Tuesday, 9 December 2014

Abderrahmane Sissako監督の映画 "Timbuktu"

音楽,サッカーを禁じ,女性には全身を黒衣で覆うことを強要し,イスラム法の名の下に文化を破壊し,人権を踏みにじるイスラミトのグループ,アル・カイダとアンサル・ディネが支配するサハラの辺境の町トンブクトゥの住民の様子を2012年4月から翌年の初めまでカメラで追ったドキュメンタリーで,今年のカンヌ映画祭のCompetitionにおけるOfficial Selectionの中の1本です.その他,世界各地の映画祭で賞を受けています.

未だ観る機会はありませんが,内容の説明の中で面白かったのは,イスラム法を押し付ける人々の殆どはアラビア語を解しないため,互いに意思の疎通にはフランス語を使っていたということです.コーランって,アラビア語で読まないと正しい理解(アラーの啓示)は理解出来なかったと思いますが.他人に何かを強要することは殆どの場合,問題があると思いますが,そうする場合は,まず自らが見本でありたいものです.*1)




以下映画のデータです.

フランス/モーリタリア合作
制作年: 2014年
脚本: Abderrahmane Sissako, Kessen Tall
監督: Abderrahmane Sissako
出演: Ibrahim Ahmed, Toulou Kiki, Abel Jafri, Fatoumata Diawara, Hichem Yacoubi
制作: Sylvie Pialat
配給: Arsenal
時間: 97 分 公開: 2014年12月11日(恐らくドイツにおいて.)




*1) そんなことを考えたとき,思い出したのは阿川弘之氏の『米内光政』(下巻)の中の次の文章でした.敗戦間近,米内提督の海軍大臣就任中のエピソードです.
ある晩、例によって出陣司令官の送別宴のあと、飲み直しの席で米内が、「君たち東京にいて、今、米の配給何合何勺か知ってるか」
と問いた。
残っていた軍務局長の多田武雄少将はじめ、誰も答えられなかった。
「六十歳まで二合三勺、六十歳以上は二合一勺」
米内ははっきり数字を挙げ、
「僕は配給以上の米は食べていないよ」
と言った。
そういえば、以前の豊頬がずいぶんやつれておられる、大臣の家庭も御多分に洩れず食糧難らしいと思った麻生中佐は、秘書官の権限で扱える軍需物資の罐詰を一と箱、折を見て運転手に届けさせておいた。これはしかし、次に私邸へ立ち寄った時、里に戻っていた二反田未亡人のふきが玄関へ提げて出て来、
「父に叱られましたので、折角でこざいますが」
と、そっくり持ち帰らされた。
(阿川弘之『米内光政』(下),東京,新潮社,1978年,pp122f)
また,今日,靖国神社に参拝する国会議員の方たちについて言えば,例えば,彼らは神道についてどう思っておられるのでしょうか.何所かの神社の正式な氏子でおられるのでしょうか.葬儀は神式でなさるのでしょうか.特に興味があるのは,日本の総理大臣を務めたこともおありになる石川県出身の元衆議院議員の方(こちらの記事の写真の右側)ですが,以前,「日本は神の国なんです.」と仰っておられました.それが,ご自分の信条であるなら,是非最後迄それを貫いていただきたいと思います.靖国神社に参拝する場合も,本来,現人神であり大元帥である天皇の命により戦い,命を捧げた方々をお祀りしているわけですから,天皇が神である という信仰に基づかない参拝は,祀られている方々に対する冒涜となります.すなわち,天皇の人間宣言を公に否定せぬまま,靖国神社の参拝は許されることではないと思うのです.それに加えて,毎年の12月8日に不思議に思うのは,それ以外の特定の祝日,記念日などでは近所を政治団体のバス等が戦争中の歌を賑やかに流してまわるのですが,何故か真珠湾攻撃を実施した日は静かということです.その根底をなす理由は,『アメリカの影』の中で加藤典洋氏が述べているように,
日本という「国家」が,戦後はちょうどやどりぎのように「アメリカ」に致命的に依存,寄生する存在として成立してきたからだ.「日本」に,「アメリカ」なしにはやっていけない政治構造があり,ひいてはそれを拘束する経済構造があるからである.
(加藤典洋『アメリカの影 戦後再見』(講談社学術文庫1182),東京,講談社,1995年,pp94f)
ということなのかもしれません.ようするにパパでありママとなったアメリカとの情緒的な関係(先方は情緒的関係など理解出来ないにもかかわらず)を持ち続けようとする日本の甘えの構造がその原因ではないかということです.ただ,もし天皇の赤子(せきし)として亡くなられた兵員の方の慰霊,鎮魂を願って12月8日には戦争の歌は流さないというのであれば,その姿勢も理解出来なくもありません.ただ,その場合は,ポツダム宣言受諾が国際連合軍側に伝わった8月14日,あるいは天皇の肉声による終戦の詔勅が放送された15日にも同様のことは行うべきではないでしょう.そうでなければ,真にとんちんかんなことになってしまいます.

加えて,政治家として自主憲法制定を叫び,国民(少なくとも為政者)の義務であるという信条に基づいて靖国神社の参拝をされているのなら,その方が思い描いている改正後の憲法案には「天皇の神聖にして犯すべからず」という条文が入っていなければ,その方の政治姿勢は全く整合性を欠くもの,つまり,やはりとんちんかんなものといわざるを得ません.

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