今年の4月,ポーランドのウォルスティンという町で毎年開催される蒸気機関車祭りを観に行ってきました.
当日は雨模様だったものの,ドイツのコットブスから01 5,23 10*1),そして18 201によって牽引推進された特別列車でのウォルスティン往復の旅は,ドイツSLのファンの一人として思い出ぶかいものとなりました.
このウォルスティンという町には,マルチン・ロジェック美術館(Marcin Rożek Museum)という美術館があり,ウォルスティンゆかりの画家であり彫刻家マルチン・ロジェックの作品が展示されています.館内を見て回る前に学芸員の方から,ロジェックと展示品についての説明を伺いましたが,日本から来たのなら是非見せたいものがあるといって案内してくれたのが下の肖像画でした.
モデルとなったタデウス・ヘルトレ(Tadeusz Haertle)氏についてはこのとき初めて知りましたが,日本に戻って調べると,同氏については義理の娘さんにあたる安宅温さんの著書『ひびけ青空へ!歓喜の歌 坂東ドイツ俘虜収容所物語』(ポプラ社刊)に詳しく書いてあることを知り,早速読みました.美術館では学芸員の方から,ヘルトレ氏が大阪でジェネラル・モータースに勤め,その後,和歌山や京都,西宮などの学校で英語を教えていたこと,また,日本で日本人女性と結婚し,結婚式は神社で挙げたこと,そして日本で亡くなったことなどを伺っていたのですが,ドイツ軍の兵士としてチンタオ戦に参加し,その後戦争捕虜として四国の松山の収容所に収容されていたことはこの本を読んで初めて知りました.
ドイツやロシアなどの周辺の大国の思惑に翻弄され,一時は国自体が消滅させられたポーランドですが,第一次大戦中,ヘルトレ氏が暮らしていたポズナンはドイツの領土となっていたため,彼は不本意ながらドイツ軍の兵士として日本軍との戦闘に参加させられたのでした.このあたりの事情を知ると,第二次世界大戦時,激戦を極めたイタリアのモンテ・カシノの攻略戦で,連合軍として参加したポーランド軍の兵士たちのドイツ軍に対する勇猛果敢な戦闘振りの理由がわかるような気がします.*2)ドイツ人捕虜たちとの生活を執拗に嫌ったヘルトレ氏もこうしたポーランド人の不屈の精神の持ち主だったのです.一旦は故郷ポーランドに戻ったものの,第二次世界大戦後,共産党政権が樹立されたため,それを嫌って再び来日し,ついに祖国に戻ることはなかったヘルトレ氏ですが,その生涯を思うとき,オギンスキのポロネーズ『祖国との別れ』*3)の旋律が思い出されます.
ポーランドを訪れたのは今回が初めてでしたが,何故か,昔からこの国には惹かれるものが多くあります.例えば,日本語に訳された作品は殆ど読んでいるSF作家スタニスラフ・レム*4),日本で公開された映画は殆ど観ている映画監督のアンジェイ・ワイダ,ナチスによる迫害にさらされた孤児たちのために命を捧げたコルチャック博士,アウシュビッツの聖者と呼ばれたコルベ神父,キュリー夫妻,そしてエスペラントを考案したザメンホフなど,これまで作品や記録を通じて多くのポーランド人と出会いました.さらに,ナチスの空爆を受け,がれきの山となった首都ワルシャワやグダンスクなどの昔の街並を忠実に復元したことも知りましたが,音楽や文学などの芸術や学術の諸分野において秀でた人材を輩出し,また,最後迄自分たちの文化や伝統,そして誇りを失わないこの国の人々をうらやましく思うと同時に,彼らに崇敬の念を覚えるものです.
ところで,ウォルスチンの町でコーヒーが飲みたくなったら,役場の広場にほど近いところにあるCafé de Parisがお薦めです.女将さんだと思いますが,とても親切に英語で対応してくれました.コーヒーと一緒に注文したケーキもとてもおいしく,雨に濡れて冷えた体に元気が戻るのを感じました.なお,ポーランドの通貨はズロティですが,街中の銀行ATMはもちろんクレジットカードによるキャッシングに対応しています.
蒸気機関車祭りで購入したお土産をひとつご覧にいれます.会場の特設郵便局で購入した記念葉書です.
*1) 23 1019:01 509および18 201同様,元東ドイツ国鉄の機関車の23 10形の一両.従来の23形と共通しているのは車軸配置やランニングギアの寸法のみ,ボイラーを始めその他のパーツは新しいものとなっていて,給水加熱器には01 5始め他の多くのEinheitslok同様,IfS/DR式(混合給水加熱器)が採用されている.(混合給水加熱器の構造図) 1970年5月のEDV番号導入以降は35 10形に改称された.また,1003号機以降は給水ドームは撤去されている.
*2) モンテ・カシノの戦闘を歌ったのが『モンテ・カシノの赤いポピー』(Czerwone Maki na Monte Casino)また,ポーランド軍のMI部はナチスの暗号を解読し,情報戦においても連合軍の勝利に大きく貢献した.
*3) Michał Kleofas Ogiński作曲によるPożegnanie Ojczyzny
*4) 特に好きなのが,『宇宙創世記ロボットの旅』と『砂漠の惑星』.二冊とも,これを越えるSF作品は地球上に存在しないと信じております.ただ,短編のコミックでは,岡崎二郎氏の『アフターゼロ』,『アフターゼロ ネオ』シリーズが最高のSF作品だと思っています.
当日は雨模様だったものの,ドイツのコットブスから01 5,23 10*1),そして18 201によって牽引推進された特別列車でのウォルスティン往復の旅は,ドイツSLのファンの一人として思い出ぶかいものとなりました.
国境を越えてポーランドに入った特別列車.往路の編成は,01 5+23 10+客車+18 201.Czerwiensk駅にて. |
このウォルスティンという町には,マルチン・ロジェック美術館(Marcin Rożek Museum)という美術館があり,ウォルスティンゆかりの画家であり彫刻家マルチン・ロジェックの作品が展示されています.館内を見て回る前に学芸員の方から,ロジェックと展示品についての説明を伺いましたが,日本から来たのなら是非見せたいものがあるといって案内してくれたのが下の肖像画でした.
1908年にロジェックによって描かれたタデウス・ヘルトレ氏の肖像画(20歳ごろ?).6年後の1914年,ドイツ軍兵士としてチンタオの戦闘に参加することになる. |
モデルとなったタデウス・ヘルトレ(Tadeusz Haertle)氏についてはこのとき初めて知りましたが,日本に戻って調べると,同氏については義理の娘さんにあたる安宅温さんの著書『ひびけ青空へ!歓喜の歌 坂東ドイツ俘虜収容所物語』(ポプラ社刊)に詳しく書いてあることを知り,早速読みました.美術館では学芸員の方から,ヘルトレ氏が大阪でジェネラル・モータースに勤め,その後,和歌山や京都,西宮などの学校で英語を教えていたこと,また,日本で日本人女性と結婚し,結婚式は神社で挙げたこと,そして日本で亡くなったことなどを伺っていたのですが,ドイツ軍の兵士としてチンタオ戦に参加し,その後戦争捕虜として四国の松山の収容所に収容されていたことはこの本を読んで初めて知りました.
ドイツやロシアなどの周辺の大国の思惑に翻弄され,一時は国自体が消滅させられたポーランドですが,第一次大戦中,ヘルトレ氏が暮らしていたポズナンはドイツの領土となっていたため,彼は不本意ながらドイツ軍の兵士として日本軍との戦闘に参加させられたのでした.このあたりの事情を知ると,第二次世界大戦時,激戦を極めたイタリアのモンテ・カシノの攻略戦で,連合軍として参加したポーランド軍の兵士たちのドイツ軍に対する勇猛果敢な戦闘振りの理由がわかるような気がします.*2)ドイツ人捕虜たちとの生活を執拗に嫌ったヘルトレ氏もこうしたポーランド人の不屈の精神の持ち主だったのです.一旦は故郷ポーランドに戻ったものの,第二次世界大戦後,共産党政権が樹立されたため,それを嫌って再び来日し,ついに祖国に戻ることはなかったヘルトレ氏ですが,その生涯を思うとき,オギンスキのポロネーズ『祖国との別れ』*3)の旋律が思い出されます.
ポーランドを訪れたのは今回が初めてでしたが,何故か,昔からこの国には惹かれるものが多くあります.例えば,日本語に訳された作品は殆ど読んでいるSF作家スタニスラフ・レム*4),日本で公開された映画は殆ど観ている映画監督のアンジェイ・ワイダ,ナチスによる迫害にさらされた孤児たちのために命を捧げたコルチャック博士,アウシュビッツの聖者と呼ばれたコルベ神父,キュリー夫妻,そしてエスペラントを考案したザメンホフなど,これまで作品や記録を通じて多くのポーランド人と出会いました.さらに,ナチスの空爆を受け,がれきの山となった首都ワルシャワやグダンスクなどの昔の街並を忠実に復元したことも知りましたが,音楽や文学などの芸術や学術の諸分野において秀でた人材を輩出し,また,最後迄自分たちの文化や伝統,そして誇りを失わないこの国の人々をうらやましく思うと同時に,彼らに崇敬の念を覚えるものです.
ところで,ウォルスチンの町でコーヒーが飲みたくなったら,役場の広場にほど近いところにあるCafé de Parisがお薦めです.女将さんだと思いますが,とても親切に英語で対応してくれました.コーヒーと一緒に注文したケーキもとてもおいしく,雨に濡れて冷えた体に元気が戻るのを感じました.なお,ポーランドの通貨はズロティですが,街中の銀行ATMはもちろんクレジットカードによるキャッシングに対応しています.
ヘルトレ氏の肖像画へ案内してくれた学芸員のマリウスさん.退館するとき,応急ポーランド語会話も教えてくれました.でも,ポーランド映画を観ていたおかげで,ドーブリジンとジンクエは判りました. |
マルチン・ロジェック美術館(中央の建物)の裏庭. |
蒸気機関車祭りで購入したお土産をひとつご覧にいれます.会場の特設郵便局で購入した記念葉書です.
お好みの切手を購入し,記念の消印を押してもらった絵葉書.ポーランド語なので読めませんが,parowózというのはエンジン,つまり機関車のことを意味しているようです.(切手が大きく,宛名が書きにくそう.) |
国内各地からはもちろん,ドイツ,アメリカ,オーストラリア,そして日本など世界中から大勢のファンを集めている蒸気機関車祭りですが,その最大の呼び物は,なんといっても当日午後の蒸気機関車のパレード.ウォルスティン駅の構内を10台ほどの機関車が何回も往復します.会場のMCはポーランド語とドイツ語.機関車好きとしては,こういうものこそ世界遺産にしてほしいのですけど.なお,ポーランドの蒸気機関車の形式表記については,WikipediaのPKP(ポーランド国鉄)classification systemをご覧下さい.同じくList of PKP locomotives and multiple unitsではPKPの機関車が紹介されています.ちなみにBR52はPKPではTy2と呼ばれます.(Tは貨物用,yは2-10-0の車輪配置(1'E)を表しています.) |
復路で特別列車の主務機を務めた増結テンダー付18 201.前補機は往路同様01 5,後補機は23 10*1).帰着直後,コットブス駅にて. |
*1) 23 1019:01 509および18 201同様,元東ドイツ国鉄の機関車の23 10形の一両.従来の23形と共通しているのは車軸配置やランニングギアの寸法のみ,ボイラーを始めその他のパーツは新しいものとなっていて,給水加熱器には01 5始め他の多くのEinheitslok同様,IfS/DR式(混合給水加熱器)が採用されている.(混合給水加熱器の構造図) 1970年5月のEDV番号導入以降は35 10形に改称された.また,1003号機以降は給水ドームは撤去されている.
*2) モンテ・カシノの戦闘を歌ったのが『モンテ・カシノの赤いポピー』(Czerwone Maki na Monte Casino)また,ポーランド軍のMI部はナチスの暗号を解読し,情報戦においても連合軍の勝利に大きく貢献した.
*3) Michał Kleofas Ogiński作曲によるPożegnanie Ojczyzny
*4) 特に好きなのが,『宇宙創世記ロボットの旅』と『砂漠の惑星』.二冊とも,これを越えるSF作品は地球上に存在しないと信じております.ただ,短編のコミックでは,岡崎二郎氏の『アフターゼロ』,『アフターゼロ ネオ』シリーズが最高のSF作品だと思っています.
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