Sunday, 30 August 2009

文明と人名 (補足)

前の投稿の内容を補足させていただきます。

人間と他の動物の区別は、例えば、言葉にも表れています。具体的には、西洋の言葉において、人間と動物の身体の各部分の呼び方が異なるのです。

フランス語では、犬などの肉食獣の口を《gueule》と呼びます。人間の口や顔をgueuleと言うこともありますが、非常に下品な表現です。 ドイツ語でも、《Maul》というのは動物の口のことで、通常、人の口には使いません。さらに、ドイツ語では「食べる」という動詞は、人間の場合は《essen》を使い、動物の場合は《fressen》です。(人間の場合でも、ときに後者を使うこともありますが、あまり上品な表現ではありません。)

さらに、四足動物の足ですが、フランス語では《patte》という言葉を使い、人の足を意味する《pied》などは使いません。日本語でも、正しくは《前足》、《後足》と呼びますが、一般的に私たちは、猫や犬などの前足を《手》とよんだりしています。

また、鳥や獣の足の爪は、フランス語では《griffe》、さらに猛禽類については、《serre》という言葉で呼びます。日本語の場合、虎やライオンの場合も、あるいは鷲の場合も、皆等しく人と同様に《爪》という言葉で呼んでいます。

ただ、ここでひとつ断っておきたいのは、こうした、言語に見られる人間と動物の差別化の原因が、単純にキリスト教の影響によるものということはできないということです。フランス語にしろ、ドイツ語にしろ、少なくともその元となる言語は、常識的に考えてキリスト教が入ってくる前から存在していたでしょうから。どちらかというと、言語のほうが宗教に影響を与えた、あるいは宗教の枠組みを規定したと考えたほうが自然でしょう。とはいえ、ヨーロッパの言語にせよ、キリスト教にせよ、いきなりこの世に現れたわけではなく、前者の場合はラテン語やギリシャ語、後者の場合はユダヤ教といったように、それぞれ先祖をもっているので、さらにこれらの先祖の過去を辿ってゆくと、何か別のことがわかってくるかもしれません。とりあえずは、ユダヤ教やキリスト教は、上述のように、人間と動物が全く別の存在であるという世界観が支配的な土壌において誕生したと考えてよいでしょう。

それから、日本では個人名が公共施設などに付けられることが極めて少ない理由として、御霊信仰や儒教の影響が考えられるのではと書きましたが、さらにそれに加えて、日本独特の農耕村落共同体の習性もある程度の影響を与えているかもしれません。すなわち、特定の個人の価値を重要視しない、あるいは個人が目立つことを好まず、みんなが一緒に同じことをするのが理想的という考えです。もっとも、それには例外があって、外国で優秀な働きをするスポーツ選手、ノーベル賞受賞者、宇宙飛行士などがそれにあたります。外国で評価されると、生き神のように祭り上げるというのが、現代のこの国の面白い風習です。昔は皇室との関係、今は、外国との関係が権威の裏づけとなっているようです。

これに関連して、面白いのは、日本人の《平等》という言葉の理解の仕方です。みんなが同じになること、同じことをすることが《平等》の意味であるように一般的に信じられている、そんな気がしてなりません。例えば、日本中どこの地方もみな同じようになることが平等といったふうにです。ところが、中央集権国家であり、《自由》、《博愛》とともに《平等》をモットーとするフランスを旅行していて気がつくのは、それぞれの地方の伝統、文化といった特色が非常に違う、そしてそれらが愛され尊重されているということです。こうした地方の独自性こそがフランス全体の豊かさのを作り上げているのではないでしょうか。年間8000万人という観光客を集めている、世界一の観光国のフランスの強さのひとつの理由はそこにあると思うのです。日本の地方でも、独自色を打ち出そうとしている所があります。でも、それを、海外からの評価を得ることで実現しようとする地域も少なくなく、ギネスブックに載せてもらうために、世界一長い何かを作るといったような行動に現れています。

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