標記二本の映画*1)を観て,ふと,映画『ゴジラ』(1954年,東宝*2))の以下の場面を思い出しました.以前,芹沢博士からオキシジェン・デストロイヤーという,ゴジラを抹殺できるかもしれない手段の存在を知らされた恵美子*3)が,恋人の尾形と一緒に,ゴジラ対策のためにその使用を芹沢博士に依頼するため博士のもとを訪ねるシーンです.この研究の平和利用の目処が立つまでは秘密にしておくという約束を恵美子に破られた博士は,研究室でオキシジェン・デストロイヤーを破壊しようとします.そして,それを止めようとした尾形の額を誤って傷つけてしまいます.
正確に言えば,思い出したのは,特に太字で記した,いずれも芹沢博士の言葉です*4)
芹沢「尾形...許してくれ...
わかってくれよ.な! 尾形!」
太字の言葉について,「人間というものは弱いものだよ.」は,映画の中で映し出される,原子力発電所の誘致に踏み切らざるを得なかった地方の行政者の方々の姿を見て思い出したもの,また,「一個の人間として許すわけにはいかない」は,これまで核災害の恐ろしさについてほとんど無知だった,言わばニュクリアナイーブ(Nuclear naive)とでも称すべき私たち大半の日本人一人一人が持つべき意識なのではないかと強く感じた言葉です.「こんなものさえ造らなければ」 は,今回の悲惨な核災害を経験した多くの方々が感じていることではないでしょうか.
さらに詳しい感想は,またいつか,時間が許すときにお述べしたいと思っておりますが,例えば,この台詞の中で,「ゴジラ」を経済の衰退,過疎化などの,日本社会のいびつな構造によって引き起こされた郡部における諸問題に,そして,この恐ろしい怪物を倒すための最終兵器「オキシジェン・デストロイヤー」を,こうした問題を解決する切り札としての原子力発電施設に置き換えて読むこともできるのではないかと思のです.同様に,「世界の為政者たち」を日本の中央および地方の政治家,官僚,その他原子力発電事業から利益を得ているすべての機関,企業,団体などと読み替えることも.
そういえば,前述の目的のため,尾形に伴われて芹沢博士の元を訪れることを恵美子に決心させたのは,放射能を浴びて緊急救護所に収容された一人の女の子が,彼女を抱く恵美子の腕の中で「お母さん,お母さん」と言って泣きじゃくる様子を目の当たりにしたことでした.あの女の子の姿に,今,甲状腺の異常が多く検出されている,福島市や郡山市などに暮らす子供たちが,つい重なって見えてしまいます.
なお,映画の中では,ODおよびその設計図は,ゴジラが液化された後,芹沢博士の生命と共に消滅してしまいましたが,日本の原子力発電施設は依然として存在しています.事故を起こした福島第一原子力発電所の原子炉の廃炉の完了までにどの位の時が必要なのか,現実では未知数です.原子力発電所でも,一度も使用した事がなければ,建物を取り壊す予算が無い場合,ドイツのケルニーズ・ファミリーパークのように,施設全体をそのまま遊園地に転用することなども可能なのですが...
*1) 監督 船橋淳
*2) 原作 香山滋,脚本 村田武雄,脚本並びに監督 本田猪四郎,音楽 伊福部昭
*3) 芹沢博士の恩師,ゴジラ対策の責任者山根博士の一人娘.
*4) 手元にある,ゴジラ全編のサウンドトラックを収録した2枚組LPレコードから当該部分を筆写しました.
正確に言えば,思い出したのは,特に太字で記した,いずれも芹沢博士の言葉です*4)
芹沢「尾形...許してくれ...
もし,これが使用できるなら,誰よりも先に俺が持って出たはずだ.
だが,今のままでは,恐るべき破壊兵器に過ぎないんだ.わかってくれよ.な! 尾形!」
尾形「よくわかります.だが,今ゴジラを防がなければ,これから先一体どうなるでしょう.」
芹沢「尾形,もしも,一旦このオキシジェン・デストロイヤーを使ったら最後,
世界の為政者たちがだまって観ているはずがないんだ.
必ず,これを武器として使用するに決まっている.
原爆対原爆,水爆対水爆,その上さらにこの新しい恐怖の武器を人類の上に加えることは,科学者として,いや,一個の人間として許すわけにはいかない.
そうだろ.」
尾形「では,この目の前の不幸はどうすればいいんです.
このまま放っておくより他,仕方はないんですか.
今,この不幸を救えるのは,芹沢さん! あなただけです!
たとえ,ここでゴジラを倒すために使用しても,あなたが絶対に公表しない限り,
破壊兵器として使用される恐れはないじゃありませんか.」
芹沢「 尾形,人間というものは弱いものだよ.
一切の書類を焼いたとしても,俺の頭の中には残っている.
俺が死なない限り,どんなことで再び使用する立場に追い込まれないと誰が断言できる.ああ...こんなものさえ造らなければ...」
(テレビに映し出される女性コーラスとゴジラの放射能火炎によって灰塵と化した街.そして,バックに流れる彼女たちに歌声)
〽平和(やすらぎ)よ 太陽(ひかり)よ とくかえれかし
いのちこめて いのるわれらの
このひとふしの あわれにめでて
太字の言葉について,「人間というものは弱いものだよ.」は,映画の中で映し出される,原子力発電所の誘致に踏み切らざるを得なかった地方の行政者の方々の姿を見て思い出したもの,また,「一個の人間として許すわけにはいかない」は,これまで核災害の恐ろしさについてほとんど無知だった,言わばニュクリアナイーブ(Nuclear naive)とでも称すべき私たち大半の日本人一人一人が持つべき意識なのではないかと強く感じた言葉です.「こんなものさえ造らなければ」 は,今回の悲惨な核災害を経験した多くの方々が感じていることではないでしょうか.
さらに詳しい感想は,またいつか,時間が許すときにお述べしたいと思っておりますが,例えば,この台詞の中で,「ゴジラ」を経済の衰退,過疎化などの,日本社会のいびつな構造によって引き起こされた郡部における諸問題に,そして,この恐ろしい怪物を倒すための最終兵器「オキシジェン・デストロイヤー」を,こうした問題を解決する切り札としての原子力発電施設に置き換えて読むこともできるのではないかと思のです.同様に,「世界の為政者たち」を日本の中央および地方の政治家,官僚,その他原子力発電事業から利益を得ているすべての機関,企業,団体などと読み替えることも.
そういえば,前述の目的のため,尾形に伴われて芹沢博士の元を訪れることを恵美子に決心させたのは,放射能を浴びて緊急救護所に収容された一人の女の子が,彼女を抱く恵美子の腕の中で「お母さん,お母さん」と言って泣きじゃくる様子を目の当たりにしたことでした.あの女の子の姿に,今,甲状腺の異常が多く検出されている,福島市や郡山市などに暮らす子供たちが,つい重なって見えてしまいます.
なお,映画の中では,ODおよびその設計図は,ゴジラが液化された後,芹沢博士の生命と共に消滅してしまいましたが,日本の原子力発電施設は依然として存在しています.事故を起こした福島第一原子力発電所の原子炉の廃炉の完了までにどの位の時が必要なのか,現実では未知数です.原子力発電所でも,一度も使用した事がなければ,建物を取り壊す予算が無い場合,ドイツのケルニーズ・ファミリーパークのように,施設全体をそのまま遊園地に転用することなども可能なのですが...
*1) 監督 船橋淳
*2) 原作 香山滋,脚本 村田武雄,脚本並びに監督 本田猪四郎,音楽 伊福部昭
*3) 芹沢博士の恩師,ゴジラ対策の責任者山根博士の一人娘.
*4) 手元にある,ゴジラ全編のサウンドトラックを収録した2枚組LPレコードから当該部分を筆写しました.
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