零戦開発時の主査堀越技師をテーマにした作品ということで標記映画を観に行きました.以下,感想というより観ていて思ったことや思い出したことをいくつか記します.
最後に,感想めいたことを少し記します.
『風立ちぬ』は,ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』を下敷きにした,寓意に富んだ映像詩とでも呼べる作品だと思います.そのため,零戦の開発過程を中心主題としたものと思って観ると,期待はずれのものとなってしまうでしょう.もし,そのような作品を望むのであれば,ペーパーコミックですが,小澤さとる氏の『黄色い零戦―イエロー・ファイター』(新潮コミック)などのほうがストーリー展開もはるかにわかりやすく,期待に十分応えてくれます.*8)一方,本作品は,堀越技師と同僚の会話の中で何故《アキレス》がしばしば現れるのか,あるいは,最後のシーンの多数の飛行機の残骸の意味など,ヴァレリーの詩を読んでいないと,監督が意図したものを理解するのはむずかしいように思えます.
宮崎監督が,この作品を通じて表現したかったもののひとつに,生命と創造の息吹に満ちた地中海文化圏と暗く,寒い,どちらかというと生より死を想起させがちのアルプス以北の文化圏の対比があったのではないかと思います.そして,その対比を通して,生命=創造対死=破壊の対比を描きたかったのではないかと思うのです.(少なくとも,それがヴァレリーの詩の主題であると思いますが.)たとえば,作品全体を通して堀越技師の精神的な父として登場するカプローニ氏はイタリア人で,二人の会話は,どこか『風の谷のナウシカ』におけるユパ・ミラルダとナウシカの間のそれを思い出させますが,彼は象徴的な意味でも地中海文化圏,すなわち生命=創造の世界の住人です.(彼の国は,ムッソリーニのような人物を指導者として仰いだこともあったにせよ.)*9)さらに,菜穂子夫人もカプローニ氏と同じ世界の住人といえます.それは,彼女が,アルプス以北文化圏を作品内において象徴しているドイツではなく,地中海文化圏を象徴しているフランスと関連づけられているからです.最初に堀越技師に出会ったとき,彼女は「Le vent se lève」とフランス語でヴァレリーの詩を彼に投げかけ,また,軽井沢で再会する場面での彼女はモネの『日傘をさす女』*10)によく似た陽光溢れる風景の中に現れますが,これらのアトリビュート*11)により,彼女はフランス,しかも,特にその地中海文化圏に属する部分と結びつけられて描かれているのです.
これら二つの世界の間で翻弄される堀越技師は,夢の中ではカプローニ氏に,そして現実世界(あくまで映画の中における)では菜穂子夫人によって,生命=創造の世界に導かれ,その結果,零戦の先行モデルである革新的な九七式艦上戦闘機を完成させるに至ります.
*1) 8620や9600と言えば,ボイラー両脇に設置された歩行板の両端,つまり前方のエプロン部と後方の運転台につながる箇所が一旦下に向かって直角に折れた後,それぞれ曲線を描いて外側へ水平へ伸びるデザインとなっていますが,これは当時の開発事情を見る限り英国の機関車のデザインを真似たものでしょうが,ドイツの領邦鉄道時代に製造された機関車でも同様のデザインがされた車両がありました.下の写真は,ノイエンマルクトのドイツ蒸気機関車博物館(Deutsche Dampflokomotiv Museum)所蔵の38(旧プロイセン国鉄P8形:2'C h2;動輪直径:1750 mm)ですが,そのようなデザインを持ったマシンのひとつです.また,特に8620では,運転台の前下部がS字カーブを描いたデザインの車両もありますが,こうしたデザインも1887年から製造されたプロイセン国鉄の旅客用テンダー機P 3.2や同じく急行旅客用S 4(世界最初の過熱蒸気式機関車)などに見られるものです.日本の国鉄でも,最初の標準機6700形がこのデザインでした.確認した訳ではありませんが,こうしたデザインは恐らくドイツが最初に採用したものと思っています.(英国の機関車は,初期からかなり長い間,歩行版の位置が低くエプロン部から運転台の下迄直線のままでした.)
*2) 下の写真は,ノルトリンゲンのバイエルン鉄道博物館(Bayerisches Eisenbahnmuseum)所蔵の美しい緑塗装の18(旧王立バイエルン鉄道のS 3/6:2'C1' h4v; 動輪直径:1.870 mm).往年の豪華特急ラインゴールドなどの先頭を飾った,ドイツの急行旅客用機の中で最も美しいエンジンのひとつ.彼女はまもなくボイラーの耐用期限を迎えるため,来年2014年はさよなら運行として様々な特別列車の牽引が予定されています.例えば,2月1日に運行が予定されているノルトリンゲン発リンダウ行きウィンターエキスプレスなど.これらの特別列車に関する詳しい情報はこちらから.お問い合わせや予約はこちらから.
*3) ドイツの蒸気機関車の汽笛の構造は,こちらをご覧下さい.
*4) ところで,鉄道ファンとしては,もし本作品が海外の,特にヨーロッパの映画祭に出品されるとしたら,当該のシーンの汽笛の音を是非18形のそれに換えていただければと思います.たかが汽笛の音ですが,少々大げさに言えば,人間が長きにわたってつきあって来た鉄道の機械が発する音のなかで,汽車の汽笛は民族の無意識の中に固定されている重要な記憶として,それ以外の民族固有の記憶と強く結びついている音といえます.そのため,慣れ親しんでいるものとは異なる音を聞いた場合,観客が映画を観ながら行う追体験の流れが中断してしまう可能性があるでは,つまり,興ざめしてしまうのではと思ってしまうのです.(厳密に言うならば,作品中登場した9600や8620の汽笛も,本来は3室音で5室音より高音でなければならないのですが.こちらはそれほど気になりませんでした.)
*5) Wikipediaの情報によると,1928年10月にEC40と呼称変更されたため,本来なら映画に登場する際,ナンバープレートには10000ではなくてEC40と表記されているべき.なお,こちらのサイトの情報によると同形式は1936年の4月に一斉に廃車されたそうです.また,集電装置も当初はポールと集電靴の併用方式がとられていたが,後にパンタグラフ集電に変更されたそうなので,恐らく映画で描かれた時代においてはすでに変更されていたと思われます.
*6) 今でもドイツや東欧,さらにトルコなどで動態保存されている52形ですが,1942から7000両以上が製造され,当時としては,世界で最も多く製造された蒸気機関車でした.1E配置で運転整備時重量84トン,最高速度は80km/h.ポーランドのウォルスティン機関区所属の同形式は,今でもばりばりの現役機です.戦後,ポーランドではTy2の形式名が与えられましたが,これをベースにポーランドで製造されたのがTy42です.
*7) 日本で最初に開通した新橋,横浜間の路線の建設を指揮した工部省鉄道頭井上勝は,元萩藩士であり,幕末にロンドンへ密航し留学した経験を持っていました.
*8) ただ,本作品のラスト近く,97式艦戦の牛に牽かれた搬送の様子,スピードチェックの様子など,各シーンの構図から見て,恐らく宮崎監督は小澤氏の作品の当該の箇所を参考にされたように思えます.
*9) 堀越技師とカプローニ氏の関係に象徴されるように,外国に教え導いてくれる存在を求める姿勢は日本人が長い歴史の中で自然に身につけてきたものです.そうした姿勢や日本のドラマやアニメーションにしばしば現れる父親探しのモチーフについての所感をこちらにまとめてみました.長文で読みずらいと思いますが,ご興味がありましたらご笑覧ください.なお,なお,1960年代のテレビ・アニメーションやSF映画のことを多少ご存知でないと理解しずらいかも知れません.
*10) パリ近郊のアルジャントゥイユに済んでいた時代(1871-1878)の作品
*11) Attribute - キリスト教絵画の中で聖人たちが手に持つなどしている,彼らのアイデンティティを示す品物.
- 大正時代の国産の名機関車9600形,8620形*1)が登場し,さすがは機械に凝る宮崎監督と嬉しくなりました.ただ,欲を言わせていただければ,1930年台前半当時の東海道線が登場する場面では,旅客列車ではC51, あるいはC53を,また貨物列車ではD50を,それぞれ牽引機として走らせてほしかったのですが.
- 堀越技師が欧米を視察するとき,ドイツで乗車した列車がS 3/6(BR 18)形蒸気機関車*2)に牽引されていたので,やはり嬉しくなりました.なお,どうでも良いことですが,汽笛の音に日本の機関車のものと思われる音(昭和初期以降の機関車の五室音と呼ばれる複音汽笛.C54形から導入されたもの.)が使われていたので,ちょっとだけがっかりしました.(ドイツの蒸気機関車の汽笛は,おしなべて日本の機関車のものより高音です.そのためか,場合によっては物悲しく聞こえます.*3))参考迄に,こちらの動画で01と18の汽笛を聴き比べることができます.)*4)
- 信越線の碓氷峠に導入された最初の電気機関車,ドイツ製の10000形*5)も登場しました.
- ユンカースについては,多数のJu52がドイツやスイスに動態保存されているので,それらに乗って遊覧飛行を楽しむことができます.(例えば,こちらのサイトをご覧下さい.)ふと気づいたのですが,今でも航空機のオールドタイマーとして人気のあるJu52も,各地で現役の蒸気機関車52形*6)も,両方ともドイツの工業技術の歴史に残る名機ですが,それぞれ名前に52という番号を含んでいますね.面白い符合です.日本にもC52(米国製の3気筒機),D52という蒸気機関車がありましたが.
- 日本の技術者は航空においても鉄道(たとえば島安次郎技師など)においても戦前は,どちらもドイツを向いていた模様ですね.ただ,少なくとも後者に関する限り,最初,つまり明治においては,新政府の中枢を占めていたのが,幕末以来英国と深い関係にあった鹿児島藩や萩藩出身者たちであったため,英国をお手本としましたが.*7)
- 最初に登場する航空母艦は,艦橋がないので千歳でしょうか.
- 同航空母艦の背景の軍艦は,煙突の形状から判断すると高雄型の巡洋艦でしょうか.
最後に,感想めいたことを少し記します.
『風立ちぬ』は,ポール・ヴァレリーの詩『海辺の墓地』を下敷きにした,寓意に富んだ映像詩とでも呼べる作品だと思います.そのため,零戦の開発過程を中心主題としたものと思って観ると,期待はずれのものとなってしまうでしょう.もし,そのような作品を望むのであれば,ペーパーコミックですが,小澤さとる氏の『黄色い零戦―イエロー・ファイター』(新潮コミック)などのほうがストーリー展開もはるかにわかりやすく,期待に十分応えてくれます.*8)一方,本作品は,堀越技師と同僚の会話の中で何故《アキレス》がしばしば現れるのか,あるいは,最後のシーンの多数の飛行機の残骸の意味など,ヴァレリーの詩を読んでいないと,監督が意図したものを理解するのはむずかしいように思えます.
宮崎監督が,この作品を通じて表現したかったもののひとつに,生命と創造の息吹に満ちた地中海文化圏と暗く,寒い,どちらかというと生より死を想起させがちのアルプス以北の文化圏の対比があったのではないかと思います.そして,その対比を通して,生命=創造対死=破壊の対比を描きたかったのではないかと思うのです.(少なくとも,それがヴァレリーの詩の主題であると思いますが.)たとえば,作品全体を通して堀越技師の精神的な父として登場するカプローニ氏はイタリア人で,二人の会話は,どこか『風の谷のナウシカ』におけるユパ・ミラルダとナウシカの間のそれを思い出させますが,彼は象徴的な意味でも地中海文化圏,すなわち生命=創造の世界の住人です.(彼の国は,ムッソリーニのような人物を指導者として仰いだこともあったにせよ.)*9)さらに,菜穂子夫人もカプローニ氏と同じ世界の住人といえます.それは,彼女が,アルプス以北文化圏を作品内において象徴しているドイツではなく,地中海文化圏を象徴しているフランスと関連づけられているからです.最初に堀越技師に出会ったとき,彼女は「Le vent se lève」とフランス語でヴァレリーの詩を彼に投げかけ,また,軽井沢で再会する場面での彼女はモネの『日傘をさす女』*10)によく似た陽光溢れる風景の中に現れますが,これらのアトリビュート*11)により,彼女はフランス,しかも,特にその地中海文化圏に属する部分と結びつけられて描かれているのです.
これら二つの世界の間で翻弄される堀越技師は,夢の中ではカプローニ氏に,そして現実世界(あくまで映画の中における)では菜穂子夫人によって,生命=創造の世界に導かれ,その結果,零戦の先行モデルである革新的な九七式艦上戦闘機を完成させるに至ります.
9月1日付電子版Le Mondeの宮崎駿監督引退を伝える記事に掲載されていた宣伝用動画
*1) 8620や9600と言えば,ボイラー両脇に設置された歩行板の両端,つまり前方のエプロン部と後方の運転台につながる箇所が一旦下に向かって直角に折れた後,それぞれ曲線を描いて外側へ水平へ伸びるデザインとなっていますが,これは当時の開発事情を見る限り英国の機関車のデザインを真似たものでしょうが,ドイツの領邦鉄道時代に製造された機関車でも同様のデザインがされた車両がありました.下の写真は,ノイエンマルクトのドイツ蒸気機関車博物館(Deutsche Dampflokomotiv Museum)所蔵の38(旧プロイセン国鉄P8形:2'C h2;動輪直径:1750 mm)ですが,そのようなデザインを持ったマシンのひとつです.また,特に8620では,運転台の前下部がS字カーブを描いたデザインの車両もありますが,こうしたデザインも1887年から製造されたプロイセン国鉄の旅客用テンダー機P 3.2や同じく急行旅客用S 4(世界最初の過熱蒸気式機関車)などに見られるものです.日本の国鉄でも,最初の標準機6700形がこのデザインでした.確認した訳ではありませんが,こうしたデザインは恐らくドイツが最初に採用したものと思っています.(英国の機関車は,初期からかなり長い間,歩行版の位置が低くエプロン部から運転台の下迄直線のままでした.)
*2) 下の写真は,ノルトリンゲンのバイエルン鉄道博物館(Bayerisches Eisenbahnmuseum)所蔵の美しい緑塗装の18(旧王立バイエルン鉄道のS 3/6:2'C1' h4v; 動輪直径:1.870 mm).往年の豪華特急ラインゴールドなどの先頭を飾った,ドイツの急行旅客用機の中で最も美しいエンジンのひとつ.彼女はまもなくボイラーの耐用期限を迎えるため,来年2014年はさよなら運行として様々な特別列車の牽引が予定されています.例えば,2月1日に運行が予定されているノルトリンゲン発リンダウ行きウィンターエキスプレスなど.これらの特別列車に関する詳しい情報はこちらから.お問い合わせや予約はこちらから.
*3) ドイツの蒸気機関車の汽笛の構造は,こちらをご覧下さい.
*4) ところで,鉄道ファンとしては,もし本作品が海外の,特にヨーロッパの映画祭に出品されるとしたら,当該のシーンの汽笛の音を是非18形のそれに換えていただければと思います.たかが汽笛の音ですが,少々大げさに言えば,人間が長きにわたってつきあって来た鉄道の機械が発する音のなかで,汽車の汽笛は民族の無意識の中に固定されている重要な記憶として,それ以外の民族固有の記憶と強く結びついている音といえます.そのため,慣れ親しんでいるものとは異なる音を聞いた場合,観客が映画を観ながら行う追体験の流れが中断してしまう可能性があるでは,つまり,興ざめしてしまうのではと思ってしまうのです.(厳密に言うならば,作品中登場した9600や8620の汽笛も,本来は3室音で5室音より高音でなければならないのですが.こちらはそれほど気になりませんでした.)
*5) Wikipediaの情報によると,1928年10月にEC40と呼称変更されたため,本来なら映画に登場する際,ナンバープレートには10000ではなくてEC40と表記されているべき.なお,こちらのサイトの情報によると同形式は1936年の4月に一斉に廃車されたそうです.また,集電装置も当初はポールと集電靴の併用方式がとられていたが,後にパンタグラフ集電に変更されたそうなので,恐らく映画で描かれた時代においてはすでに変更されていたと思われます.
*6) 今でもドイツや東欧,さらにトルコなどで動態保存されている52形ですが,1942から7000両以上が製造され,当時としては,世界で最も多く製造された蒸気機関車でした.1E配置で運転整備時重量84トン,最高速度は80km/h.ポーランドのウォルスティン機関区所属の同形式は,今でもばりばりの現役機です.戦後,ポーランドではTy2の形式名が与えられましたが,これをベースにポーランドで製造されたのがTy42です.
*7) 日本で最初に開通した新橋,横浜間の路線の建設を指揮した工部省鉄道頭井上勝は,元萩藩士であり,幕末にロンドンへ密航し留学した経験を持っていました.
*8) ただ,本作品のラスト近く,97式艦戦の牛に牽かれた搬送の様子,スピードチェックの様子など,各シーンの構図から見て,恐らく宮崎監督は小澤氏の作品の当該の箇所を参考にされたように思えます.
*9) 堀越技師とカプローニ氏の関係に象徴されるように,外国に教え導いてくれる存在を求める姿勢は日本人が長い歴史の中で自然に身につけてきたものです.そうした姿勢や日本のドラマやアニメーションにしばしば現れる父親探しのモチーフについての所感をこちらにまとめてみました.長文で読みずらいと思いますが,ご興味がありましたらご笑覧ください.なお,なお,1960年代のテレビ・アニメーションやSF映画のことを多少ご存知でないと理解しずらいかも知れません.
*10) パリ近郊のアルジャントゥイユに済んでいた時代(1871-1878)の作品
*11) Attribute - キリスト教絵画の中で聖人たちが手に持つなどしている,彼らのアイデンティティを示す品物.
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