Wednesday, 17 December 2014

《死の目的化》が起きた日本と起きなかったドイツ - 第二次世界大戦中の体当り攻撃を巡る両国の比較

始めに,《死の目的化》という言葉は,元海軍技術大尉の内藤初穂氏の著作『海軍技術戦記』の「特攻兵器の原理」という文章中の次の文を短く言い換えたものです.内藤氏は,特別攻撃と呼ばれた体当り攻撃の発想の三つの論拠を挙げていますが,その三つめを述べた箇所です.
第三に、日本の軍隊組織のなかでは、もともと、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の葉隠れ思想や、「死は鴻毛より軽し」の軍人勅諭思想がひろく賞揚されていたことである。つまり、アッツ島いらいの玉砕思想が特攻思想ヘと移行して、戦間の結果であった死が戦間の目的にすりかわっても、ごく自然のことと受けとめられ、おもてだって批判する素地はまったくなかったのである。*1)
そして,1945年4月の「菊水作戦」発動以降の体当り攻撃に関する以下のデータを挙げています.
中央の方針は本土決戦へ切りかわってしまったが、九州方面の航空部隊は、水上偵察機、練習機″白菊″までくりだして、「菊水一〇号作戦」までの特攻出撃をつづけ、けっきょく、海軍機延べ八五八六機、陸軍機を含めると、一万機以上が投入される。そして、沖縄をめぐる戦果は、沈没二四隻、損傷三四九隻(アメリカ側資料)、その八〇%は、特攻機によるものと推定された。特攻隊については、これを日本歴史の栄光とみるか、恥部とみるか、思いは人さまざまだろう*2)
こうした体当り攻撃は,日本だけに限ったものではなく,当時の同盟国ドイツでも敗戦直前に実行されました.1945年3月17日オーデル川(Oder)の浮橋(Pontoon Bridge)に対する爆弾を搭載したHe 111,Ju 88-Bomber,Ju 87 Stukaおよび1機のFW 190による混成飛行隊による攻撃です.この作戦には,志願者によってのみ組織された体当り攻撃専門部隊レオニダス飛行中隊(第200飛行爆撃隊第5中隊.通常"5./KG 200"と略記.後にSonderstaffel Einhornに名称変更.)所属のパイロットに混じって,新たに志願したパイロットたちも加わっていました.翌18日に実施された同様の攻撃において,Ernst Beichel操縦のFW 109がZellin付近の浮橋の破壊に成功しました.その後,東部戦線において,迫り来る赤軍の進攻を阻むための橋梁破壊作戦には,無人誘導爆弾(恐らくFritz X)や無人飛行爆弾Mistelgespanneなどが投入されましたが,中には,双発爆撃機が全搭乗員諸共標的に激突した例もあったようです.また,ナチスの総統親衛隊(Schutzstaffel)の中にも体当り攻撃専門の部隊が組織されていましたが,必死作戦遂行のために前線に派遣された者の中にはパイロット以外の兵員も含まれていたようです.これらの作戦の結果,オーデル川の架かる17の橋梁が破壊されました.*3)

実は,上で述べた作戦の前にも,連合国軍の補給艦艇に対する体当り攻撃が計画されたことがありました.そのひとつの例を以下に紹介します.1943年6月13日,体当り攻撃(ドイツ語では自己犠牲攻撃)の発案者であり,5./200 KG隊長ハインリヒ・ランゲ(Heinrich Lange)に,FW 109による体当り攻撃作戦準備の命令が下りました.ただ,ランゲは,この作戦の実施には消極的でした.何故かというと,FW  109に搭載可能の爆弾は最大1000 kgであり,しかも,仮にそれを標的の艦艇近くで投下しても,ランゲが望んでいたように,確実に標的を撃沈させるためにそれらの直下で爆発させる(後に説明するライヒェンベルグによる攻撃方法.)ことは不可能だったからです.なお,こうした戦法が,何故,自己犠牲攻撃と呼ばれたかというと,敵艦艇の至近距離で爆弾を投下するためには,限りなく垂直に近い角度で急降下を行い投下する必要があるのですが,その場合,それらの艦艇との激突は避けられないからでした.

結局,この作戦は実行には移されませんでした.パリの北方に用意されるはずのフォッケ・ヴルフ11機と搭載可能な特殊爆弾の用意が間に合わなかったこともその理由でしたが,最終的に,このあまりにも成功の確率が低い作戦の実施を拒否したのは,ランゲ自身でした.*4) ランゲのこうした姿勢に対し,上層部から以下の文言を含む自己犠牲兵員の義務を記した通達が届きました.
,,... der Totaleinsatz ist nicht mehr auf eine bestimmte Waffe abgestimmt, sondern gilt für jeden Einsatz, zu dem der Mann befohlen wird ..."*5)
"Totaleinsatz"という言葉は,当時,自己犠牲("Selbstopfer")と同義語として用いられましたが,「全的挺身」とでも訳せましょうか.つまり,軍の上層部によると,特殊部隊に求められる全的挺身とは,特定の兵器の使用時にのみ求められるものではなく,すべての作戦において求められるとしたのです.言い方を換えれば,どのような攻撃方法による作戦であろうと,その実施の命令を受けたら,自らの命を犠牲にすることを拒否してはならないということです.これは,ランゲたちの意向を完全に無視したものでした.彼らが望んだのは,自らの命と引き換えに敵戦力に対し確実に甚大な損害を与えることであり,そのためには,その目的を最も高い確率で叶えることができる兵器の使用が前提条件だったからです.*6) そして,その兵器こそがパルスジェットエンジンを搭載した無人飛行爆弾Fieseler Fi 103(V-1)に操縦席を設けたライヒェンベルグ(Reichenberg Re)だったのです.

1944年8月25日,デーデルシュトルフにいたランゲたちは,KG 200のランデル・ゼンパー少佐(Major Randel-Semper)の訪問を受けます.少佐は,ランゲ達に空軍上層部の意向として上記文言を含む誓約書への署名を求め,同時に,ランゲが望む兵器の開発及び製造は困難である旨も伝えました.最初は躊躇していた彼らでしたが,相談の結果,最後には署名に応じました.しかし,そのとき,ランゲが隊長の職から解かれたことも知ったのでした.上官の命令に対する複数回に及ぶ不服従がその理由でした.*7)

こうしたランゲや同僚たちの姿勢は,最後迄目的と手段を明確に区別し,自らが定義した両者の意味を変えなかった結果と言えます.ここに体当り攻撃で死ぬという手段が目的化してしまった日本との決定的な違いが見えます.元々,ランゲが体当り攻撃を思いついたのは,1940年5月10日以降従事していた兵員や物資の輸送機(DFS 230グライダー)のパイロットだったときです.彼は,多くの同僚たちが,操縦するグライダーとともに敵戦闘機の餌食になるのを見て,いたたまれない気持ちになり,どうせ命を失うのであれば,敵に対して,できるだけ大きな損害を与えたいという願いから体当り攻撃の構想を思いついたのでした.*8)

以上のことを念頭に置きつつ,日本海軍の後に「桜花」と呼称された有人誘導飛行爆弾大⃝(○の中に大)部品の最初の実戦参加の際のエピソードを知ると,当時の指揮官の思考が,如何に無思慮および無謀なものであり,すなわち非合理によって支配されていたかが判ります.長文ですが,冒頭で引用した内藤氏の著書から引用します.
 本土各地を荒しまわり、硫黄島上陸軍の援護にあたったアメリカ機動部隊は、いったんウルシー泊地に帰投したのち、三月一八日、ふたたび土佐沖にあらわれ、一九日にかけて延べ二五一〇機をくりだし、九州、四国、中国、阪神の各基地に対して、大規模な反覆攻撃をかけてきた。 一九日には、呉地区もねらわれて、港内に集結していた残存艦艇の多くが損傷をうけた。沈没は敷設艦三隻だけですんだものの、 "伊勢″ "日向″ ″龍鳳″ ″大淀″などにいたっては、実質的に戦聞能力を完全に失ってしまった。
 中央では、錬成途上にある航空兵力を温存する方針であったが、九州に展開していた第五艦隊の宇垣指令長官は、
「地上に於て喰わるるに忍びず、加うるに南西方面に対する攻撃の前提ならずと誰か判定し得ん」(『戦藻録』)として、部隊の全力を投入する。
 当時(三月一日規在)の航空兵力は、作戦の主力となる第五航空艦隊が約五二〇機、これに第一航空艦隊(台湾方面)の約八五機、第三航中艦隊(関東方面)の約五八〇機をあわせると、合計一一八五機と推定される)航空本部の整備計画に対して、充足率は約六割であった。このほか、予備部隊の第一〇航空艦隊には、約三六〇〇機(実用機約一一〇〇機、練習機約二五〇〇機)が準備されていたが、これは当面の迎撃には使えなかった。
 第五航中艦隊は、三月一八日から二一日まで、連日にわたって延べ六八五機を出撃させ、未帰還機一七二機の犠牲をあげながら、敵機動部隊に襲いかかり、空母四隻を撃沈したと判断された(アメリカ側資料では撃破)。出撃機のうち、約四分の一にあたる一七七機は特攻出撃であり、その一五五機が未帰還となっている。
 最終攻撃には、人間爆弾″桜花″の「神雷部隊」(指揮官、野中五郎少佐)も初出撃することとなり、午前一一時三五分、"一式睦攻″ 一五機がそれぞれ″桜花″をかかえて、鹿屋基地を離陸した。敵機動部隊上空に到達すれば、特攻隊員が″桜花″に乗り移り、操縦桿のボタンを押して離脱、身ぐるみ突入してゆく手筈であった。しかし、″桜花"作戦については、母機の空気抵抗が主翼の防弾ゴムや″桜化″のために増大して、どうしても鈍速にならざるを得ず、その結果、目標に到達する前に親子もろとも撃墜されることが懸念されていた。航空技術廠の廠長、和田操中将は、用兵側に対して、戦闘機の護衛が十分でなければ成功の公算がうすいことを強く主張していたともいう。案の定、″桜花"の初陣は、この懸念を裏書きしてしまった。第五航空艦隊の宇垣司令長官は、『戦藻録』のなかで、その日の経緯をつぎのように記している。
 「見送りの為飛行場に至りさすがに心配顔なる岡村指令を激励す。
 神雷部隊は陸攻一八(桜花搭載一六)一一三五鹿屋基地を進発せり。桜花隊員の白鉢巻滑走中の一機に瞭然と限に入る。成功してくれと祈る。然るに五十五も出るはずの援護戦闘機は整備完からずして三十機に過ぎず一方索敵続行の結果は空母三、二、二の三群集結隊形にて南西に航するを報じ最初の考より勢力猶大なるを知る。南大東島を攻撃制圧したる報もあり。壕内作戦室にて敵発見。桜花部隊の電波を耳をそばだてて待つこと久しきも否として声無し。今や燃料の心配を来し、敵を見ざれば南大東島へ行けと令したるも之亦何等応答するなし。其の内援護戦闘機の一部帰着し悲痛なる報告を致せり。即一四二〇頃敵艦隊との推定距離五、六十海里に於いて敵グラマン約五十機の邀撃を受け僅々十数分にして全滅の悲運に会せりと。嗚呼ー(三月二一日、水曜日、晴)」
 このとき、岡村基春指令は、援護機五五機でも足りないと進言し、横井俊之参謀長は、攻撃中止を示唆したが、宇垣司令長官は、「この情況で使えないものなら、"桜花”は使うときがない」と、岡村指令の肩をたたきながら、決行を命じたという(猪口、中島共著『神風特別攻撃隊』河出書房新社刊)。*9)
最後の,『神風特別攻撃隊』から引用された桜花による攻撃の決行理由を述べた宇垣司令長官の言葉「 この情況で使えないものなら、"桜花”は使うときがない」に,この異常な攻撃用の兵器を使うこと自体が目的化されていたことが明確に示されています.開発の命令を受けた技術者たちが.自らのうちにわき上がって来る「非科学的」,「技術に対する冒涜」といったいきどおりの言葉を封じ込めて開発した特攻兵機桜花は,その乗員および搬送機の乗員と共に非合理性によって支配されていた用兵側(兵器を用いる側)の姿勢の犠牲となってしまったと言えるでしょう.*10)

では,そもそも,こうした体当り攻撃の伝統が古くから日本軍に存在したかというと,答えは否です.冒頭で引用した内藤氏の言葉でも判るように,決死が必死に替わったのは敗戦色が濃厚になったころからで,例えば,真珠湾攻撃の際に使用された特殊潜航艇甲標的は,確率は僅かであったものの生還は前提からはずされていませんでした.以下,内藤氏の著書からの引用です.
それまで、戦間の過程で結果的に体当りに至った例は少なくなかったが、はじめから体当りを前提とした攻撃は、あまりにも悲愴であり、あまりにも異常であった。この種の攻撃をのちに「特別攻撃」、略して「特攻」と呼びならわすようになるが、同じ呼称が、すでに真珠湾、シドニー港、ディエゴスワレス港を攻撃した″甲標的″にも用いられている。しかし、 ″甲標的″の場合は、搭載母艦に帰投できるように設計してあるので、「決死」の特攻であることは間違いないにしても、けっして「必死」の特攻ではなかった。特攻という言葉が「決死」から「必死」へと転換しはじめたのは、南東方面の敗色が濃くなった昭和一八年中期ごろといわれる。*11)
具体的には,最初の神風特別攻撃隊の組織が在比第一航空艦隊司令長官大西瀧次郎中将によって決断されたのは,1944年10月20日のことでした.その背景として内藤氏は,以下の事情を紹介しています.
基地航空部隊も、残存機をあげて、水上部隊のなぐりこみに呼応したが、劣勢は如何ともしがたかった。とくに、在フィリビンの第一航空艦隊は、二〇日現在の実働兵力がわずか二九機にすぎず、まともな攻撃法では、単なる消耗に終わることはあきらかであった。どうせ戦死するものなら、赫々たる戦果をあげさせてやりたい。司令長官の大西瀧次郎中将(一〇月五日、寺岡謹平中将と交代)は、「外道の戦法」と承知しながら、一〇月二〇日、休当り攻撃以外に道はないと決断して、いわゆる「神風特別攻撃隊」の編成にふみきった。*12)
ドイツに於いても事情は同じで,例えば,1944の2月,ランゲと同志の女性パイロット,ハンナ・ライチ(Hanna Reitsch)からの要請を受け,ナチス党ニーダーシュレージエン支部の代表Karl Hankeは,P 55計画と呼ばれる,双胴の発動機付き航空機の2つの胴体の間に有人誘導滑空爆弾を搭載した形状の兵器の開発および実戦投入について,軍備大臣のAlbert Speer及び航空省の総合航空機材局(Generalluftzeugmeister)のErhard Milchに承認を求めましたが,二人はそれを拒否しました.ドイツでも,元々必死攻撃といっても,当該兵器に必ず最後の瞬間に脱出できる装置を設置すべきという考えが一般的であり,激突する瞬間までコックピットに留まるというのは,"unsoldatisch"(まさに大西中将の言う「外道の戦法」),または"undeutsch"(非ドイツ的)とされていたのです.(日本海軍で,こうした考えを敗戦迄持ち続けてた人の中に,例えば井上成美提督がいます.*13))つまり,ランゲたちが構想した体当り攻撃は,言わば異端だったのです.そして,日本ではこの異端が,敗戦間際にいともたやすく正統に取って代わるのですが,ドイツでは,同様のことはおきませんでした.後に説明しますが,ライヒェンベルグの実戦投入が見送られた最大の原因は,1944年11月15日付でKG 200の司令官に就任したヴェルナー・バウムバッハ(Werner Baumbach)の一貫した体当り攻撃非容認の姿勢だったのです.*14) さらに,それに加えるならば,体当り攻撃専門の飛行中隊5. /KG 200は,ランゲとその同志たちによって組織され,後に軍によって追認されたものであり,日本のように軍による名目上は志願者の募集とされたものの実質的な強制参加は,ドイツ軍(Wehrmacht)においては最後迄行われませんでした.*15) なお,親衛隊内部に於いても同様の部隊が組織されたようですが,その経緯の詳細は知りません.*16)

なお,体当り攻撃については,ヒットラーも当初,積極的な支持を示すことはありませんでした.1944年2月28日,ハンナ・ライチは女性で初めて1級鉄十字勲章に叙されましたが,その際にヒットラーに直接会う機会を得ました.そして,彼女は,自分やランゲたちが構想した体当り攻撃の必要性をヒトラーに説いたのですが,彼は,まもなく実用化されようとしていたジェット戦闘機や同爆撃機について熱弁を振るうのみでライチの言葉にはほとんど耳をかそうとしませんでした.*17) ヒットラーが最終的に体当り攻撃に対し同意したのは,1944年5月22日,23日に行われた軍備大臣のSpeerと親衛隊との会談においてです.以下,その会談の結果を記したプロトコールの一部です.ヒトラーが,それまでの姿勢を変えて体当り攻撃("Totaleinsatz")実施の必要性を認めたことが述べられていますが,それも会談の同席者たちの,ドイツが追いつめられた情況を打破するには体当り攻撃しか方法は無いという強い意見を受けてのことだったのが判ります.
,,Den Fuehrer erneut auf die Wichtigkeit der Angriffe gegen die Stromversorgung Moskau, obere Wolga aufmerksam gemacht und gleichzeitig darum gebeten, dass die Aufklaerung des Ural-Raumes durchgefuehrt wird. Dem Fuehrer weiter davon Mitteilung gemacht, dass sowohl bei der Luftwaffe als auch bei der Waffen-SS eine groessere Anzahl von Maennern fuer einen totalen Einsatz zur Verfuegung stehen wuerden und dass voraussichtlich bei der geringen Treffsicherheit des Korps Meister alle E-Werke mit Sicherheit nur durch Totaleinsatz zerstoert werden koennten. Der Fuehrer ist im Gegensatz zu seiner bisherigen Auffassung der Meinung, dass dieser Totaleinsatz vorbereitet werden muesse. Anschliessend an die Besprechung mit dem Fuehrer hatte ich eine Ruecksprache mit K o r t e n (sic), dem ich den Standpunkt des Fuehrers, die Notwendigkeit des Totaleinsatzes und die Aufklaerung des Ural erneut vorstellte und der sofortige Unterstuetzung zusagte." *18)
ここで,桜花とライヒェンベルグの根本的な違いを2つだけ挙げておきます.1つめは性能に関するもので,後者の前者に比べ桁違いに長い航続距離です.桜花には,ロケットエンジンが3本搭載されていましたが,それぞれの燃焼時間はわずか9秒.最大でも27秒しか自前の推進力で飛行することはできません.そのため,搬送機である三菱一式陸上攻撃機は,標的の至近距離迄この重たい兵器を運ぶ必要がありました.一方,ライヒェンベルグのプラットフォームはV- 1(Fieseler Fi 103 A-1)のそれなのでパルスジェットエンジンを搭載しており,連続で25分間の飛行が可能だったのです.巡航速度は,実戦用のRe 4a(標的の種類によって4つのバリアントが存在)では,およそ560 km/h(Fe 103は580 km/h),最高速度は620 km/hでした.*19)(巡航速度については,648 km/hの桜花のほうが勝っていました.)ライヒェンベルグの搬送機は,最終的にHe 111 H-22が選定されましたが,やや一式陸上攻撃機に劣るものの,ほぼ同様の性能を持った爆撃機でした.

2つめは用兵上の違いで,桜花は単に水上標的に向かって急降下突入するのみだったのと異なり,ライヒェンベルグの水上標的用バリアントは,標的の間近で着水し,その後,爆弾を搭載した前部が離脱し敵艦艇の直下へ潜り込み爆発するというものでした.*20) 突入速度は,桜花が1040 km/h,ライヒェンベルグは900 km/hが想定されていました.

最後に,ライヒェンベルグの実戦投入が実現しなかった根本的な理由は,以下のことにつきます.すなわち,ドイツ軍全体として非生還を前提とする体当り攻撃に対し,統一見解が形成されなかったことです.敗戦まで,上層部においても現場でも異端の攻撃法という意見を持つ人が少なくなかったのです.すでに述べたように現場の司令官で,最終的にライヒェンベルグ計画の中止を決定したヴェルナー・バウムバッハもその一人でした.彼が,その決断を下したのは,1945年3月5日訓練用のライヒェンベルグ(Re 3WNr. 10 *21))を用いた試験飛行が行われた際,事故でテストパイロットのヴァルター・シュタルバティ少尉が殉職したのを受けてのことでした.*22) なお,こうした認識の相違は,結果的にライヒェンベルグおよびその前に計画されたP 55といった体当り攻撃専用の兵器の開発に遅れを生じさせたことは言う迄もありません.そして,ようやく実戦用ライヒェンベルグが完成したころには,それを搬送できるハインケル爆撃機も殆ど残っていないという情況だったのです.

最後に個人的な所感を述べさせていただくと,結果的に体当り攻撃という異端の戦法が正統の戦法へといとも簡単に変化してしまった日本ですが,以上の歴史を眺めて見て思い出したのは,日露戦争における日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利した連合艦隊の東郷平八郎司令長官の連合艦隊解散の辞の中の次の言葉です.
而して武力なるものは艦船兵器等のみにあらずして、之を活用する無形の実力にあり。 百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。
この言葉を知って感動したルーズベルト大統領は,アメリカ軍の指揮官たちに紹介したそうですが,以下がそのときの上記文の英訳です.
This strength does not consist solely in ships and armament; it consist also in immaterial ability to utilize such agents. When we understand that one gun which scores a hundred per cent. of hits is a match for a hundred of the enemy's guns each of which scores only one per cent.
何か,この辺りに合理性を欠いた異端が正統にすりかわる萌芽が見えるように思うのですが,これをお読みいただいた方はどのように思われるでしょうか.

これからは雑談です.昨夜,TBSラジオのニュース番組を聴いていたら,石原慎太郎元東京都知事のインタビューの模様が流れていました.その中で石原氏は,やたらにヒットラーを賞賛していましたが,あの方は『我が闘争』を読んでおられると思うのですが,その中の日本人についてのコメントを忘れているようです.とはいえ,もし戦争中に読まれているのであれば,当該箇所は削除されているので(日本語訳では),ご存じないのかもしれません.私は,ヒットラーは,やたらにアーリア人なるものの優秀さのみを讃え,日本人を創造性のない民族としてバカにしているので嫌いです.(その腹立たしく思える文章をこちらのページに載せました.なお,日本語訳は馬鹿々々しくて読む気にならないため,英訳とドイツ語原文のみ載せてあります.)*23)




*1) 内藤初穂『海軍技術戦記』,東京,図書出版社,1976年,p206
*2) Ibid., p234
*3) Jack, U. W., "Reichenberg Die bemannte Selbstopfer-Bombe" in FliegerRevue X 40,p37
*4) Ibid., p29
*5) Ibid., p30
*6) Idem.
*7) Ibid., pp26f, 32
*8) Ibid., p19
*9) 内藤『海軍...』,pp228f
*10) Ibid., pp207f
*11) Ibid., p205

*12) Ibid., p215
*13) 阿川弘之『米内光政 下』,東京,新潮社,1978年,p141
*14) Jack, "Reichenberg...",pp32, 35f

*15) Ibid., pp26ff
*16) Ibid., pp27ff; 1943年9月,監禁中のムソリー二を救出した親衛隊のOtto Skorzny少佐は,1944年4月,5月頃,日本海軍が開発した④金物(後の「震洋」)⑥金物(後の「回天」)と類似の兵器を用いた戦法を構想していたようです.それでも,標的へ突入する直前に脱出することを想定していたようですが.
*17) Ibid., p24
*18) Ibid., pp27f
*19) Ibid., p33; なお,一式陸上攻撃機桜花,およびHe 111のデータは,ぞれぞれWikipediaから引用.
*20) Ibid., pp22, 29
*21) Ibid., pp35f

*22) パルスジェットエンジン搭載 練習用の複座の機材.前方のコックピットは教官用.Ibid., pp25, 33
*23) 個人的に,ヒトラーが述べているように,日本人が創造性を欠く民族(文化の創造者とはなりえない民族)であるとは微塵も思いません.(この点については,ホイジンガが『朝の影のなかに』(中公文庫)の40ページ以降で述べている文化の定義が参考になります.)国内外の先人達の業績を土台にして,さらに良いもの,人類の幸福のために か目的がぼやけてしまい,手段のみが一人歩きしてしまう,あるいは礼賛の対象となってしまうことは往々にしてあるようです.そのひとつの例として挙げたいのは,莫大な予算を投じて行われている宇宙探査です.重要なプロジェクトだとは思うのですが,その目的が今ひとつ明確でない印象を持っています.もちろん,それに携わっている方達には明確であるわけですが,どうもニュースメディアは,手段でしかない探査機の劇的な帰還などに報道の力点をおいてしまい,その目的を正確,且つ詳細に伝えてはいないように思うのです.つまり,そのプロジェクトの意義について考える材料を提供していないように思うのです.仮に生命の起源を探る上で重要であると言った場合,当然,そのための費用対効果が議論されるべきであることは言う迄もありません.最近,宇宙の誕生時に大量に放出され,また,現在でも銀河の中央部で放出されているガンマー線の影響により宇宙に多くの知的生命体が存在する可能性は低いという学説が発表されていますが,目的や意義が明確であれば,こうした最新の研究結果を踏まえてそれについて議論し,必要とあれば計画を修正するということも可能になるはずです.しかし,どうも,そういった姿勢をとろうとすると,野暮天であるとか,夢をぶちこわすとかといった批判の対象となってしまう雰囲気を感じます.このように,宇宙探査などのプロジェクトは,枕詞のように夢や希望という言葉によって修飾されますが,そうした言辞こそが,私たちの精神風土が手段の目的化を容易にしてしまう環境であることを表しているのかもしれません.

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