Tuesday, 26 March 2013

航空公園で展示中の零戦を観て思い出した事

先日,所沢の航空公園で展示されている零戦52型を観る機会がありました.当時の日本の航空機技術の粋を集めた世界的名機ですが,コックピットの内部を眺めながら,敗戦が迫っていた頃,この座席に座って多くの若者が体当たり攻撃を行うために出撃し,太平洋でその尊い命を失ったのだと少々感慨にふけってしまいました.

零戦については,特にその設計開発過程において数多くの印象深いエピソードがありますが,ふと,以前読んだ『海軍技術戦記』*1)のある箇所が思い出されました.以下はその引用ですが,直接的にはロケット型体当たり攻撃用兵器「桜花」の設計開発過程について述べられている箇所の一部です.

それまで、戦闘の過程で結果的に体当りに至った例は少なくなかったが、はじめから体当りを前提とした攻撃は、あまりにも悲愴であり、あまりにも異常であった。この種の攻撃をのちに「特別攻撃」、略して「特攻」と呼びならわすようになるが、同じ呼称が、すでに真珠湾、シドニー港、ディエゴスワレス港を攻撃した″甲標的″にも用いられている。しかし、″甲標的″の場合は、搭載母艦に帰投できるように設計してあるので、「決死」の特攻であることは間違いないにしても、けっして「必死」の特攻ではなかった。特攻という言業が「決死」から「必死」へと転換しはじめたのは、南東方面の敗色が濃くなった昭和一八年中期ごろといわれる。ことに第一線部隊のあいだでは、このころから、敵の圧倒的な兵力に対抗するのは「必死の特攻」しかない、とする考えがめだってきた。こうした発想は、だいたい三つの論拠をもっている。
 第一に、特攻用の兵器(特攻兵器)は比較的かんたんに多量生産できることである。つまり、目標に突進することを主目的とするから、それ以外の性能にかかずらう必要はないし、また、一種の消耗品だから、材料も節約できるからである。
 第二に、特攻兵器の搭乗員は、練度の低いものでも勤まることである。つまり、日標に突進する訓練だけにしぼって、敵の攻撃を回避するとか、帰投するとかといった訓練を省略できるからである。
 第三に、日本の軍隊組織のなかでは、もともと、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の葉隠れ思想や、「死は鴻毛より軽し」の軍人勅諭思想がひろく賞揚されていたことである。つまり、アッツ島いらいの玉砕思想が特攻思想へと移行して、戦闘の結果であった死が戦闘の目的にすりかわっても、ごく自然のことと受けとめられ、おもてだって批判する素地はまったくなかったのである。
(上掲書pp205f)*2)
兵器として見た場合にも、特攻兵器には致命的欠陥がいくつかある。
 第一に、いうまでもないことだが、搭乗員の生命が一回ごとにかならず消耗されてしまうという事実である。特攻隊員の訓練は簡易化できるといっても、その生命を代償とする以上、戦力の蓄積もできないし、再生産もできない。けっきょくは、なしくずしの先細りにならざるを得ない。
 第二に、搭乗員がかならず未帰還になるのだから、戦果の報告をうけられないということである「じじつ、特攻作戦が開始されてからというもの、戦果の判断に「見込み」の要素が多くなり、戦訓としてまとめることがひじょうにむずかしくなったのである。
 第三に、とくに空中特攻兵器が、水上、水中特攻兵器と違って、敵艦船の水上部にしか被害を与えられないということである。水上部をいくら破壊しても、小型船ならいざしらず、撃沈の戦果をあげるわけにはいかない。戦艦、重巡洋艦、航空母艦などの大艦を目標とするかぎり、空中特攻はもっとも拙劣な攻撃法といわなければならない。水線部をねらうとすれば、かなりの練度を必要とする。水上部攻撃でも、誘爆などを期待できるかもしれないが、これはあくまで二次的な効果であって、確実性にとぼしい。主務設計者だった三木氏は、当時の心境を回顧して、「技術者としてはこのような必死の兵器を造るのはむしろ技術への冒瀆であるとさえ感じていたが、わが国の総合国力と急速に下り坂にある戦勢を考え合わせるとき、最後にはある部分はこれで行かざるを得まい、部隊の要望するものを要望するときに間に合わせなければ……と、その火と燃ゆる熱に動かされた」と書いている(『桜花設計記』航空ファン掲載)
(上掲書pp207f)

零戦の話題から離れてしまいましたが,内藤氏がその過程を語る桜花の開発は,世界的に誇れる技術力を有するチームを擁していても,彼らの技術力を目的合理性に従って最大限有効に用いることができる戦略が立てられない,そうした非合理的な用兵側の姿勢が,結果的に技術を支配してしまった悲劇といえるでしょう.

さらに,個人的には,こうした悲惨な体当たり攻撃や,さらに敗戦間際の戦艦大和の沖縄出撃など,内藤氏の言葉を使えば「必死」の兵法は,その本来の意図に照らした場合,極めて非合理といわざるを得ませんが,日本人にとっての一種の「儀式」と考えられると思っています.さらに,誤解を恐れずに言えば,オランダの歴史学者ホイジンガが,その著書『ホモ・ルーデンス』の中で使っている「あそび」という言葉によって定義される行動の範疇に含まれると.なお,ここで言う「あそび」は,必ずしも幼稚という言葉で形容できるものではありません.綿密に築き上げられた宗教儀式なども,ホイジンガの定義に従えば,一種の「あそび」なのです.そして,彼によると,「あそび」にはふたつの要素が必要です.「場」と「ルール」です.つまり,現実の世界の中にあっても,他から切り離された「場」とそこでのみ通用する「ルール」です.*3) 身近な例で言えば,私たちの国のさまざまな「祭り」を挙げることができます.祭りの間,それが展開する空間は日常から切り離された「場」となり,日常生活におけるものとは異なる「ルール」に従ってそれは営まれます.ホイジンガは,また,秩序を守った戦争もスポーツ競技と同様に「あそび」のひとつと言っています.戦争における秩序とは,互いに人間のである事を認め,尊重し合い,公平なルールに従って行うことです.しかし,近代の総力戦では,それらの秩序が忘れ去られてしまったとも言っています.*4)

戦争という「あそび」は,第二次世界大戦において,とりわけ日本とアメリカに関する限り,その文化的な性質を失い,極めて残念な方向へと進展していってしまいました.つまり,この二国において,戦争は,最早「あそび」という言葉で形容できない方向へと暴走してしまったのです.日本軍は,初期の段階で中国大陸における無差別爆撃を行い*5),アメリカも後に日本に対し同様のことを行いました.さらに,後者は,どう考えても戦時国際法違反である非人道的行為の極みといえる核爆弾投下を,多くの人口を抱える日本の二都市に対し行いました.このように,戦時国際法という共通のルールに従うことを止め,互いに独自のルールに従って戦うようになってしまったのです.通常のスポーツ競技では考えられない事態です.つまり,今や,戦争という事象が展開する空間は,引き続き共通であったとしても,そこに適用されるルールは,当事者同士に共通のものではなくなってしまったのです.敗戦の色が濃くなりつつあった日本は,本来相手の戦力を如何に効率よく破壊するかということに主眼を置くべき戦闘行為に,まるで宗教祭祀のようなルールを適用するようになりました.*6) つまり,超自然的な力,あるいは意思からの恩恵を受けるための行為である人身御供のような,自らの,あるいは犠牲となる個人が所属する集団の能動的意思に基づく死自体が目的となるような攻撃手段を採用するに至ったのです.あるいは,如何に《美しく》死ぬかという点を最重要視するようになったと言ったほうがより適切かも知れません.こうした姿勢の根底には,情誼的に自然を捉え,それを構成するひとつの要素として自らの生き方を他の生物のそれになぞらえる独特の思考が潜んでいます.また,戦争を指導する立場にあった人々が誤りを犯した自らの責任を国民に,特に兵士たちに気づかせないために用いたレトリックだったとも言えるかも知れません.一方,アメリカは,自国の戦闘員の人命保護と同時に,戦後の世界における軍事的政治的優位性の確保という視点からつくられた独自のルールに基づき,実質的に,日本人全体をあたかも邪悪な異生物のように看做したような形での攻撃を行うようになっていったのでした.つまり,日本では自国の若者たちを兵器の一部として扱い,また,アメリカは対戦国の国民を人間以外の生き物と看做すといったように,各当事国は,ある人間の集団を自らが所属する人間の範疇から外すという極めて非文明的ルールを創り出し,それに従ってしまったのです.「それが戦争というものなのだから仕方がない」と言う向きもおられると思います.「であるからこそ,戦争は避けなければならないのだ」とも.確かに,それも事実でしょう.ただ,一つ気になるのは,ある意味で日本もアメリカも,このようなそれぞれの非文明的ルールに現代においても従い続けているのではないかと感じられることです.日本社会においては,国家や企業の若者に対する姿勢に,また,アメリカについては,特に第二次世界大戦末から今日に至るまでの,世界各地における軍事介入において.




*1) 内藤初穂(元海軍技術大尉)著 『海軍技術戦記』,昭和51年,図書出版社
*2) 「葉隠」については,対米英戦争終結において決定的な役割を果たしたといわれる米内光政提督の興味深いエピソードがあります.彼は,昭和11年の2.26事件発生当時,横須賀鎮守府司令官の職にありましたが,そのころ,ある大佐から「葉隠」に関する所感を書いたので部下に配布したいと,当時の同鎮守府参謀長井上成美少将にその原稿をわたしました.井上参謀長は,米内長官に「所轄長かぎり参考として閲読させるならよろしいと思います」という意見を付して廻したところ,それを読んだ長官は,「葉隠は自殺奨励だよ.危険だからいけない」と返してよこしたそうです.(cf. 阿川弘之『米内光政 上巻』,昭和53年,新潮社,p163)

また,航空特攻は,昭和19年10月フィリピンで行われたのが最初で,沖縄戦を境に海軍全般の戦法になっていったようですが,記録によると,当時,海軍次官だった井上成美中将は,特攻について「これはもはや,兵術というものとちがう」と語り,特攻作戦について,最終決済を与える立場にあり免責無関係ではない米内海相に「このままだと,こうした悲惨なことが際限なくつづきます.大臣,手ぬるい.一日も早く」と叱りつけるような調子でつめよる様子を秘書官たちは見たそうです. (cf. 阿川弘之『米内光政 下巻』,昭和53年,新潮社,pp141f)
*3) ホイジンガ 著,高橋英夫 訳,『ホモ・ルーデンス』(中公文庫),昭和63年(第15版),中央公論社, p276
*4) ibid., pp190ff
*5) もし,日本人が,世界から良識ある近代的文明人と認められたいのであれば,歴史を通じて,特に近代において,アジアの隣国に対し,特に一般市民に対して行った一連の戦時国際法違反の非人道的行為を自ら客観的な手段を用いて徹底的に究明する必要があると思っています.そして,それを国民共通の公の認識とできたとき,初めて「普通の国」と自称することができるかもしれません.戦争の恐ろしさを伝えるという行為は,そうした前提がなければ全く意味をなさないでしょうし,日本人がしきりに口にする「歴史の風化」という現象も,こうした分野における努力が殆どなされていないことがその根底にあると思います.加えていうならば,ある人々は,「武士道」と言う言葉を好むようですが,私の勝手な解釈では,こうした自らが犯した過ちを潔く認めるという姿勢も「武士道」の精神の中に含まれるものだと思っています.(「武士道」という言葉自体,慶長年間から使われ始めたもので,極めて政治的な意図の下につくられたもののようですが.)
*6) 加えて,旧日本(海)軍の作戦や戦闘行動を眺めるとき,何故か徹底性に欠けていたという指摘が,真珠湾攻撃総隊長淵田美津雄氏(当時中佐)によってなされています.淵田氏は,昭和19年に実施され,結果的に失敗した捷一号作戦終了後の所感として以下の記録を残しています.捷一号作戦とは,もはや敵艦隊と互角に戦えるだけの戦力のない艦艇群(いわゆる栗田艦隊)を使い,レイテ湾内の敵輸送船団を撃滅させるというものでした.その際,当該の輸送船団の護衛に当たる空母17隻によって構成される敵機動艦隊(ハルゼー機動艦隊)を,搭載する飛行機さえほとんど無い小沢機動艦隊を囮として誘い出し,攻撃対象から離れさせておくという戦術がとられたのです.しかし,栗田艦隊は,このデコイ作戦がかろうじて成功したにも拘らず,たまたま別の第七艦隊(キンケイド艦隊)の護衛空母群を発見し,それとの戦闘を開始したため,本来の任務であるレイテ湾突入の機を逃してしまい,壊滅的大打撃を被った結果,連合艦隊の組織は事実上全滅したのでした.そして,その後,体当たり戦法が採用されていったのです.連合艦隊司令部が,当時の自らの置かれた状況を合理的に判断し,立案した作戦であったにも拘らず,今もって,従前のような戦艦や重巡洋艦による艦隊同士の決戦に挑む事こそ自らの使命であるという非合理な時代錯誤的意識に囚われた現場指揮官によって招かれた結末でした.
大東亜戦争開戦以来、私のみているところ、日本の提督たちは、勝負度胸に乏しい。言うなれば、しつこさがないのである。南雲提督は真珠湾で反覆攻撃をやらなかったし、三川提督は、ソロモンの夜戦で、もうひとつ突きこめば敵を全滅出来るのに、さっさと引き上げている始末であった。
 爾来、太平洋の各戦域において、日本の提督たちには、もうひとつという勝負度胸がないのであった。そして、こんどは、レイテ沖海戦における栗田提督である。私は、歯がゆくって仕方がない。(cf. 中田整一 編『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』,2007年,講談社,p233)
なお,合理性に関連して,思い出した言葉があります.昭和二十年四月,戦艦大和の沖縄突入作戦に第四(副砲)分隊長兼副砲射撃指揮官として参加した臼淵磐大尉が,出撃後艦上で語ったという次の言葉です.
 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩といふことを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れてゐた。
 敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救はれるか。今目覚めずしていつ救はれるか。
 俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望ぢゃないか。」(cf. 「臼淵大尉の場合」in 吉田満『鎮魂戦艦大和』,昭和53年,講談社文庫,p32)
21歳で大和と運命を共にした臼淵大尉が残した言葉の中で,彼が使った「進歩」という言葉の意味について著者の吉田氏自身,その解釈を試みていますが,僭越ながら,大尉によって使われた「進歩」という言葉は,今日,私たちが使う「合理性」という言葉とほぼ同じ意味を持っていたのではないかと思っています.あるいは,少なくとも彼が言う「進歩」とは,合理性を前提とするものではなかったかと.

こうした合理性と非合理性の混在が,第二次世界大戦における日本の辿った方向に軽視出来ない影響を及ぼしたことは確かであると思いますが,現代の私たちも,果たして合理性に基づいた共通の市民意識というものを持っているかどうか,少々心もとないところがあるように思えてならないのです.

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