Thursday 18 December 2014

第二次世界大戦中の兵器開発にみるドイツと日本の相違 - 無人誘導爆弾を巡って

結論から言うと,日本の″奮竜″は,B29迎撃用に構想された画期的な自動追尾式の地対空ミサイルで,開発が遅れたため実戦投入には至りませんでしたが,ドイツで水上標的用に開発された目視による無線遠隔操縦方式の爆弾"PC 1400 Fritz X"および"Henschel Hs 293"は実戦投入されています.特に,前者にはイタリアの戦艦Romaを撃沈した記録が残っています.なお,装甲の厚い艦艇攻撃用で装填爆薬量1 tのFritz Xには推進装置は搭載されていませんでしたが,商船攻撃用で装填爆薬量500 kgのHs 293には推進装置が搭載されていました.

まず,″奮竜″の開発経緯を内藤初穂氏著『海軍技術戦記』の中にみてゆきましょう.
「捷号作戦」前夜の航空機開発を語るとき、見逃すわけにはいかないものが、もう一つあるそれは、後に″奮竜″とよばれることになった誘導弾、今でいえば、対空ミサイルである。
 その風洞試験が、艦政本部第四部から航空技術廠に依頼され、科学部の私のところにまわってきたのは、″秋水″の試験がたけなわのころだった。″秋水″と同じく、″B29″迎撃用とされていたが、″秋水″とは違って、無人で目標をとらえるという十文字翼つきの飛翔体であった。まず、レーダーで目標を追尾して、未来位置をわりだし、その方同をねらって、電波のビームを放つ。このビーム上に飛翔体を乗せる。飛翔休はロケットを噴射しながらビームに沿って飛んでいくが、途中でビームからはずれかけると、自分で自動的に操舵してもとに戻る。飛潮体の動きもレ―ダーでとらえていき、目標と重なった瞬問、信号を送って起爆させる。目標からはずれそうになれは、ビームをよって、飛翔体を誘導する。すでに六月ごろ、新聞紙上に「火のかたまりのようなもの」が,轟音をを発してイギリス本土に飛来したという記事がでていた。この"V一号"は固定した目標に向かって突進していくものらしかったが、十文字翼飛期体は動く目標でもとらえ得るはずであった。
 十文字翼は、飛翔体の位置を二次元的にとらえるためのものである。計画によれば、とりあえず、火薬ロケット式の三式噴進弾に十文字翼と操縦装置とをとりつけて、基礎データをつかみ、本番では、″秋水″と同じく、○呂(○の中に呂)液で推進する。薬液を燃料室に噴きだすために、″秋水″ではポンプの設計に苦労していたが、この飛翔体の場合は″秋水″ほどの薬液を必要としないから、圧搾窒素ボンベを積み、その圧力で押しだすだけでよかった。
 多くの開発計画が特攻兵器に傾斜していったなかにあって、この誘導弾計画は、特攻隊員の生命を機械におきかえるはずのものであった。しかも、その発想が艦艇関係者によって実現に移されようとしていたことは、航空関係者にとって頂門の一針と受けとられるべきものであった。しかし、当時の航空技術廠は、この誘導弾に対して、つきあい程度の態度しかしめさない雰囲気だった。発想者の古田隆技術少佐(昭一一、九大卒、造船)自身も、当時を回顧して、つぎのように書いている(『造船官の記録』)。
 「……十文字翼とした場合に操縦性能がどんなものになるか、参考とすべき前例は情無であった。
 横須賀の航空技術廠の風洞が唯一の頼みであったが、空技廠では有人邀撃ロケット戦闘機″秋水″に全力をあげていた。同じくB29の”の邀撃をめざして、人が乗らぬ自動迫尾などの夢のような話に、一日たりとも風洞を使わせることはできないという態度であった。だが捨てる神があれは拾う神があるとか、私のクラスの造兵科の機体屋(科学部の左冶木清一技術少佐)のお蔭で、ようやく引き受けてもらうことになって、本格的な風洞試験の段取りができ上がった」
 風洞試験には、発案者の吉田技術少佐も姿をみせた。その態度のすみずみから、憑かれたようなひたむきさがにじみでていて、私は嫉妬めいたものさえ感じた.
 「約一米半の磨き上げられた十文字翼の縮尺棋型が風洞に吊ろされて、轟々と響く風路で操舵時の諸性能が解明されていった。以前に持ちまわった木製の模型が、今日このように変貌して、風洞で実験されている。眼前の姿を見ると、いつの間にか、これか空を自在に飛んでいるような錯覚にとらわれる。主翼や尾翼の操縦翼の修正などが厳密に行なわれてゆく」
 吉田技術少佐は、ミッドウェイ海戦当時、呉工廠造船実験部にあって、すでに自動操縦装置と取りくみ始めていたが、昭和一七年一〇月、艦政本部に転勤したのち、誘導弾の構想をかため、艦政本部や技術研究所の上司に開発許可を請願してまわった。そのとき、説得材料として持ちまわったのが、文中に書いている「木製の模型」である。
 古田氏の語るところによれば、当時の反応は、「人間自身が操作しないような兵器は、とても信頼できない」というほどの状況であったようである。今から考えると、とても想像もつかないが、用兵側にかぎらず、技術側でさえ、そうであったという。
 ともかくも、お百度を踏んで、何とか試作の許可をとりつけ、機体関係の設計を東京帝国大学工学部の谷一郎教授に依頼するいっぼう、噴進薬、自動操縦装置などについても、内外の権威者を動員して、海のものとも山のものともわからなかったものに形をつけ、ようやく風洞試験にまでこぎつけたのである。
 風洞試験から数日後、私は測定結果を整理して、技術研究所の打ち合わせ会議に届けた。
 「席上で久しぶりに大学の恩師、谷一郎先生にお会いした。なつかしかった。試験の結果は私の計算通りでしたと丁寧に礼を言われ、各担当部員と討論を重ねられた。言葉ひとつひとつを考えるようにして話される、その口ぶりからも、黒板に端正な図を画かれてゆく、その手つきからも、学生時代の教室の一駒一駒が思いだされた。あのような平和な秋のあったことが、人ごとのように思えてならなかった」『プロモート』22号、日本工房)*1)
次にドイツで実用化された無人誘導爆弾"Fritz X"及び"Hs 293"のケースをみてゆきます.参考にしたのは,"FliegerRevue X"40号に掲載されたUwe W. Jack氏による記事"Reichenberg - die bemannte Selbstopfer-Bombe"ですが,これら2つの誘導爆弾についてWikipediaが日本語の説明を提供しているので,詳しくはそちらをご覧下さい.以下,簡単な説明です.

まず,技術面についてですが,誘導の仕組みは,どちらも目視による無線誘導です.違いについて言うと,Fritz Xには推進装置は搭載されていませんでしたが,Hs 293はロケットエンジンが搭載されていました.そして,装填された爆薬の量は,前者がおよそ1 t,後者が500 kg,また,投下可能距離は,標的(艦艇)から前者が10 km,後者が12 kmでした.なお,標的となる艦船の種類は,前者が装甲の厚い戦艦など,そして,後者が商船とされました.これら2つの爆弾は,1942年以降,とりわけ誘導装置に改良が重ねられ,1943年夏には実戦配備されるに至りました.なお,Fritz XはDr Max Kramerによって,Hs 293はHerbert Wagnerによってそれぞれ開発された兵器です.

次に,戦艦ローマ撃沈までの経緯です.1943年,6月には南部戦線におけるドイツ軍の劣勢は明らかでした.ヒトラーの盟友ムソリーには辞任に追い込まれ,逮捕されていました.シシリア島は,すでに英米軍によって占領され,連合軍によるイタリア本土上陸が秒読み段階に来ていましたが,新たに発足したイタリアのパドリオ政権が連合軍との休戦交渉を開始し,9月8日には休戦が宣言されました.その夜,英米軍の武装解除の要求に応じて,イタリア海軍の艦艇の大部分が,旗艦である戦艦Roma上のCarlo Bergamini提督に率いられ,La Speziaから南西方向へ移動を開始しました.この動きは,直ちにドイツ軍の知るところとなり,フランス南部のIstres駐留の第100飛行爆撃隊第3部隊に緊急出撃が命じられ,各機1つのFritz Xが搭載された複数のDornier Do 217 K-2が離陸したのでした.そして,そのうちのKlaus Deumling搭乗機が,ジグザク航走を続けるローマの上空およそ7000 mからFritz Xを投下したところ,艦底まで突き抜け直下の海中で爆発,同艦の操舵機能を破壊しました.続いてKurt Steinborn搭乗機が投下した2つ目が艦橋と前部砲塔との間(弾薬庫)に命中.この2つ目の爆発の直後,艦は2つに裂け沈没し,Bergamini提督を含む乗組員1254名も運命を共にしたのでした.そして,両機は無傷で基地に戻りました.

斯くも晴れがましい結果となったFritz Xの初陣ですが,そのあとは,あまり実戦で用いられることはありませんでした.その理由は,以下にご紹介する1943年の秋に行われた当時の戦闘機部隊の司令官アドルフ・ガラント(Adolf Galland)と爆撃機部隊の司令官ヴェルナー・バウムバッハ(Werner Baumbach)の話し合いの内容から判るように,当時の追いつめられたドイツの情況だったのです.なお,後者は以前に公開したポストでも言及していますが,日本の神風特別攻撃隊のような体当り攻撃の採用には一貫して反対の姿勢を示し,最終的に体当り攻撃専用兵器ライヒェンベルグ(Reichenberg Re)実戦投入のプロジェクトを中止させた人物です.話し合いに臨んだ二人の将軍は,連合軍の大陸上陸は,もはや阻止出来ないという認識で一致していました.ただ,すでに無条件降伏を要求している連合軍との交渉による停戦を実現するには,なんとしても優勢な軍事力を維持する必要がありました.1943年7月27日の夜,ゴモラ作戦という名の下に実施された英軍機の空爆の標的となったハンブルグの居住地区において30,000を超す民間人が犠牲となっており,それ以降,ドイツは,まさに背水の陣に追いやられていたのです.ドイツ軍にとって自国の制空権の脆弱化は,連合軍の地上部隊の迅速な上陸を可能にしてしまうものでした.そして,同時に,爆撃によりドイツの軍備も着実に破壊されつつあったのです.こうした情況を踏まえ,二人は,Fritz Xの戦果をさらに上のレベルへ報告するか迷いました.もし,この誘導爆弾の華々しい戦果を報告したなら,恐らく上層部は爆撃機の製造を優先させるだろう.しかし,今,必要なのは,少なくとも自国の制空権を回復させる為に,戦闘機であるという認識でも二人は一致していました.そこで,彼らは,今回の報告書には当該の戦果は誘導爆弾によるものとは記さず,単に特殊爆弾("spezielle Bomben")によるものとしたのでした.そのため,Fritz Xの威力は,その後,指導者層において殆ど知られることはなかったのです.*2)

つまり,日本においては,開発側においても用兵側においても,共通して人間が操縦しないものはあてにならないという固定概念があったため,開発が進まなかった.しかし,ドイツに於いては,開発され,実戦投入もされたものの,そのときはすでに戦況を巻き返すことができる段階ではなかったと言えます.少なくとも当時の実戦部隊の司令官たちの判断はそうだったようです.

最後に,Fritz Xの卓越した命中率を示すデータを紹介しておきます.Fritz Xを搭載した爆撃機で構成された第100航空爆撃隊による報告に記載されていたものです.それによると,水上標的に対し投下された215発のFritz Xのうち,66発が命中,40発が至近着弾,さらに諸事情により目視による確認はできなかったものの38発が何等かの損害を生じさせ,70発は標的上を通過したとされています.つまり,命中率は37%ということになります.(打率が4割近いというのは,メジャーリーガーの中にもそれほどいないと思います.)これが如何に驚異的なものであるか知る為に,1941年にフランスのブレスト港に停泊中の独海軍のGneisenauScharnhorst(両方とも後の大和型にシルエットが似ている.)に対し実施された英軍機による爆撃のデータを挙げると,その際の命中率は2870発に1発でした.つまり0.069%となります.(恐らく,水平爆撃によるもの.急降下爆撃だったならば,この数値は多少は改善されていたかもしれません.)Fritz Xの高い命中率を十分に認識していた技術者達は,1944年8月15日に誘導爆弾の早急な追加配備を嘆願する内容の書翰を親衛隊長ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)に送ります.以下,当該書翰の一部です.*3)
,,Die ungeheure Bedeutung der ferngelenkten Bomben für die deutsche Kriegsführung ist auch von den heutigen Männern in keiner Weise erkannt worden. Die Einsatzergebnisse, die von den am Feind abgeworfenen Bomben 40 Prozent Volltreffer verzeichnen, trotzdem diese Waffe erst ganz jung im Einsatz steht und trotzdem diese Erfolge unter schwierigen Einsatzbedingungen erzielt wurden, sind von den entscheidenden Männern nicht zur Kenntnis genommen worden. Der Befehl des Reichsmarschalls, jede weitere Beschäftigung mit den ferngelenkten Körpern sofort einzustellen, wurde in der Form ausgeführt, dass auch Bomben, die schon zu 80 Prozent fertig waren, zur Verschrottung bestimmt wurden, ...". *4)
この中で,技術者達は,40%にものぼるFritz Xの命中率を指導者達は認識しようとしないこと,そして,国家元帥(ヘルマン・ゲーリング)の遠隔誘導爆弾の製造中止の命令を受け,80%迄完成していた爆弾もすべて廃棄されることになったことを嘆いています.ゲーリングの命令は,ヒトラーの暗殺未遂事件を受け,こうした兵器が同様の目的で使用されるのを恐れたために下されたものでしたが,これもFritz Xの大規模な実戦投入を妨げた要因のひとつと言えます.

以下は,歴史における"If"ですが,確かに日本の技術者たちが開発しようとした奮竜は,当時としては世界に類のない画期的な兵器だったと思いますが,Fritz Xのような目視による遠隔操縦方式の爆弾であれば,少なくとも技術的には,日本でも十分に実戦投入にこぎつけられたのではないかと思います.そうなっていたのであれば,老朽化した零戦や桜花を用いた無謀で極めて非合理な体当り攻撃は行う必要はなかったのではないないかと思えるのです.*5) 必要であれば,同盟国のドイツから技術支援を受けることも可能だったはずです.実際,潜水艦製造など,様々な兵器開発において,日本はドイツから技術を借用しています.*6) 航空機の分野ではメッサーシュミット Me 163 Bからヒントを得て,"秋水"と命名されたロケット戦闘機の開発も試みられています.

以前のポストで,日本では敗戦間際に「死が目的化してしまった」と書きましたが,同時に,戦果はどうであろうと命を失うこと自体が兵員の使命であるといういうこの思想を深く国民の心に植え付けるために用いられた《軍神》という存在を製造するということも目的化していたと言えるかもしれません.そうした軍神製造に,いつしか当初の目的から離れ,アイデオロジカル,あるいはドグマティカルな支えを提供することになってしまったのが靖国神社と言えるのではないでしょうか.つまり,この神社の体裁をとっている宗教施設は天皇および国家(あるいは,国体)のための死をプロモートする装置と化してしまったのではないかと.

ところで,こうしたドイツの誘導爆弾の技術は,今日の誘導ミサイルの技術の基礎となったと言われますが,それは,ジェット機についても同様です.詳しくは,FliegerRevue X 40号の記事"Messerschmitt-Projekte"をご覧下さい.





*1) 内藤初穂『海軍技術戦記』, 東京, 図書出版社, 1976, pp210ff;なお、内藤氏は、『機密兵器奮竜』という本も著されています。(東京、図書出版社、1979)
*2) Jack, U. W., "Reichenberg Die bemannte Selbstopfer-Bombe" in FliegerRevue X 40,pp18f
*3) Ibid., p17
*4) Idem.
*5) 前掲の内藤氏の著作に次の文章がありますが,それに基づいて特攻機の命中率を計算すると0.02984%になります.

1945年4月の「菊水作戦」発動以降の体当り攻撃に関する以下のデータを挙げています.中央の方針は本土決戦へ切りかわってしまったが、九州方面の航空部隊は、水上偵察機、練習機″白菊″までくりだして、「菊水一〇号作戦」までの特攻出撃をつづけ、けっきょく、海軍機延べ八五八六機、陸軍機を含めると、一万機以上が投入される。そして、沖縄をめぐる戦果は、沈没二四隻、損傷三四九隻(アメリカ側資料)、その八〇%は、特攻機によるものと推定された。
内藤, 『海軍...』p234
話は少し飛躍しますが,日本軍の非合理性は,鈴木眞哉氏の『刀と首取り 戦国合戦異説』の中の次の記述によっても明らかにされています.長文ですが,引用します.

 江戸時代人ことに武士たちが争う場合、たしかに刀はもっとも重要な武器であった。甲冑を着けて戦うわけではなく、弓・鉄砲はおろか、槍・薙刀さえそうそうは持ち出せない状況であれば、刀だって役に立つのは当たり前である。たくさんの剣術流派が生まれ、いわゆる剣豪たちが輩出したのも不思議ではない。
 幕末の動乱期となっても、最初のうちは刀がかなり活躍した。万延一年(一八六〇)の桜田門外の変では、襲撃側がピストル一挺を用意していたというが、主武器は刀であったし、文久二年(一八六二)の坂下門の変なども同様である。翌文久三年の天誅組騒動、元治一年(一八六四)の水戸藩の内訌などの記録を見ていても、刀で切った切られたという話が驚くほど出てくる。
 この元治一年六月には、有名な池田屋騒動があり、クーデターの準備に集まった尊壌派の連中の中へ近藤勇ら新選組の面々が討ち入って、七人を斬り伏せ、二三人を捕らえた。このとき討ち入った側も討ち人られた側も、ほとんどが刀でわたり合っている。
 こういうことを見れば、「チャンバラ幻想」が人びとに素直に受け入れられていたとしても、あまり不思議はない。ただ、それを「常識」としていられたのは、あくまでも当時のわが国の社会の特殊な状況を前提にしてのことであった。したがって、前提が変われば通用する話ではなくなるが、実は、池田屋事件の前年にはその後の対外戦争の走りのような薩英戦争が起こっている。最新鋭のアームストロング式後装施条砲を積んだイギリス艦隊が鹿児島湾に押しかけてきて、薩摩藩の砲台と砲撃戦を展開したという事件である。
 果たして、というべきか、間もなく状況は一変する。慶応二年(一八六四、長州藩征討に加わった紀州藩は、その経験から、戦闘がすべて「砲戦」(銃撃戦の意味)に終始したこと、刀槍による「接戦法」などはまったく役に立たなかったことを率直に認め、藩士を銃隊に編成し直した。慶応四年(明治一年、 一八六六)の鳥羽・伏見の戦いに参加した新選組の副長・土方歳三も、これからの戦いは槍や刀では駄目だ、鉄砲にはかなわないということを悟らざるをえなかった。土方のような人斬りのプロがそう思ったくらいだから、以後「チャンバラ幻想」など、消しとんでしまったのも当然である。
 洋式銃の導入によって、ふたたび鉄砲が戦場の主役となり、刀槍による接戦が廃れていった経緯については、すでに『鉄砲と日本人』で詳しく述べているので、ここではくり返さない。戊辰戦争や一連の士族反乱の過程の中では、刀を抜いて振りまわす場面も、まったくなかったわけではないが、槍や刀ではもはや戦争にはならないという土方的認識を覆すには至らなかった。
 いったん消え失せたはずの「チャンバラ幻想」が息を吹き返すきっかけとなったのは、おそらく明治四二年(一九〇九)に改正された『歩兵操典』が自兵主義を打ち出したことであろう。これが火力を軽視する日本陸軍の「伝統」をつくってしまったことは、旧軍人の人たちにも指摘されているが、ただ、この時点では、わが国だけがとび抜けて頑迷固陋だったわけではない。欧米諸国も長らく白兵重視の姿勢を崩してはいなかった。むしろ、本格的な白兵主義の伝統を持たなかったわが国としては、そうした自兵主義自体が近代的な陸軍の建設に伴って、欧米から移植されたものだったというほうが当たっている。
 そのあたりの事情も『鉄砲と日本人』でかなり記しているので、これ以上立ち入らないが、不可解なことが一つある。欧米諸国の陸軍が第一次世界大戦(一九一四〜一八)を境に自兵主義と手を切る方向へ向かっていったのに、わが国の陸軍ばかりは、積極的に自兵主義を打ち出したのである。他の国でも刀剣がまったく姿を消したわけではないが、第二次世界大戦中、刀を実用兵器として重視していたのは、日本陸軍だけだったそうである。こうした姿勢は、満州事変(一九三一)の直後から目立つようになり、翌昭和七年(一九三二)には、従来の軍刀に代えて、新たな乗馬刀・徒歩刀がとりあえず制定された。他の兵器の刷新に先がけて、まず軍刀の改良がはかられたところからして問題だが、それだけでは終わらなかった。陸軍部内に「日本精神」作興の声が高まり、それまでサーベル式外装となっていた将校の軍刀が旧来の日本刀の形式に改められることになった。「チャンバラ幻想」は、名実ともに息を吹きかえしたことになる。
 もっとも明治四二年の『歩兵操典』改正から、一直線にそこまで行ってしまったのかというと、そういうわけでもない。刀剣鑑定家の本阿弥光遜氏は、第一次大戦後、よく士官学校へ講演に行ったが、若い上官候補生の中には軍刀不要論を主張する者が多かったという。それはまた軍部全般の空気でもあったのではないかと思われる。それが一転して、従来型の軍刀が維持されたくらいならまだしも、旧来の日本刀が復活したのだから、後世の日から見れば、自昼に幽霊が出現したょうなものである 。

鈴木眞哉氏の『刀と首取り 戦国合戦異説』(平凡社新書036), 東京, 平凡社, 2000, pp61ff
ところで,日本刀への執着というと思い出されるのは,三島由紀夫の最後ですが,彼の考えには共感するところは少なくないものの,自殺(or他殺?)に至るまでの行動は全く理解できません.目的を達成するための複数あったと思われる選択肢の中で,最も成功率が低いものを選ぶというのは非合理の一言に尽きます.その意味では,ナルシスト且つロマンチストとは言えるにせよ,例えば,レーニンのようなリアリストの革命家とは言えません.

西洋列強を手本として軍事大国化しようとした近代日本の非合理性の象徴とも言える日本刀を用いて自らの生涯に終止符を打った三島は,こうした日本が培養してしまった非合理性が受肉した存在と言えるのかもしれません.しかし,そうした存在であったからこそ,逆に日本の伝統文化や精神性に対する感受性も豊かであったことも事実でしょう.であれば,なぜ,もっと生きて文筆や言論によって社会に影響を与えようとしなかったのか,そう思うと残念に思えてなりません.ただ,誤解していただきたくないので,三島が非合理主義者であったからといって,日本の伝統文化,特に技術については非合理であったとは必ずしも思いません.むしろ,それらは各時代において目的合理性にのっとって開発されたものであったと思っています.ただ,それらを条件が全く異なる現在において使用するという姿勢が時代錯誤そのものであり,且つ非合理以外なにものでもないということです.さらに,三島の思想(と呼べるものがあるとすると)には,無形の精神性への崇敬がみられますが,彼にとって,その無形の精神性宿る寄りしろとして天皇が必要になるのであり,彼の天皇への思慕はそれゆえのもののようです.そこには,中性の武士道を形成していた主君と家来との情緒的な関係に近いものが見えます.魂,あるいは精神と言っても,結局,それを象徴する何らかの形象を崇拝の対象とするのであれば,それは偶像崇拝であり,唯物論との違いがぼやけてきてしましいます.日本の伝統的な氏神信仰を無批判で受け入れ,前提としている思想にはこうした不明瞭性がつきまといます.
*6) 例えば,吉村昭 著『深海の使者』(文春文庫)参照.また,敗戦直前の1945年にドイツから日本へ向けて出航したU-234には,分解されたジェット戦闘機Me 262Aggregat 4 (A4)の設計図及び部品,さらに日本の核兵器開発を支援するための560 kgの酸化ウランなどが積載されていました.(1993年に制作された映画"Das letzte U-Boot"("The Last U-Boat")の基となった実話.映画の中では米内海相の役を児玉清さんが演じておられました.それぞれの国民性が良く描かれていて,お薦めの一本です.)

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