今日は、サン・テグジュペリの命日です。
65年前の1944年7月31日、『星の王子さま』の作者アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの搭乗機ロッキードP-38ライトニングF5Bは、マルセイユの沖で消息を絶ちました。連合軍のプロヴァンス沿岸上陸が2週間後に迫っていたその日の朝、ドイツ占領下のリヨンの東方地域偵察のため、グルノーブルを目指してコルシカ島のボルゴ(Borgo)基地を飛び立った後まもなくのことでした。1500馬力のエンジンを2基搭載し、時速650Kmで高度10000mまで上昇可能という高性能を有するとはいえ、サン・テグジュペリ少佐の搭乗機は偵察機仕様で、機銃も爆弾も搭載されてはおらず、装着されていた数台の写真機が、彼の唯一の"武器"でした。
それから50年以上も経った1998 年9月7日、付近で漁をしていた地元の漁師ビアンコさんは、引き上げた網の中に、跳び跳ねる魚に混じって鈍く光る小さな金属片を見つけました。それは、以下の文字が刻まれた、金属製のブレスレットでした。
" ANTOINE DE SAINT-EXUPERY (CONSUELO), c/o REYNAL AND HITCHCOCK INC., 386 4TH AVE. N.Y.C. U.S.A."
* CONSUELOは、彼の妻の名前(Prénom)
やがて、この小さな遺品の発見がきっかけとなって調査が開始され、2000年、海洋考古学者ヴァンレルさんにより、当該地点の海底に横たわる残骸が、この著名な航空作家が操縦していた飛行機のものであることが最終的に確認されました。
マルセイユ近郊の入り江を巡る遊覧船から望むリウ列島(l'Archipel de Riou)。7つの島から成るこの小列島付近の海底から彼の搭乗機の残骸が発見されました。
昨年、ドイツの研究者たちの調査により、彼の搭乗機を撃墜したのが、当時24歳のホルスト・リッペルト(Horst Rippert: 終戦時少尉)が操縦する、エックス・アン・プロヴァンスに駐留していたドイツ空軍第200航空戦隊所属のメッサーシュミットBf 109 G型機であったことが判明しました。戦後は、第2ドイツ放送(ZDF)の記者として活躍したリッペルト氏ですが、少年時代、サン・テグジュペリの作品を愛読し、彼に憧れてパイロットの道を選んだと言います。半世紀以上前のその日、マルセイユ沿岸から制空圏内に侵入しようとする自由フランス空軍(F.A.F.L.)のP-38を発見し、その翼めがけて銃撃を加えたとき、やがて海に向かって墜ちてゆく同機の操縦かんを握っていたのが、敬慕する空の英雄だったことに気づくすべもありませんでした。パイロットは、最後まで脱出せず、彼の顔を見ることもできませんでした。数日後、自分が撃墜したのがサン・テグジュペリの搭乗機であったことを知らされ、それが間違いであることをひたすら願いつづけたそうです。しかし、その願いも空しく、否定しようのない事実が明らかになります。リッペルト氏は、当時を振り返り、「もし、あの操縦席に座っているのが誰なのか知っていたら、攻撃はしなかった...」と述べたそうです。撃墜されたとき、サン・テグジュペリは44歳。その最後の飛行の途中、遭遇した敵機の操縦士が20歳年下の、かつて自分が大空を自由に駆け巡る夢を与えた若者だったことなど想像もしなかったでしょう。
* F.A.F.L. = les Forces Aériennes Françaises Libres
サン・テグジュペリの作品を通じてパイロットになる夢を抱いたドイツ人少年は、自分だけではなかったとも語るリッペルト氏。祖母は、ユダヤ人だそうです。自分がユダヤ人の血統に属していることは軍に打ち明けていましたが、不思議なことに一度も問題視されたことはなく、技量的にも相当優秀なパイロットだったようです。
* 2008年3月15日付電子版『La Provence』(www.laprovence.com)の記事「Ils ont retrouvé le pilote qui a abattu Saint-Exupéry」参照。さらに、ドイツ語ですが、電子版『Frankfurter Allgemeine』(www.faz.net)の記事「Antoine de Saint-Exupéry in die Geschichte abgetaucht」にもリッペルト氏の発見に至った経緯が詳しく述べられています。
マルセイユ市では、今日からサン・テグジュペリの栄誉を讃えるための様々な催し物が開催されます。(因みに、今日は、研究者たちによるシンポジウムや、フランス空軍のミラージュ戦闘機による編隊飛行などが予定されているとのことです。)
詳しくは、マルセイユ市の公式サイト(www.marseille.fr)、そして一連の行事の公式サイト(www.marseillesaintex.org)をご覧ください。
また、パリ近郊のル・ブゥルジュ空港(Paris-Le Bourget)内にある航空宇宙博物館(musée de l'air et de l'espace)でも、現在、サン・テグジュペリ展を開催中です。(www.mae.org)
* 瑣末なことですが、サン・テグジュペリが操縦していたP-38ライトニング戦闘機は、速度、加速性能共に我国の零式艦上戦闘機を上回る性能を備えた優秀な双発戦闘機であり、1943年4月18日、前線視察のため、ソロモン諸島ブーゲンビル上空を飛行中の山本五十六連合艦隊司令長官搭乗の一式陸上攻撃機を撃墜したのもP-38でした。
65年前の1944年7月31日、『星の王子さま』の作者アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの搭乗機ロッキードP-38ライトニングF5Bは、マルセイユの沖で消息を絶ちました。連合軍のプロヴァンス沿岸上陸が2週間後に迫っていたその日の朝、ドイツ占領下のリヨンの東方地域偵察のため、グルノーブルを目指してコルシカ島のボルゴ(Borgo)基地を飛び立った後まもなくのことでした。1500馬力のエンジンを2基搭載し、時速650Kmで高度10000mまで上昇可能という高性能を有するとはいえ、サン・テグジュペリ少佐の搭乗機は偵察機仕様で、機銃も爆弾も搭載されてはおらず、装着されていた数台の写真機が、彼の唯一の"武器"でした。
それから50年以上も経った1998 年9月7日、付近で漁をしていた地元の漁師ビアンコさんは、引き上げた網の中に、跳び跳ねる魚に混じって鈍く光る小さな金属片を見つけました。それは、以下の文字が刻まれた、金属製のブレスレットでした。
" ANTOINE DE SAINT-EXUPERY (CONSUELO), c/o REYNAL AND HITCHCOCK INC., 386 4TH AVE. N.Y.C. U.S.A."
* CONSUELOは、彼の妻の名前(Prénom)
やがて、この小さな遺品の発見がきっかけとなって調査が開始され、2000年、海洋考古学者ヴァンレルさんにより、当該地点の海底に横たわる残骸が、この著名な航空作家が操縦していた飛行機のものであることが最終的に確認されました。
マルセイユ近郊の入り江を巡る遊覧船から望むリウ列島(l'Archipel de Riou)。7つの島から成るこの小列島付近の海底から彼の搭乗機の残骸が発見されました。
昨年、ドイツの研究者たちの調査により、彼の搭乗機を撃墜したのが、当時24歳のホルスト・リッペルト(Horst Rippert: 終戦時少尉)が操縦する、エックス・アン・プロヴァンスに駐留していたドイツ空軍第200航空戦隊所属のメッサーシュミットBf 109 G型機であったことが判明しました。戦後は、第2ドイツ放送(ZDF)の記者として活躍したリッペルト氏ですが、少年時代、サン・テグジュペリの作品を愛読し、彼に憧れてパイロットの道を選んだと言います。半世紀以上前のその日、マルセイユ沿岸から制空圏内に侵入しようとする自由フランス空軍(F.A.F.L.)のP-38を発見し、その翼めがけて銃撃を加えたとき、やがて海に向かって墜ちてゆく同機の操縦かんを握っていたのが、敬慕する空の英雄だったことに気づくすべもありませんでした。パイロットは、最後まで脱出せず、彼の顔を見ることもできませんでした。数日後、自分が撃墜したのがサン・テグジュペリの搭乗機であったことを知らされ、それが間違いであることをひたすら願いつづけたそうです。しかし、その願いも空しく、否定しようのない事実が明らかになります。リッペルト氏は、当時を振り返り、「もし、あの操縦席に座っているのが誰なのか知っていたら、攻撃はしなかった...」と述べたそうです。撃墜されたとき、サン・テグジュペリは44歳。その最後の飛行の途中、遭遇した敵機の操縦士が20歳年下の、かつて自分が大空を自由に駆け巡る夢を与えた若者だったことなど想像もしなかったでしょう。
* F.A.F.L. = les Forces Aériennes Françaises Libres
サン・テグジュペリの作品を通じてパイロットになる夢を抱いたドイツ人少年は、自分だけではなかったとも語るリッペルト氏。祖母は、ユダヤ人だそうです。自分がユダヤ人の血統に属していることは軍に打ち明けていましたが、不思議なことに一度も問題視されたことはなく、技量的にも相当優秀なパイロットだったようです。
* 2008年3月15日付電子版『La Provence』(www.laprovence.com)の記事「Ils ont retrouvé le pilote qui a abattu Saint-Exupéry」参照。さらに、ドイツ語ですが、電子版『Frankfurter Allgemeine』(www.faz.net)の記事「Antoine de Saint-Exupéry in die Geschichte abgetaucht」にもリッペルト氏の発見に至った経緯が詳しく述べられています。
マルセイユ市では、今日からサン・テグジュペリの栄誉を讃えるための様々な催し物が開催されます。(因みに、今日は、研究者たちによるシンポジウムや、フランス空軍のミラージュ戦闘機による編隊飛行などが予定されているとのことです。)
詳しくは、マルセイユ市の公式サイト(www.marseille.fr)、そして一連の行事の公式サイト(www.marseillesaintex.org)をご覧ください。
また、パリ近郊のル・ブゥルジュ空港(Paris-Le Bourget)内にある航空宇宙博物館(musée de l'air et de l'espace)でも、現在、サン・テグジュペリ展を開催中です。(www.mae.org)
* 瑣末なことですが、サン・テグジュペリが操縦していたP-38ライトニング戦闘機は、速度、加速性能共に我国の零式艦上戦闘機を上回る性能を備えた優秀な双発戦闘機であり、1943年4月18日、前線視察のため、ソロモン諸島ブーゲンビル上空を飛行中の山本五十六連合艦隊司令長官搭乗の一式陸上攻撃機を撃墜したのもP-38でした。
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