Saturday 24 January 2015

1月27日のアウシュヴィッツ開放記念日を巡る話題 - ナチスの戦争責任を追求した1人のユダヤ人弁護士

1963年から1965年にかけてフランクフルトでアウシュヴィッツ強制収容所に収容されていた人たちが原告となって関係者を訴えた裁判が開かれましたが,そのとき検事を務めたのがユダヤ人弁護士ヘンリー・オマンド(Henry Omand)でした.オマンドは1933年からマンハイムで検事および裁判官の職に就きましたが,まもなくナチスによる公務員からのユダヤ人追放政策により職を追われ,その後,民間企業の法律顧問となります.しかし,1938年,ナチスにより逮捕されダッハウの強制収容所に送られます.凍り付く寒さの中で彼は毎日36時間の労働義務を果たさなければなりませんでした.翌年の1939年,彼はドイツを追放され英国に亡命.そこで軍人となります.そして,戦後,占領軍の一員として祖国に戻ったのでした.彼に与えられた任務はニュースメディアの再建でしたが,彼がライセンスを与えたメディアのひとつがSPIEGELでした.その後,バーデン・ヴュルテンブルグ州から裁判官就任への招きがありましたが,彼は元ナチスの裁判官たちとは一緒に働きたくないとして断り,1959年,フランクフルトに自ら法律事務所を開業しました.そして,1963年に開始されたアウシュヴィッツに収容されていたユダヤ人たちへの損害賠償裁判を勝訴に導き,例えば多くのユダヤ人たちを強制労働させたとして訴えられたIG Farbenには当時の金額で3千万ドイツマルクの賠償金を6,000人の生存者に対して支払うようにとの命令が出されたのでした.なお,被告側の弁護士達は,原告のユダヤ人達は自発的に働いたと主張していました.

アウシュヴィッツを巡る裁判と平行して,ホロコーストの首謀者であるアドルフ・アイヒマンの代理を務めたヘルマン・クルメイと同じく顧問のオットー・フンシェを被告とする裁判が開かれ,彼らは1944年におけるユダヤ系ハンガリー人427,000人の強制移送(強制収容所に送るため)の罪に問われましたが,公判後下された判決はスキャンダルと言われたほど軽いもので,クルメイには5年間の収監が言い渡され,フンシェにいたっては証拠不十分として無罪とされたのでした.オマンドは,判決後に出演したテレビ番組で裁判官たちを非難しましたが,彼の同僚クリスチャン・ラアーベによって当該の裁判における手続き上のミスがあったことが示され,連邦裁判所は上記の判決を無効とします.そして,1965年に行われた107人の証人が出廷した再審の結果,同年4月29日,フランクフルト州裁判所はクルメイに終身刑を,そしてフンシェには12年の収監を言い渡したのでした.

以上,スイス放送のHenry Ormond, hartnäckiger Anwalt der Holocaust-Opferからでした.

なお,ナチスの戦争犯罪についての研究や資料収集を続けるフリッツ・バウアー研究所のサイトはこちらです.同研究所は各地で展示会を開催しており,サイトにはそれらの予定も記載されています.(ドイツ語)

また,上述したユダヤ系ハンガリー人の強制移送に関連して思い出したのが,彼らのうち5万から7万もの人を救ったと言われる当時の在ハンガリースイス大使カール・ルーツです.

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