Sunday 10 March 2013

エジプトの女性解放運動の活動家を支援するためにもろ肌を脱いだ40人のイスラエルの女性たち

3月1日にARTEで放送されたReportageの中で取り上げられた話題をもうひとつ.

イスラム法を新憲法の中に組み入れようとする現政権に対する抗議から,自らの全裸の写真をそのブログに掲載したエジプト人アリア・エルマハディさん(Ms Aliaa Elmahdi or Aliaa Elmahdy).現在は,滞在先のスウェーデンで亡命が許可され,希望する映画学校への進学のための奨学金も得る事ができたそうです.

面白かったのは,アリアさんの活動を知った,イスラエルの音楽家オルカ・テプラーさん(Ms Orka Tepler)さんと友人たち40人が,彼女を支援しようと,やはり衣服を脱いで撮影した集合写真を公開したことでした.オルカさんによると,アリアさんのことを知ったとき,丁度,彼女の国イスラエルでは,やはりユダヤ教の保守勢力が,バスの車内で男女が同じ席に腰掛ける事を禁止するという法律の制定を図っており,それに対する反発を強めていたオルカさんが,アリアさんの行動に共鳴し,こうした行動に出る事にしたそうです.最終的に中東に平和を確立するのは,女性なのかもしれませんね.生物学的に言っても,種の保存の本能はやはり女性だけが持っているものなのかもしれません.

同じリポートの中で,エジプトで,女性の権利擁護と地位の向上のために活動している,医師であり,作家のナワル・アル・サアダウィさん(Ms Nawal El Saadawi)も紹介されていましたが,80歳を越えた今でも,カイロの広場に赴き,イスラム法を引用して一夫多妻制は神によって認められていると主張する男性たちと,同制度に反対する彼女の議論の様子は印象的でした.さらに,特に共感を覚えたのは,取材班からのインタビューに対して語られた彼女の以下の言葉でした.

"私たちは,軍事独裁政権と戦いました.そして,今は,宗教の独裁政権と戦っているのです.後者は,前者より危険です.なぜなら,軍人たちは,実弾を発砲したりしますが,彼らとの対話は可能です.しかし,宗教による独裁政権とは対話は不可能なのです.彼らは,神の名のもとに語ります.神と討論することなど許されないでしょう."

まさに仰る通りと思います.チュニジアから始まった一連の,アラブの春と呼ばれる出来事ですが,日本を含め,先進自由主義諸国は,中東の民主化が始まったと諸手を上げて歓迎しました.しかし,中東や北アフリカのイスラム圏諸国は,ヨーロッパ諸国が経て来たような歴史を持っていません.すなわち,後者においては,宗教革命やルネサンスを経て,市民革命が起きました.しかし,アラブの国々では,こうした一連の西欧的な近代化の過程が存在していないのです. 人間の言語で書かれた神からの啓示を批判的姿勢で分析し,同時に,人間の知識や認識の限界を認め合う,つまり,神の絶対性はあくまで個人の信仰の領域にとどめ,公共の領域ではそれを相対化する事で,初めて,異なる見解を持った当事者同士の対話,さらにそうした姿勢を基礎として民主主義の実現は可能なのであり,そうした前提が無い場合は,民主主義に基づいた近代市民社会の実現は,容易なことではないのではないかというのが,個人的な思いです.確かに,タリバンに属する夫により鼻を切り取られた女性のニュースなどに接すると,イスラム教の教えに厳格に従う社会では,色々な形で女性への激しい差別や抑圧が行われており,それに対する一部の女性たちの反発が,ときにこうした極端な形で現れる事も理解できないことではありません.しかし,果たして彼女たちと伝統的,保守的なイスラム教徒たちとの間に相互理解,そして和解は可能でしょうか.結局,このまま,互いを徹底的に否定し合うことが続いてしまうのではないか,しかも激しさを増し加えながら.そんな懸念を抱いています.個人的な体験からお話させていただくと,フランスの大学で初めてフランス語を学んでから,数年前のアルジェリア勤務に至迄,これまで本当に多くのイスラム圏諸国の人たちにお世話になってきました.*1)彼らのやさしさ,心の豊かさには,安らぎや羨望を覚えたものです.そうしたイスラム圏諸国において,外国人を含む多くの犠牲を出している混乱が続いていることが本当に残念でなりません.

なお,日本も宗教革命や,ルネサンス,さらに市民革命も経験していません.しかし,日本の場合は,幸か不幸か,その宗教に対する基本認識が言語による啓示宗教のそれではなく,神と人間やそれ以外のもののすべての関係を情緒的なもの,すなわち,母親と小児との間に存在するような非言語的関係として捉える自然宗教に対するものです.そのため,少々荒っぽい言葉で表現するならば,最後は,みんなで家族としてまとまろうといったスローガンでまとまることができるのです.(少なくとも,これまでの話ですが...)たとえば,明治政府のイデオローグ井上毅によって構築された明治政権の政治システムも,国民全員をひとつの家族として,その家父長(Patriarch)として天皇を置くというものでした.もちろん,日本のような国でも,まとまりが良い分,一旦誤った方向に進む*2)と前大戦のような悲惨な結末に至る場合があることも事実ですが.そして,そうした場合,誰の責任も明らかにされないということも...


*1) 例えば,昔,一週間程滞在したパキスタンのカラチでは,一人で散歩の途中道に迷っていた,通りかかったタクシーの運転手さんから声をかけられ,事情を説明したら(英語で)無料でホテルまで送ってもらったこともあります.また,最近でも,ドイツを旅行中,駅のホームの券売機で切符を買おうとしていると,丁度到着した列車から降りて来た,身長の高いスポーツ選手風のアラブ系青年から,「自分はもう使わないから,列車に乗るんだったらこれを使ってください」と人なつこそうな笑顔を見せながらも,少々強引にその日有効の一日乗車券を渡された事あります.(法的に問題があるといえばあるのですが,親切には感謝しました.もっとも,似たような経験をスイスでもしたことがあります.そのときは,地元の紳士から頂きました.節約を好むスイス人のことなので,まだ有効期間が残っているものを捨ててしまうのはもったいないのだろうと,そのときは,感謝すると同時に思いましたが.
*2) より正確には,ホイジンガが,ナチス政権の樹立後執筆した『朝の影の中に』で言っている「小児的心理の大人」 的傾向が強くなりすぎると,つまり,空想や夢想と現実を混同して,国の進路を決定づけるような重大な局面に於いて合理的な判断ができなくなるとと言うべきですが.

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