Sunday 24 March 2013

スンニ派とシーア派の和解の象徴,バグダットのアル・アイマ橋

3月16日に放送されたARTE Reportageで,サダム・フセインの失脚から10年を経たイラクの現状が報告されていました.

その中で,特に印象に残ったのが,首都バグダットの,スンニ派住民が暮らすAdhamiya地区とシーア派住民の暮らすKadhimiya地区を結んでいるアル・アイマ橋で起こったある事件の話でした.

(詳しくは,ARTEの英文のサイトThe bridge of reconciliationをご覧ください.)

自らの息子をアメリカ軍に殺され,また,従兄弟とその子供がスンニ派とシーア派の対立により命を失ったという,地元のある名望家によって語られたその内容は,凡そ次のとおりです.

"侵攻して来たアメリカ軍による住民の無差別殺戮が始まってから,私たちは,毎日多くの遺体を埋葬しなければなりませんでした.そのため,この橋のそばに墓地が造られたのです.

(テロップ)アメリカ軍による侵攻は,スンニ派とシーア派間の緊張を再び高め,2006年から2008年の間の内戦は,毎日100名の死者を出した.

スンニ派とシーア派は,互いに相手の名前でその所属教派を確かめ,殺し合ったのです.例えば,Omarは,スンニ派の名前です.シーア派の地区で自分の名前がOmarであると明かしたとたん,殺されるという事が起きました.同様に,Ali,Husseinというのは,シーア派の名前です.これらの名前の人は,逆にスンニ派の地区で殺害されました.

(テロップ)2005年8月31日,アル・アイマ橋において,当時橋の上にいた1000人ものシーア派の巡礼者たちが,爆弾が爆発するという誤った情報により混乱し,逃げまどう人々の下敷きとなったり,川に飛び込んだりして命を落とした.しかし,この悲劇から一つのシンボルが生まれた.彼の名は,Othman.スンニ派の信者で水泳のチャンピオンだった彼は,川に飛び込み,40人ものシーア派の巡礼者を救った.やがて,力が尽き果て,溺れて自らも命を落とした.

(Othmanさんの自宅で,彼の父親のそばに立って名望家は話を続ける.)

彼(Othmanさん)の行為は,宗派の違いに影響されることはありませんでした.そして,宗派間の対立の終結を促したのです.

(Othmanさんの父親)息子は,二日後に試合を控えていました.しかし,彼らを助けようと決心したのです.そして,亡くなりました.殉教者です.

(テロップ)アル・アイマ橋は,2005年に一旦閉鎖されたが,2010年に再び開放された.今日では,再び昔のように,スンニ派とシーア派の住民たちが橋の上を行き交っている."

バスラ地方だけで,アルジェリアの全石油埋蔵量の2倍もの石油埋蔵量を有すると言われ,多くの外国資本の企業が採掘を行い,多額の利益を挙げながらも,上水道を始め,多くの社会基盤整備が未だに進まないのイラクの現状を見せられ,結局,日本も参加したイラク戦争とは何だったのかという問いが頭に浮かんできました.少なくとも,結果的に宗派間の対立を激化させ,多くの死者を出した戦争に,侵攻した側に立って関与したという事実を,私たちは忘れるべきではないと思っています.

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