今回の新型インフルエンザをめぐる騒動から、今の日本の社会の仕組みとそこにおけるメディアの機能について考えさせられています。
少年たちの凶悪犯罪について報道がされる際、それについての識者といわれる人たちのコメントの中に、よくコンピュータゲームの影響ではないかという言葉が聞かれます。そして、彼らは、現実と仮想の区別がつかなくなっているなどと。
確かに十分考えられることではないかと思えます。しかし、それが本当であろうとなかろうと、今、新型インフルエンザをめぐってマスコミを中心にして起きている現象も、ある意味でひとつの”ゲーム”といえるように思えるのです。そして、それに結果的に参加している(あるいはさせられている)私たちは、ほとんどの場合、その認識をもたないまま行動しているような気がしてなりません。
特に小泉自民党の郵政民営化を争点とした選挙から、このゲームははっきりと日本社会に根付いた姿を見せ始めたように感じます。
そのゲームというのは、一言でいうと、「石打の刑」です。それを見物し、参加する民衆に石を投げるべき対象が示され、さらに彼らにその対象に対して投げる石も提供されるというものです。郵政民営化選挙においては、石を投げる相手を示したのが、当時の小泉自民党総裁であり、それをマスコミは大々的に伝えました。そして、比較的最近の小沢前民主党代表の代表辞任に至る経緯においては、彼を刑場に引き出したのは、文字通り検察庁です。前者において、小泉氏が民衆に提供した石は、「反対勢力」、「守旧派」といった言葉であり、後者において、マスコミは「説明責任」という言葉を石として提供しました。
(さらに以前、紛争状態のイラクへ入国し、誘拐された日本人のグループに対しては、「自己責任」というのがその石でした。)
「あなたは小沢氏が説明責任を果たしたとおもいますか」といった問いを、マスコミが彼らの世論調査の中で人々に投げかける場合、それに対して肯定、あるいは否定の回答を返した調査対象のうち、どれだけの人が説明責任という言葉を自分なりに定義していていたでしょうか。実際は、もっともらしい、なんとなくみんなが投げやすい石になりやすい言葉だっただけではないでしょうか。さらに、気になるのは、この質問に対する回答の比率を”国民”はというくくりで紹介するだけということです。男女別、世代別といったくくりは、出そうとしません。ひたすら多くのパーセンテージを集めるためでしょう。つまり、どれだけダメージを引き起こしているかという「スコア」としての世論調査です。
そして、こうしたマスコミがお膳立てするゲームのストーリーやルールが日常の生活に影響を及ぼしているように思えるのです。その良い例が、今回の東京での初めての感染者として紹介されてしまった、女子高生とその家族や彼女が通う学校です。彼らは非難や誹謗を受け、女子高生は罪悪感さえ抱き、母親を通じて謝罪までしたといいます。
こうしたゲームは、「いじめ」とまったく同じ構造のように見えます。結局、ストレス解消がその目的なのかもしれません。今回のストレスは、もちろん病気に感染するかもしれないという不安です。
今のように、不安が解消されない、つまりストレスが浸透し、高まっている状態において、マスコミによる報道は、結果的に石打の対象として一般の人さえも(その人が被害者の場合も)提示してしまう可能性があるのです。より正確にいうならば、マスコミ側にその意図がないとしても、その報道に接する私たちの側に、「石打の刑ゲーム」のストーリー展開とルールがあまりにも深く刷り込まれてしまっているために、報道の対象となった人をほとんど無条件で石打の対象と理解してしまう可能性があるということです。「魔女狩り」、「犯人(あるいはスケープゴート)探し」の構図がそこで生れます。ひたすら衆目を個別特殊の対象にのみひきつけようとする。そこには公平や普遍といった視点は微塵も見られません。実際、日本のマスコミにおいては、前の投稿で紹介した『Le Monde』の記事のように、今回のことから本当の原因を追求しようともしないし、さらに今後の危険性についての報道がほとんどなされません。ただ、毎日毎日、今日はどこで何人が感染したという報告ばかりです。
ところで、話題にならないのが、日本人の咳やくしゃみに対する姿勢。欧米人と比べて特に違和感を感じるのが、日本人のくしゃみの仕方です。口や鼻をハンカチで覆うなど一切しない。だから、マスクをしたがるのかもしれません。もともと、くしゃみとは、鼻から体内に入ってきた悪魔を「糞でも食め!」といって対外に排出する行為と考えられていたようで、それからすると口や鼻を塞がずに思い切り行うというのは自然なのかもしれません。それでも、外国ではあの音を聞くと周りの人は驚くようで、ハワイの空港などでは日本語で、「くしゃみの際はハンカチで口や鼻を覆いましょう」といった表示があるとか。
少年たちの凶悪犯罪について報道がされる際、それについての識者といわれる人たちのコメントの中に、よくコンピュータゲームの影響ではないかという言葉が聞かれます。そして、彼らは、現実と仮想の区別がつかなくなっているなどと。
確かに十分考えられることではないかと思えます。しかし、それが本当であろうとなかろうと、今、新型インフルエンザをめぐってマスコミを中心にして起きている現象も、ある意味でひとつの”ゲーム”といえるように思えるのです。そして、それに結果的に参加している(あるいはさせられている)私たちは、ほとんどの場合、その認識をもたないまま行動しているような気がしてなりません。
特に小泉自民党の郵政民営化を争点とした選挙から、このゲームははっきりと日本社会に根付いた姿を見せ始めたように感じます。
そのゲームというのは、一言でいうと、「石打の刑」です。それを見物し、参加する民衆に石を投げるべき対象が示され、さらに彼らにその対象に対して投げる石も提供されるというものです。郵政民営化選挙においては、石を投げる相手を示したのが、当時の小泉自民党総裁であり、それをマスコミは大々的に伝えました。そして、比較的最近の小沢前民主党代表の代表辞任に至る経緯においては、彼を刑場に引き出したのは、文字通り検察庁です。前者において、小泉氏が民衆に提供した石は、「反対勢力」、「守旧派」といった言葉であり、後者において、マスコミは「説明責任」という言葉を石として提供しました。
(さらに以前、紛争状態のイラクへ入国し、誘拐された日本人のグループに対しては、「自己責任」というのがその石でした。)
「あなたは小沢氏が説明責任を果たしたとおもいますか」といった問いを、マスコミが彼らの世論調査の中で人々に投げかける場合、それに対して肯定、あるいは否定の回答を返した調査対象のうち、どれだけの人が説明責任という言葉を自分なりに定義していていたでしょうか。実際は、もっともらしい、なんとなくみんなが投げやすい石になりやすい言葉だっただけではないでしょうか。さらに、気になるのは、この質問に対する回答の比率を”国民”はというくくりで紹介するだけということです。男女別、世代別といったくくりは、出そうとしません。ひたすら多くのパーセンテージを集めるためでしょう。つまり、どれだけダメージを引き起こしているかという「スコア」としての世論調査です。
そして、こうしたマスコミがお膳立てするゲームのストーリーやルールが日常の生活に影響を及ぼしているように思えるのです。その良い例が、今回の東京での初めての感染者として紹介されてしまった、女子高生とその家族や彼女が通う学校です。彼らは非難や誹謗を受け、女子高生は罪悪感さえ抱き、母親を通じて謝罪までしたといいます。
こうしたゲームは、「いじめ」とまったく同じ構造のように見えます。結局、ストレス解消がその目的なのかもしれません。今回のストレスは、もちろん病気に感染するかもしれないという不安です。
今のように、不安が解消されない、つまりストレスが浸透し、高まっている状態において、マスコミによる報道は、結果的に石打の対象として一般の人さえも(その人が被害者の場合も)提示してしまう可能性があるのです。より正確にいうならば、マスコミ側にその意図がないとしても、その報道に接する私たちの側に、「石打の刑ゲーム」のストーリー展開とルールがあまりにも深く刷り込まれてしまっているために、報道の対象となった人をほとんど無条件で石打の対象と理解してしまう可能性があるということです。「魔女狩り」、「犯人(あるいはスケープゴート)探し」の構図がそこで生れます。ひたすら衆目を個別特殊の対象にのみひきつけようとする。そこには公平や普遍といった視点は微塵も見られません。実際、日本のマスコミにおいては、前の投稿で紹介した『Le Monde』の記事のように、今回のことから本当の原因を追求しようともしないし、さらに今後の危険性についての報道がほとんどなされません。ただ、毎日毎日、今日はどこで何人が感染したという報告ばかりです。
ところで、話題にならないのが、日本人の咳やくしゃみに対する姿勢。欧米人と比べて特に違和感を感じるのが、日本人のくしゃみの仕方です。口や鼻をハンカチで覆うなど一切しない。だから、マスクをしたがるのかもしれません。もともと、くしゃみとは、鼻から体内に入ってきた悪魔を「糞でも食め!」といって対外に排出する行為と考えられていたようで、それからすると口や鼻を塞がずに思い切り行うというのは自然なのかもしれません。それでも、外国ではあの音を聞くと周りの人は驚くようで、ハワイの空港などでは日本語で、「くしゃみの際はハンカチで口や鼻を覆いましょう」といった表示があるとか。
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