スイスの州のうち最大の面積を誇るグラウビュンデン州.その150年にわたる建築史を彩るさまざまな建築物の写真展が,現在,首都クールの州立美術館で開催されています.(2013年5月12日迄)
そのうち数点が,swissinfo.chのサイトに掲載されていました.
グラウビュンデン州立美術館のサイトへのアクセスはこちらから.
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フランス語圏で発行されている雑誌や新聞の記事の中から,あまり日本の報道が扱わない話題や提供しない視点を紹介します.たまに,ドイツ語圏の雑誌や新聞の記事も紹介します.そして,ときには,それらを通して見えてくる日本の社会や日本人についても考えます.その他,旅行の報告や趣味の話(主に鉄道)などをつれづれなるままに綴ることもあります.
それまで、戦闘の過程で結果的に体当りに至った例は少なくなかったが、はじめから体当りを前提とした攻撃は、あまりにも悲愴であり、あまりにも異常であった。この種の攻撃をのちに「特別攻撃」、略して「特攻」と呼びならわすようになるが、同じ呼称が、すでに真珠湾、シドニー港、ディエゴスワレス港を攻撃した″甲標的″にも用いられている。しかし、″甲標的″の場合は、搭載母艦に帰投できるように設計してあるので、「決死」の特攻であることは間違いないにしても、けっして「必死」の特攻ではなかった。特攻という言業が「決死」から「必死」へと転換しはじめたのは、南東方面の敗色が濃くなった昭和一八年中期ごろといわれる。ことに第一線部隊のあいだでは、このころから、敵の圧倒的な兵力に対抗するのは「必死の特攻」しかない、とする考えがめだってきた。こうした発想は、だいたい三つの論拠をもっている。
第一に、特攻用の兵器(特攻兵器)は比較的かんたんに多量生産できることである。つまり、目標に突進することを主目的とするから、それ以外の性能にかかずらう必要はないし、また、一種の消耗品だから、材料も節約できるからである。
第二に、特攻兵器の搭乗員は、練度の低いものでも勤まることである。つまり、日標に突進する訓練だけにしぼって、敵の攻撃を回避するとか、帰投するとかといった訓練を省略できるからである。
第三に、日本の軍隊組織のなかでは、もともと、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の葉隠れ思想や、「死は鴻毛より軽し」の軍人勅諭思想がひろく賞揚されていたことである。つまり、アッツ島いらいの玉砕思想が特攻思想へと移行して、戦闘の結果であった死が戦闘の目的にすりかわっても、ごく自然のことと受けとめられ、おもてだって批判する素地はまったくなかったのである。
(上掲書pp205f)*2)
兵器として見た場合にも、特攻兵器には致命的欠陥がいくつかある。
第一に、いうまでもないことだが、搭乗員の生命が一回ごとにかならず消耗されてしまうという事実である。特攻隊員の訓練は簡易化できるといっても、その生命を代償とする以上、戦力の蓄積もできないし、再生産もできない。けっきょくは、なしくずしの先細りにならざるを得ない。
第二に、搭乗員がかならず未帰還になるのだから、戦果の報告をうけられないということである「じじつ、特攻作戦が開始されてからというもの、戦果の判断に「見込み」の要素が多くなり、戦訓としてまとめることがひじょうにむずかしくなったのである。
第三に、とくに空中特攻兵器が、水上、水中特攻兵器と違って、敵艦船の水上部にしか被害を与えられないということである。水上部をいくら破壊しても、小型船ならいざしらず、撃沈の戦果をあげるわけにはいかない。戦艦、重巡洋艦、航空母艦などの大艦を目標とするかぎり、空中特攻はもっとも拙劣な攻撃法といわなければならない。水線部をねらうとすれば、かなりの練度を必要とする。水上部攻撃でも、誘爆などを期待できるかもしれないが、これはあくまで二次的な効果であって、確実性にとぼしい。主務設計者だった三木氏は、当時の心境を回顧して、「技術者としてはこのような必死の兵器を造るのはむしろ技術への冒瀆であるとさえ感じていたが、わが国の総合国力と急速に下り坂にある戦勢を考え合わせるとき、最後にはある部分はこれで行かざるを得まい、部隊の要望するものを要望するときに間に合わせなければ……と、その火と燃ゆる熱に動かされた」と書いている(『桜花設計記』航空ファン掲載)
(上掲書pp207f)
大東亜戦争開戦以来、私のみているところ、日本の提督たちは、勝負度胸に乏しい。言うなれば、しつこさがないのである。南雲提督は真珠湾で反覆攻撃をやらなかったし、三川提督は、ソロモンの夜戦で、もうひとつ突きこめば敵を全滅出来るのに、さっさと引き上げている始末であった。なお,合理性に関連して,思い出した言葉があります.昭和二十年四月,戦艦大和の沖縄突入作戦に第四(副砲)分隊長兼副砲射撃指揮官として参加した臼淵磐大尉が,出撃後艦上で語ったという次の言葉です.
爾来、太平洋の各戦域において、日本の提督たちには、もうひとつという勝負度胸がないのであった。そして、こんどは、レイテ沖海戦における栗田提督である。私は、歯がゆくって仕方がない。(cf. 中田整一 編『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』,2007年,講談社,p233)
「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩といふことを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れてゐた。21歳で大和と運命を共にした臼淵大尉が残した言葉の中で,彼が使った「進歩」という言葉の意味について著者の吉田氏自身,その解釈を試みていますが,僭越ながら,大尉によって使われた「進歩」という言葉は,今日,私たちが使う「合理性」という言葉とほぼ同じ意味を持っていたのではないかと思っています.あるいは,少なくとも彼が言う「進歩」とは,合理性を前提とするものではなかったかと.
敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救はれるか。今目覚めずしていつ救はれるか。
俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望ぢゃないか。」(cf. 「臼淵大尉の場合」in 吉田満『鎮魂戦艦大和』,昭和53年,講談社文庫,p32)
ハイルブロンの鉄道博物館で屋外展示されているブルーレディこと01 1102.メインロッドが外され,復活は期待できそうにない. |
03 1010は,ウィッテ式除煙板を除き,煙室扉の中央の円形開閉ハンドルや完全に覆われたエプロン部など,ドイツ帝国鉄道時代に開発されたEinheitslokとしての形状をとどめている数少ない動態保存機の一両.(旧東独国鉄所属機.一旦は重油燃焼式に改造されたが,その際のEDV番号は,東独国鉄の規則に従い,製造番号の最初の数が重油燃焼式を表す0に変更されたため,03 0010.後に再び石炭燃焼式に戻された.現在のナンバープレートは,セルフチェックディジットが付されていないので,オリジナル,つまりEDV番号以前のものに戻されたらしい.)HalleのDB博物館所蔵. |
In terms of specific cancers, for people in the most contaminated location, the estimated increased risks over what would normally be expected are:この中で,やはり一番気になるのは,最後の甲状腺がんの発症の可能性についての言及です.最も汚染度の高い地域においては,年少の女子における甲状腺がんの発症の可能性は最高で70%増加するということです.
- all solid cancers - around 4% in females exposed as infants;
- breast cancer - around 6% in females exposed as infants;
- leukaemia - around 7% in males exposed as infants;
For people in the second most contaminated location of Fukushima
- thyroid cancer - up to 70% in females exposed as infants (the normally expected risk of thyroid cancer in females over lifetime is 0.75% and the additional lifetime risk assessed for females exposed as infants in the most affected location is 0.50%).
Prefecture, the estimated risks are approximately one-half of those in the location with the highest doses.
一昨年南ドイツを旅行中に見かけた,Aglis鉄道の列車に連結されていたラインゴールド(TEE)塗装の食堂車.屋根にはパンタグラフが見えます. |