってしまいました。つまり、個々の団体に利益を分配することで維持できていた権力も分配するものがなくなったことによって彼らから去って行ってしまったというわけです。

というようなことが書かれていました。

まずは、これにて。

Sunday 30 August 2009

選挙の結果は

もし、政権が変わったら、先日、「現代の神々と祭司たち」という投稿の中で述べたような、官僚=神々、政治家=祭司、団体=氏子、さらに加えれば、アメリカという絶対神によって構成されている、この国のこれまでの形がこわれるのか、それとも、やはりこの形が存続してゆくのかおおいに興味がある。

アメリカと日本は本当に価値観を共有しているか

少々小言幸兵衛のようですが、最近、テレビを観ていて政治家(例えば、今の総理大臣)などが口にする言葉で気になったものがあるので、ご紹介します。

それは、「日本とアメリカは価値観を共有している」という言葉です。この言葉を聞くたびに「うーん。確かに表面上はそう見えるかもしれないけど本当にそうなのかなぁー」と頭の中でつぶやいています。さらに、「ナイーブと言うのか、よくもまぁそう自信をもって言い切れるものだ」とも。

彼らによると、日本はアメリカ同様、民主主義や自由主義を信奉しているからというのですが、確かにこの間の戦争に負けて、戦勝国のアメリカの指導によりこうした考えを土台にした諸制度が導入されました。でも、そのちょっと前までは、「進め一億火の玉だ」とか、「一億層玉砕」とか叫ばれていたわけで、現人神と仰ぐ天皇を頂点とする国体護持のためにすべての国民が生命を犠牲にすることが求められていたのです。(8月15日がすでに過ぎているにもかかわらず、このようなことを書くのは少々季節遅れかもしれませんが。日本では、季節ごとに語られるテーマが決まっているので。)

それが、戦争が終わったと同時にアメリカの従順な教え子として、恩師から教わる様々な価値観を無条件で受け入れるようになる。こうした変節がなぜ可能だったのか、不思議でならないのです。といいますか、そのときアメリカから教わったことは、今でも本当に理解されているのだろうかという疑問が、最近頭から去らないのです。

先日、『戦前日本人の対ドイツ意識』という本を読みました。なかなか興味深いことが、しかもわかりやすく書かれていて、読んで得した気持ちになった一冊でした。この本によると、1930年代、ナチスが政権を掌握したとき、日本では人種差別を公言するヒトラーに対する警戒感のほうが支配的でしたが、1939年のドイツのポーランド侵攻に始まる、周辺各国への電撃的な軍事作戦の成功が伝えられると世論はこぞってドイツを贔屓するようになります。個人より国家を重視し、前者は後者に奉仕すべきという国家社会主義(Nationalsozialismus:ナチズム)は、日本の国体護持を最優先とする思想に近いなどという論説なども現れます。とにかく強い者につきたがるというのは、この民族の伝統的な習性のようです。

「バスに乗り遅れるな」という合言葉が新聞に頻繁に現れるのはこの時期です。ようするに、勝ち馬に乗り遅れるなということです。1940年、フランスがドイツに屈して、アジアにおけるその影響力がなくなったと判断するやいなや、日本は仏領インドシナへの進駐を開始します。

ここで面白いと思うのは、この時期、日本では、「ドイツ最高、ヒットラー万歳」という風潮が支配的だったのに反して、当のドイツにおいては、ポーランド侵攻、すなわち実際の戦争への突入を契機に、国民の国家に対する信頼が揺らぎ始めていたということが、最近の研究でわかってきたと言うことです。

手元にある『Volkes Stimme』という本にそのあたりの事情が述べられていて、例えば、「フォルクス・ワーゲン貯蓄」の加盟者数の推移がそれを如実に示しているといいます。「フォルクス・ワーゲン貯蓄」というのは、当時、購入代金の半分まで貯蓄すれば、ナチスが生産している文字通りの国民車であるフォルクス・ワーゲンを手にすることができるという制度ですが、その加入者の数が、1938年から1939年までは、8万から10万だったのに対して、戦争が始まった1940年の12月には、2万以下に減少しているのです。―75%以上という急激な落ち込みです。この調査を紹介したPhilipp Kratz氏は、これは、国民のナチス、すなわちヒットラーの戦争遂行能力に対する信頼の変化をあらわしているといいます。誰だって、自分の国の将来に不安を感じるとき、国営の機関などにお金を預けようとは思いませんものね。

戦時中、ドイツに対してこの国の国民が抱いていた熱狂は、戦後は、ドイツや日本を敗北させた超大国アメリカへと向かいました。変わり身の早さ、変節の巧みさには驚くものがあります。そして、現代においては、自分たちはアメリカと価値観を共有していると自信をもって言い切ってしまう。こうした日本人の、自らの過去をいとも簡単に忘れてあっけらかんとしている姿勢に漠然とした危うさを感じてしまう昨今なのです。

参考:
岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識 』, 2005, 慶應義塾大学出版会 
Göty Aly 編『Volkes Stimme Skepsis und Fürervertrauen im Nationalsoyialismus』, 2006, Fischer Verlag GmbH, Frankfurt am Main

文明と人名 (補足)

前の投稿の内容を補足させていただきます。

人間と他の動物の区別は、例えば、言葉にも表れています。具体的には、西洋の言葉において、人間と動物の身体の各部分の呼び方が異なるのです。

フランス語では、犬などの肉食獣の口を《gueule》と呼びます。人間の口や顔をgueuleと言うこともありますが、非常に下品な表現です。 ドイツ語でも、《Maul》というのは動物の口のことで、通常、人の口には使いません。さらに、ドイツ語では「食べる」という動詞は、人間の場合は《essen》を使い、動物の場合は《fressen》です。(人間の場合でも、ときに後者を使うこともありますが、あまり上品な表現ではありません。)

さらに、四足動物の足ですが、フランス語では《patte》という言葉を使い、人の足を意味する《pied》などは使いません。日本語でも、正しくは《前足》、《後足》と呼びますが、一般的に私たちは、猫や犬などの前足を《手》とよんだりしています。

また、鳥や獣の足の爪は、フランス語では《griffe》、さらに猛禽類については、《serre》という言葉で呼びます。日本語の場合、虎やライオンの場合も、あるいは鷲の場合も、皆等しく人と同様に《爪》という言葉で呼んでいます。

ただ、ここでひとつ断っておきたいのは、こうした、言語に見られる人間と動物の差別化の原因が、単純にキリスト教の影響によるものということはできないということです。フランス語にしろ、ドイツ語にしろ、少なくともその元となる言語は、常識的に考えてキリスト教が入ってくる前から存在していたでしょうから。どちらかというと、言語のほうが宗教に影響を与えた、あるいは宗教の枠組みを規定したと考えたほうが自然でしょう。とはいえ、ヨーロッパの言語にせよ、キリスト教にせよ、いきなりこの世に現れたわけではなく、前者の場合はラテン語やギリシャ語、後者の場合はユダヤ教といったように、それぞれ先祖をもっているので、さらにこれらの先祖の過去を辿ってゆくと、何か別のことがわかってくるかもしれません。とりあえずは、ユダヤ教やキリスト教は、上述のように、人間と動物が全く別の存在であるという世界観が支配的な土壌において誕生したと考えてよいでしょう。

それから、日本では個人名が公共施設などに付けられることが極めて少ない理由として、御霊信仰や儒教の影響が考えられるのではと書きましたが、さらにそれに加えて、日本独特の農耕村落共同体の習性もある程度の影響を与えているかもしれません。すなわち、特定の個人の価値を重要視しない、あるいは個人が目立つことを好まず、みんなが一緒に同じことをするのが理想的という考えです。もっとも、それには例外があって、外国で優秀な働きをするスポーツ選手、ノーベル賞受賞者、宇宙飛行士などがそれにあたります。外国で評価されると、生き神のように祭り上げるというのが、現代のこの国の面白い風習です。昔は皇室との関係、今は、外国との関係が権威の裏づけとなっているようです。

これに関連して、面白いのは、日本人の《平等》という言葉の理解の仕方です。みんなが同じになること、同じことをすることが《平等》の意味であるように一般的に信じられている、そんな気がしてなりません。例えば、日本中どこの地方もみな同じようになることが平等といったふうにです。ところが、中央集権国家であり、《自由》、《博愛》とともに《平等》をモットーとするフランスを旅行していて気がつくのは、それぞれの地方の伝統、文化といった特色が非常に違う、そしてそれらが愛され尊重されているということです。こうした地方の独自性こそがフランス全体の豊かさのを作り上げているのではないでしょうか。年間8000万人という観光客を集めている、世界一の観光国のフランスの強さのひとつの理由はそこにあると思うのです。日本の地方でも、独自色を打ち出そうとしている所があります。でも、それを、海外からの評価を得ることで実現しようとする地域も少なくなく、ギネスブックに載せてもらうために、世界一長い何かを作るといったような行動に現れています。

Saturday 29 August 2009

文明と人名

外国の、例えばフランス、あるいはアメリカの法律には、それを提出した議員さんの名前が付けられていることが少なくありません。日本では考えられませんね。

最近のフランスにおける例を挙げれば、セリエ法(loi scellier)というのがあります。 François Scellierさんという議員が提出した、不動産税制に関する法律です。(La Tribuneのサイト上において、来る9月2日、セリエさん自身とこの法律について、チャットで議論できるのだそうです。これも、日本では考えられませんね。

http://www.latribune.fr/patrimoine/20090826trib000414697/chat-le-2-septembre-avec-francois-scellier-depute-conseiller-general-du-val-d-oise.html)

また、ヨーロッパの街角をあるいていると、あるいは地図を眺めても気がつきますが、道や通りに人の名前や歴史上重要な出来事がおきた年月日などがついていることに気がつきます。これも日本では見られません。

こうした個人の名前は、他に学校などにもつけられています。例えば、先日訪れたフランスのマルセイユでも、マルセル・パニョル、あるいはジャック・プレヴェールの名を冠した中学校を見かけました。

さらに、ヨーロッパを鉄道で旅行すると、乗車した特急列車の愛称に偉人の名前がついている場合があります。日本では、ごくわずかな例外を除き、やはりこうしたケースはありません。*1)

交通関連でいうと、リヨンの飛行場には、サン・テグジュペリの名が付され、また、パリの飛行場にもド・ゴール大統領の名前がついています。アメリカでは、NASAのジョンソン宇宙センター ニューヨークのケネディ空港等等、枚挙に限りがありません。

軍艦も同様です。外国では、プリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales:英)、キング・ジョージ5世(King George V:英)とか、ビスマルク(Bismarck:独)、あるいはリシュリュー(Richelieu:仏)といった名前がつけられますが、帝国海軍では、旧国名(戦艦:長門、武蔵など)、山や川の名前(巡洋艦:鳥海、妙高など)、気象現象をあらわす言葉(駆逐艦:初霜、雪風など)がつけられました。なお,南極観測船しらせは、直接的には人名ではなく、白瀬大尉に因む白瀬氷河からつけられたものです。

ただ、面白いことに、明治時代に鉄道の機関車に個人名が付けられたことがあります。鉄道ファンならご存知の方もおられると思いますが、北海道の官営幌内鉄道(手宮-幌内)を走った弁慶号、義経号、静号などの6両です。これらは、アメリカから輸入された、牛よけつきの前輪軸数、動輪軸数がともに2本(2B:ウェスタンスタイル)という西部劇に出てきそうな7100型機関車ですが、ほかの3両には、「比羅夫」、「光圀」、「信広」という名前がつけられました。それぞれ、安倍比羅夫(あべのひらふ)、徳川光圀(とくがわみつくに)、そして武田信広(たけだのぶひろ)のことでしょう。安倍と武田は、北海道の先住民と戦って勝利した武将、そして、徳川光圀、すなわち水戸の黄門様は、なんでも北海道の調査を命じたとか。いずれにせよ、この三人は北海道とは縁があるわけです。交通博物館のサイトの解説では、当時の欧米の慣習に従って、機関車に歴史上の人物の名前をつけたとありますが、当時のニューヨーク領事であった高木三郎の意見によったものともいわれています。

ここで、少し話が横道にそれます。ご容赦を。

ところで、明治のクーデター政権(あるいは、開拓使でしょうか)が徳川家の人間の名前をよくつけさせてくれたものだと思いますが、それよりさらに奇異に思えるのは、なぜ弁慶、義経、静御前の名前を選んだのかということです。確かに、伝説によると義経主従は、奥州平泉から、兄頼朝の掃討を逃れるため北海道に渡ったといいます。さらに、そのまま大陸に渡り、モンゴルまで行ったとか。そう考えれば、彼らも北海道とは無縁ではありません。でも、なにかしっくりしません。少なくとも個人的にですが。

高木三郎と言う人は、旧庄内藩士の息子で、その家は戊辰戦争の折、クーデター軍から朝敵(天皇の敵)と呼ばれた側に属していました。そこから、想像をそうとう膨らませたのが以下の仮説です。あくまでも、当該の機関車の命名者が高木自身であったとしたらという条件つきですが。

戊辰戦争に勝利した薩長等のクーデター軍は、北海道に逃げ込んだ榎本武揚率いる旧幕府艦隊の残存部隊を函館まで追撃し、彼らを降伏に追い込みます。榎本たちは、北海道の地で旧幕臣団による共和国の建設を望んだのですが、その希望は潰えてしまいます。高木は、庄内藩士を父に持つ身として、こうした旧幕軍の最後を十分承知していたはずです。そして、榎本たち旧幕臣たちの北海道に託して実らなかった夢も。

東北出身である高木にとって、義経たちの物語、さらに彼らにまつわる伝説もなじみのあるものだったでしょう。さらに、兄が差し向けた軍勢によって殺された義経とその忠実な家来の運命は、クーデター軍によって滅ぼされた奥羽越列藩同盟の東北諸藩のそれに重なるものがあったかもしれません。そして、民衆たちの義経たちへの同情から生れたと思われる、彼らの北海道生存伝説と旧幕臣団の北海道共和国というはかない夢もどこかつながっていたのではないでしょうか。ことによると、高木は、今や、彼らを滅ぼしたクーデター政権によって推し進められている北海道開拓の最前線で活躍する機関車に、彼らと同様の運命を辿った義経、弁慶、静という名前をつけることにより、彼らの思いを遂げさせてやろうとしたのではなかったか。そんなことを想像しています。少々ロマンチストすぎますね。

もとの話に戻りましょう

西洋では公共の施設や乗り物に人の名前を冠するが、日本にはそうした習慣はないのはなぜかということですが、その理由をひとことでいうと、前者は、ユダヤ・キリスト教の影響、後者は御霊信仰、あるいは儒教の影響ではないかと思っています。

先に、日本のケースについて考えてみましょう。御霊信仰というのは、不本意な死に方をした人間は、死後も霊としてこの世に生きる人々に良くない影響、つまり危害を及ぼすという考えです。菅原道真や崇徳院などにまつわる言い伝えが、その代表的な例です。彼らの祟りを鎮めるために適切な祭祀が執り行われる必要があります。そして、儒教では、霊はよりしろに宿ると言う考えがあります。つまり、何かに霊が乗り移るという信仰です。人が亡くなったとき、その人が日常使っていたもの(例えば湯のみ茶碗など)を壊す習慣があります。これは、その人の霊がそれに乗り移ることを避ける意味があると思われます。また、遺体の上に刃物を載せますが、これは、反対に霊の抜け殻となった遺体に別の霊が宿るのを防ぐためです。基本的に、誰しも死ぬのはいやですから、できれば死後もこの世に、家族のそばに留まりたい、ただ、そのためには何らかのよりしろが必要なのです。しかし、一般的に、死んだ人の霊がこの世に留まり続けるのは、良いこととは思われていません。やはり、それは不自然なことであり、ともするとその霊は、生きている人に良くない影響を与えることがありうるという考えは、私たちの間に広く浸透しています。

以上が、日本において、欧米におけるような、通りや学校やその他いろいろなものに、人の名前をつけるという習慣が根付かなかった理由です。つまり、何かに人の名前をつけてしまうと、その人の霊がそこに宿ってしまうのではないかというほとんど無意識の恐れがあると思えるのです。例えば、学校にある人物の名前を付したとします。そして、あるときそれが火事で消失でもしたりしたら。私たちは、それにより、その学校に名前が付けられた人の(霊の)怒りを買ってしまい、何か良くないことが起きるのではないか、そういう心配は持たないでしょうか。

施設に人の名前が付けられても大丈夫な場合は、主に神社等の宗教施設です。身近な例では、東郷神社、乃木神社などです。もちろん、両者とも偉功を成し遂げた軍人であり、軍事大国を目指した当時の政府のプロパガンダの道具的側面も否定できませんが。この場合、彼らは神として正しく祭られているので、安心というわけです。正しく祭られれば、特に生前に偉大な働きを行った人の霊は、生きている人たちに恩寵を与えてくれます。

そして、今度は、西洋のケースです。キリスト教文化が支配的な今日の西洋では、少なくとも上記のような考えはほとんどありません。生き続ける死者としてのヴァンパイヤの伝説もありますが、基本的に人間に危害を与えるのは、悪魔です。しかし、悪魔に対する恐れより、人間こそがこの世の主人公であるという考えのほうが優勢です。人間は、他の被造物(神によって創造されたもの、自然や動物など)に比べ、まったくことなるステータスが与えられています。彼は、他の被造物の主人であり、管理者なのです。ですから、人間が造った施設など、すわなち文明の所産に人の名前をつけるとは、この世界に支配者としての刻印を残すことであり、ごく自然なことなのです。

【神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 】
- 旧約聖書 創世記 1章 27,28節(新共同訳)

そして、最後に忘れてはいけないことは、こうしたキリスト教(及びユダヤ教)の、人間が自然も含め、他の被造物の支配者であるという思想には、同時に、彼らを管理し、保護するという責任と義務を負っているということも含まれるので、環境の劣化に対する関心やその保護に積極的に取り組む姿勢を生み出す契機をも提供しているということです。


スイス イッティンゲン(Ittingen)にて

*1 EuroCity(欧州国際都市間特急)の愛称(例):
フランツ・リスト(FRANZ LISZT) ブダペスト― ウィーン
バルトーク・ベラ(BALTOK BELA) ブダペスト― ウィーン
モーツァルト(MOZART) ミュンヘン― ウィーン
スタンダール(STENDAHL) パリ― ヴェニス
パウ・カザルス(PAU CASALS) チューリヒ― バルセロナ
フランシスコ・デ・ゴヤ(FRANSICSO DE GOYA) パリ― マドリード
マリア・テレジア(Maria Theresia) ウィーン― インスブルック― チューリヒ
ヨハン・シュトラウス(Johann Strauss) ウィーン― ヴェニス
アントン・ドボルザーク(Antonín Dvořák) ウィーン― プラハ
ヨハン・グレゴール・メンデル (Johann Gregor Mendel) ウィーン― プラハ
パガニーニ(Paganini) ヴェロナ― ミュンヘン
ミケランジェロ(Michelangelo) リミニ - ミュンヘン
レオナルド・ダヴィンチ(Leonardo Da Vinci) ミラノ― ミュンヘン
デゥマ(Dumas) ミラノ― パリ(TGV)
カイザリン・エリザベート(KAISERIN ELISABETH) チューリヒ―ザルツブルク
サルバドール・ダリ(SALVADOR DALI) ミラノ― バルセロナ
ストラディヴァリ(STRADIVARI) ウィーン―ヴェニス
ドン・ジョヴァンニ(DON GIOVANNI)ウィーン―ザルツブルク
ロッシーニ(ROSSINI) ウィーン― フィレンツェ― ローマ
トスカ (TOSCA) ウィーン― ローマ
* ドン・ジョヴァンニとトスカは、オペラの登場人物の名前ですが。

Thursday 27 August 2009

現代の神々と祭司たち

どうでもいいことなのですが、「天下り」という言葉がいつ頃から使われ始めたのか、以前から気になっていたので、先日、市立図書館に出かけた折、読売新聞のデータベースで検索してみました。

すると、字こそ違え、「天降り」という言葉自体は、1896年(明治24年)8月24日の朝刊2面「官海の輿論」という記事の中で用いられているのが最初だったことがわかりました。ただ、ここでは、現在のように、退職した官僚が特殊法人や民間企業に再就職するといった意味で使われてはおらず、政治家が各省庁のトップ、すなわち大臣や長官に就任するといった意味で使われていました。前者のような意味で用いられるようになったのは、果たしていつ頃からか、それについて調べている時間はなかったのですが、天下りという言葉はやはり日本人にとってなじみの深い言葉なのでしょう。

「天下り」という言葉は、記紀神話が伝える天孫降臨の物語に由来しています。天孫降臨の物語とは、それを作り上げた為政者の意向をもっともよく反映していると考えれらる『日本書紀』の第一の一書によると、次のような話です。

「あるとき、高天原(たかまがはら:天上にある神様たちが集う場所)において、神々の司令官である天照大神(アマテラスオオミカミ:天皇家の先祖)がニニギノミコトという神様に、地上、すなわち日本の地に《下る》ことを命じ、後者はそれに従い、日向の高千穂の峰に降り立った。」

日向というのは、今の宮崎県のあたりをあらわす地名ですが、そのなかに太陽神である天照大神と関連のある《日》という文字が入っているために作者によって選ばれたのだろうと言われています。そして、このニニギノミコトから、天皇家による日本支配が始まったとされています。

ところで、神々が集う高天原では、この世の森羅万象について評議がされますが、現代の世の中で森羅万象を司っているのは、(少なくとも日本においては)宮庁であり、そこで働く官僚たちです。俗に、役所や役人の総称として《お上(かみ)》と言う言葉が使われますが、正に言い得て妙です。実際、今日の日本において、行政のみならず、それに加えて立法、司法の三権を司っている官僚こそ、現代の《神々》と言ってよいでしょう。では、本来、法律を制定し行政の指揮をとるという自らの役割を、すべて官僚にゆだねている政治家たちはというと、彼らは、これらの神々を《祭る(まつる)》祭司と言えます。古来、日本において政治とは「まつりごと」であり、神々をさまざまな捧げものや芸能によって楽しませ、彼らから恩寵を受けることを意味しますが、これら現代の神々と祭司たちは、無意識のうち(?)にこうした、およそ近代市民社会とは無縁の図式に従ってそれぞれの生存と権益を守り続けているわけです。そして、業界団体は自分たちの利益を増やしてくれる族議員にすがり、地域共同体は、できるだけ多くの税金が自分たちの地域共同体に還元されることを願って、それをかなえてくれそうな人物を議員として選出し国会に送り込もうとします。彼らは皆、現代の祭司である政治家たちの《まつりごと》によって、官僚という神々から恩寵が与えられることをひたすら祈る氏子たちと言うことができます。彼らにとっては、個々の業界の共同体、そして、個々の地域の共同体の存続と繁栄だけが課題であり、それらすべてを包含する《全体》という視点は不在です。このような、いわば《ゲーム》が続いているのは、宗教改革もルネサンスも市民革命も自発的に経験せず、環境の変化に対応するためだけの目的で近代国家になろうとしたこの小さな島国の宿命といえばそれまでですが。

フランスの新型インフルエンザ対策

今更ながらですが、フランスにおけるA/H1N1型インフルエンザ対策の内容を少しご紹介します。

フランスにおけるワクチンの予定確保量(発注した量)は94,000,000本で、早ければ9月から徐々に使用可能となるそうです。なお、効果を確実にするため、2回の摂取が必要であるため、単純に計算して47,000,000人分はまもなく確保できるということになります。

参考までに、フランスの人口は、2008年現在、フランスの人口(海外県も含む)は63,578,000人で、その内訳は、次のとおりです。

20歳未満:15,901,940人
20歳から59歳:34,164,647人
60歳以上:13,511,413人
(INSEEの資料より)

因みに、今日の世界のワクチン市場をリードしているのは、ご存知かもしれませんが、GlaxoSmithKline (GSK)(英)、 Novartis(スイス)、そしてSanofi Pasteur(フランス)です。

なお、マスクの着用については、その効果が科学的に証明されていないことから、フランスの保健当局としては、特に奨励はしていません。

参考:
Grippe A(H1N1) : les étapes de la course au vaccin
LE MONDE | 15.08.09 | 14h22 • Mis à jour le 15.08.09 | 19h13

Les questions que les Fançais se posent sur l'épidémie
La Tribune.fr - 19/08/2009 | 08:46

Thursday 6 August 2009

日本の裁判員裁判とフランスの重罪院(cour d'assise)

最近、日本でも裁判員制度が施行され、連日マスコミによって最初の裁判員裁判の模様が報道されています。こうした一般市民が職業裁判官と一緒に審理を行う制度は、フランスにも存在していて、それが行われる機関は、クール・ダシーズ(cour d'assise)と呼ばれ、日本語では《重罪院》と訳されます。重罪院は、その名称のとおり、未遂既遂の殺人、レイプ、凶器を用いた強盗などの重大凶悪犯罪を裁く法廷であり、2000年1月以降、再審請求が可能となりましたが、上級裁判所への控訴制度はありません。重罪院で宣告された判決に対し、不服の申し立てがあった場合は、新たに選出された陪審員(juré)たちにより構成された重罪院で再審が行われます。ただ、過去において、再審の請求が行われた例は少ないようです。その理由としては、凶悪事件が対象となるため、再審が行われた場合、量刑が重くなる可能性が大きいからと言われています。

アングロ・サクソン各国の、判例に基づくコモン・ローとは異なる大陸法(成文法)を採用しているフランスやドイツなど(特に刑事裁判制度はドイツ)に倣って司法制度が形作られたわが国で導入された裁判員制度は、やはり後者二国の陪審制度、あるいは参審制度を手本としたようです。もっとも、陪審制度発祥の地は英国であり、それを、フランスではフランス革命以降、そして、ドイツでもフランスの影響を受け、それぞれ導入しています。

* フランス語のassiseは、英語ではassizeですが、『シャーロック・ホームズ』シリーズなどでは、やはり陪審制裁判を示す言葉として現れま す。(cf.:「The Boscombe Valley Mystery」 in 『The Adventures of Sherlock Holms』等 面白いのは、時にホームズ先生が、ベーカーストリート221Bの自室で、自らを裁判官(judge)、ワトスン博士を陪審員(jury) として私設の法廷(?)を開き、犯人に無罪の判決を下すというシーンが登場すること。やはり、陪審員制度発祥の地で生れた探偵小説ならではのことですね。 cf.:「The Abbey Grange」in 『The Return of Sherlock Holmes」等)
しかし、日本の刑事裁判制度における裁判員裁判の位置づけは、その審理の対象が地方裁判所が管轄する事件に限られており、そこで下された判決については、従来どおり上級裁判所への控訴が可能であるため、この点では、上述のフランスの重罪院における裁判とは異なります。それでは、参審制と称される、ドイツの裁判における市民参加制度と比較した場合は、どうでしょう。ドイツでも、市民が参加する審理(Shöffengericht - 慣例的にSchwurgerichtと呼ばれることもあります)の対象となるのは、フランス同様、人命に危害が及ぶ事件です。まず、量刑が4年未満と判断される事件に限っていうと、初審は、区裁判所(Amtsgericht)で市民が参加して行われ、そこで宣告された判決に不服がある場合は、上級裁判所である州裁判所(Landesgericht)に控訴することができるので、この点では日本と似ています。ただ、日本の高等裁判所における控訴審では、職業裁判官のみが審理に当たりますが、ドイツでは、州裁判所における控訴審の審理にも市民が参加します。次に、量刑が4年以上の禁固刑に相当すると判断された重大事件については、市民参加のもと州裁判所で初審が行われますが、その判決について上級裁判所である上級州裁判所(Oberlandesgericht)への控訴は認められておらず、連邦通常裁判所(Bundesgerichtshof)への上告のみが可能とされています。この場合、上告審は、連邦通常裁判所の大刑事部(Großer Senat für Strafsachen) で行われますが、ここでは職業裁判官のみが審理にあたります。

以上、非常にわかりづらく、中途半端な説明になってしまい、忸怩たるものを感じますが、日本の裁判員制度は、刑事裁判制度全体を視野に含めた場合、どちらかというと、やはり刑事裁判制度の導入元であるドイツのそれに近いといってよさそうな気がしないでもありません。が、いくつかの点でそう言い切ってよいものか判断しかねるというのが偽らざるところです。

さて、前置きが長くなりましたが、最近、このフランスの重罪院で審理された事件で少々気になったものがあったので、ご報告します。

その事件が発生したのは、2006年1月20日から21日にかけての夜。当時23歳だった携帯電話販売員のイラン・アリミ(Ilan Halimi)さんは、主犯である28歳のユスフ・フォファナ(Youssouf Fofana)被告を中心とする若者のグループによって拉致された上、オ・ドゥ・セイヌ(Hauts-de-Seine)県のバニュー(Bagneux)の集合住宅(HLM)内の一室に監禁され、彼と27名の共犯者から数週間に及ぶ暴行を受けました。そして、2月13日、レソンヌ(l'Essonne)付近の鉄道の線路脇で発見され、病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認されました。犯行グループは、アリミさんの監禁中、600回にわたって被害者の自宅に電話をかけ、両親に450,000ユーロに及ぶ身代金を要求しました。日本でも間違いなく裁判院裁判の対象となる事件です。なお、アリミさんはユダヤ人でした。

当然、このケースは、一般市民が裁判に参加する重罪院(事件当時少年を含むため、少年重罪院)に送られ、先日判決が下りました。その内容は、主犯格のフォファナ被告に対しては終身懲役刑(1981年の社会主義政権による死刑廃止後フランスにおける最高刑)、そして、共犯者のうち、2名は無罪、それ以外の25名には執行猶予付きの禁固6ヶ月から懲役18年というものでしたが、アリミさんを連れ出す役を演じた女性は(事件当時未成年者)は、9年の禁固刑でした。

逮捕後のファファナ被告のユダヤ人に対する激しい差別的言動の影響もあり、共犯者に下されたこれらの判決に対し量刑が軽すぎるとする、被害者の家族はもちろん、全国のユダヤ人団体や人権擁護団体などの猛反発を受け、アリオ・マリー(Michèle Alliot-Marie)司法相が、検察側に再審の請求を行うよう求めるという異例の事態に発展しました。このような政府側の司法への介入に対し、もちろん被告側の弁護団は一斉に反発しましたが、結局、共犯者のうち、14名について重罪院での再審が決定したというのが、現在までの経緯です。

この事件に関する一連のニュースを読みながら、日本で発生した類似の事件を思い出しました。1999年に発生した栃木リンチ殺害事件です。それはまた、同年に発生した、桶川ストーカー事件と共に捜査に当たろうともしない警察の姿勢や責任が厳しく問われた事件でもありました。今後は、日本でも、こうした凶悪な事件の裁判に一般市民が裁判員として参加することになるわけですが、私たちが司法の現場に立ち会い、そこで体験し感じたことが、昨今色々と不備が指摘されている司法制度、さらには行政制度に積極的にフィードバックされ、この国に、普遍的な人権の概念と主権者である市民としての意識が広く浸透し、それらを十分に反映する真の近代市民国家としての形が整うことを願うものです。


サン・テチエンヌ近郊 知人宅の庭先で

参考資料(主なもの):

I. 文献

・東京三弁護士会陪審制度委員会 編 『フランスの陪審制とドイツの参審製 ― 市民が参加する刑事裁判
 ― 』, 1966, 東京
(とてもわかりやすく書かれている本でお奨めです。)

* 今日の重罪院制度をめぐる議論や、特に同院に焦点をあてた司法制度改革についてご興味をお持ちの方には、次の2冊をお奨めします。
・L'Harmattan 編 『Pour une réforme de la cour d'assises: Entretiens avec François Staechele [et al]』(Collection Logiques juridiques), 1996, Paris
・Association française pour l'histoire de la justice 編 『La Cour d'assises : bilan d'un héritage démocratique』(Collection Histoire de la Justice 13), 2001, Paris

II. ウェブサイト

・最高裁判所サイト
・電子版『LeFigaro』 www.lefigaro.fr Ilan Halimi事件関連記事
・電子版『Le Nouvel Observateur』 permanent.nouvelobs.com 同上
・電子版『Der Spiegel』 www.spiegel.de 同上
・フランス共和国司法省サイトwww.justice.gouv.fr/
* 重罪院については、http://www.justice.gouv.fr/index.php?rubrique=10031&ssrubrique=10033&article=12027 に詳しい説明があります。
・ドイツ連邦共和国連邦司法省サイトwww.bmj.bund.de/
* 『Übersicht über den Gerichtsaufbau in der Bundesrepublik Deutschland』 (図表 ドイツの刑事裁判制度)
- http://www.bmj.bund.de/files/5ab9326da171af40c9c8a358cac1a8d1
/978/Schaubild%20Gerichtsaufbau%20-%20deutsch.pdf
- http://www.bmj.bund.de/files/-/976/Schaubild%20Gerichtsaufbau%20-%20englisch.pdf (同英語版)- http://www.bmj.bund.de/files/-/979/Schaubild%20Gerichtsaufbau%20-%20franz%C3%B6sisch.pdf (同フランス語版)
* Jörg-Martin Jehle 『Strafrechtspflege
in Deutschland』(ドイツの刑事裁判制度), 2009(第5版)
- http://www.bmj.bund.de/media/archive/945.pdf#search=%22schwurgericht%22
- http://www.bmj.bund.de/media/archive/960.pdf#search=%22sch%C3%B6ffengericht%22 (同英語版)

Friday 31 July 2009

アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ忌

今日は、サン・テグジュペリの命日です。

65年前の1944年7月31日、『星の王子さま』の作者アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの搭乗機ロッキードP-38ライトニングF5Bは、マルセイユの沖で消息を絶ちました。連合軍のプロヴァンス沿岸上陸が2週間後に迫っていたその日の朝、ドイツ占領下のリヨンの東方地域偵察のため、グルノーブルを目指してコルシカ島のボルゴ(Borgo)基地を飛び立った後まもなくのことでした。1500馬力のエンジンを2基搭載し、時速650Kmで高度10000mまで上昇可能という高性能を有するとはいえ、サン・テグジュペリ少佐の搭乗機は偵察機仕様で、機銃も爆弾も搭載されてはおらず、装着されていた数台の写真機が、彼の唯一の"武器"でした。

それから50年以上も経った1998 年9月7日、付近で漁をしていた地元の漁師ビアンコさんは、引き上げた網の中に、跳び跳ねる魚に混じって鈍く光る小さな金属片を見つけました。それは、以下の文字が刻まれた、金属製のブレスレットでした。

" ANTOINE DE SAINT-EXUPERY (CONSUELO), c/o REYNAL AND HITCHCOCK INC., 386 4TH AVE. N.Y.C. U.S.A."

* CONSUELOは、彼の妻の名前(Prénom)

やがて、この小さな遺品の発見がきっかけとなって調査が開始され、2000年、海洋考古学者ヴァンレルさんにより、当該地点の海底に横たわる残骸が、この著名な航空作家が操縦していた飛行機のものであることが最終的に確認されました。


マルセイユ近郊の入り江を巡る遊覧船から望むリウ列島(l'Archipel de Riou)。7つの島から成るこの小列島付近の海底から彼の搭乗機の残骸が発見されました。

昨年、ドイツの研究者たちの調査により、彼の搭乗機を撃墜したのが、当時24歳のホルスト・リッペルト(Horst Rippert: 終戦時少尉)が操縦する、エックス・アン・プロヴァンスに駐留していたドイツ空軍第200航空戦隊所属のメッサーシュミットBf 109 G型機であったことが判明しました。戦後は、第2ドイツ放送(ZDF)の記者として活躍したリッペルト氏ですが、少年時代、サン・テグジュペリの作品を愛読し、彼に憧れてパイロットの道を選んだと言います。半世紀以上前のその日、マルセイユ沿岸から制空圏内に侵入しようとする自由フランス空軍(F.A.F.L.)のP-38を発見し、その翼めがけて銃撃を加えたとき、やがて海に向かって墜ちてゆく同機の操縦かんを握っていたのが、敬慕する空の英雄だったことに気づくすべもありませんでした。パイロットは、最後まで脱出せず、彼の顔を見ることもできませんでした。数日後、自分が撃墜したのがサン・テグジュペリの搭乗機であったことを知らされ、それが間違いであることをひたすら願いつづけたそうです。しかし、その願いも空しく、否定しようのない事実が明らかになります。リッペルト氏は、当時を振り返り、「もし、あの操縦席に座っているのが誰なのか知っていたら、攻撃はしなかった...」と述べたそうです。撃墜されたとき、サン・テグジュペリは44歳。その最後の飛行の途中、遭遇した敵機の操縦士が20歳年下の、かつて自分が大空を自由に駆け巡る夢を与えた若者だったことなど想像もしなかったでしょう。

* F.A.F.L. = les Forces Aériennes Françaises Libres

サン・テグジュペリの作品を通じてパイロットになる夢を抱いたドイツ人少年は、自分だけではなかったとも語るリッペルト氏。祖母は、ユダヤ人だそうです。自分がユダヤ人の血統に属していることは軍に打ち明けていましたが、不思議なことに一度も問題視されたことはなく、技量的にも相当優秀なパイロットだったようです。

* 2008年3月15日付電子版『La Provence』(www.laprovence.com)の記事「Ils ont retrouvé le pilote qui a abattu Saint-Exupéry」参照。さらに、ドイツ語ですが、電子版『Frankfurter Allgemeine』(www.faz.net)の記事「Antoine de Saint-Exupéry in die Geschichte abgetaucht」にもリッペルト氏の発見に至った経緯が詳しく述べられています。

マルセイユ市では、今日からサン・テグジュペリの栄誉を讃えるための様々な催し物が開催されます。(因みに、今日は、研究者たちによるシンポジウムや、フランス空軍のミラージュ戦闘機による編隊飛行などが予定されているとのことです。)

詳しくは、マルセイユ市の公式サイト(www.marseille.fr)、そして一連の行事の公式サイト(www.marseillesaintex.org)をご覧ください。

また、パリ近郊のル・ブゥルジュ空港(Paris-Le Bourget)内にある航空宇宙博物館(musée de l'air et de l'espace)でも、現在、サン・テグジュペリ展を開催中です。(www.mae.org)

* 瑣末なことですが、サン・テグジュペリが操縦していたP-38ライトニング戦闘機は、速度、加速性能共に我国の零式艦上戦闘機を上回る性能を備えた優秀な双発戦闘機であり、1943年4月18日、前線視察のため、ソロモン諸島ブーゲンビル上空を飛行中の山本五十六連合艦隊司令長官搭乗の一式陸上攻撃機を撃墜したのもP-38でした。

Thursday 30 July 2009

Shimpei君へ

確かにそのとおり、マルセイユの旧名は、ギリシア語のΜασσαλίαです。紀元前600年ごろの、後にフランスとなる地域を含む東地中海周辺世界と言えば、もちろんギリシア文化の独擅場でしたものね。

さすが、西洋史の専門家。ブラボーでした。

では、こちらの単語は何と読むのでしょうか。⇒ Εὐαγγέλιον
Shimpei君の好きなものです。

もう向こうに行っちゃったでしょうけど。

プロヴァンス小紀行(5) 旅の終わりに

というわけで、ささやかながら以上が今回の小旅行のご報告です。

最後にご覧にいれるのは、エクス・アン・プロヴァンスのセザンヌのアトリエ(L'Atelier de Cézanne)の庭で見かけた《夢見る猫》君(左)と、同じくエクスの街角で見つけた《夢見る猫》(Chat Rêveur) 屋の看板(右)の写真です。

ではまた、いずれかの折に。


プロヴァンス小紀行(4) マルセル・パニョルのこと

マルセル・パニョルといえば、カミュやジオーノと共に南フランスを代表する作家であり、彼の代表作である『少年時代の思い出』(『Souvenirs d'enfance』)シリーズに含まれる4作品、『La Gloire de mon père』、『Le Château de ma mère』、『Le Temps des secrets』、『Le Temps des amours』のタイトルがすぐに頭に浮かぶ方も多いのではないかと思います。

この4作品には異なる邦題が存在しているようなので、とりあえずは直訳、あるいは意訳すると、それぞれ『我が父の栄光』、『母の館』、『少年時代の秘密』、『恋するころ』というようになるでしょうか。(パニョルファンの方へ - イメージをこわしてしまったらごめんなさい。)

最初の2作品は、1990年に映画化され、日本でも公開されたようです。そして、残りの2作品は、それから17年後の2007年に、国営テレビ局のFrance2及びFrance3が中心となってテレビドラマ化され、France2において放送されました。これら4作品とも、とても素晴らしい作品ですが、個人的には、特に1990年に制作された最初の2作品が好きです。そこでは、ごく平凡な家族の幸せが描かれ、同時にそれがいかにはかなく、壊れやすいものであるかも表現されているように感じました。同様に、それを一緒に育み、分かち合った相手の死によっていきなり終止符が打たれてしまう友情も。ただ、だからこそ、それらは守ってゆくべきなのではないだろうか、そして、それこそが人生に意味を、また、価値を与えることではないかとも。

(これらの作品のDVDは、原作本も含めて、Amazon.frにて購入可能です。なお、老婆心ながら、これらフランス製のDVDの再生時に出力される映像信号はPAL方式のため、一般の家庭用テレビで鑑賞する場合は、PALからNTSC方式に変換可能なDVDプレイヤーが必要です。パソコンでは、通常、問題なく再生されます。)

そういえば、ふと感じたことですが、子どもを主役とした映画は、どうもスペインや、イタリア、そしてフランスとラテン系の国に名作が多いように思えます。私の好みの問題かもしれませんが。

それと、改めてパニョルが制作した映画のリスト(上掲の4つの小説各巻の終わりに掲載されています)を見ると、ジャン・ジオーノの原作の映画化が少なくないことにも気がつきました。実際、パニョルが制作した作品は、1931の『Marius』から1967年の『Le curé de Cucugnan』まで、3回制作された『Topaze』を含め、合計23本に及びますが、そのうち、ジオーノの原作に基づくものは4本で、これほど多くの原作をパニョルの映画作品に提供している作家は他にいません。なぜでしょう。例えば、マルセイユ出身の名喜劇俳優フェルナンデル(Fernandel : 1903-1971)が研屋(rémouleur)の役で登場する、初期の代表作『Regain』(1937)も、ジオーノの原作に基づいています。( オーバーニュにあるマルセル・パニョル記念館の学芸員の方から、「なにか、質問はありませんか」と聞かれたとき、質問しておけばよかった~!やはり、どこへ行くにも予習が大切ですね。)

また、彼は、父親の期待どおり、一時期教職についていますが、エクス・アン・プロヴァンスの大学で専攻したのは、英文学だったのですね。フランスを代表する作家の一人で、しかもアカデミー・フランセーズ会員だったマルセル・パニョルが、若いころ英文学を勉強していたとは。これも、少々意外な、でも嬉しい発見でした。

なお、パニョルについての情報をとても丁寧にまとめているサイトがありましたので、以下にお知らせしておきます。

www.marcel-pagnol.com

また、オーバーニュ市観光局の公式ウェブサイト(www.oti-paysdaubagne.com)にも、パニョル縁の地を訪ねるトレッキングについてなど、パニュル関連の情報が掲載されています。(ホーム・ページの「Nos collines」にポインターを合わせると表示されるメニューの「Le Garlaban de Pagnol」をクリックしてみてください。)

さて、今回、折角マルセイユに来たのだからと、友人に勧められて一緒に訪ねたパニョルゆかりの場所はというと、その生家(現在は、記念館)があるオーバーニュ(Aubagne) 、その近郊の彼の墓があるラ・トレイユ(La Treille)の墓地、『母の館』に登場するラ・ビュジヌの城(Le Château de la Buzine)、マルセイユ10区に残る、1897年から1900年にかけて彼の父が勤務した公立サン・ルウ初等学校跡(L'Ecole communnale de Saint Loup - 彼の家族もそこに住んでいました。)などです。

ラ・トレイユは、もちろん、彼が少年時代に家族と共に休暇を過ごした村。周囲に広がる自然は、上記作品の中で語られるさまざまな思い出を育んだ舞台です。

なお、ラ・ビュジヌの城は、現在、映画資料館として公開されるべく改修工事中で入館はできません。詳しくは、マルセイユ市の公式ウェブサイトをご覧ください。


サン・ルウ初等学校の跡に建てられた建物の壁面に掲げれらたプレート


オーバーニュにあるマルセル・パニョル記念館の学芸員は、柔道をたしなんでいると言うとても親切な若い男性で、どことなく小学校の先生を思わせる雰囲気の方でした。地図の上に、その学芸員の方が書いてくれた道筋を頼りにたどり着いたパニョルの墓。近くに、『母の館』の舞台となった水路がありました。また、墓地に向かう途中、やはり『母の館』の中のワン・シーンで、父親の元教え子で、水路管理人のブジーグとマルセルの家族が一緒にテラスのテーブル囲む、居酒屋のレ・キャトル・セゾン(Les Quatre Saisons)の側を通りました。
ラ・トレイユの教会 墓地から少し登ったところにあります。

Wednesday 29 July 2009

プロヴァンス小紀行(3) マルセイユと近郊の入り江巡り

プロヴァンスを旅行する上でお奨めしないことを2つほど。

まず、

今回、マルセイユとその近郊を友人の運転する車で移動していて気がついたことですが、相当運転に自信がある場合は別ですが、マルセイユの市内をレンタカーで移動するのは避けたほうがよさそうです。何しろ、土地の人たちの交通法規についての意識といえば、進路変更の際にウィンカーを点滅させるかどうかはオプションに過ぎないと豪語するほどのレベルなので...(実際、高速道路の走行中、それが決して誇張ではないことがすぐにわかりました。フランスの他の地域においても、13という番号(マルセイユの番号、まさに納得の行く番号です)付きのナンバー・プレートをつけた車が側に来たら要注意です。)

レンタカーを借りる場合は、Aix-en-Provenceのような比較的小さな地方都市で借りることをお奨めします。(Euorpcarなどで。)

モンプリエ(Montpellier)に向かう際に通った高速A55線マルティーグ(Martigues)付近。右側に広がるのは、ベル湖(Etang de Berre)。

次に、

これはフランスを旅行する上で、どこでも共通することですが、ICチップ付でないクレジットカードの携行はお奨めできません。必ずICチップ付のものを携行しましょう。(スイスなど、他の国でも断然便利です。)なぜなら、都市の公共交通であろうと、フランス国鉄だろうと、すべての交通機関の自動券売機において、それ以外のクレジットカードは受け付けられないからです。(自動券売機を使おうとすると、まず、そういった旨の注意書きが表示されます。使えないカードとして、特に、American Expressのカードは、固有名で表示されます。)このことは、また、日本国内において、voyages-sncf.comなどを使って列車の予約をする場合でも、頭に入れておくと良いでしょう。というのは、日本で予約をして、現地の最寄の駅の自動券売機で切符を受け取る場合も、受け取りの際に使えるのはICチップ付のクレジットカードのみだからです。そして、その場合、予約の際に情報を入力したカードと同一のカードであることが必要です。

さて、このマルセイユですが、ご存知のように、フランスを代表する港町のひとつで、紀元前600年ごろ、フェニキア人達が現在の旧港(Le Vieux-Port)のあたりに住み着いたのが、その起源とされています。今や、ユーロ・メディテラネ(Euroméditerranée)と名づけられた総合開発計画に基づき、新たな港湾施設や市内各所の整備が進められ、地中海を代表する港湾都市の名に恥じない姿に生まれ変わろうとしています。聞くと、日本から訪れる観光客は比較的少ないとのことでしたが、北アフリカやその他の、旧フランス植民地からの移民やその子孫が多く、彼らが持ち込んだ文化と地元の文化が融合しあった独特の異国情緒を味わうことができる町です。

ところで、マルセイユとパリとでは、どちらの面積が広いと思われますか。答えは、マルセイユなのです。(パリ市の10540 Ha、すなわち105.4 Km²に対し、マルセイユ市の面積は、なんとその2倍以上の24062 Ha、204.62 Km²!)

以下、マルセイユの市内と、入江巡りの船上にて撮影した写真を数枚アップします。今回参加した入江(Les Calanques)巡りは、船でマルセイユ近郊の12の入江を3時間半かけて巡るというもの。船は、旧港から出航します。


マルセイユの守護聖母教会(Basilique Notre-Dame-de-la-Garde)から見た海。

沖に見える、一番左の島の左辺りがサン・テグジュペリが操縦する偵察機が墜落した地点だそうです。数年前、そこで発見された残骸が、彼の搭乗機のものであることが確認された後、撃墜したと思われる元ドイツ空軍パイロットへのインタビューがニュースで紹介され、その際、この元パイロットは、「もし、彼が乗っていることがわかっていたら、撃墜しなかっただろう...」と語ったそうですが、戦時下だった当時のこと、もちろんそんなことは不可能だったでしょう。

会堂の中には、遭遇した海難から救われた善男善女から、お礼として奉納された、彼らが実際に乗っていた船や飛行機の模型が吊り下げられていました。


旧港(le Vieux-Port)から見た守護聖母教会。画面の左側、丘の上に建っているのが見えます。


第7区の海岸沿いに住んでおられる、友人の知り合いのお宅に夕食に招かれたときに、近くで撮影したもの。左下から上に続く階段を昇りきった左奥がそのお宅。海を見下ろすテラスで黄昏行く空を眺めながら食事をするなど生れて初めての経験。食後は、皆で近くを散策。オレンジ色の照明に照らされた小路の雰囲気が印象に残りました。

じく、第7区にあるヴァロン・デ・ゾッフ(Vallon des Auffes)という入り江(漁港)。左端に見える窓のある建物が、シェ・フォンフォン(ブイヤベースで有名なレストラン)


入り江巡りに出かける日、港で見かけた漁犬(?)。さすがに魚が好物のようで、このあとご主人から与えられた魚に早速舌鼓


入り江巡りの最後に訪れたカシス(Cassis)の入り江。


同上

プロヴァンス小紀行(2) ブイヤベースのこと

もともと今回の小旅行の目的は、大学時代のルームメートを訪ねるというものだったため、せいぜい数日程度当地に留まるつもりだったのですが、折角26年振りに会うのだからと先方から言われ、結局彼の家で1週間過ごすことになってしまいました。「長崎といえばちゃんぽん」程度の知識しか、マルセイユについても持ち合わせていなかった私のわずかな関心の対象といえば、当然そのブイヤベースくらいなもので、先月25日、リヨンから乗ったTGVでマルセイユのサン・シャルル駅に夕刻到着し、それまで滞在していた天候不順のスイスの涼しさが恋しくなるほど容赦なく照りつける太陽の下にいきなり降り立ったときは、率直な感想として、「やれやれ、こんな暑いところで1週間も過ごすのか」とため息まじりに心の中でつぶやいたものでしたが、このブイヤベースが思いがけなく最高の思い出のひとつとなりました。

本物のブイヤベースが味わえると、長く当地に暮らしている、友人の知り合いの方から教えていただいたのは、シェ・フォンフォン(Chez Fonfon)というお店でしたが、結局私たちが訪れたのは、マルセイユの東南端、第8区に位置するレ・グード(Les Goudes)という小さな漁港にあるレストラン、レスプライ・デゥ・グラン・バー・デ・グード(l'Esplaï du Grand Bar des Gourdes - なんだか、お経のように聞こえる長い名前のお店です)。オーナーは、生れも育ちもこちらという生粋のグードっ子で、魚や料理法についての知識はもちろん豊富。ブイヤベースについて詳しく、しかもとても親切に教えてくれました。(ご興味がある方は、お店のサイトをご覧ください。)

このお店、実は、マルセイユ近郊の入り江めぐりの船に乗った際に、船員さんから教えていただいたお店で、なんでもオーナーはその方のご友人とのこと。

上述したシェ・フォンフォンもそうですが、とにかく、その日の獲りたての魚が船から直接厨房に上げられ、料理されるということなので、新鮮さは請け合いです。そして、もちろん出される料理の味のほうも。ただ、魚の種類によっては、肉などと同様に少し熟成させたほうがいいものもあるとのこと。初めて知りました。

個人のブログでお店について紹介してもいいですかと尋ねると、「もちろん、よろこんで」ということだったので、以下がお店のサイトのURL及び連絡先です。

www.grandbardesgoudes.com

29, av. Désiré-Pellaprat, les Goudes, 13008 Marseille

04 91 73 43 69

夏の期間は、1週間から10日前までの予約がお奨め(海側の席を確保するため)だそうですが、オーナーによると、10月なども良いですよとのことでした。

なお、日本のフランス語仲間のTさん(フランスでの勤務経験を持ち、相当なフランス通で特にワインに詳しい)によると、ブイヤベースには、ロゼ・ワインが合うそうです。プロヴァンスのロゼでしょうか。そういえば、近くのテーブルに着いていた年配のご夫婦が、やはりロゼ・ワインを味わっておられました。


レ・グードの町の様子、右側が海(港)。レストラン レスプライは、右側の奥の建物の並びです。


レスプライ店内


スープが終わり、切り分けられ、皿に盛り付けされる前の具材


店の左にある船着場

プロヴァンス小紀行(1) プロヴァンスとは?

今回、訪れた地方ですが、一般に"プロヴァンス"と呼ばれているところです。では、具体的にプロヴァンスとは地理的にフランスのどのあたりに位置するのかというと、これまではっきりとは知りませんでした。

念のため、Wikipediaで調べてみると、かつては某伯爵の領地で、現在の行政区分にあてはめると、Provence-Alpes-Côte d'Azurの大部分に相当し、西はローヌ川(Rhône)、東はヴァル川(Var)によって区切られた地域だそうです。しかし、文化及び観光の視点から眺めたとき、さらに広い地域にプロヴァンスは広がっているようです。すなわち、西は、ローヌ川を越えて、ヴィドゥールル川(Vidourle)に至り、現在のガル県(Gar)、アルデッシュ県(Ardèche)、そしてドゥローム県(Drôme)のそれぞれの南部分を含むとされています。

ただ、今回、私が携行した『GEOGUIDE Provence』(Gallimard出版)という観光案内書では、上記よりやや狭い地域がプロヴァンスとして定義されていて、単純に、アルプ・オートゥ・プロヴァンス(Alpes-Haute-Provence) ブッシュ・ドゥ・ローヌ(Bouches-du-Rône)、そしてヴォークリューズ(Vaucluse)の3県が含まれているだけでした。

そのため、観光地としてのプロヴァンス地方は、上記3県と考えていいでしょう。(参考までに、『木を植えた男』(JEAN GIONO 『L'homme qui plantait des arbres』)舞台となった地域は、この地方のすぐ上(北)に位置します。)

プロヴァンスの特徴として挙げられるのは、まず、かなり野生的な地域であるということ。海、山ともに、素晴らしい自然の造形美に出会うことができます。ただし、プロヴァンスに含まれる地域で海(地中海)に面しているのは、マルセイユとその近郊のみです。トゥーロン、サン・トロペ、カンヌ、ニースなどは、一般にプロヴァンスには含まれません。

Tuesday 28 July 2009

帰国報告

ご無沙汰しております。なんだか、永遠に梅雨が続いてゆくような昨今の気象ですが、体調をくずしたりしておられませんか。

さて、ご報告が遅れましたが、今月の13日にこちらに戻ってまいりました。結局、スイスからフランスへ移動して後、現地で投稿する機会は得られずじまいでしたが、少しずつながら、これから時間を見つけて現地で見聞き体験したことをご紹介したいと思います。

その前に、7月27日付の電子版『Spiegel』にひとつ、気になった経済関連の記事があったので、簡単にご紹介します。

「Europas Banken furchten Kreditkartenkrise」というタイトルのその記事によると、クレジットカードの不払いによってクレジットカード会社が被る損害が、現在相当な額に昇っているおり、今後、拡大が予想されるというものです。

米国において、この6月にはクレジットカードの不払い額が、史上最高に達し、この影響が欧州に及ぶことは間違いないだろうとのこと。すなわち、欧州においても今後数ヶ月間に同様の状況が出現するだろうということです。もちろん、その原因は上昇し続ける失業率にあるわけですが、クレジットカード会社は、最悪の事態を想定しているそうです。

専門家によると、欧州において、クレジットカードによる商取引の未払い額は、現在およそ2兆5千億ドル。そのほとんどが、英国のクレジットカード会社のものだそうです。国際通貨基金は、この金額のほぼ7パーセントの焦げ付きを予想しています。("Financial Times"より)

英国において、クレジットカード会社への支払いが困難となり、専門機関によせられた相談の件数が、この5月には4,1000件にも及んだそうです。昨年同月は20,000件だっということですから、今年になって倍になったわけです。

もちろん、今回の金融危機の震源地である米国においては、現在クレジットカード会社や銀行がこうした状況によって被っている損害は、Citigroup、Bank of America、JPMorgan Chase、Wells Fargo、そしてAmerican Expressなどにおいて、すでに数十億ドルに及び、Moody's-Indexの発表によると不払い額の率は、5月の10.62%から6月の10.76%に上昇したそうです。1割以上回収できていないわけですね。さらに、Moodyは、失業率もまもなく10.5%程度まで上昇が予想しています。

同様の状況は英国にても現れており、今後さらに問題は深刻化するだろうとみられております。

日本では、まもなくカードローンの総量規制が実施されるようですが、ショッピングに関してはそういった規制が今後実施されていくのかどうか。

ただ、クレジット会社自身も生き残りをかけて、策を講じているようで、例えば、英国のBarclaysは、分割払いの期間を短縮したり、さらに発行するクレジットカードの数も、5月に比べ、6月はほぼ半分に減らしたそうです。

などと、いきなり暗い記事の紹介になってしまいましたが、次回の投稿は気分を変えて、訪れた南仏のお話を投稿させていただきます。

Wednesday 24 June 2009

旅先にて(6)土地の新聞より

数日前の記事ですが、いくつかご紹介します。

最初は、14歳の男子中学生が、川に飛び込み、溺れていた10歳の女の子を助けたという話題。場所は、Aare川の畔、Flumenthalという、比較的多く人が訪れるところだそうで、地図を見ると、Solothurnという都市に近く、BaselとBernのほぼ中間です。

14歳のドミアノさんが、友人たちと一緒に日光浴をするため、芝生を上にタオルを広げようとしようとしたとたん、女の子の叫び声を聞きました。彼女は、母親と一緒にこの場所に来ていたのですが、母親が友人と話しをしている間に、川に入り、石につまづき、急な川の流れに巻き込まれていたのです。もちろん、母親はすぐに気づき、川に入って助けようとしたのですが、自らも溺れかけ、自力で岸に戻るのがやっとだったそうです。

ドミアノさんは、警察に通報するとともに、川に沿って女の子を追いかけ、そして自ら川に飛び込み、彼女を救出しました。彼自身、サッカーは好きだけれども、泳ぎはそれほど得意でもないとのことですが、当時、水温もかなり低かった模様で、警察によると、もし彼の行為がなければ彼女は助からなかっただろうとのこと。

(6月19日付電子版『Solothurner Tagblatt』に掲載された「Das ist der junge Lebensretter」より)

(なお、上記新聞のサイトに、ドミアノさんの写真が載っています。例えば、「Lebensretter」、あるいは「Flumenthal」で検索すると記事が表示されますので、ご興味があれば。正直に言って、「この人、本当に14歳なのかな」と思うほど、しっかりした顔つきの好青年です。)

次は、地球温暖化に関する話題。

ご多聞にもれず、当地での関心も強く、とりわけ深刻な結果として、この10年間でスイスの氷河全体の8分の1が解けてしまったことが、6月23日付の『Blickabend』に紹介されていました。

(「Rekordschmerlze」より)

最後は、歴史に関するお話です。

先日の6月18日ですが、1940年のこの日、ロンドンの亡命政権におけるド・ゴール将軍は、亡命先からラジオを通じてフランス人に、ドイツ軍の侵攻に対しての抵抗を呼びかけたそうです。放送は、その日の夜19時に流れ、フランスの歴史に残る演説のうちのひとつに数えられているそうです。

でも、確か、ド・ゴール将軍も日本人のことを「エコノミック アニマル」と呼んだというようなことを、どこかで聞いたような記憶があります。(Web上で探しても、確たる記録はありませんでしたが。)この「エコノミック アニマル」という言葉は、もともと、当時のパキスタンの首相ブット氏が、(本当かどうか知りませんが)日本を褒める意味で用いたことばだったとか。しかし、今でも日本人をanimal économiqueと称する人たちが、フランス人の中にもいます。(例えば、日本の戦後史に関する記述などで。)

もともと唯一の創造神を信じるキリスト教文明においては、人間と他の被造物(つまり、人間以外の動物たちや自然)との間には厳然たる区分けが存在しています。人間には、他の被造物を管理するという義務が負わされているのと同時に、それらを利用することが許されています。その点、日本の神道(幕末以降相当キリスト教の影響を受け、本来持っていなかった創造神や死後の審判といった思想を取り入れましたが)においては、人も神も自然(つまり動物なども)、皆イザナギとイザナミの二柱の神より生まれ出でており、さらに、イザナギ、イザナミももとをたどれば、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産霊神(たかむすびのかみ)、そして神産霊神(かみむすびのかみ)から生まれ出でているわけですから、皆家族親戚のようなもので、すでに述べたような西洋的な人間と動物がまったく異なる被造物であるといった考え方は基本的にはありません。

ようするに、西洋人が人間を動物の範疇に含めるということは、ちょっと問題があるように思えるのです。歴史を見ると、西洋において人間の虐殺が行われる場合、虐殺の対象はすべて人間の範疇からはずされています。つまり、西洋人にとって組織的に殺戮を行う場合、その対象となる人たちは、キリスト教が定義する人間ではないことが必要なのです。例えば、悪魔と契約を結んだ魔女のように。(フランスで迫害をうけたユグノーたちも同様です。)そして、ナチスによって殺害されたユダヤ人たちなど。後者は、キリストを殺したために呪われた人種であり、そのほかありとあらゆる理由によって人間以外の存在とされてしまいました。

最近では、キューバのグアンタナモ収容所で虐待を受けた人たち、あるいはまた原爆が投下されたときの日本人も、上記の意味で、アメリカ人から人間に害をなす人間以外の存在と見做されてしまったのでしょう。

仮に自分より劣った存在であったとしても、人間の範疇(つまり、自分たちと同様に神から造られた本来の人間)に含まれている場合は、そうした劣った存在を教え導く姿勢も西洋文化には見られます。でも、一旦、それらの存在が人間と見做されなくなった場合、想像を超える規模の悲劇が人間の手によってもたらされてしまったのです。もちろん、今は(すくなくともヨーロッパは)、そうした危険に気づいていると思いますが。

少し、深刻な方向に話を持っていってしまいましたが、明日からマルセイユの友人を訪ねて南仏に出かけます。天候が心配ですが、また、折に触れて現地の模様をご報告させていただきます。

旅先にて(5)

自分のブログに例の奇妙なウサギ人間の写真を載せたことを、世話になっている家の奥様(何を隠そう、留学時代以来、こちらで私の親代わりになってくださっている方ですが)に伝えると、「あんなへんてこりんなものより、もっと気の利いたものの写真を載せたら」とのご提案を頂いたので、他のオブジェの写真も何枚かご覧に入れたいと存じます。とりあえずは、当たり障りのなさそうなものから。下は、村にある2軒の高級ホテルの近くの公園です。

次から、陳列されている作品ですが、いずれにしてもどこかしら奇妙であることには間違いないような気がします...

最初は、上の写真に写っている教会の向かって右側の芝生の上に置かれたオブジェです。上からぶら下がっているのは、ご存知ミケランジェロのダビデ像、そして、その下で一生懸命にそれを避けようとしているように見えるのがミロのビーナスです。(はるか遠くに見える村のプロテスタント教会の尖塔が、ダビデをつついているように撮影しようとしたのですが、やめました。 )

次は、村にある2軒の高級ホテルのひとつの近くで撮影したもの。道路の奥の右側がそのホテルです。道路に停車中の自動車が何で出来ているかお分かりになりますか。
実は、このように大理石でできております。原寸大のキャデラックだそうです。下に「乗車禁止」と書いてありますが、乗ろうにもドアが開かないことには...木刀みたいな自動車です。そして、その下は、本物のポルシェ。上記の高級ホテルの前に止まっています。そしてそれを眺めているのは、首から上が煙突だったりする一群の彫像。
次は、多少スイスらしい雰囲気の、木彫りの牛だか、馬だかの行列です。

そして、その下は炭鉱などで用いられるトロッコに人の顔が詰まっているという作品。なんとなく石田徹也さんの絵を思い出したので、撮影しました。

最後は、円空か、木喰(もくじき)上人の手による仏像さながらのリスの彫像です。(こちらは、別に今回のトリエンナーレの出品作ではありません。が思わず手を合わせたくなるような、どこかしらありがたい厳かさを感じてしまいます。)

Sunday 21 June 2009

旅先にて(4)

仏検を受験された皆様、ご苦労様でした。いうまでもありませんが、今晩はとりあえずテストのことは忘れ、十分に休養なさってください。

さて、私のほうはといいますと、天候にはさほど恵まれてはいないものの、お蔭様で引き続きのんびりさせていただいております。昨日は、バーゼルにある友人の妻君の実家を友人の家族と訪ねました。昼食後、こちらへ戻る友人家族を見送り、妻君のご母堂と久しぶりにバーゼルの町を散歩しました。まずは、現在開催中のヴァン・ゴッホ展を観に美術館へ。これまであまりゴッホには興味をもたなかったのですが、折角来ているからにはと訪れてみましたが、なかなか見ごたえのある展覧会で、ゴッホの人生の流れとそれに伴う画風の変遷がとても分かりやすく示されていました。帰りは、バーゼルからの直通の急行でしたが、たまたま、同じ列車に上記友人夫妻の長男Flurin君(19歳)が乗り会わせていました。前回、訪れたときまでは、ずっとドイツ語で話していたのに、何故か、今回は私とはフランス語で話してくれます。大きくなって、異国人に対するスイス人らしい配慮が身についてきたんだなと嬉しく思いました。おしめをしているころから知っている子が、ブロンドの背が高いbeau garçonに成長していて、歳月の過ぎるのを本当に早く感じます。

ところで、以前の報告の中で、今回のトリエンナーレではウサギのオブジェが公衆トイレの上に乗ったりしていると書きましたが、見れば見るほど奇妙な風景なので、写真を載せます。宿泊先のダイニングから見える風景です。画像のほぼ中央に見える円形の建物が公衆トイレです。
こちらの人はBarbie Hase(バービー人形ならぬ、バービーウサギ)と呼んでいますが、下がアップの画像です。確かに首から下は女性のようです。奇妙なウサギ人間がトイレの上にしゃがみこんでいて、「ウサん臭いということなのか」と思ったりするのは日本人の私くらいのものでしょうけど...
最後に雨空の下の宿泊先の裏庭です。聊かの風情が感じられたもので。

Friday 19 June 2009

Simpei君へ

コメントどうもありがとうございます。今日は、また雨です。天気任せののんき旅なもので、別に構わないのですが、それでもあまり雨が続くとさすがに参ります。明日は友人夫妻の奥さんの実家があるバーゼルへ彼らと一緒に行き、現地の美術館で現在開催中のバン・ゴッホ展を観に行こうと思っています。帰国したら、またいつか、ゆっくりとお話をさせてください。勉強がんばって。そして、くれぐれもお体を大切に。

旅先にて(3)

こちらの報道から得たものではありませんが、昨日の小旅行の道中、些細なことですが、ひとつ気がついたことがあったのでご報告します。
逗留先に戻る列車を待っていたLandquartという駅で、別のホームに入線してきた列車のある車両の出入り口近くに設置された、行く先等を示す電光掲示板に、「ESPACE SILENCE」と表示されているのも見つけました。他の車両の電光掲示板にはこの表示はありませんでした。
はて、なんだろうとスイス国鉄のサイトを見ると、当該車両では以下の行為は禁止とのこと。
・会話(小声で行う場合も含む)・音楽やラジオを聴くこと(ヘッドフォンを装着する場合も含む)・PCにおける音声や動画の再生・電話での通話
そういえば、フランスのTGVの車両にも、ZENとZAPという2つの区分が設けられていることを思い出しました。前者は、スイス国鉄における「ESPACE SILENCE」に近いもので、後者はその逆に会話、歓談、トランプなどのゲーム等が許されていて、ようするに「騒々しいお客様専用車両」ということです。ただ、TGVのZENでは、ヘッドフォンでの音楽鑑賞は許されているようですし、少し規制がゆるいようです。
ただ、このスイス国鉄の「静粛車両」ですが、必ずしも期待どおりではないといった書き込みが土地のWEB上の掲示板にありました。完璧ということは、ありえないようです。

旅先にて(2)

仏検を受験される皆様は、いよいよ試験日が近づいてきましたね。緊張の中、日々をお過ごしになっている皆さんに比べ、一人のんびりさせていただき、申し訳ありません。
なお、先に投稿した時事用語のヒントですが、最初の投稿後、いくつか加えましたので、眺めなおしてみてください。
さて、昨日ですが、良い天気だったので、滞在場所から電車とバス乗り継ぎ、Müstair(ミュスタイア)という、スイスの東端に近い村を訪れました。なんでも、そこのベネディクト会ザンクト・ヨハン(女子)修道院は世界遺産に登録されているそうです。いくつか写真をとりましたので、掲載します。

上記修道院の教会の中を見せてもらい、墓地を含むその庭から出ようとすると、いきなり近くのベンチに座っていた男の子から「こんにちは」と声をかけられました。びっくりして「日本語が話せるの?」と聞くと、それだけしっているとのこと。さらに、一緒にいたもうひとりの男の子から、さようならは、日本語でなんていうのかたずねられたので、教えてあげました。余程多くの日本人が訪れるのでしょうね。(昨日はたまたま会いませんでしたが。)




ところで、現在滞在中のBad Ragazですが、彫刻のトリエンナーレが開催されています。今回で、4回目とのことです。というわけで村のいたるところにさまざまなオブジェが展示されていて(公衆トイレの上に大きなうさぎが座っていたり)、少々不思議な世界が展開しています。

上の二枚は、どちらも駅から逗留先の家に至る村のメイン・ストリートを歩いていて目にした風景です。右側は、集合住宅の庭に配置されたオブジェ、そして右側はジャコメッティを思い起こさせる長細い人の彫像が、向こう側の歩道を眺めるように並び立つ様子です。真ん中の人影は、何を隠そう私自身のものであります。

Thursday 18 June 2009

旅先にて(1)

お伝えいたしましたように、15日から1ヶ月程の予定で、留守にしております。その間、恐らく新たな投稿はできないと思いますが、とりあえずご報告までに滞在先の付近で撮影した写真を載せさせていただきます。(こちらにいながら、現地の話題について投稿ができないというのもおかしな話ですが、ご容赦ねがいます。)

スイスというと、連なる山々や巨大な氷河など、なんとなく雄大な光景を思い浮かばれると思いますが、このあたりで目にするのは、スイスといわれるとそうかもしれないと思われる程度のこじんまりまとまった風景です。なお、滞在しているのは、Bad Ragaz(バード・ラガーズ)という温泉地で、歩いて行ける程度の距離のところに『アルプスのハイジ』の中で、病弱のクララが暮らしていたMaienfeld(マイエンフェルト)の村があります。これらの写真は、そのマイエンフェルトで撮影したものです。

Sunday 14 June 2009

仏検1級時事用語のヒント

仏検1級受験者の皆様

対策講座の受講、たいへんお疲れ様でした。また、隔週の講座を受講され同様に1級を目指されているY様、たいへんお疲れ様でした。

ご参考までに以下にいくつか(出題されそうな?)時事用語をご紹介いたします。


・豚(A/H1N1型)インフルエンザ grippe porcine

・冤罪 fausse acusation

・核(兵器)の拡散 prolifération nucléaire

・核実験 essai nuclaire

・大陸間弾道ミサイル missile balistique intercontinental

・核弾頭 tête nucléaire

・EMS細胞 cellule souche embryonnaire

・地上デジタル放送 télévision numérique terrestre

・(司法における)DNA鑑定 test ADN judiciaire

・エンドユーザ(末端顧客) utilisateur final

・(Windowsのような)基本OS système d'exploitation

・USBメモリ clé USB

・デジタルコンテンツの違法コピー piratage numérique

・知的財産権 propriété intellectuelle

・ハッブル宇宙望遠鏡 téléscope spatial Hubble

・国連安全保障会議常任(非常任)理事国 membre (non) permanent du Conseil de Sécurité de l'ONU

・合計特殊出生率 taux de fécondité

・臓器移植法案 projet de loi transplantation d'organes
(「臓器移植」については、過去に出題されたような気がしますが)


とりあえずは、このあたりで。また、もし皆様のなかで、他の言葉を思いつかれた場合は、お手数ですがコメント欄へのご記入をお願いいたします。

Good Luck to everyone!

Friday 12 June 2009

経済危機に強い旧東ドイツ?

6月11日付『Le Monde』誌より

6月9日公表されたドイツ政府の報告によると、旧東ドイツに属していた州のほうが、他の州(旧西ドイツ諸州)よりも今回の世界的経済危機の影響が少ないことがわかったそうです。
例えば、2009年の第一四半期における加工業の業績について言えば、西側が-21.1%だったのに対し、東側は、-16.1%でした。そして、2009年の国内総生産の見通しも、西側の-6%に対し東側は-5%となっています。

もちろん、旧東ドイツ諸州の比較的好調な経済は、危機の影響を受けにくい環境技術や先端技術産業関連の企業が多く存在していることにも一因はあるでしょう。しかし、記事によると、むしろ旧東ドイツ諸州の構造的な問題が、皮肉にも今回の危機に対する抵抗力を与える結果になっているというのです。

具体的には、旧東ドイツ諸州は、旧西ドイツ諸州に比べ、工業の発展においてははるかに遅れをとっています。そして、存在する企業というと、大企業というよりは、むしろ中小企業が多く、それらの輸出依存度は極めて低いのです。

つまり、旧東ドイツ諸州の経済は、基本的に内需によって回っているということがその"強さ"の原因というわけです。ただ、当該地域の経済が、いまだに政府からの支援を受けていることも忘れてはいけません。

さらに、ベルリンの壁の崩壊から20年を経た今日でも、東側の国内総生産は、西側のそれの71%にしか及ばす、また、5月の失業率も13.2%と、西側の7%のほぼ2倍です。東側の失業率のさらなる増加を危惧する専門家たちもいます。そして、西側に比べ、もともと旧共産圏諸国とつながりの深い東側において、今後、前者における経済危機の影響を受けやすいということも指摘されています。

ドイツ政府は、その支援政策が期限を迎える2019年までには、旧東ドイツ諸州の経済水準が、西側諸州のうちそれが最も低い州の水準にまで引き上げられることを期待しているとのことです。

(「L'ex-Allemagne de l'Est résiste mieux à la crise que l'Ouest」より)

美女とベットの上の野獣?

次にやはり、同じ6月11日付電子版『Spiegel』誌に掲載されていた、少々変わった話題をご紹介しましょう。

(もともと『The Times』に掲載された記事とのことです。)

所は、マグネチック・アイランド(クイーンズランドの東海岸沖:グレートバリアリーフの側)。オーストラリアの南部から休暇で現地を訪れていた3人の若い女性観光客が、ホテルの部屋でなんと一頭のコアラと遭遇。しかも、彼は部屋の中のベッドにひとつずつ上ってそれぞれの快適さ(?)を比較した上で、最終的に青とピンクの花柄のベッドの上に横たわり、うたたねをはじめたとのこと。どうやら、それが一番寝心地が良いベッドだったようです。

『The Times』によると、どうやら近くの木から下りた際に、誤ってホテルのテラスに入り込み、そのままこの部屋にまで入ってきてしまった様子とのこと。

彼女たちは、その様子を面白がって観ていましたが、やがて付近のコアラ・ツアーガイドに通報。このコアラ君は若いオスで、その写真を見せられたツアーガイドのリーダーは、以前生れた際に自分が発見したものと同じ個体であると特定、よく元気で生きていたものだと久しぶりの再会に感動していたそうです。

事件の舞台となったマグネチック・アイランドにはコアラたちの餌となるユーカリが生い茂り、現在200頭ほどが生息しているそうです。

しかし、寝心地の良いベッドを選ぶとは恐れ入りました。そのうち、家具センターにでも迷い込んできたら、数があるだけに相当時間をかけて選ぶでしょうね。もっとも寝心地の良いベッドを。コアラのお墨付きのベッドです。

(「Touristinnen finden Koala im Hotelbett」より)

ドイツ日本人学校におけるA型インフルエンザ感染(続報)

6月11日付電子版『Spiegel』誌にデュッセルドルフ日本人学校におけるA型インフルエンザ感染の続報が掲載されていました。(日本のメディアも伝えていますが。)

すでに30人を超える感染者が児童・生徒の中に確認されており、彼らの家族も検査を受けているとのことです。

これらの日本人(32人の感染者)を含めると、ドイツ中で100人を超える感染者が現在確認されています。

(「Massentest auf H1N1- Viren in japanischer Schule」より)

Thursday 11 June 2009

ドイツ日本人学校におけるA型インフルエンザ感染

6月10付電子版『Spiegel』において少々気になった記事があったので、お知らせしておきます。

「Fast 30 japanische Kinder in Düsseldorf erkrankt」

例に漏れず、ドイツでもA型インフルエンザの感染者は増加していますが、昨日の水曜日、ノルトライン―ヴェストファレン州(州都:デゥッセルドルフ)において、新たに40人の感染者が報告され、そのうち26人が、デゥッセルドルフ日本人学校の生徒とのことでした。(学校のHPによると27名)当該校においては、すでに前日の火曜日に2人の生徒の感染が確認されており、この生徒達から周囲に広がったものと思われると市当局の説明がありました。この日本人学校には、560名もの生徒が通っていますが、7月19日まで閉鎖されるとのことです。

なお、現時点におけるドイツ全体の感染者数は100人以上にのぼっています。

この学校には以前の私が教わった先生も赴任されていたことがあり、フランス留学中、お宅でお正月を過ごさせていただいたことがありました。

感染した生徒の方々が一日も早く完治されますよう祈ります。

Tuesday 9 June 2009

赤白混合によるロゼワイン非認可へ

敬愛するTさんへ

フランス文化通、そして何よりもフランス・ワインに精通され、フランスを愛してやまないTさんにとって朗報です。

以前、ことによると欧州連合加盟各国において(当然フランスも含めてですが)、白ワインと赤ワインを混ぜることによる”ロゼワイン”の製造が解禁されるかもしれないとお伝えしましたが、どうやら、先日の欧州議会選挙で保守派が優勢となり、そのせいもあって上記の方法によるロゼワインの製造が欧州連合域内においては認可されないことになりそうです。つまり、これまでどおりの製法で製造されたロゼワインのみが欧州原産のロゼということになります。

この法案の採決は6月19日に予定されているそうですが、現在、フランスはもちろん、ギリシャ、ドイツ、ハンガリー、イタリアが当該法案に反対しており、そのため成立に必要な過半数には達しないことが確実になったようです。

米国やオーストラリアなどでは、赤白混合によるロゼワインの製造が認められているそうですが、やはり文化や伝統を大切にするお国柄ですね。(フランスのワイン製造業者曰く、こうした製法は”異端”とのこと。)

なお、現在、フランスにおけるロゼワインの輸出量は、年間2000万本、赤ワインは31億2千万本、そして白ワインは12億2千万本とのことです。

(2009年6月8日付電子版『LePoint』「Les producteurs de vin rosé crient victoire」より)

Friday 22 May 2009

インフルエンザと虫送り

先の投稿で言及しましたが、感染した方が通う学校に帰宅の際に利用した鉄道路線を利用している子どもの親から、もし、自分の子が感染したらどう責任をとるのかといった電話があったそうです。

この記事を目にしたとき、ふと、地方の伝統的な風習である虫送りの行事のことを思い出しました。今でも、あちこちで実施されていると思いますが、その名残が残っている場所もあります。ようするに、稲などに害を与える虫たちを村はずれまで送ってゆく、つまり自分たちの村から追い出すという行為を模した宗教儀礼です。あるいは、魔よけとして、大きな草鞋を村はずれ、つまり境界に飾るというのも、同じ願いの表れです。この場合は、「このように大きな草鞋を履く生き物がいるのだぞ。悪鬼よ、入ってくるな」というメッセージがこめられているわけです。

もともと、山や谷などによって囲まれ閉鎖性が強く、地縁と血縁で結ばれた、いわば家族の延長のような村落共同体が生活の場だった私たちにとって、自らが属するもの以外の共同体や前者と後者の間に存在する空間は、まったく別の論理や原則が支配する世界、あるいは異次元といえるようなものであり、それらから侵入しようと悪鬼たちはシャットアウトすべきですし、反対に自分たちの共同体のなかで作物に害を与える虫たちは、よその共同体に行ってもらいたい。そこで、どれほど作物に害を与えようとしったことではない、というわけです。こうした姿勢についてその良し悪しを議論するとことは意味がありません。ただ、伝統的にそのような文化が育ってきただけの話です。

明治以降の急速な近代化、工業化によって、こうした、地縁血縁集団=生活の場および一生を過ごす場といった伝統的な民族文化は、壊れてゆきました。もっとも、すでに江戸時代頃からそうした構造は、少しずつ壊れ始めていたかもしれません。しかし、そこでは、異なる共同体の出身者たちも、新しい擬似家族を構成することで、伝統的な地縁血縁集団に近い性格をもつ組織に所属することができたのです。「大家といえば親同様、店子といえば子同様」といった考えです。

明治国家も、やはり大きな家族としてスタートしました。そこにおける究極の父が天皇でした。このような国家制度を考案したのが、明治政府のイデオローグ井上毅です。そして、第2次大戦後、さらに高度経済成長期において、さまざまな社会組織がやはり家族の構造をもっていました。企業、役所、政党等々。しかし、ことなる擬似家族集団の間に存在する場は空白のまま残されてきたのです。それは、現在でも自らが属する集団を囲む異次元の空間のままなのです。そこで、はじめに紹介した、子どもの親のような発言がなされるわけです。さらに言えば、現在は、擬似家族集団が形成されにくいため、さらにそうした傾向が強くなっているのかもしれません。結局は、文字通りの物理的な家族のみが、そうした集団になりつつあるのかもしれません。極言するならば、自分の家族以外の場は、災厄をもたらすことがない限り関知せず、災厄をもたらしかねない事態が出現した場合は、それを再びそこへ追いやるべき異次元の空間ということです。

日本社会には、Publicという空間の認識、そしてそれに伴う道徳が発展しなかったとよくいわれます。実際、そう感じざるを得ません。日本において、「公共道徳」なるものは、もともと存在せず、擬似家族集団が形成されることで、それに似たような倫理性が保たれていたにすぎないように思えるのです。第2次大戦時、国家のために身を捧げるということは、国家という大きな家の首長である天皇に自身の存在を捧げるということでした。当時、戦争遂行の大儀とされた、「大東亜共栄圏」にしても、東条英機ら指導者たちは、それをやはり家族にたとえることを好んだそうです。つまり、最終的には情緒的な絆で結ばれた要素によって構成されている組織として、家族を提示することで、共同体の存続、繁栄にって必要な一切の道徳、倫理が個々人の行動を支配するようになると信じたのです。
複数の社会集団に属する人々が接する場が、パブリックの場です。しかし、今日でも、そこは依然として異次元の空間であり続けているようです。これまで日本人は、定住農耕民族として長い年月をかけて発展させてきた、自分たちのもともとの有り様と、近代化の模範と仰いだ西洋近代国家の市民社会の違いに気がつかないまま、さらに後者の土台となっているさまざまな思想に関心を向けずに、一人前の近代国家となるべく努力してきました。しかし、果たしてこのような状況のまま、未来に突き進んでいって大丈夫なのでしょうか。そのことについて、インフルエンザよりも不安を感じているのは、私だけではないと思うのですが。

パンとサーカスのRPG

今回の新型インフルエンザをめぐる騒動から、今の日本の社会の仕組みとそこにおけるメディアの機能について考えさせられています。

少年たちの凶悪犯罪について報道がされる際、それについての識者といわれる人たちのコメントの中に、よくコンピュータゲームの影響ではないかという言葉が聞かれます。そして、彼らは、現実と仮想の区別がつかなくなっているなどと。

確かに十分考えられることではないかと思えます。しかし、それが本当であろうとなかろうと、今、新型インフルエンザをめぐってマスコミを中心にして起きている現象も、ある意味でひとつの”ゲーム”といえるように思えるのです。そして、それに結果的に参加している(あるいはさせられている)私たちは、ほとんどの場合、その認識をもたないまま行動しているような気がしてなりません。

特に小泉自民党の郵政民営化を争点とした選挙から、このゲームははっきりと日本社会に根付いた姿を見せ始めたように感じます。

そのゲームというのは、一言でいうと、「石打の刑」です。それを見物し、参加する民衆に石を投げるべき対象が示され、さらに彼らにその対象に対して投げる石も提供されるというものです。郵政民営化選挙においては、石を投げる相手を示したのが、当時の小泉自民党総裁であり、それをマスコミは大々的に伝えました。そして、比較的最近の小沢前民主党代表の代表辞任に至る経緯においては、彼を刑場に引き出したのは、文字通り検察庁です。前者において、小泉氏が民衆に提供した石は、「反対勢力」、「守旧派」といった言葉であり、後者において、マスコミは「説明責任」という言葉を石として提供しました。

(さらに以前、紛争状態のイラクへ入国し、誘拐された日本人のグループに対しては、「自己責任」というのがその石でした。)

「あなたは小沢氏が説明責任を果たしたとおもいますか」といった問いを、マスコミが彼らの世論調査の中で人々に投げかける場合、それに対して肯定、あるいは否定の回答を返した調査対象のうち、どれだけの人が説明責任という言葉を自分なりに定義していていたでしょうか。実際は、もっともらしい、なんとなくみんなが投げやすい石になりやすい言葉だっただけではないでしょうか。さらに、気になるのは、この質問に対する回答の比率を”国民”はというくくりで紹介するだけということです。男女別、世代別といったくくりは、出そうとしません。ひたすら多くのパーセンテージを集めるためでしょう。つまり、どれだけダメージを引き起こしているかという「スコア」としての世論調査です。

そして、こうしたマスコミがお膳立てするゲームのストーリーやルールが日常の生活に影響を及ぼしているように思えるのです。その良い例が、今回の東京での初めての感染者として紹介されてしまった、女子高生とその家族や彼女が通う学校です。彼らは非難や誹謗を受け、女子高生は罪悪感さえ抱き、母親を通じて謝罪までしたといいます。

こうしたゲームは、「いじめ」とまったく同じ構造のように見えます。結局、ストレス解消がその目的なのかもしれません。今回のストレスは、もちろん病気に感染するかもしれないという不安です。

今のように、不安が解消されない、つまりストレスが浸透し、高まっている状態において、マスコミによる報道は、結果的に石打の対象として一般の人さえも(その人が被害者の場合も)提示してしまう可能性があるのです。より正確にいうならば、マスコミ側にその意図がないとしても、その報道に接する私たちの側に、「石打の刑ゲーム」のストーリー展開とルールがあまりにも深く刷り込まれてしまっているために、報道の対象となった人をほとんど無条件で石打の対象と理解してしまう可能性があるということです。「魔女狩り」、「犯人(あるいはスケープゴート)探し」の構図がそこで生れます。ひたすら衆目を個別特殊の対象にのみひきつけようとする。そこには公平や普遍といった視点は微塵も見られません。実際、日本のマスコミにおいては、前の投稿で紹介した『Le Monde』の記事のように、今回のことから本当の原因を追求しようともしないし、さらに今後の危険性についての報道がほとんどなされません。ただ、毎日毎日、今日はどこで何人が感染したという報告ばかりです。

ところで、話題にならないのが、日本人の咳やくしゃみに対する姿勢。欧米人と比べて特に違和感を感じるのが、日本人のくしゃみの仕方です。口や鼻をハンカチで覆うなど一切しない。だから、マスクをしたがるのかもしれません。もともと、くしゃみとは、鼻から体内に入ってきた悪魔を「糞でも食め!」といって対外に排出する行為と考えられていたようで、それからすると口や鼻を塞がずに思い切り行うというのは自然なのかもしれません。それでも、外国ではあの音を聞くと周りの人は驚くようで、ハワイの空港などでは日本語で、「くしゃみの際はハンカチで口や鼻を覆いましょう」といった表示があるとか。

Thursday 21 May 2009

経済効率の優先とインフルエンザ

5月20付電子版『Le Monde』より

経済効率最優先の、家畜の密集度が非常に高い養豚場、あるいは養鶏場は、今回のインフルエンザのような疾病の病原体を生み出してしまう可能性があるといわれています。こうした環境においては、ウィルスは連鎖的に感染し、遺伝子を交換しあうなどして変異する機会が与えられてしまうためです。(米国の国立保健衛生局の調査結果:cf.Journal of Environmental Health Perspectives, 14 novembre 2006)

さらに、自然では到底存在しえないほどの密度で、豚や鶏が飼育されている場合、そうでない場合に比べ、一般に病気に罹る罹る確率も高くなります。それを防ぐために、多量の抗生物質が飼料に混ぜられ継続的に与えられます。このことから、こうした養豚場や養鶏場で発生、あるいは変異した病原菌は、すでに抗生物質に対するある程度の耐性も備えてしまう可能性があるというのです。実際、フランスの国立保健医療研究所(Inserm)の報告によれば、養豚場に勤めている人たちから、抗生物質に対して耐性も持っているバクテリアが検出された例もあるそうです。

人が罹る疫病は、いつも、それまで別の動物のみが感染していたウィルスが突然人間にも感染するようになって発生しています。現時点では、新型インフルエンザ(A/H1N1型)は弱毒性といわれています。しかし、専門家たちはかなり以前から、それよりはるかに強毒性の鳥インフルエンザのウィルスが豚に感染するようになり、そして豚から人間に感染するようになることを恐れています。こうした変異を物理的に阻止するため、欧州連合では、域内において、養豚場と養鶏場の近接を禁止しています。

さて、今回のインフルエンザの病原体ですが、その発生地として各方面から疑われているのが、メキシコのベラクルス州のラ・グロリアの養豚場です。現時点ではその確証はないのですが、唯、この養豚場を経営しているスミスフィールド・フーズについては、同社が経営する養豚場の付近で発生した呼吸器系の疾患について、養豚場の豚との関連についての当局の調査を拒否したり、また、強制調査によってその関連が疑い得ない事実と判明した後もそれを否定し、こうした姿勢をとり続ける同社に対して批判が集中しているそうです。

今回のインフルエンザ騒動も、元をただせば、人間の経済効率最優先の"業"(ごう)が生み出してしまったものかもしれませんね。

「Grippe A : il faut en finir avec les usines à virus, par Marie-Christine Blandin et José Bové」より

(この記事を書いたのは、緑の党の国会議員で鳥インフルエンザに関するレポートの責任者Marie-Christine Blandin氏と農業経営者で欧州議会選挙にヨーロッパ・エコロジー党から立候補しているJosé Bové氏です。)

Tuesday 19 May 2009

鳥インフルエンザ

本日付のLePointにも、世界保健機構の事務局長チャン博士(Dr.Margaret Chan)の会見の内容が紹介されていて(「GRIPPE A - L'OMS craint un échange de gènes entre virus porcin et aviaire」、やはり、現時点においてはH1N1に比較してはるかに致死率が高い季節性のインフルエンザ用のワクチンの確保を最優先にすべきという方針だそうです。

とはいえ、同時にH1N1のウィルスが鳥インフルエンザのそれと交じり合って、この二つのウィルスによりも人体への危険性が高いウィルスが誕生してしまう可能性も否定しなかったことも伝えられていました。

鳥インフルエンザといえば、5月16日付のSpiegelに、なぜ鳥インフルエンザが人間に感染しにくいのか、英国の科学者による実験の結果、その原因が判明したという記事に載っていました。(「Kalte Nasen lassen Vogelgrippe-Viren frieren」)ロンドンの王立カレッジのWendy Barclay教授のグループによる発見だそうで、その原因というのは、人間の鼻の内部の温度が、鳥インフルエンザが繁殖するには低すぎるのだそうです。(詳しい内容は、『PLoS Pathogens』という専門誌に掲載されています。)

なお、Barclay教授による新型インフルエンザに関する解説が、BBCのサイトに掲載されていました。

12時間で完了する新型インフルエンザのテスト実用化へ

そういえば、5月5日のTF1のニュースビデオで紹介されていましたが、パスツール研究所で、12時間で完了する新型インフルエンザのテストが実用化されたそうです。

Novaritis、新型インフルエンザ用ワクチン製造可能

19日付電子版Le Figaroより

スイスの製薬会社Novartisは、H1N1用のワクチンの製造準備が整ったとの発表を行ったそうです。後は、WHOとアメリカの疾病予防管理センターからのゴーサインを待つだけとのこと。WHOのとしては、まず、世界の大手製薬会社に季節性インフルエンザ用ワクチンの製造に専念してもらい、十分な量が確保できた段階で、今回の新型インフルエンザ用ワクチンの製造を開始してもらいたい模様。そのため、当面は夏の終わりごろがその開始時期と見られています。そのころには製薬会社が、季節性インフルエンザ用のワクチンの製造が完了する見込みのため。なお、新型インフルエンザ用ワクチンは、Novartisのほか、Sanofi-Pasteur(本社:フランス,リヨン)、GlaxoSmithKline(英国)が製造を開始できる状態にあるそうです。

Sunday 17 May 2009

自殺 他国と日本(その3)

自殺に関するSpiegelの記事とは、2004年2月4日付の同誌の電子版に掲載された「Depressionen werden besser aufgefangen」のことで、リードには、ドイツにおける自殺者の数は、1982年と2002年を比較すると、実に40%以上も減少したと書かれています。(1982年のドイツにおける自殺者数は、18,711人で、2002年では11,163人)その原因として専門家たちは、うつの治療の進展と予防策の効果を挙げているとのこと。

例えば、ミュンヘンの神経科医Ulrich Hegerl氏の調査によると、今日、うつの治療は以前に比べて大幅に進歩しており、それがこうした結果をもたらしているというのです。同氏は、「人は健康であれば、困難な状況におかれていたとしても、希望を失うことはなく、助けを求めようとする」と言っています。興味深いことにHeger氏の調査では、実際、処方される抗うつ剤の量は近年増加傾向にあるといいます。

また、自殺予防に役立つ情報の提供、さらに効果的な予防プログラムも功を奏しているというのが専門家の意見ですが、国の予防プログラムの責任者(当時)のArmin Schmidtke氏は、減少したといっても、いまだに年間11,000人の自殺が発生しているということは深刻な事態に変わりはないと言っています。それでも2002年から7年経過した今日、OECDの統計を見る限りは、幾分鈍化しているようにも見えるものの減少傾向は続いているようです。

因みにドイツ政府が運営している自殺予防に関するサイトのURLは、
http://www.suizidpraevention-deutschland.de/Home.html
で、非常にわかりやすくできています。

日本でも内閣府が運営している同様のサイトがあり、URLは、
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/
です。

Friday 15 May 2009

自殺 他国と日本(その2)


(グラフ上をクリックをすると、拡大表示されます。)
このグラフは、OECD加盟国のすべてのデータを含んだものではありません。日本のほかでは、変化の仕方に特徴があると思われる9つの国を選んでいます。なかでも特に注目したのは、ドイツです(水色)。ドイツは、一時期10万人当たり20人を超す時期(1978年)もありましたが、2005年では、そのおよそ半分の10.3人にまで減少しています。同様の傾向を示すのが、デンマーク(黄緑)、スウェーデン(緑)、オーストリア(クリーム)です。

これを見て、以前読んだドイツのSpiegelの記事を思い出しました。

自殺 他国と日本(その1)

自殺者が増加傾向にあるということが話題になっています。

先日、OECDが加盟各国の社会の様々な面を分析した『Society at a Glance 2009』が発行され、その中の自殺に関する情報が、Web上で公開されていたので少し眺めてみました。

(http://www.oecd.org/document/24/0,3343,en_2649_34637_2671576_1_1_1_1,00.html#dataの中のSuicidesにリンクされているエクセル文書)

以下に、上記資料に掲載されていた2005年の各国の自殺率(人/10万人)を紹介します。(降順)

24.7 Korea
21.0 Hungary
19.4 Japan
18.4 Belgium
16.5 Finland
14.6 France
14.1 Switzerland
13.8 Poland
13.8 Austria
12.7 Czech Republic
11.9 New Zealand
11.3 Denmark
11.1 Sweden
10.9 Norway
10.9 Slovak Republic
10.4 Iceland
10.3 Germany
10.2 Australia
10.2 Canada
10.1 United States
9.5 Luxembourg
9.2 Ireland
8.7 Portugal
7.9 Netherlands
6.3 Spain
6.0 United Kingdom
5.5 Italy
4.4 Mexico
2.9 Greece


まず、驚いたのは、韓国における自殺率が10万人当たり24.7人とOECD加盟国中最も高いということ。日本は2位のハンガリー(同じく21.0人)の次の第3位(同じく19.4人)です。次に驚いたのは、フランスが上位10位内に含まれているということです。

実は、今回、この資料を閲覧したのは、最近読んだ電子版『LePoint』(5月5日付)の「ÉTUDE - Les Français, champions du monde du sommeil et de la table」の中で、日本人は余暇の55%をTVを観て過ごすと書かれていて、本当にそうか確認するためだったのですが(この記事自体『Society at... 』を基にしています)、そこではフランス人は睡眠時間と食事の時間において世界チャンピオンであると書かれていました。つまり、彼らは世界で一番長く眠るし、また、食事もゆったり摂るということです。そして、やはりOECDのデータによると世界で一番長い有給休暇を(平均37日)取っているとのこと。それにも拘わらず、自殺率においては、上位に位置しているのです。スイスの人から、スイスは自殺率が高いと以前から聞かされていましたが、フランスは、スイスを僅かながら上回っています。どういうことなのでしょうか。それでも、日本に比べるとフランスでの自殺率は、3割以上低いのですが。

次にOECDの統計から、各国における年毎の自殺率の変化をグラフにしてみました。

現代の祭の一側面

今日の午後3時半からのTBSラジオの番組の中で取り上げられた話題。最近、地域の祭りにおいて神輿の担ぎ手が不足している。対応策として、他地域の人に参加してもらうことの是非について、聴取者の方も参加して議論がされていました。いわゆる氏子以外の人に、お神輿を担いでもらって問題はないのだろうかという疑問を持つ人もいるようです。

番組の中では言及はありませんでしたが、《祭》を実行する際の前提である、氏神-氏子というシステムは、かなり昔に崩壊してしまったといってよいでしょう。

もともと、この氏神-氏子システム(伝統的な神道、あるいは古神道と申しましょうか)は、地縁・血縁によってまとまっている日本の伝統的な共同体において発展してきたもので、生まれると即、土地の氏神様の氏子になるわけです。この点では、多少、ユダヤ教などに共通している点もあるかもしれません。しかし、このシステムでは、その土地以外で生まれたり、暮らしている人を氏子集団の中に受け入れるのは非常に難しい、というよりは、そういった人々、つまり他所者を受け入れるということは、もともと想定されていなかったのです。(これは、一般的な意味での神道、さらには日本の民族性を理解するうえで重要なポイントです。)

それに比べて、たとえばキリスト教は、信仰告白、そして洗礼という儀式を介すれば、その人のそれまでの人生や現在の状況にかかわりなく信徒の集団に加わることができます。

祭を実行する側としては、神輿の担ぎ手がいないのは悩みの種ですが、氏子でない人たちの手を借りてでも祭は行うべきという考えが存在する(実際にそういった対策をとっている地域もあるようです)のは、経典も、体系的な教理も、そして信仰告白およびそれを承認する儀式も存在せず、ただ生まれれば、その土地の氏神(柳田國男がいうところの祖霊の融合したもの)の氏子に《自然に》になり、その土地を離れない限り、一生氏子を辞めること(背教?)がない、ある意味ではたいへんおおらかな宗教観が刷り込まれているわれわれだからこその悩みなのかもしれません。