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Thursday, 14 April 2016

1945日8月10日付原子爆弾使用についての外務省の対米抗議文内に用いられた'非人道的'という言葉

長い引用なので,折り畳みます.対米抗議文にはマーカーをつけました.原爆を'非人道的'と形容しているのが2箇所.同じく'人道を無視'したものと述べているのが1箇所です.英語訳については,アメリカの国立公文書館に行けば閲覧ができるのではないかと思います.正直に申して,英語訳に興味があります.

Sunday, 10 January 2016

キンダートランスポートの記念像と慰安婦像の比較から思ったこと

Wikipediaのキンダートランスポートについて解説しているページには,ヨーロッパ各地に建てられた記念像の写真が掲載されています.転載は自由とのことなので,以下にそれらを転載させていただきました.

ウィーン西駅,オーストリア

グダニスク中央駅, ポーランド

リバプール通り駅,ロンドン,イギリス

フリードリヒ通り駅,ベルリン,ドイツ

プラハ中央駅,チェコ
これら,キンダートランスポートの記念像と韓国,ソウルの日本大使館前に建てられた慰安婦の像との違いは何なのでしょうか.答えは簡単には見つかりませんが,ひとつ言えるとしたら,前者はこの出来事についての非人道性が認められ謝罪がなされ,同様の歴史は二度と繰り返させないという当事者全員の決意を永久に表すものであるのに対し,後者は被害者による加害者に対する抗議を目的としたものであるということでしょう.慰安婦の記念碑は,日本では千葉県館山市と鴨川市に,また,沖縄県宮古島市に建立されていますが,これらのうち,キンダートランスポートの記念像の趣旨に近いものは沖縄県宮古島市のものでしょう.(Cf. Wikipedia「慰安婦の碑

日本人は過去に向き合わないと言われたりしますが,確かに私たちは過去の出来事に対し淡白,悪く言えば鈍感なのかもしれません.特にある人たちは,過去を簡単に'神話化'するのを好みます.彼らは神話が客観的事実としては存在せず,従ってその信憑性を科学的手段を用いて証明することはできないものという立場を採ります.西洋では,シュリーマンが神話に登場するトロイの町を発見したり,イェサレム近郊のケテフ・ヒンノムで発見されたアミュレットに旧約聖書の申命記の一部が記載されていたことで旧約聖書が紀元前7世紀に存在していた可能性が確認されるなど,神話や伝説と思われるものも科学的な研究の対象となりますが,日本ではそのようなことは極めて稀です.(例えば,西洋には聖書考古学という学問分野がありますが,日本に神道考古学といった学問分野が存在しているでしょうか.)

日本人,特に為政者が過去の出来事を神話化する場合,目的はふたつあります.ひとつは,それについての客観的検証を事実上禁止し,議論の対象にさせないということです.聖性,不可侵性を与えるためと言ってもよいでしょう.もうひとつは,ひとつめの結果であり,また目的でもあるのですが,その意味を不変化,恒久化させるということです.事実か否か検証不可能なのに,その神話の教え,すなわちドグマは永遠に正しいと信じる姿勢,あるいは信じさせる姿勢は,少なくとも近代人のものではありません.それは,個々のクリスチャンが聖書を読むことを禁じ,神から絶対的な権威が与えられていると主張し,その教えへの無条件での服従を強要した宗教改革以前のカトリック教会の姿勢と似ています.(今日の靖国神社は宗教改革以前のバチカンに例えることができます.とはいえ,敗戦後,GHQの靖国神社破壊計画がバチカンの勧告で中止とされたのは,正しい決定だったと思っていますが.) なお,最近では,現在の出来事さえも神話化してしまう傾向が見られるようです.そのために,用いられる手段はメディアブラックアウト,つまり必要な情報を流通させないことであることは言う迄もありません.(例えば,個人的な印象ですが,日本に対する脅威として中国の行動は頻繁に報道されるのに,脅威としてはさらに深刻とも言えるロシアの軍事行動については殆ど報道されません.) 

さらに,このような,人々の記憶や記録に残っている事象を検証不可能なものとカテゴライズし,その分析や解釈についての自由な議論を封じてしまうというのは,イスラムの教典クルアンに対するムスリムたちの姿勢とも類似していることも敢えて付け加えておきます.さらに,過去に日本の指導者たちが合理性を失い突入した第二次世界大戦の間も多くの神話が生み出されたことも.(当時の日本人の精神状態が,フランスの哲学者コントの理論における〈実証的状態〉の前々段階である〈神学的状態〉に似ていたように思えてなりません.〈神学的状態〉とは,シュティーリヒの言葉を引用すると,「現実のできごとが,類似と継起の法則に従って説明されることはない.人々は,むしろ自分たちの行為から類推して,あらゆるできごとの背後には特殊な生きている意思があると信じている.」状態です.(シュティーリヒ『世界の思想史 下』, 東京, 白水社, 1967年, p144) 神話とは,この意思を反映したものと信じられている物語と言えるでしょう.そして,強いて言うならば,この意思の受肉した存在が,明治以降1945年の敗戦迄が天皇であり,それ以降はアメリカなのかもしれません.(もっとも,現在でも天皇の言葉は神話的性質を保持していますが.) ただ,〈神学的状態〉の日本人の意識において,これらの受肉した意思は人間の次元を超えたものですが,ユダヤ教のように言語によって被造物である人間との関係の規定を許す存在ではありません.そのため,日本がアメリカとの間に維持している関係は基本的に情緒的なものです.ようするに相手の顔色を伺う,別に言い方をすれば相手の回りの空気を読んで自らの態度を決める,そうした非言語的,情緒的依存,つまり'甘え'に基づいた関係なのです.また,こうした強者との甘えによる関係が日本人にとって必要であることは,例えば明治維新をほとんど無条件に'正義'として礼賛する司馬遼太郎の作品の主人公がヒーロー,名将,名君であることからも理解できますし,NHKの内閣支持率調査で支持の理由のなかに「首相の人柄が信頼できるから」と言った選択肢もそうした性質を反映したものです.(そもそも,付き合ったことの無い他人の人柄など,どうして判るのだろうと,聞くたびに吹き出してしまいます.フランスの大統領支持率調査にも'信頼が置けるか’という選択肢がありますが,人柄にではなく,あくまでも大統領としてのこれ迄の実績から判断してということでしょう.)

ところで,司馬遼太郎がその作品を通じて幕末から明治維新に続く日本の歴史の一部を,善きにつけ悪しきにつけ'神話化'してしまったことは事実ですが,彼によって描かれた人物の対極に位置する人々の例として,18世紀の秋田県大館市出身の医師,思想家である安藤昌益,そして司馬が描いた時代においては同じく角館市の平福家の三人(文浪,穂庵,百穂)などを挙げたいと思いますが,個人的には後者たちの性格および生き方のほうにはるかに魅力を覚えるものです.(これらの人々が小説の題材となったり,ましてNHKの大河ドラマで取り上げられたりすることはあり得ないでしょう.)

ついでに言うと,時折,特定の議員が古代の神話を引用することがありますが,この場合の動機として,集団の無意識の根底に存在する西洋先進諸国に対する劣等意識があるのかも知れません.時代を遡れば,白村江の戦いでは唐に敗れ,幕末には薩英,馬関の両戦争で鹿児島藩と長州藩は西洋列強の連合軍に徹底的に打ちのめされます.そして,第二次世界大戦ではアメリカに敗北するのですが,敗戦のたびに戦勝国と仲良くなり,それらの優れた技術や制度を積極的に導入してきたのです.それだからと言って劣等意識など持つ必要はないと思うのですが,西洋に対する劣等意識は,それへのナイーブな憧憬とは表裏一体なのかもしれません.

ただ,明治維新が,当時,最も封建的性格が強かった鹿児島,長州の両藩が中核となって実施されたことで,スペンサーが言うような軍事的な原始社会的側面を色濃く備えた国家を創り出してしまったとも言えます.(前掲書, pp157f) 第二次世界大戦後,一旦はその傾向は薄らぎましたが,奇妙なことに最近になって再び濃くなり始めたようです.

最後に日本の'民主主義'について言えば,奈良時代から明治維新迄,日本は外国の制度を能動的且つ選択的に輸入してきました.しかし,第二次世界大戦後において,西洋的民主主義は自ら選んだ訳ではなくアメリカから否応無しに'押しつけられた'制度であることを忘れてはならないと思うのです.そして,その際,例えば法における平等や普遍的人権など,この統治制度の基盤である様々な思想や価値観を十分に理解することもありませんでした.尤も,これらは基本的にユダヤ教,キリスト教という啓示一神教の思想を起源としているので,自然多神教しか知らない日本人には理解しがたいことであるいことも事実ですが.これらのことを思い起こすとき,現行の極めて不公正な選挙制度を利用して必要な議席を獲得し,憲法を改正しようとする狂気の沙汰としか形容のできない政治が日本では実現してしまうのも無理のないことと言えます.

Tuesday, 29 December 2015

元日本軍の'性奴隷'だった韓国人女性たちに関する日韓協議の結果を伝えるNZZとSRFの記事 (ドイツ語)

今夜のニュースで,この話題を伝えるキャスターは「アジアから10万人の女性が誘拐され,虐待され,屈辱を受け...」と繰り返していました.もっとも,この話題はすでにかなり以前からヨーロッパのニュースメディアで取り上げられているので,今では近代史の常識となっています.

Sunday, 5 July 2015

最近の自民党の文化芸術懇話会を巡る報道を見聞きして考えたこと

鈍感なせいか,何故これほどまでに大騒ぎするのか少々奇妙に感じている標記報道ですが,以下,考えたことを少し記します.まず,疑問から.

本来,国会議員共が勝手にやっている会合の内容を何故いちいち報道する必要があるのか.報道されて利益を得るのは,問題視された発言をした参加者と問題の会合に講師として呼ばれた,世間が驚くような発言をしてはお金を稼いでいる御仁,それに日露講和条約締結の後で結果的に一部の読者を日比谷焼き討ち事件へと煽ることとなった記事を載せたかつての朝日新聞のような記事が目立つ週刊文春や週刊新潮と同種のいくつかの新聞社くらいもので,他に誰のためになるのだろうかということです.
* 上記の2誌および同種の新聞は,例えるならば17世紀のアメリカ,セイラムで起きた'魔女狩り'的な集団ヒステリーを起こせば販売数が増えると信じているように思えてなりません.尤も,それは日本では十分に通用する法則ですが.

次に,上記議員の中のある者が発言した朝日新聞が従軍慰安婦に関する誤った記事を載せたために世界に於ける日本の名誉が失墜しているということの真偽を,報道した業者が,あまりというか殆ど検証をしていないのも奇妙に思えてなりません.

従軍慰安婦の実態については,歴史の専門家たちによって,すでに多くの検証がなされているため,ここでは触れません.ただ,最近の日本の政治家たちの発言を含め,フランス,ドイツ,スイスのニュースメディアの当該のテーマに関する記事の中から抽出したものを古いものから順に紹介したいと思います.(フランス語とドイツ語だけなので,馴染みの無い方は自動翻訳機能で英訳していただければ,ほぼ内容はご理解いただけます.なお,日本語に訳すと意味は殆ど通じないと思います.)

1998年1月31日付Le MondeのLes crimes de l'armée impérialeを読むと,従軍慰安婦に言及していますが,強制連行されたとは書かれておらず,強制的に売春をさせられたと書かれていて,当該の事実は1993年に公開された厚生省が保存していた資料によって明らかになったと報じられています.

続いて,Le Mondeの2007年3月6日付Le combat de Lee Yong-soo, ancienne "esclave sexuelle" au service de l'armée impériale japonaiseでは,1人の韓国人元従軍慰安婦の証言を載せています.それによると,当時14歳の彼女はあきらかに強制連行されています.2007年5月6日付スイスのNeue Zürcher ZeitungはTrauma der Militärbordelle verblasst nichtは1人の日本人軍属の家政婦として雇われていた中国人少女の証言を載せていて,彼女は,あるときから強制的に軍人相手の売春をさせられるようになったそうです.

2013年5月13日の橋下徹大阪市長の従軍慰安婦を巡る発言を伝えた記事から.フランスのLe Monde(2013年5月13日付),ドイツのSPIEGEL(同5月14日付),スイスのNeue Zürcher Zeitung(同5月31日付)です.NZZの記事は,韓国の元従軍慰安婦の方を取材したものです.


2013年9月13日付SPIEGELのZwangsprostitution im Zweiten Weltkrieg: Japans Schandeも1人の韓国人元従軍慰安婦の証言を掲載していて,それによると当時15歳だった彼女は,強制連行というより拉致されたと言ったほうが相応しい体験をしています.

他にも数多くの関連記事がありますが,以上の記事を読むだけでも,強制連行の有無に拘らず,彼女たちが無理矢理日本軍兵士の性的奴隷とされたこと自体が,ヨーロッパのニュースメディアによって問題視されていることと,そして,彼らは,少なくとも確認した限りにおいてですが,朝日新聞が訂正する前の記事をそっくりそのまま配信したり,それを基にした記事や社説を掲載していないことが判ります.

なお,第一次世界大戦中の西部戦線(フランス,ベルギー)に於いて主に英軍兵士たちに利用された売春宿については,HIstory Learning SIteのBrothels and Western Front‘Male heterosexuality and prostitution during the Great War: British Soldiers’ encounters with maisons tolérées’, Cultural and Social History, 9, 1 (2012), Sex and the Somme. Soldiers visited brothels to escape the "lunatic world of war."などが判り易く解説していますが,これらの'Brothel'で兵士たちの相手をする女性たちは,自らの意思でそうした仕事についていたようです.そのため,14, 15歳の少女が,本人たちの意思が無視されて強制的に兵士相手に売春させられた,しかも組織的にそれが行われたことは恐らくなかったのではないかと思います.

最後におまけをふたつほど.ひとつめは,日本に海外実習生としてやってくる外国人たちが,過酷な環境で搾取されている(実質的人身売買)を報じる記事.
そして,ふたつめは,NHKが番組に取り上げるテーマはすべて政府が指示すべきであり,それに従うというのが現会長の姿勢であると報じるスイスのNZZの2015年2月12日Verzweifeltes Warten auf ein Zeichen von obenです.

加えて,昨今の安全保障法制を巡る議論ですが,そもそも,軍事的に視て本当に中国は脅威となりえるのか,大いに疑問です.経済的分野に限っても,今や,日本と中国の相互依存関係は両国の存亡の鍵と言ってもよいでしょう.何としても政権を維持したい中国共産党政府にとって経済成長は必須条件です.人心掌握のために日本への憎しみをある程度煽ることは必要としても,それは,自国の経済成長のためにむしろ逆効果であることは,言う迄もありません.となると,日米の軍事同盟の強化によって,まず恩恵を被るのは,アメリカの軍需産業でしょう. アメリカ国民の半数は,米軍は日本から撤退すべきという世論調査結果も公表されており,また,同程度の割合が日本は自分たちで防衛すべきと回答しています.結局,2階に上がらせておいて,梯子を外される可能性は十分にあると思えるのです.(Cf. 日本のアジア太平洋地域に於ける軍事的役割の拡大を支持するアメリカ国民は47%,不支持は43%)

U.S. Experts Challenge Abe View of ‘Comfort Women’

かなり昔の記事ですが, 日本語版もあります.
A Japanese documentarist realised a film on the everyday life of Korean ex-confort women, forced by Japanese army to serve its soldiers as prostitutes during WWII, whose testimonies are also presented therein. The film is currently showing at UPLINK, Shibuya in Tokyo.

Friday, 12 June 2015

日本と韓国や中国の関係改善にとってドイツはお手本にならない (ドイツ語)

Wednesday, 10 June 2015

ふと思い出した『日独伊三国同盟合意文書』('Dreimächtepakt. zwischen Deutschland, Italien und Japan')のこと

最近,'安全保障法制の改定'についての議論をよく耳にしますが,日本とドイツが締結した同盟条約の内容文書を読んでみました.その第3条は以下のとおりです.(全文は,こちらからDLできます.)
Artikel 3
Deutschland, Italien und Japan kommen überein, bei ihren Bemühungen auf der vorstehend angegebenen Grundlage zusammenzuarbeiten.*Sie übernehmen ferner, die Verpflichtung, sich mit allen politischen, wirtschaftlichen und militärischen Mitteln gegenseitig zu unterstützen, falls einer der drei Vertragschließenden Teile von einer Macht angegriffen wird, die gegenwärtig nicht in den europäischen Krieg oder in den chinesisch-japanischen Konflikt verwickelt ist.
この同盟の締結において興味深いのは,下に引用した解説にあるようにドイツ側の思惑と日本側の認識に相当なずれがあったことです.具体的には,上記の黄色でマークした部分にあるように,誰がどう読んでも締結国のうちの1国が第3国から攻撃をされた場合,他の締結国は自動的に参戦の義務を負うとしか読めません.(確かに,'後方支援'も軍事的支援と言えないこともないかもしれませんが,当時の状況ではそんなことは考えられません.) しかし,それでは海軍が承知しないで,駐日ドイツ大使オイゲン・オットと松岡外相が,自動参戦*1)を譲らない特派ドイツ公使シュターマーに知らせずに,参戦に就いては各国が判断することができるという議定書を内密に作成し,いわば海軍をだまして,後者から当該同盟の参加の承諾を引き出したのでした.この例から言っても,法律をどう変えようが,あるいは変えまいが(変えない場合は解釈を変えて),結果的に,この国は病的なまでに信頼する国(昔はドイツ,今はアメリカ)のいうなりになってしまうのです.
Second, on September 7, the Foreign Ministry began secret negotiations with General Heinrich Stahmer, the personal emissary of Joachim von Ribbentrop, Germany's foreign minister, to form a tripartite alliance with the Nazi and Italian Fascist regimes. Matsuoka Yosuke, the Japanese foreign minister, sought an alliance with Germany in which all parties agreed to go to war against any nation that attacked another member of the pact, in order to reduce the likelihood of American intervention if Japan pushed southward. Stahmer agreed with this assessment." Matsuoka was unable, however, to persuade the navy to accept such a commitment, the naval officials being fearful that Germany and the United States would engage in hostilities in the Atlantic before Japanese naval power was prepared for a war in the Pacific. Naval authorities therefore agreed to the Tripartite Pact only after Matsuoka added a secret protocol (with the concurrence of Germany's Ambassador Eugen Ott, but without the knowledge of Stahmer) that allowed each party to determine independently when its ally had been attacked by an adversary. Thus, the Japanese government entered into the Tripartite Pact in late September in order to prevent the United States from supporting the British and the Dutch in the East Indies, but it was fully prepared to back away from its stated commitment to join a war if German-American hostilities began. If Washington was bluffing with the Beet at Pearl Harbor, Tokyo was bluffing with the alliance with Hitler."
(Krauss, E. ed., Ben Nyblade, B. ed., Japan & North America: RoutledgeCurzon Library of Modern Japan (Routledge Library of Modern Japan), London, 2004, p235)
最後に付け加えると,三国同盟には,後にハンガリー,ルーマニア,スロバキア,ブルガリア,ユーゴスラビア,クロアチアも含まれることになります.(Cf. Wikipedia) こう考えて来ると,歴史的地理的に狭い視野を保ったまま,日米の軍事的協力関係のさらなる強化の行き着く先には,想像を超えたものがあるように思えてなりません.




*1) 合意文書の引用した箇所の最後の3行('欧州に於ける,及び日中間の戦争に現時点で未参戦の第三国からの攻撃された場合')から想定している対戦国はアメリカであることは明らか.

Monday, 6 April 2015

多くのユダヤ人をナチスの大量虐殺から救った2人の外交官 - 杉浦千畝とカール・ルーツ

最近ふと思いついて,2人の場合を比較してみました.杉浦氏は日本の,ルーツ氏はスイスの外交官です.(2人についての詳しい説明はWikipediaなどのそれぞれの項をご参照下さい.ルーツ氏については,SRFのCarl Lutz – Der vergessene Heldにも詳しい説明が載っています.) 

まず,共通点です.
  • 2人ともクリスチャンでした.杉浦氏はロシア正教徒で,早稲田大学在籍中はバプテスト派の宣教師ハリー・バクスター・ベニンホフが大隈重信の要請を受けて設立し,後の早稲田教会となる早稲田奉仕園の信交協会に一時期所属していたそうです.*1) ルーツ氏も,家族そろって熱心なメソジストあり,移民先のアメリカで最初に学んだ大学がメソジスト教会に所属するCentral Wesleyan Collegeでした.*2)

    彼らが,多くの非クリスチャンたちを救ったことは,特に歴史を通じて無数のムスリムやユダヤ人に加え,その他の非クリスチャンたちを殺害してきたクリスチャンの歴史において偉大な功績です.*3) 
  • 2人ともイスラエル政府から「諸国民の中の正義の人」の称号を授与されています.なお,この称号を受けた日本人は杉浦氏のみですが,スイスでは全員で44人が授与されています.*4)
 そして,相違点です.
  • 孤軍奮闘せざるを得なかった杉浦氏と多くの協力者が居たルーツ氏.*5) これは,赴任地の違いにも起因しているかもしれません.
  • 特に残念に思えるのは杉浦氏の場合です.在リトアニア領事時代,迫害をのがれてポーランドからやってきたユダヤ人達にビザを発給したときから戦後に至るまで,日本の外務省は彼をサポートしないばかりか,ソビエト連邦における抑留生活を終え帰国したときには解雇さえしました.その一方,ルーツ氏は,対戦中からスイス政府の全面的なサポートを受けていました.*6)




*1) 杉浦千畝 in Wikipedia
*2) Carl Lutz at THE INTERNATIONAL RAOUL WALLENBERG FOUNDATION's site, Carl Lutz in Wikipedia
*3)
今日でも,特定の啓示宗教の名の下に各地で大量殺戮が行われていますが,歴史を通じて視たとき,それらを阻止しようとしたのもやはり啓示宗教の影響を受けた人達でした.命,あるいは人権を大切にすると題目のように唱えても,それが普遍的に適用できるものでなければ,全く無意味です.普遍的な人権にしろ,それが大前提である民主主義も,唯一の神によってあらゆるものが創造され,その神の前で,すべての人は平等であると説く啓示宗教(特にプロテスタンティスム)によってもたらされた思想およびその上に成り立つ制度なのです.

ところで,ナチスによるユダヤ人虐殺については,多くの映画が制作されましたが,特に印象に残ったのは,実話に基づいて制作された『さすらいの航海』("The Voyage of the Damned", 1976年)でした.ラストの前に船の中で反乱が起きますが,操舵室に侵入して来たユダヤ人たちにシュレーダー船長は,「クリスチャンとして,君たちの身柄がナチスの手に渡さないために私ができるかぎりのことをすることを誓う」("I give you my solemn word " [...] "As a Christian")と言います.しかし,それに対して反乱のリーダーである男性は,「キャンプ(強制収容所)を建設し,僕たちを餓死させ,殺しているのはクリスチャン達だ」と叫びます.映画の台詞なので,実際にそうしたやりとりがあったわけではないでしょうが,ただ,リーダーの男性が述べたことは事実です.その関連で,最近,SPIEGELにEvangelische Kirche: "Trauer und Scham über Luthers krude Thesen"という記事が掲載されていました.

また,チクロンBの大量製造に関わったものの,所属するNSDAPによるユダヤ人虐殺に疑問を持ち,それをヴァチカンに訴えたクルト・ゲルシュタインも福音主義教会の信徒でした.(Cf. 映画『 ホロコースト -アドルフ・ヒトラーの洗礼- (2002) 』(原題: "Der Stellvertreter")
*4) 諸国民の中の正義の人 in Wikipedia
*5) Carl Lutz in Wikipedia
*6) Idem.

Wednesday, 11 February 2015

Daechがモッスルで住民に配った16ヶ条の掟 (アラビア語)

下の写真です.



写真が掲載されていたLa Libérationの2014年6月23日付Les seize commandements de l'Etat islamique en Irak et au Levantによると,5条には,「地を破壊するもの,神の意志に背くものは磔,手,または足の切断,流刑に処せられる」,10条には,「如何なる理由に基づくものであれ,公の場におけるデモンストレーションはイスラムの教えに反するものである」(つまり禁止),13条には,イスラムの成立以前に作られた総ての偶像は破壊されるべきなどといったことが書かれているそうです.また,イスラムの領土におけるキリスト教徒などの非イスラム教徒にはdhiimmiという地位が与えられ,一応保護の対象となりますが,毎月一人250USドルの税金が課せられます.ということは,事実上,イスラムに改宗しろということです.カリフの崇敬,事実上のイスラム教への全員改宗,領土の拡張,これは,最近のボコ・ハラムの姿勢でもありますが,何のことはありません.日本の過去に実現を目指した八紘一宇,そして国内や韓国などで実施した皇民化政策と似たようなものです.もっとも,Daechは,アッバース朝時代の領土をレコンキスタ*1)したいわけですから.日本の八紘一宇よりは客観的正当性が多少あるかもしれません.(下の地図参照) 関連記事: En quoi Boko Haram est-il une secte ? in La Libération

サイクスとピコ間で締結された協定による仏英両国の管轄地域



*1) 通常,レコンキスタは,キリスト教徒によるイスラム教徒によって奪われた土地の再奪取のことを言います.

Wednesday, 7 January 2015

ARTEで放送された石原莞爾についてのドキュメンタリー番組

そのうち,日本人よりヨーロッパ人たちのほうが日本の近代史に詳しくなりそうです.今でも,恐らくほとんどの若い人は石原莞爾の名前は聞いたことはないのではないかと思います.なお,ARTE+7で13日まで視聴できますが,日本では視聴できません.以下,番組のサイトに記載されている解説です.特にドイツ語は読み応えがあります.アマチュアカメラマンとして知られる石原が自らが撮影した写真や映像で綴る日本の中国侵攻を指揮した男の物語.

Thursday, 18 December 2014

第二次世界大戦中の兵器開発にみるドイツと日本の相違 - 無人誘導爆弾を巡って

結論から言うと,日本の″奮竜″は,B29迎撃用に構想された画期的な自動追尾式の地対空ミサイルで,開発が遅れたため実戦投入には至りませんでしたが,ドイツで水上標的用に開発された目視による無線遠隔操縦方式の爆弾"PC 1400 Fritz X"および"Henschel Hs 293"は実戦投入されています.特に,前者にはイタリアの戦艦Romaを撃沈した記録が残っています.なお,装甲の厚い艦艇攻撃用で装填爆薬量1 tのFritz Xには推進装置は搭載されていませんでしたが,商船攻撃用で装填爆薬量500 kgのHs 293には推進装置が搭載されていました.

まず,″奮竜″の開発経緯を内藤初穂氏著『海軍技術戦記』の中にみてゆきましょう.
「捷号作戦」前夜の航空機開発を語るとき、見逃すわけにはいかないものが、もう一つあるそれは、後に″奮竜″とよばれることになった誘導弾、今でいえば、対空ミサイルである。
 その風洞試験が、艦政本部第四部から航空技術廠に依頼され、科学部の私のところにまわってきたのは、″秋水″の試験がたけなわのころだった。″秋水″と同じく、″B29″迎撃用とされていたが、″秋水″とは違って、無人で目標をとらえるという十文字翼つきの飛翔体であった。まず、レーダーで目標を追尾して、未来位置をわりだし、その方同をねらって、電波のビームを放つ。このビーム上に飛翔体を乗せる。飛翔休はロケットを噴射しながらビームに沿って飛んでいくが、途中でビームからはずれかけると、自分で自動的に操舵してもとに戻る。飛潮体の動きもレ―ダーでとらえていき、目標と重なった瞬問、信号を送って起爆させる。目標からはずれそうになれは、ビームをよって、飛翔体を誘導する。すでに六月ごろ、新聞紙上に「火のかたまりのようなもの」が,轟音をを発してイギリス本土に飛来したという記事がでていた。この"V一号"は固定した目標に向かって突進していくものらしかったが、十文字翼飛期体は動く目標でもとらえ得るはずであった。
 十文字翼は、飛翔体の位置を二次元的にとらえるためのものである。計画によれば、とりあえず、火薬ロケット式の三式噴進弾に十文字翼と操縦装置とをとりつけて、基礎データをつかみ、本番では、″秋水″と同じく、○呂(○の中に呂)液で推進する。薬液を燃料室に噴きだすために、″秋水″ではポンプの設計に苦労していたが、この飛翔体の場合は″秋水″ほどの薬液を必要としないから、圧搾窒素ボンベを積み、その圧力で押しだすだけでよかった。
 多くの開発計画が特攻兵器に傾斜していったなかにあって、この誘導弾計画は、特攻隊員の生命を機械におきかえるはずのものであった。しかも、その発想が艦艇関係者によって実現に移されようとしていたことは、航空関係者にとって頂門の一針と受けとられるべきものであった。しかし、当時の航空技術廠は、この誘導弾に対して、つきあい程度の態度しかしめさない雰囲気だった。発想者の古田隆技術少佐(昭一一、九大卒、造船)自身も、当時を回顧して、つぎのように書いている(『造船官の記録』)。
 「……十文字翼とした場合に操縦性能がどんなものになるか、参考とすべき前例は情無であった。
 横須賀の航空技術廠の風洞が唯一の頼みであったが、空技廠では有人邀撃ロケット戦闘機″秋水″に全力をあげていた。同じくB29の”の邀撃をめざして、人が乗らぬ自動迫尾などの夢のような話に、一日たりとも風洞を使わせることはできないという態度であった。だが捨てる神があれは拾う神があるとか、私のクラスの造兵科の機体屋(科学部の左冶木清一技術少佐)のお蔭で、ようやく引き受けてもらうことになって、本格的な風洞試験の段取りができ上がった」
 風洞試験には、発案者の吉田技術少佐も姿をみせた。その態度のすみずみから、憑かれたようなひたむきさがにじみでていて、私は嫉妬めいたものさえ感じた.
 「約一米半の磨き上げられた十文字翼の縮尺棋型が風洞に吊ろされて、轟々と響く風路で操舵時の諸性能が解明されていった。以前に持ちまわった木製の模型が、今日このように変貌して、風洞で実験されている。眼前の姿を見ると、いつの間にか、これか空を自在に飛んでいるような錯覚にとらわれる。主翼や尾翼の操縦翼の修正などが厳密に行なわれてゆく」
 吉田技術少佐は、ミッドウェイ海戦当時、呉工廠造船実験部にあって、すでに自動操縦装置と取りくみ始めていたが、昭和一七年一〇月、艦政本部に転勤したのち、誘導弾の構想をかため、艦政本部や技術研究所の上司に開発許可を請願してまわった。そのとき、説得材料として持ちまわったのが、文中に書いている「木製の模型」である。
 古田氏の語るところによれば、当時の反応は、「人間自身が操作しないような兵器は、とても信頼できない」というほどの状況であったようである。今から考えると、とても想像もつかないが、用兵側にかぎらず、技術側でさえ、そうであったという。
 ともかくも、お百度を踏んで、何とか試作の許可をとりつけ、機体関係の設計を東京帝国大学工学部の谷一郎教授に依頼するいっぼう、噴進薬、自動操縦装置などについても、内外の権威者を動員して、海のものとも山のものともわからなかったものに形をつけ、ようやく風洞試験にまでこぎつけたのである。
 風洞試験から数日後、私は測定結果を整理して、技術研究所の打ち合わせ会議に届けた。
 「席上で久しぶりに大学の恩師、谷一郎先生にお会いした。なつかしかった。試験の結果は私の計算通りでしたと丁寧に礼を言われ、各担当部員と討論を重ねられた。言葉ひとつひとつを考えるようにして話される、その口ぶりからも、黒板に端正な図を画かれてゆく、その手つきからも、学生時代の教室の一駒一駒が思いだされた。あのような平和な秋のあったことが、人ごとのように思えてならなかった」『プロモート』22号、日本工房)*1)
次にドイツで実用化された無人誘導爆弾"Fritz X"及び"Hs 293"のケースをみてゆきます.参考にしたのは,"FliegerRevue X"40号に掲載されたUwe W. Jack氏による記事"Reichenberg - die bemannte Selbstopfer-Bombe"ですが,これら2つの誘導爆弾についてWikipediaが日本語の説明を提供しているので,詳しくはそちらをご覧下さい.以下,簡単な説明です.

まず,技術面についてですが,誘導の仕組みは,どちらも目視による無線誘導です.違いについて言うと,Fritz Xには推進装置は搭載されていませんでしたが,Hs 293はロケットエンジンが搭載されていました.そして,装填された爆薬の量は,前者がおよそ1 t,後者が500 kg,また,投下可能距離は,標的(艦艇)から前者が10 km,後者が12 kmでした.なお,標的となる艦船の種類は,前者が装甲の厚い戦艦など,そして,後者が商船とされました.これら2つの爆弾は,1942年以降,とりわけ誘導装置に改良が重ねられ,1943年夏には実戦配備されるに至りました.なお,Fritz XはDr Max Kramerによって,Hs 293はHerbert Wagnerによってそれぞれ開発された兵器です.

次に,戦艦ローマ撃沈までの経緯です.1943年,6月には南部戦線におけるドイツ軍の劣勢は明らかでした.ヒトラーの盟友ムソリーには辞任に追い込まれ,逮捕されていました.シシリア島は,すでに英米軍によって占領され,連合軍によるイタリア本土上陸が秒読み段階に来ていましたが,新たに発足したイタリアのパドリオ政権が連合軍との休戦交渉を開始し,9月8日には休戦が宣言されました.その夜,英米軍の武装解除の要求に応じて,イタリア海軍の艦艇の大部分が,旗艦である戦艦Roma上のCarlo Bergamini提督に率いられ,La Speziaから南西方向へ移動を開始しました.この動きは,直ちにドイツ軍の知るところとなり,フランス南部のIstres駐留の第100飛行爆撃隊第3部隊に緊急出撃が命じられ,各機1つのFritz Xが搭載された複数のDornier Do 217 K-2が離陸したのでした.そして,そのうちのKlaus Deumling搭乗機が,ジグザク航走を続けるローマの上空およそ7000 mからFritz Xを投下したところ,艦底まで突き抜け直下の海中で爆発,同艦の操舵機能を破壊しました.続いてKurt Steinborn搭乗機が投下した2つ目が艦橋と前部砲塔との間(弾薬庫)に命中.この2つ目の爆発の直後,艦は2つに裂け沈没し,Bergamini提督を含む乗組員1254名も運命を共にしたのでした.そして,両機は無傷で基地に戻りました.

斯くも晴れがましい結果となったFritz Xの初陣ですが,そのあとは,あまり実戦で用いられることはありませんでした.その理由は,以下にご紹介する1943年の秋に行われた当時の戦闘機部隊の司令官アドルフ・ガラント(Adolf Galland)と爆撃機部隊の司令官ヴェルナー・バウムバッハ(Werner Baumbach)の話し合いの内容から判るように,当時の追いつめられたドイツの情況だったのです.なお,後者は以前に公開したポストでも言及していますが,日本の神風特別攻撃隊のような体当り攻撃の採用には一貫して反対の姿勢を示し,最終的に体当り攻撃専用兵器ライヒェンベルグ(Reichenberg Re)実戦投入のプロジェクトを中止させた人物です.話し合いに臨んだ二人の将軍は,連合軍の大陸上陸は,もはや阻止出来ないという認識で一致していました.ただ,すでに無条件降伏を要求している連合軍との交渉による停戦を実現するには,なんとしても優勢な軍事力を維持する必要がありました.1943年7月27日の夜,ゴモラ作戦という名の下に実施された英軍機の空爆の標的となったハンブルグの居住地区において30,000を超す民間人が犠牲となっており,それ以降,ドイツは,まさに背水の陣に追いやられていたのです.ドイツ軍にとって自国の制空権の脆弱化は,連合軍の地上部隊の迅速な上陸を可能にしてしまうものでした.そして,同時に,爆撃によりドイツの軍備も着実に破壊されつつあったのです.こうした情況を踏まえ,二人は,Fritz Xの戦果をさらに上のレベルへ報告するか迷いました.もし,この誘導爆弾の華々しい戦果を報告したなら,恐らく上層部は爆撃機の製造を優先させるだろう.しかし,今,必要なのは,少なくとも自国の制空権を回復させる為に,戦闘機であるという認識でも二人は一致していました.そこで,彼らは,今回の報告書には当該の戦果は誘導爆弾によるものとは記さず,単に特殊爆弾("spezielle Bomben")によるものとしたのでした.そのため,Fritz Xの威力は,その後,指導者層において殆ど知られることはなかったのです.*2)

つまり,日本においては,開発側においても用兵側においても,共通して人間が操縦しないものはあてにならないという固定概念があったため,開発が進まなかった.しかし,ドイツに於いては,開発され,実戦投入もされたものの,そのときはすでに戦況を巻き返すことができる段階ではなかったと言えます.少なくとも当時の実戦部隊の司令官たちの判断はそうだったようです.

最後に,Fritz Xの卓越した命中率を示すデータを紹介しておきます.Fritz Xを搭載した爆撃機で構成された第100航空爆撃隊による報告に記載されていたものです.それによると,水上標的に対し投下された215発のFritz Xのうち,66発が命中,40発が至近着弾,さらに諸事情により目視による確認はできなかったものの38発が何等かの損害を生じさせ,70発は標的上を通過したとされています.つまり,命中率は37%ということになります.(打率が4割近いというのは,メジャーリーガーの中にもそれほどいないと思います.)これが如何に驚異的なものであるか知る為に,1941年にフランスのブレスト港に停泊中の独海軍のGneisenauScharnhorst(両方とも後の大和型にシルエットが似ている.)に対し実施された英軍機による爆撃のデータを挙げると,その際の命中率は2870発に1発でした.つまり0.069%となります.(恐らく,水平爆撃によるもの.急降下爆撃だったならば,この数値は多少は改善されていたかもしれません.)Fritz Xの高い命中率を十分に認識していた技術者達は,1944年8月15日に誘導爆弾の早急な追加配備を嘆願する内容の書翰を親衛隊長ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler)に送ります.以下,当該書翰の一部です.*3)
,,Die ungeheure Bedeutung der ferngelenkten Bomben für die deutsche Kriegsführung ist auch von den heutigen Männern in keiner Weise erkannt worden. Die Einsatzergebnisse, die von den am Feind abgeworfenen Bomben 40 Prozent Volltreffer verzeichnen, trotzdem diese Waffe erst ganz jung im Einsatz steht und trotzdem diese Erfolge unter schwierigen Einsatzbedingungen erzielt wurden, sind von den entscheidenden Männern nicht zur Kenntnis genommen worden. Der Befehl des Reichsmarschalls, jede weitere Beschäftigung mit den ferngelenkten Körpern sofort einzustellen, wurde in der Form ausgeführt, dass auch Bomben, die schon zu 80 Prozent fertig waren, zur Verschrottung bestimmt wurden, ...". *4)
この中で,技術者達は,40%にものぼるFritz Xの命中率を指導者達は認識しようとしないこと,そして,国家元帥(ヘルマン・ゲーリング)の遠隔誘導爆弾の製造中止の命令を受け,80%迄完成していた爆弾もすべて廃棄されることになったことを嘆いています.ゲーリングの命令は,ヒトラーの暗殺未遂事件を受け,こうした兵器が同様の目的で使用されるのを恐れたために下されたものでしたが,これもFritz Xの大規模な実戦投入を妨げた要因のひとつと言えます.

以下は,歴史における"If"ですが,確かに日本の技術者たちが開発しようとした奮竜は,当時としては世界に類のない画期的な兵器だったと思いますが,Fritz Xのような目視による遠隔操縦方式の爆弾であれば,少なくとも技術的には,日本でも十分に実戦投入にこぎつけられたのではないかと思います.そうなっていたのであれば,老朽化した零戦や桜花を用いた無謀で極めて非合理な体当り攻撃は行う必要はなかったのではないないかと思えるのです.*5) 必要であれば,同盟国のドイツから技術支援を受けることも可能だったはずです.実際,潜水艦製造など,様々な兵器開発において,日本はドイツから技術を借用しています.*6) 航空機の分野ではメッサーシュミット Me 163 Bからヒントを得て,"秋水"と命名されたロケット戦闘機の開発も試みられています.

以前のポストで,日本では敗戦間際に「死が目的化してしまった」と書きましたが,同時に,戦果はどうであろうと命を失うこと自体が兵員の使命であるといういうこの思想を深く国民の心に植え付けるために用いられた《軍神》という存在を製造するということも目的化していたと言えるかもしれません.そうした軍神製造に,いつしか当初の目的から離れ,アイデオロジカル,あるいはドグマティカルな支えを提供することになってしまったのが靖国神社と言えるのではないでしょうか.つまり,この神社の体裁をとっている宗教施設は天皇および国家(あるいは,国体)のための死をプロモートする装置と化してしまったのではないかと.

ところで,こうしたドイツの誘導爆弾の技術は,今日の誘導ミサイルの技術の基礎となったと言われますが,それは,ジェット機についても同様です.詳しくは,FliegerRevue X 40号の記事"Messerschmitt-Projekte"をご覧下さい.





*1) 内藤初穂『海軍技術戦記』, 東京, 図書出版社, 1976, pp210ff;なお、内藤氏は、『機密兵器奮竜』という本も著されています。(東京、図書出版社、1979)
*2) Jack, U. W., "Reichenberg Die bemannte Selbstopfer-Bombe" in FliegerRevue X 40,pp18f
*3) Ibid., p17
*4) Idem.
*5) 前掲の内藤氏の著作に次の文章がありますが,それに基づいて特攻機の命中率を計算すると0.02984%になります.

1945年4月の「菊水作戦」発動以降の体当り攻撃に関する以下のデータを挙げています.中央の方針は本土決戦へ切りかわってしまったが、九州方面の航空部隊は、水上偵察機、練習機″白菊″までくりだして、「菊水一〇号作戦」までの特攻出撃をつづけ、けっきょく、海軍機延べ八五八六機、陸軍機を含めると、一万機以上が投入される。そして、沖縄をめぐる戦果は、沈没二四隻、損傷三四九隻(アメリカ側資料)、その八〇%は、特攻機によるものと推定された。
内藤, 『海軍...』p234
話は少し飛躍しますが,日本軍の非合理性は,鈴木眞哉氏の『刀と首取り 戦国合戦異説』の中の次の記述によっても明らかにされています.長文ですが,引用します.

 江戸時代人ことに武士たちが争う場合、たしかに刀はもっとも重要な武器であった。甲冑を着けて戦うわけではなく、弓・鉄砲はおろか、槍・薙刀さえそうそうは持ち出せない状況であれば、刀だって役に立つのは当たり前である。たくさんの剣術流派が生まれ、いわゆる剣豪たちが輩出したのも不思議ではない。
 幕末の動乱期となっても、最初のうちは刀がかなり活躍した。万延一年(一八六〇)の桜田門外の変では、襲撃側がピストル一挺を用意していたというが、主武器は刀であったし、文久二年(一八六二)の坂下門の変なども同様である。翌文久三年の天誅組騒動、元治一年(一八六四)の水戸藩の内訌などの記録を見ていても、刀で切った切られたという話が驚くほど出てくる。
 この元治一年六月には、有名な池田屋騒動があり、クーデターの準備に集まった尊壌派の連中の中へ近藤勇ら新選組の面々が討ち入って、七人を斬り伏せ、二三人を捕らえた。このとき討ち入った側も討ち人られた側も、ほとんどが刀でわたり合っている。
 こういうことを見れば、「チャンバラ幻想」が人びとに素直に受け入れられていたとしても、あまり不思議はない。ただ、それを「常識」としていられたのは、あくまでも当時のわが国の社会の特殊な状況を前提にしてのことであった。したがって、前提が変われば通用する話ではなくなるが、実は、池田屋事件の前年にはその後の対外戦争の走りのような薩英戦争が起こっている。最新鋭のアームストロング式後装施条砲を積んだイギリス艦隊が鹿児島湾に押しかけてきて、薩摩藩の砲台と砲撃戦を展開したという事件である。
 果たして、というべきか、間もなく状況は一変する。慶応二年(一八六四、長州藩征討に加わった紀州藩は、その経験から、戦闘がすべて「砲戦」(銃撃戦の意味)に終始したこと、刀槍による「接戦法」などはまったく役に立たなかったことを率直に認め、藩士を銃隊に編成し直した。慶応四年(明治一年、 一八六六)の鳥羽・伏見の戦いに参加した新選組の副長・土方歳三も、これからの戦いは槍や刀では駄目だ、鉄砲にはかなわないということを悟らざるをえなかった。土方のような人斬りのプロがそう思ったくらいだから、以後「チャンバラ幻想」など、消しとんでしまったのも当然である。
 洋式銃の導入によって、ふたたび鉄砲が戦場の主役となり、刀槍による接戦が廃れていった経緯については、すでに『鉄砲と日本人』で詳しく述べているので、ここではくり返さない。戊辰戦争や一連の士族反乱の過程の中では、刀を抜いて振りまわす場面も、まったくなかったわけではないが、槍や刀ではもはや戦争にはならないという土方的認識を覆すには至らなかった。
 いったん消え失せたはずの「チャンバラ幻想」が息を吹き返すきっかけとなったのは、おそらく明治四二年(一九〇九)に改正された『歩兵操典』が自兵主義を打ち出したことであろう。これが火力を軽視する日本陸軍の「伝統」をつくってしまったことは、旧軍人の人たちにも指摘されているが、ただ、この時点では、わが国だけがとび抜けて頑迷固陋だったわけではない。欧米諸国も長らく白兵重視の姿勢を崩してはいなかった。むしろ、本格的な白兵主義の伝統を持たなかったわが国としては、そうした自兵主義自体が近代的な陸軍の建設に伴って、欧米から移植されたものだったというほうが当たっている。
 そのあたりの事情も『鉄砲と日本人』でかなり記しているので、これ以上立ち入らないが、不可解なことが一つある。欧米諸国の陸軍が第一次世界大戦(一九一四〜一八)を境に自兵主義と手を切る方向へ向かっていったのに、わが国の陸軍ばかりは、積極的に自兵主義を打ち出したのである。他の国でも刀剣がまったく姿を消したわけではないが、第二次世界大戦中、刀を実用兵器として重視していたのは、日本陸軍だけだったそうである。こうした姿勢は、満州事変(一九三一)の直後から目立つようになり、翌昭和七年(一九三二)には、従来の軍刀に代えて、新たな乗馬刀・徒歩刀がとりあえず制定された。他の兵器の刷新に先がけて、まず軍刀の改良がはかられたところからして問題だが、それだけでは終わらなかった。陸軍部内に「日本精神」作興の声が高まり、それまでサーベル式外装となっていた将校の軍刀が旧来の日本刀の形式に改められることになった。「チャンバラ幻想」は、名実ともに息を吹きかえしたことになる。
 もっとも明治四二年の『歩兵操典』改正から、一直線にそこまで行ってしまったのかというと、そういうわけでもない。刀剣鑑定家の本阿弥光遜氏は、第一次大戦後、よく士官学校へ講演に行ったが、若い上官候補生の中には軍刀不要論を主張する者が多かったという。それはまた軍部全般の空気でもあったのではないかと思われる。それが一転して、従来型の軍刀が維持されたくらいならまだしも、旧来の日本刀が復活したのだから、後世の日から見れば、自昼に幽霊が出現したょうなものである 。

鈴木眞哉氏の『刀と首取り 戦国合戦異説』(平凡社新書036), 東京, 平凡社, 2000, pp61ff
ところで,日本刀への執着というと思い出されるのは,三島由紀夫の最後ですが,彼の考えには共感するところは少なくないものの,自殺(or他殺?)に至るまでの行動は全く理解できません.目的を達成するための複数あったと思われる選択肢の中で,最も成功率が低いものを選ぶというのは非合理の一言に尽きます.その意味では,ナルシスト且つロマンチストとは言えるにせよ,例えば,レーニンのようなリアリストの革命家とは言えません.

西洋列強を手本として軍事大国化しようとした近代日本の非合理性の象徴とも言える日本刀を用いて自らの生涯に終止符を打った三島は,こうした日本が培養してしまった非合理性が受肉した存在と言えるのかもしれません.しかし,そうした存在であったからこそ,逆に日本の伝統文化や精神性に対する感受性も豊かであったことも事実でしょう.であれば,なぜ,もっと生きて文筆や言論によって社会に影響を与えようとしなかったのか,そう思うと残念に思えてなりません.ただ,誤解していただきたくないので,三島が非合理主義者であったからといって,日本の伝統文化,特に技術については非合理であったとは必ずしも思いません.むしろ,それらは各時代において目的合理性にのっとって開発されたものであったと思っています.ただ,それらを条件が全く異なる現在において使用するという姿勢が時代錯誤そのものであり,且つ非合理以外なにものでもないということです.さらに,三島の思想(と呼べるものがあるとすると)には,無形の精神性への崇敬がみられますが,彼にとって,その無形の精神性宿る寄りしろとして天皇が必要になるのであり,彼の天皇への思慕はそれゆえのもののようです.そこには,中性の武士道を形成していた主君と家来との情緒的な関係に近いものが見えます.魂,あるいは精神と言っても,結局,それを象徴する何らかの形象を崇拝の対象とするのであれば,それは偶像崇拝であり,唯物論との違いがぼやけてきてしましいます.日本の伝統的な氏神信仰を無批判で受け入れ,前提としている思想にはこうした不明瞭性がつきまといます.
*6) 例えば,吉村昭 著『深海の使者』(文春文庫)参照.また,敗戦直前の1945年にドイツから日本へ向けて出航したU-234には,分解されたジェット戦闘機Me 262Aggregat 4 (A4)の設計図及び部品,さらに日本の核兵器開発を支援するための560 kgの酸化ウランなどが積載されていました.(1993年に制作された映画"Das letzte U-Boot"("The Last U-Boat")の基となった実話.映画の中では米内海相の役を児玉清さんが演じておられました.それぞれの国民性が良く描かれていて,お薦めの一本です.)

Wednesday, 17 December 2014

《死の目的化》が起きた日本と起きなかったドイツ - 第二次世界大戦中の体当り攻撃を巡る両国の比較

始めに,《死の目的化》という言葉は,元海軍技術大尉の内藤初穂氏の著作『海軍技術戦記』の「特攻兵器の原理」という文章中の次の文を短く言い換えたものです.内藤氏は,特別攻撃と呼ばれた体当り攻撃の発想の三つの論拠を挙げていますが,その三つめを述べた箇所です.
第三に、日本の軍隊組織のなかでは、もともと、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の葉隠れ思想や、「死は鴻毛より軽し」の軍人勅諭思想がひろく賞揚されていたことである。つまり、アッツ島いらいの玉砕思想が特攻思想ヘと移行して、戦間の結果であった死が戦間の目的にすりかわっても、ごく自然のことと受けとめられ、おもてだって批判する素地はまったくなかったのである。*1)
そして,1945年4月の「菊水作戦」発動以降の体当り攻撃に関する以下のデータを挙げています.
中央の方針は本土決戦へ切りかわってしまったが、九州方面の航空部隊は、水上偵察機、練習機″白菊″までくりだして、「菊水一〇号作戦」までの特攻出撃をつづけ、けっきょく、海軍機延べ八五八六機、陸軍機を含めると、一万機以上が投入される。そして、沖縄をめぐる戦果は、沈没二四隻、損傷三四九隻(アメリカ側資料)、その八〇%は、特攻機によるものと推定された。特攻隊については、これを日本歴史の栄光とみるか、恥部とみるか、思いは人さまざまだろう*2)
こうした体当り攻撃は,日本だけに限ったものではなく,当時の同盟国ドイツでも敗戦直前に実行されました.1945年3月17日オーデル川(Oder)の浮橋(Pontoon Bridge)に対する爆弾を搭載したHe 111,Ju 88-Bomber,Ju 87 Stukaおよび1機のFW 190による混成飛行隊による攻撃です.この作戦には,志願者によってのみ組織された体当り攻撃専門部隊レオニダス飛行中隊(第200飛行爆撃隊第5中隊.通常"5./KG 200"と略記.後にSonderstaffel Einhornに名称変更.)所属のパイロットに混じって,新たに志願したパイロットたちも加わっていました.翌18日に実施された同様の攻撃において,Ernst Beichel操縦のFW 109がZellin付近の浮橋の破壊に成功しました.その後,東部戦線において,迫り来る赤軍の進攻を阻むための橋梁破壊作戦には,無人誘導爆弾(恐らくFritz X)や無人飛行爆弾Mistelgespanneなどが投入されましたが,中には,双発爆撃機が全搭乗員諸共標的に激突した例もあったようです.また,ナチスの総統親衛隊(Schutzstaffel)の中にも体当り攻撃専門の部隊が組織されていましたが,必死作戦遂行のために前線に派遣された者の中にはパイロット以外の兵員も含まれていたようです.これらの作戦の結果,オーデル川の架かる17の橋梁が破壊されました.*3)

実は,上で述べた作戦の前にも,連合国軍の補給艦艇に対する体当り攻撃が計画されたことがありました.そのひとつの例を以下に紹介します.1943年6月13日,体当り攻撃(ドイツ語では自己犠牲攻撃)の発案者であり,5./200 KG隊長ハインリヒ・ランゲ(Heinrich Lange)に,FW 109による体当り攻撃作戦準備の命令が下りました.ただ,ランゲは,この作戦の実施には消極的でした.何故かというと,FW  109に搭載可能の爆弾は最大1000 kgであり,しかも,仮にそれを標的の艦艇近くで投下しても,ランゲが望んでいたように,確実に標的を撃沈させるためにそれらの直下で爆発させる(後に説明するライヒェンベルグによる攻撃方法.)ことは不可能だったからです.なお,こうした戦法が,何故,自己犠牲攻撃と呼ばれたかというと,敵艦艇の至近距離で爆弾を投下するためには,限りなく垂直に近い角度で急降下を行い投下する必要があるのですが,その場合,それらの艦艇との激突は避けられないからでした.

結局,この作戦は実行には移されませんでした.パリの北方に用意されるはずのフォッケ・ヴルフ11機と搭載可能な特殊爆弾の用意が間に合わなかったこともその理由でしたが,最終的に,このあまりにも成功の確率が低い作戦の実施を拒否したのは,ランゲ自身でした.*4) ランゲのこうした姿勢に対し,上層部から以下の文言を含む自己犠牲兵員の義務を記した通達が届きました.
,,... der Totaleinsatz ist nicht mehr auf eine bestimmte Waffe abgestimmt, sondern gilt für jeden Einsatz, zu dem der Mann befohlen wird ..."*5)
"Totaleinsatz"という言葉は,当時,自己犠牲("Selbstopfer")と同義語として用いられましたが,「全的挺身」とでも訳せましょうか.つまり,軍の上層部によると,特殊部隊に求められる全的挺身とは,特定の兵器の使用時にのみ求められるものではなく,すべての作戦において求められるとしたのです.言い方を換えれば,どのような攻撃方法による作戦であろうと,その実施の命令を受けたら,自らの命を犠牲にすることを拒否してはならないということです.これは,ランゲたちの意向を完全に無視したものでした.彼らが望んだのは,自らの命と引き換えに敵戦力に対し確実に甚大な損害を与えることであり,そのためには,その目的を最も高い確率で叶えることができる兵器の使用が前提条件だったからです.*6) そして,その兵器こそがパルスジェットエンジンを搭載した無人飛行爆弾Fieseler Fi 103(V-1)に操縦席を設けたライヒェンベルグ(Reichenberg Re)だったのです.

1944年8月25日,デーデルシュトルフにいたランゲたちは,KG 200のランデル・ゼンパー少佐(Major Randel-Semper)の訪問を受けます.少佐は,ランゲ達に空軍上層部の意向として上記文言を含む誓約書への署名を求め,同時に,ランゲが望む兵器の開発及び製造は困難である旨も伝えました.最初は躊躇していた彼らでしたが,相談の結果,最後には署名に応じました.しかし,そのとき,ランゲが隊長の職から解かれたことも知ったのでした.上官の命令に対する複数回に及ぶ不服従がその理由でした.*7)

こうしたランゲや同僚たちの姿勢は,最後迄目的と手段を明確に区別し,自らが定義した両者の意味を変えなかった結果と言えます.ここに体当り攻撃で死ぬという手段が目的化してしまった日本との決定的な違いが見えます.元々,ランゲが体当り攻撃を思いついたのは,1940年5月10日以降従事していた兵員や物資の輸送機(DFS 230グライダー)のパイロットだったときです.彼は,多くの同僚たちが,操縦するグライダーとともに敵戦闘機の餌食になるのを見て,いたたまれない気持ちになり,どうせ命を失うのであれば,敵に対して,できるだけ大きな損害を与えたいという願いから体当り攻撃の構想を思いついたのでした.*8)

以上のことを念頭に置きつつ,日本海軍の後に「桜花」と呼称された有人誘導飛行爆弾大⃝(○の中に大)部品の最初の実戦参加の際のエピソードを知ると,当時の指揮官の思考が,如何に無思慮および無謀なものであり,すなわち非合理によって支配されていたかが判ります.長文ですが,冒頭で引用した内藤氏の著書から引用します.
 本土各地を荒しまわり、硫黄島上陸軍の援護にあたったアメリカ機動部隊は、いったんウルシー泊地に帰投したのち、三月一八日、ふたたび土佐沖にあらわれ、一九日にかけて延べ二五一〇機をくりだし、九州、四国、中国、阪神の各基地に対して、大規模な反覆攻撃をかけてきた。 一九日には、呉地区もねらわれて、港内に集結していた残存艦艇の多くが損傷をうけた。沈没は敷設艦三隻だけですんだものの、 "伊勢″ "日向″ ″龍鳳″ ″大淀″などにいたっては、実質的に戦聞能力を完全に失ってしまった。
 中央では、錬成途上にある航空兵力を温存する方針であったが、九州に展開していた第五艦隊の宇垣指令長官は、
「地上に於て喰わるるに忍びず、加うるに南西方面に対する攻撃の前提ならずと誰か判定し得ん」(『戦藻録』)として、部隊の全力を投入する。
 当時(三月一日規在)の航空兵力は、作戦の主力となる第五航空艦隊が約五二〇機、これに第一航空艦隊(台湾方面)の約八五機、第三航中艦隊(関東方面)の約五八〇機をあわせると、合計一一八五機と推定される)航空本部の整備計画に対して、充足率は約六割であった。このほか、予備部隊の第一〇航空艦隊には、約三六〇〇機(実用機約一一〇〇機、練習機約二五〇〇機)が準備されていたが、これは当面の迎撃には使えなかった。
 第五航中艦隊は、三月一八日から二一日まで、連日にわたって延べ六八五機を出撃させ、未帰還機一七二機の犠牲をあげながら、敵機動部隊に襲いかかり、空母四隻を撃沈したと判断された(アメリカ側資料では撃破)。出撃機のうち、約四分の一にあたる一七七機は特攻出撃であり、その一五五機が未帰還となっている。
 最終攻撃には、人間爆弾″桜花″の「神雷部隊」(指揮官、野中五郎少佐)も初出撃することとなり、午前一一時三五分、"一式睦攻″ 一五機がそれぞれ″桜花″をかかえて、鹿屋基地を離陸した。敵機動部隊上空に到達すれば、特攻隊員が″桜花″に乗り移り、操縦桿のボタンを押して離脱、身ぐるみ突入してゆく手筈であった。しかし、″桜花"作戦については、母機の空気抵抗が主翼の防弾ゴムや″桜化″のために増大して、どうしても鈍速にならざるを得ず、その結果、目標に到達する前に親子もろとも撃墜されることが懸念されていた。航空技術廠の廠長、和田操中将は、用兵側に対して、戦闘機の護衛が十分でなければ成功の公算がうすいことを強く主張していたともいう。案の定、″桜花"の初陣は、この懸念を裏書きしてしまった。第五航空艦隊の宇垣司令長官は、『戦藻録』のなかで、その日の経緯をつぎのように記している。
 「見送りの為飛行場に至りさすがに心配顔なる岡村指令を激励す。
 神雷部隊は陸攻一八(桜花搭載一六)一一三五鹿屋基地を進発せり。桜花隊員の白鉢巻滑走中の一機に瞭然と限に入る。成功してくれと祈る。然るに五十五も出るはずの援護戦闘機は整備完からずして三十機に過ぎず一方索敵続行の結果は空母三、二、二の三群集結隊形にて南西に航するを報じ最初の考より勢力猶大なるを知る。南大東島を攻撃制圧したる報もあり。壕内作戦室にて敵発見。桜花部隊の電波を耳をそばだてて待つこと久しきも否として声無し。今や燃料の心配を来し、敵を見ざれば南大東島へ行けと令したるも之亦何等応答するなし。其の内援護戦闘機の一部帰着し悲痛なる報告を致せり。即一四二〇頃敵艦隊との推定距離五、六十海里に於いて敵グラマン約五十機の邀撃を受け僅々十数分にして全滅の悲運に会せりと。嗚呼ー(三月二一日、水曜日、晴)」
 このとき、岡村基春指令は、援護機五五機でも足りないと進言し、横井俊之参謀長は、攻撃中止を示唆したが、宇垣司令長官は、「この情況で使えないものなら、"桜花”は使うときがない」と、岡村指令の肩をたたきながら、決行を命じたという(猪口、中島共著『神風特別攻撃隊』河出書房新社刊)。*9)
最後の,『神風特別攻撃隊』から引用された桜花による攻撃の決行理由を述べた宇垣司令長官の言葉「 この情況で使えないものなら、"桜花”は使うときがない」に,この異常な攻撃用の兵器を使うこと自体が目的化されていたことが明確に示されています.開発の命令を受けた技術者たちが.自らのうちにわき上がって来る「非科学的」,「技術に対する冒涜」といったいきどおりの言葉を封じ込めて開発した特攻兵機桜花は,その乗員および搬送機の乗員と共に非合理性によって支配されていた用兵側(兵器を用いる側)の姿勢の犠牲となってしまったと言えるでしょう.*10)

では,そもそも,こうした体当り攻撃の伝統が古くから日本軍に存在したかというと,答えは否です.冒頭で引用した内藤氏の言葉でも判るように,決死が必死に替わったのは敗戦色が濃厚になったころからで,例えば,真珠湾攻撃の際に使用された特殊潜航艇甲標的は,確率は僅かであったものの生還は前提からはずされていませんでした.以下,内藤氏の著書からの引用です.
それまで、戦間の過程で結果的に体当りに至った例は少なくなかったが、はじめから体当りを前提とした攻撃は、あまりにも悲愴であり、あまりにも異常であった。この種の攻撃をのちに「特別攻撃」、略して「特攻」と呼びならわすようになるが、同じ呼称が、すでに真珠湾、シドニー港、ディエゴスワレス港を攻撃した″甲標的″にも用いられている。しかし、 ″甲標的″の場合は、搭載母艦に帰投できるように設計してあるので、「決死」の特攻であることは間違いないにしても、けっして「必死」の特攻ではなかった。特攻という言葉が「決死」から「必死」へと転換しはじめたのは、南東方面の敗色が濃くなった昭和一八年中期ごろといわれる。*11)
具体的には,最初の神風特別攻撃隊の組織が在比第一航空艦隊司令長官大西瀧次郎中将によって決断されたのは,1944年10月20日のことでした.その背景として内藤氏は,以下の事情を紹介しています.
基地航空部隊も、残存機をあげて、水上部隊のなぐりこみに呼応したが、劣勢は如何ともしがたかった。とくに、在フィリビンの第一航空艦隊は、二〇日現在の実働兵力がわずか二九機にすぎず、まともな攻撃法では、単なる消耗に終わることはあきらかであった。どうせ戦死するものなら、赫々たる戦果をあげさせてやりたい。司令長官の大西瀧次郎中将(一〇月五日、寺岡謹平中将と交代)は、「外道の戦法」と承知しながら、一〇月二〇日、休当り攻撃以外に道はないと決断して、いわゆる「神風特別攻撃隊」の編成にふみきった。*12)
ドイツに於いても事情は同じで,例えば,1944の2月,ランゲと同志の女性パイロット,ハンナ・ライチ(Hanna Reitsch)からの要請を受け,ナチス党ニーダーシュレージエン支部の代表Karl Hankeは,P 55計画と呼ばれる,双胴の発動機付き航空機の2つの胴体の間に有人誘導滑空爆弾を搭載した形状の兵器の開発および実戦投入について,軍備大臣のAlbert Speer及び航空省の総合航空機材局(Generalluftzeugmeister)のErhard Milchに承認を求めましたが,二人はそれを拒否しました.ドイツでも,元々必死攻撃といっても,当該兵器に必ず最後の瞬間に脱出できる装置を設置すべきという考えが一般的であり,激突する瞬間までコックピットに留まるというのは,"unsoldatisch"(まさに大西中将の言う「外道の戦法」),または"undeutsch"(非ドイツ的)とされていたのです.(日本海軍で,こうした考えを敗戦迄持ち続けてた人の中に,例えば井上成美提督がいます.*13))つまり,ランゲたちが構想した体当り攻撃は,言わば異端だったのです.そして,日本ではこの異端が,敗戦間際にいともたやすく正統に取って代わるのですが,ドイツでは,同様のことはおきませんでした.後に説明しますが,ライヒェンベルグの実戦投入が見送られた最大の原因は,1944年11月15日付でKG 200の司令官に就任したヴェルナー・バウムバッハ(Werner Baumbach)の一貫した体当り攻撃非容認の姿勢だったのです.*14) さらに,それに加えるならば,体当り攻撃専門の飛行中隊5. /KG 200は,ランゲとその同志たちによって組織され,後に軍によって追認されたものであり,日本のように軍による名目上は志願者の募集とされたものの実質的な強制参加は,ドイツ軍(Wehrmacht)においては最後迄行われませんでした.*15) なお,親衛隊内部に於いても同様の部隊が組織されたようですが,その経緯の詳細は知りません.*16)

なお,体当り攻撃については,ヒットラーも当初,積極的な支持を示すことはありませんでした.1944年2月28日,ハンナ・ライチは女性で初めて1級鉄十字勲章に叙されましたが,その際にヒットラーに直接会う機会を得ました.そして,彼女は,自分やランゲたちが構想した体当り攻撃の必要性をヒトラーに説いたのですが,彼は,まもなく実用化されようとしていたジェット戦闘機や同爆撃機について熱弁を振るうのみでライチの言葉にはほとんど耳をかそうとしませんでした.*17) ヒットラーが最終的に体当り攻撃に対し同意したのは,1944年5月22日,23日に行われた軍備大臣のSpeerと親衛隊との会談においてです.以下,その会談の結果を記したプロトコールの一部です.ヒトラーが,それまでの姿勢を変えて体当り攻撃("Totaleinsatz")実施の必要性を認めたことが述べられていますが,それも会談の同席者たちの,ドイツが追いつめられた情況を打破するには体当り攻撃しか方法は無いという強い意見を受けてのことだったのが判ります.
,,Den Fuehrer erneut auf die Wichtigkeit der Angriffe gegen die Stromversorgung Moskau, obere Wolga aufmerksam gemacht und gleichzeitig darum gebeten, dass die Aufklaerung des Ural-Raumes durchgefuehrt wird. Dem Fuehrer weiter davon Mitteilung gemacht, dass sowohl bei der Luftwaffe als auch bei der Waffen-SS eine groessere Anzahl von Maennern fuer einen totalen Einsatz zur Verfuegung stehen wuerden und dass voraussichtlich bei der geringen Treffsicherheit des Korps Meister alle E-Werke mit Sicherheit nur durch Totaleinsatz zerstoert werden koennten. Der Fuehrer ist im Gegensatz zu seiner bisherigen Auffassung der Meinung, dass dieser Totaleinsatz vorbereitet werden muesse. Anschliessend an die Besprechung mit dem Fuehrer hatte ich eine Ruecksprache mit K o r t e n (sic), dem ich den Standpunkt des Fuehrers, die Notwendigkeit des Totaleinsatzes und die Aufklaerung des Ural erneut vorstellte und der sofortige Unterstuetzung zusagte." *18)
ここで,桜花とライヒェンベルグの根本的な違いを2つだけ挙げておきます.1つめは性能に関するもので,後者の前者に比べ桁違いに長い航続距離です.桜花には,ロケットエンジンが3本搭載されていましたが,それぞれの燃焼時間はわずか9秒.最大でも27秒しか自前の推進力で飛行することはできません.そのため,搬送機である三菱一式陸上攻撃機は,標的の至近距離迄この重たい兵器を運ぶ必要がありました.一方,ライヒェンベルグのプラットフォームはV- 1(Fieseler Fi 103 A-1)のそれなのでパルスジェットエンジンを搭載しており,連続で25分間の飛行が可能だったのです.巡航速度は,実戦用のRe 4a(標的の種類によって4つのバリアントが存在)では,およそ560 km/h(Fe 103は580 km/h),最高速度は620 km/hでした.*19)(巡航速度については,648 km/hの桜花のほうが勝っていました.)ライヒェンベルグの搬送機は,最終的にHe 111 H-22が選定されましたが,やや一式陸上攻撃機に劣るものの,ほぼ同様の性能を持った爆撃機でした.

2つめは用兵上の違いで,桜花は単に水上標的に向かって急降下突入するのみだったのと異なり,ライヒェンベルグの水上標的用バリアントは,標的の間近で着水し,その後,爆弾を搭載した前部が離脱し敵艦艇の直下へ潜り込み爆発するというものでした.*20) 突入速度は,桜花が1040 km/h,ライヒェンベルグは900 km/hが想定されていました.

最後に,ライヒェンベルグの実戦投入が実現しなかった根本的な理由は,以下のことにつきます.すなわち,ドイツ軍全体として非生還を前提とする体当り攻撃に対し,統一見解が形成されなかったことです.敗戦まで,上層部においても現場でも異端の攻撃法という意見を持つ人が少なくなかったのです.すでに述べたように現場の司令官で,最終的にライヒェンベルグ計画の中止を決定したヴェルナー・バウムバッハもその一人でした.彼が,その決断を下したのは,1945年3月5日訓練用のライヒェンベルグ(Re 3WNr. 10 *21))を用いた試験飛行が行われた際,事故でテストパイロットのヴァルター・シュタルバティ少尉が殉職したのを受けてのことでした.*22) なお,こうした認識の相違は,結果的にライヒェンベルグおよびその前に計画されたP 55といった体当り攻撃専用の兵器の開発に遅れを生じさせたことは言う迄もありません.そして,ようやく実戦用ライヒェンベルグが完成したころには,それを搬送できるハインケル爆撃機も殆ど残っていないという情況だったのです.

最後に個人的な所感を述べさせていただくと,結果的に体当り攻撃という異端の戦法が正統の戦法へといとも簡単に変化してしまった日本ですが,以上の歴史を眺めて見て思い出したのは,日露戦争における日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利した連合艦隊の東郷平八郎司令長官の連合艦隊解散の辞の中の次の言葉です.
而して武力なるものは艦船兵器等のみにあらずして、之を活用する無形の実力にあり。 百発百中の一砲能く百発一中の敵砲百門に対抗し得るを覚らば、我等軍人は主として武力を形而上に求めざるべからず。
この言葉を知って感動したルーズベルト大統領は,アメリカ軍の指揮官たちに紹介したそうですが,以下がそのときの上記文の英訳です.
This strength does not consist solely in ships and armament; it consist also in immaterial ability to utilize such agents. When we understand that one gun which scores a hundred per cent. of hits is a match for a hundred of the enemy's guns each of which scores only one per cent.
何か,この辺りに合理性を欠いた異端が正統にすりかわる萌芽が見えるように思うのですが,これをお読みいただいた方はどのように思われるでしょうか.

これからは雑談です.昨夜,TBSラジオのニュース番組を聴いていたら,石原慎太郎元東京都知事のインタビューの模様が流れていました.その中で石原氏は,やたらにヒットラーを賞賛していましたが,あの方は『我が闘争』を読んでおられると思うのですが,その中の日本人についてのコメントを忘れているようです.とはいえ,もし戦争中に読まれているのであれば,当該箇所は削除されているので(日本語訳では),ご存じないのかもしれません.私は,ヒットラーは,やたらにアーリア人なるものの優秀さのみを讃え,日本人を創造性のない民族としてバカにしているので嫌いです.(その腹立たしく思える文章をこちらのページに載せました.なお,日本語訳は馬鹿々々しくて読む気にならないため,英訳とドイツ語原文のみ載せてあります.)*23)




*1) 内藤初穂『海軍技術戦記』,東京,図書出版社,1976年,p206
*2) Ibid., p234
*3) Jack, U. W., "Reichenberg Die bemannte Selbstopfer-Bombe" in FliegerRevue X 40,p37
*4) Ibid., p29
*5) Ibid., p30
*6) Idem.
*7) Ibid., pp26f, 32
*8) Ibid., p19
*9) 内藤『海軍...』,pp228f
*10) Ibid., pp207f
*11) Ibid., p205

*12) Ibid., p215
*13) 阿川弘之『米内光政 下』,東京,新潮社,1978年,p141
*14) Jack, "Reichenberg...",pp32, 35f

*15) Ibid., pp26ff
*16) Ibid., pp27ff; 1943年9月,監禁中のムソリー二を救出した親衛隊のOtto Skorzny少佐は,1944年4月,5月頃,日本海軍が開発した④金物(後の「震洋」)⑥金物(後の「回天」)と類似の兵器を用いた戦法を構想していたようです.それでも,標的へ突入する直前に脱出することを想定していたようですが.
*17) Ibid., p24
*18) Ibid., pp27f
*19) Ibid., p33; なお,一式陸上攻撃機桜花,およびHe 111のデータは,ぞれぞれWikipediaから引用.
*20) Ibid., pp22, 29
*21) Ibid., pp35f

*22) パルスジェットエンジン搭載 練習用の複座の機材.前方のコックピットは教官用.Ibid., pp25, 33
*23) 個人的に,ヒトラーが述べているように,日本人が創造性を欠く民族(文化の創造者とはなりえない民族)であるとは微塵も思いません.(この点については,ホイジンガが『朝の影のなかに』(中公文庫)の40ページ以降で述べている文化の定義が参考になります.)国内外の先人達の業績を土台にして,さらに良いもの,人類の幸福のために か目的がぼやけてしまい,手段のみが一人歩きしてしまう,あるいは礼賛の対象となってしまうことは往々にしてあるようです.そのひとつの例として挙げたいのは,莫大な予算を投じて行われている宇宙探査です.重要なプロジェクトだとは思うのですが,その目的が今ひとつ明確でない印象を持っています.もちろん,それに携わっている方達には明確であるわけですが,どうもニュースメディアは,手段でしかない探査機の劇的な帰還などに報道の力点をおいてしまい,その目的を正確,且つ詳細に伝えてはいないように思うのです.つまり,そのプロジェクトの意義について考える材料を提供していないように思うのです.仮に生命の起源を探る上で重要であると言った場合,当然,そのための費用対効果が議論されるべきであることは言う迄もありません.最近,宇宙の誕生時に大量に放出され,また,現在でも銀河の中央部で放出されているガンマー線の影響により宇宙に多くの知的生命体が存在する可能性は低いという学説が発表されていますが,目的や意義が明確であれば,こうした最新の研究結果を踏まえてそれについて議論し,必要とあれば計画を修正するということも可能になるはずです.しかし,どうも,そういった姿勢をとろうとすると,野暮天であるとか,夢をぶちこわすとかといった批判の対象となってしまう雰囲気を感じます.このように,宇宙探査などのプロジェクトは,枕詞のように夢や希望という言葉によって修飾されますが,そうした言辞こそが,私たちの精神風土が手段の目的化を容易にしてしまう環境であることを表しているのかもしれません.

Saturday, 26 April 2014

マッカーサーリポートに記載されている終戦の詔勅

靖国神社について何か記載は無いかと思い,標記報告書内を検索してみたのですが,これといって興味を覚えたものはありませんでした.ただ,たまたま終戦の詔勅の英訳や国務大臣たちの署名入りものの写真が掲載されているのを見つけたので,ここにご紹介する次第です.(なお,占領軍の宗教政策については,敢えてご紹介するまでもなく,ウィリアム・P. ウッダード 著, 阿部 美哉 訳『天皇と神道―GHQの宗教政策』,サイマル出版会,1988(Woodard, W., P., The Allied Occupation of Japan 1945-1952 and Japanese religions, Leiden: : Brill, 1972)を始め多くの文献が出版されているので,ご興味のある方はそれらをご参照下さい.)

ではまず,英訳から.

Tuesday, 20 August 2013

第二次世界大戦の歴史に興味を持つ若い方へ薦めたい本

相当偏りがあることは承知の上で,ぱっと頭に思い浮かんだものを順不同でご紹介すると以下のとおりです.なお,想定年齢は中学生以上とさせていただきました.
  • Hermann Kinder, Werner Hilgemann 共著『The Penguin Atlas of World History: Volume 2: From the French Revolution to the Present』 (Penguin Reference Books)(地図年表とでも呼べるもので,日本のアマゾンでも購入可能です.原書はドイツで出版されています.*1) 当時の国際情勢を客観的かつ包括的に把握するのに最適の資料だと思います.フランス語版もあります.*2)
  • デイヴィッド・バーガミニ 著,いいだもも 訳『天皇の陰謀』(上下巻構成でかなりのページ数があり,全巻読むのに骨が折れます.)
  • ヘレン・ミアーズ 著『アメリカの鏡・日本』(角川oneテーマ21シリーズに抄訳版がありますから,そちらを読んだ方がお手軽.)
  • 加藤典洋 著『アメリカの影』(講談社学術文庫.すぐに読み終わります.)
  • 高木万亀子 著『静かなる楯 米内光政』(こちらも上下巻構成で読むのに骨が折れます.米内光政を扱った本では,阿川弘之 著『新版 米内光政』(上下)のほうが読み易いと思うので,とりあえずこちらを読んでざっと流れを押さえておくというのもひとつの方法です.)
  • 水木しげる 著『ラバウル戦記』(ちくま文庫.あっという間に読み終わります.)
  • Ken Burns  監督『The War』(900分,6枚組のDVDです.英語の聞き取りの練習も兼ねて視聴してみるのは如何でしょう.値段は,Amazon.comで購入する場合,$46.99です.本ではありませんが,ここにご紹介したもののなかでの一番のお薦めです.第二次世界大戦というもの全体を理解するための資料としては,最も充実している資料といえるのではないかと思います.なお,あらかじめお断りしておかなければならないのですが,各国の兵士などの死体の映像も多く収録されています.そのため,これだけは少なくとも中学生の方には不向きかもしれません.ただ,このドキュメンタリーや後に紹介する"14 - Tagebücher des Ersten Weltkriegs"(ドイツ語),"14 - Des armes et des mots"(フランス語)を見ると,『男たちの大和/YAMATO』(2005年)『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実-』(2011年)など,近年,日本で制作された映画は,ことごとく単なるナルシシスティックなファンタジーでしかないことがよく判ります.ジャンルが異なるから止むを得ないのかもしれませんが.であったとしても,これらの日本の戦争映画の制作意図は全く理解出来ません.
  • André Singer 監督『Night Will Fall』(75分,2014年9月に公開された作品.Amazon.co.ukでは2015年2月2日発売予定.(£14.00)対象15歳以上.1945年,連合軍のカメラマンたちにより撮影された開放直後の各地の強制収容所の記録映像をヒッチコックらが編集したもの.視たとき,相当なショックを受けましたが,必見のドキュメンタリーだと思います.)
  • リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー,永井 清彦 訳『新版 荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』(岩波ブックレット No. 767) 
  • 吉田満 著『鎮魂戦艦大和』(講談社.単行本と上下巻に分けられた文庫本があります.「臼淵大尉の場合」,「祖国と敵国の間」,「戦艦大和ノ最期」の三作が収められていますが,個人的には特に始めの二作品が好きです.このうち,「戦艦大和の最後」は,1953年,新東宝によって映画化されていますが,大和の元副長能村次郎氏の教導の下に制作されていて,個人的に好きな映画の一本です.*3)) 
  • 池田清 著『海軍と日本』 (中公新書 (632))(近代日本の非合理性を軍という視点から分析した名著.)
また,工業,機械技術に興味のある方へはさらに次の二冊もお薦めします.(何故日本が戦争に勝てなかったのか,日本側の理由を明確にしています.)
  • 内藤初穂 著『海軍技術戦記』(ハードカバーでそれなりに厚い本ですが,テーマに興味がある場合,楽に読めます.)
  • 大内建二 著『間に合わなかった戦闘機』(光文社文庫.戦闘機が好きなら,すぐに読めてしまいます.写真と図面が豊富なのがうれしいポケットブックです.)
  • 前間 則 著『悲劇の発動機「誉」―天才設計者中川良一の苦闘』(戦闘機用として開発されたエンジンの歴史から,日本民族の非合理性を浮き彫りにしています.)
直接,第二次世界大戦を取り上げてはいませんが,日本人の非合理性を理解するうえで,下の本も参考になると思います.
  •  鈴木真哉 著『刀と首取り―戦国合戦異説』 (平凡社新書)
さらに,もう二冊お薦めしたい本があります.
  • 中田整一 編/解説『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』(講談社) 
  • 曽我部秦三郎 著『二十世紀の平和論者 水野広徳海軍大佐 日米戦争を明治から憂えた男』(元就出版社)
淵田氏は真珠湾攻撃における現場の指揮官であり,水野氏は第二次世界大戦時にはすでに軍を去っていた元海軍軍人ですが,二人とも日本人には珍しい徹底した合理主義者で,彼らの視点を通じて日本人の非合理性,そして前近代性が見えてきます.日本人の非合理性,前近代性といえば,鈴木眞哉 著『刀と首取り』(平凡社新書 036)もお薦めしたい本です.

 付録
ベルリンの壁崩壊から四半世紀を経た昨年,ZDFで放送された『タンバッハ - ある村の運命』 も大戦後のドイツを襲った悲劇を綴った素晴らしいドラマでした.

また,ドイツ語がお読みになれて,且つ国家社会主義ドイツ労働者党が政権についていた時代にそれが行ったことやそれと国民との関係,さらに現在に残る影響などついて興味をお持ちなら,手元にあるものの中から選ぶと以下の4冊が比較的参考になるかもしれません.(内容に対して,個人的に特に興味深く思えたものには★印を付記しました.)
  • Aly, G., HITLERS VOLKSSTAAT Raub, Rassenkrieg und nationaler Sozialismus, Frankfurt am Main, 2006, S. Fischer Verlag GmbH
  • Aly, G. ed., VOLKES STIMME Skepsis und Führervertrauen im Nationalisozialismus (2. Aufl.), Frankfurt am Main, 2007, S. Fischer Verlag GmbH★
  • Welzer, H., Der Krieg der Erinnerung Holocaust, Kollaboration und Widerstand im europäischen Gedächtinis, Frankfurt am Main, 2007, S. Fischer Verlag GmbH★
  • Welzer, H. ed., TÄTER Wie aus ganz normalen Menschen Massenmörder werden, Frankfurt am Main, 2007, S. Fischer Verlag GmbH
そして,もう一冊,特にナチスドイツの占領地におけるユダヤ人などの輸送に用いられた鉄道(ドイツ帝国鉄道)の歴史については,次の文献がお薦めです.
  • Engwert. A,, Kill, S., SONDERZÜGE IN DEN TOD Die Deportationen mit der Deutschen Reichsbahn, Köln, Weimar, Wien, 2009, Böhlau Verlag
最後に,もし第一次世界大戦にも興味をお持ちで,且つフランス語かドイツ語のいずれかの言語が少なくとも読めるのであれば,2014年にARTEで放送された,参戦国の14人の民間人,あるいは軍人の日誌を忠実に再現したドキュメンタリー"14 - Tagebücher des Ersten Weltkriegs"(ドイツ語),"14 - Des armes et des mots"(フランス語)をご覧になることを強くお薦めします.DVDおよびブルーレイでAmazon.de,Amazon.frなどでそれぞれ購入可能です.また,フィクションですが,france3が放送している"Un village français"も素晴らしい作品です.フランスの地方の小さな村の住民たちが,ナチスおよびそれに協力するヴィシー政権下で経験したさまざまな出来事をとてもリアルに描いています.個人的に最近視たドラマの中で際立って完成度の高いものです.

ところで,上記の本の紹介のなかで,しばしば,'日本人の非合理性'という言葉を用いましたが,確かに,私たちは,近代戦の遂行に当たって必要な西洋的目的合理性とは,今日でも哀れなほど無縁な民族です.しかし,それならば,私たちは,遠い先祖の時代から,西洋近代社会がその基礎に於いている合理性とは,全く異なる原則に沿って,その営みを続けて来たのではないか,そう思えることも事実です.その原則が何なのか,まだ,答えは見いだせていません.




*1) dtv-Atlas Weltgeschichte: Band 2: Von der Französischen Revolution bis zur Gegenwart Aktualisierte Neuausgabe [Taschenbuch]
*2) Atlas historique : De l'apparition de l'homme sur la terre au troisième millénaire [Broché](ドイツ語版(2014年発行)も英語版(2004年発行)も2巻構成になっていますが,フランス語版(2006年発行)は1巻にまとめられています.)
*3) 新東宝によって制作された戦争をモチーフとした映画は,リアリズムを重視した作風で優れた作品が少なくありません.他に,隊員の手記を基にした『人間魚雷回天』(1955年)も個人的に好きな映画です.

Tuesday, 26 March 2013

航空公園で展示中の零戦を観て思い出した事

先日,所沢の航空公園で展示されている零戦52型を観る機会がありました.当時の日本の航空機技術の粋を集めた世界的名機ですが,コックピットの内部を眺めながら,敗戦が迫っていた頃,この座席に座って多くの若者が体当たり攻撃を行うために出撃し,太平洋でその尊い命を失ったのだと少々感慨にふけってしまいました.

零戦については,特にその設計開発過程において数多くの印象深いエピソードがありますが,ふと,以前読んだ『海軍技術戦記』*1)のある箇所が思い出されました.以下はその引用ですが,直接的にはロケット型体当たり攻撃用兵器「桜花」の設計開発過程について述べられている箇所の一部です.

それまで、戦闘の過程で結果的に体当りに至った例は少なくなかったが、はじめから体当りを前提とした攻撃は、あまりにも悲愴であり、あまりにも異常であった。この種の攻撃をのちに「特別攻撃」、略して「特攻」と呼びならわすようになるが、同じ呼称が、すでに真珠湾、シドニー港、ディエゴスワレス港を攻撃した″甲標的″にも用いられている。しかし、″甲標的″の場合は、搭載母艦に帰投できるように設計してあるので、「決死」の特攻であることは間違いないにしても、けっして「必死」の特攻ではなかった。特攻という言業が「決死」から「必死」へと転換しはじめたのは、南東方面の敗色が濃くなった昭和一八年中期ごろといわれる。ことに第一線部隊のあいだでは、このころから、敵の圧倒的な兵力に対抗するのは「必死の特攻」しかない、とする考えがめだってきた。こうした発想は、だいたい三つの論拠をもっている。
 第一に、特攻用の兵器(特攻兵器)は比較的かんたんに多量生産できることである。つまり、目標に突進することを主目的とするから、それ以外の性能にかかずらう必要はないし、また、一種の消耗品だから、材料も節約できるからである。
 第二に、特攻兵器の搭乗員は、練度の低いものでも勤まることである。つまり、日標に突進する訓練だけにしぼって、敵の攻撃を回避するとか、帰投するとかといった訓練を省略できるからである。
 第三に、日本の軍隊組織のなかでは、もともと、「武士道とは死ぬことと見つけたり」の葉隠れ思想や、「死は鴻毛より軽し」の軍人勅諭思想がひろく賞揚されていたことである。つまり、アッツ島いらいの玉砕思想が特攻思想へと移行して、戦闘の結果であった死が戦闘の目的にすりかわっても、ごく自然のことと受けとめられ、おもてだって批判する素地はまったくなかったのである。
(上掲書pp205f)*2)
兵器として見た場合にも、特攻兵器には致命的欠陥がいくつかある。
 第一に、いうまでもないことだが、搭乗員の生命が一回ごとにかならず消耗されてしまうという事実である。特攻隊員の訓練は簡易化できるといっても、その生命を代償とする以上、戦力の蓄積もできないし、再生産もできない。けっきょくは、なしくずしの先細りにならざるを得ない。
 第二に、搭乗員がかならず未帰還になるのだから、戦果の報告をうけられないということである「じじつ、特攻作戦が開始されてからというもの、戦果の判断に「見込み」の要素が多くなり、戦訓としてまとめることがひじょうにむずかしくなったのである。
 第三に、とくに空中特攻兵器が、水上、水中特攻兵器と違って、敵艦船の水上部にしか被害を与えられないということである。水上部をいくら破壊しても、小型船ならいざしらず、撃沈の戦果をあげるわけにはいかない。戦艦、重巡洋艦、航空母艦などの大艦を目標とするかぎり、空中特攻はもっとも拙劣な攻撃法といわなければならない。水線部をねらうとすれば、かなりの練度を必要とする。水上部攻撃でも、誘爆などを期待できるかもしれないが、これはあくまで二次的な効果であって、確実性にとぼしい。主務設計者だった三木氏は、当時の心境を回顧して、「技術者としてはこのような必死の兵器を造るのはむしろ技術への冒瀆であるとさえ感じていたが、わが国の総合国力と急速に下り坂にある戦勢を考え合わせるとき、最後にはある部分はこれで行かざるを得まい、部隊の要望するものを要望するときに間に合わせなければ……と、その火と燃ゆる熱に動かされた」と書いている(『桜花設計記』航空ファン掲載)
(上掲書pp207f)

零戦の話題から離れてしまいましたが,内藤氏がその過程を語る桜花の開発は,世界的に誇れる技術力を有するチームを擁していても,彼らの技術力を目的合理性に従って最大限有効に用いることができる戦略が立てられない,そうした非合理的な用兵側の姿勢が,結果的に技術を支配してしまった悲劇といえるでしょう.

さらに,個人的には,こうした悲惨な体当たり攻撃や,さらに敗戦間際の戦艦大和の沖縄出撃など,内藤氏の言葉を使えば「必死」の兵法は,その本来の意図に照らした場合,極めて非合理といわざるを得ませんが,日本人にとっての一種の「儀式」と考えられると思っています.さらに,誤解を恐れずに言えば,オランダの歴史学者ホイジンガが,その著書『ホモ・ルーデンス』の中で使っている「あそび」という言葉によって定義される行動の範疇に含まれると.なお,ここで言う「あそび」は,必ずしも幼稚という言葉で形容できるものではありません.綿密に築き上げられた宗教儀式なども,ホイジンガの定義に従えば,一種の「あそび」なのです.そして,彼によると,「あそび」にはふたつの要素が必要です.「場」と「ルール」です.つまり,現実の世界の中にあっても,他から切り離された「場」とそこでのみ通用する「ルール」です.*3) 身近な例で言えば,私たちの国のさまざまな「祭り」を挙げることができます.祭りの間,それが展開する空間は日常から切り離された「場」となり,日常生活におけるものとは異なる「ルール」に従ってそれは営まれます.ホイジンガは,また,秩序を守った戦争もスポーツ競技と同様に「あそび」のひとつと言っています.戦争における秩序とは,互いに人間のである事を認め,尊重し合い,公平なルールに従って行うことです.しかし,近代の総力戦では,それらの秩序が忘れ去られてしまったとも言っています.*4)

戦争という「あそび」は,第二次世界大戦において,とりわけ日本とアメリカに関する限り,その文化的な性質を失い,極めて残念な方向へと進展していってしまいました.つまり,この二国において,戦争は,最早「あそび」という言葉で形容できない方向へと暴走してしまったのです.日本軍は,初期の段階で中国大陸における無差別爆撃を行い*5),アメリカも後に日本に対し同様のことを行いました.さらに,後者は,どう考えても戦時国際法違反である非人道的行為の極みといえる核爆弾投下を,多くの人口を抱える日本の二都市に対し行いました.このように,戦時国際法という共通のルールに従うことを止め,互いに独自のルールに従って戦うようになってしまったのです.通常のスポーツ競技では考えられない事態です.つまり,今や,戦争という事象が展開する空間は,引き続き共通であったとしても,そこに適用されるルールは,当事者同士に共通のものではなくなってしまったのです.敗戦の色が濃くなりつつあった日本は,本来相手の戦力を如何に効率よく破壊するかということに主眼を置くべき戦闘行為に,まるで宗教祭祀のようなルールを適用するようになりました.*6) つまり,超自然的な力,あるいは意思からの恩恵を受けるための行為である人身御供のような,自らの,あるいは犠牲となる個人が所属する集団の能動的意思に基づく死自体が目的となるような攻撃手段を採用するに至ったのです.あるいは,如何に《美しく》死ぬかという点を最重要視するようになったと言ったほうがより適切かも知れません.こうした姿勢の根底には,情誼的に自然を捉え,それを構成するひとつの要素として自らの生き方を他の生物のそれになぞらえる独特の思考が潜んでいます.また,戦争を指導する立場にあった人々が誤りを犯した自らの責任を国民に,特に兵士たちに気づかせないために用いたレトリックだったとも言えるかも知れません.一方,アメリカは,自国の戦闘員の人命保護と同時に,戦後の世界における軍事的政治的優位性の確保という視点からつくられた独自のルールに基づき,実質的に,日本人全体をあたかも邪悪な異生物のように看做したような形での攻撃を行うようになっていったのでした.つまり,日本では自国の若者たちを兵器の一部として扱い,また,アメリカは対戦国の国民を人間以外の生き物と看做すといったように,各当事国は,ある人間の集団を自らが所属する人間の範疇から外すという極めて非文明的ルールを創り出し,それに従ってしまったのです.「それが戦争というものなのだから仕方がない」と言う向きもおられると思います.「であるからこそ,戦争は避けなければならないのだ」とも.確かに,それも事実でしょう.ただ,一つ気になるのは,ある意味で日本もアメリカも,このようなそれぞれの非文明的ルールに現代においても従い続けているのではないかと感じられることです.日本社会においては,国家や企業の若者に対する姿勢に,また,アメリカについては,特に第二次世界大戦末から今日に至るまでの,世界各地における軍事介入において.




*1) 内藤初穂(元海軍技術大尉)著 『海軍技術戦記』,昭和51年,図書出版社
*2) 「葉隠」については,対米英戦争終結において決定的な役割を果たしたといわれる米内光政提督の興味深いエピソードがあります.彼は,昭和11年の2.26事件発生当時,横須賀鎮守府司令官の職にありましたが,そのころ,ある大佐から「葉隠」に関する所感を書いたので部下に配布したいと,当時の同鎮守府参謀長井上成美少将にその原稿をわたしました.井上参謀長は,米内長官に「所轄長かぎり参考として閲読させるならよろしいと思います」という意見を付して廻したところ,それを読んだ長官は,「葉隠は自殺奨励だよ.危険だからいけない」と返してよこしたそうです.(cf. 阿川弘之『米内光政 上巻』,昭和53年,新潮社,p163)

また,航空特攻は,昭和19年10月フィリピンで行われたのが最初で,沖縄戦を境に海軍全般の戦法になっていったようですが,記録によると,当時,海軍次官だった井上成美中将は,特攻について「これはもはや,兵術というものとちがう」と語り,特攻作戦について,最終決済を与える立場にあり免責無関係ではない米内海相に「このままだと,こうした悲惨なことが際限なくつづきます.大臣,手ぬるい.一日も早く」と叱りつけるような調子でつめよる様子を秘書官たちは見たそうです. (cf. 阿川弘之『米内光政 下巻』,昭和53年,新潮社,pp141f)
*3) ホイジンガ 著,高橋英夫 訳,『ホモ・ルーデンス』(中公文庫),昭和63年(第15版),中央公論社, p276
*4) ibid., pp190ff
*5) もし,日本人が,世界から良識ある近代的文明人と認められたいのであれば,歴史を通じて,特に近代において,アジアの隣国に対し,特に一般市民に対して行った一連の戦時国際法違反の非人道的行為を自ら客観的な手段を用いて徹底的に究明する必要があると思っています.そして,それを国民共通の公の認識とできたとき,初めて「普通の国」と自称することができるかもしれません.戦争の恐ろしさを伝えるという行為は,そうした前提がなければ全く意味をなさないでしょうし,日本人がしきりに口にする「歴史の風化」という現象も,こうした分野における努力が殆どなされていないことがその根底にあると思います.加えていうならば,ある人々は,「武士道」と言う言葉を好むようですが,私の勝手な解釈では,こうした自らが犯した過ちを潔く認めるという姿勢も「武士道」の精神の中に含まれるものだと思っています.(「武士道」という言葉自体,慶長年間から使われ始めたもので,極めて政治的な意図の下につくられたもののようですが.)
*6) 加えて,旧日本(海)軍の作戦や戦闘行動を眺めるとき,何故か徹底性に欠けていたという指摘が,真珠湾攻撃総隊長淵田美津雄氏(当時中佐)によってなされています.淵田氏は,昭和19年に実施され,結果的に失敗した捷一号作戦終了後の所感として以下の記録を残しています.捷一号作戦とは,もはや敵艦隊と互角に戦えるだけの戦力のない艦艇群(いわゆる栗田艦隊)を使い,レイテ湾内の敵輸送船団を撃滅させるというものでした.その際,当該の輸送船団の護衛に当たる空母17隻によって構成される敵機動艦隊(ハルゼー機動艦隊)を,搭載する飛行機さえほとんど無い小沢機動艦隊を囮として誘い出し,攻撃対象から離れさせておくという戦術がとられたのです.しかし,栗田艦隊は,このデコイ作戦がかろうじて成功したにも拘らず,たまたま別の第七艦隊(キンケイド艦隊)の護衛空母群を発見し,それとの戦闘を開始したため,本来の任務であるレイテ湾突入の機を逃してしまい,壊滅的大打撃を被った結果,連合艦隊の組織は事実上全滅したのでした.そして,その後,体当たり戦法が採用されていったのです.連合艦隊司令部が,当時の自らの置かれた状況を合理的に判断し,立案した作戦であったにも拘らず,今もって,従前のような戦艦や重巡洋艦による艦隊同士の決戦に挑む事こそ自らの使命であるという非合理な時代錯誤的意識に囚われた現場指揮官によって招かれた結末でした.
大東亜戦争開戦以来、私のみているところ、日本の提督たちは、勝負度胸に乏しい。言うなれば、しつこさがないのである。南雲提督は真珠湾で反覆攻撃をやらなかったし、三川提督は、ソロモンの夜戦で、もうひとつ突きこめば敵を全滅出来るのに、さっさと引き上げている始末であった。
 爾来、太平洋の各戦域において、日本の提督たちには、もうひとつという勝負度胸がないのであった。そして、こんどは、レイテ沖海戦における栗田提督である。私は、歯がゆくって仕方がない。(cf. 中田整一 編『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』,2007年,講談社,p233)
なお,合理性に関連して,思い出した言葉があります.昭和二十年四月,戦艦大和の沖縄突入作戦に第四(副砲)分隊長兼副砲射撃指揮官として参加した臼淵磐大尉が,出撃後艦上で語ったという次の言葉です.
 「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩といふことを軽んじすぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れてゐた。
 敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救はれるか。今目覚めずしていつ救はれるか。
 俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る。まさに本望ぢゃないか。」(cf. 「臼淵大尉の場合」in 吉田満『鎮魂戦艦大和』,昭和53年,講談社文庫,p32)
21歳で大和と運命を共にした臼淵大尉が残した言葉の中で,彼が使った「進歩」という言葉の意味について著者の吉田氏自身,その解釈を試みていますが,僭越ながら,大尉によって使われた「進歩」という言葉は,今日,私たちが使う「合理性」という言葉とほぼ同じ意味を持っていたのではないかと思っています.あるいは,少なくとも彼が言う「進歩」とは,合理性を前提とするものではなかったかと.

こうした合理性と非合理性の混在が,第二次世界大戦における日本の辿った方向に軽視出来ない影響を及ぼしたことは確かであると思いますが,現代の私たちも,果たして合理性に基づいた共通の市民意識というものを持っているかどうか,少々心もとないところがあるように思えてならないのです.

Monday, 3 September 2012

心を打たれた二つの話

今年の夏,二つ程,とても心を打たれる話と出会いました.両方とも実話です.一つは一本の映画の中で,もう一つは一冊の本の中で.

映画のタイトルは,『ふじ学徒隊』.沖縄の海燕社が制作した短編ドキュメンタリー映画です.そして,本のほうは,大森 亮潮著『人情浅草地図』に収められている「 なさけはひとのためならず」です.

この二つの話に共通しているのが,その両方において,日本軍の軍医がとった行動が普遍的な人間愛に裏打ちされていた(少なくとも私にはそう思えました) ものだったということです.

『ふじ学徒隊』を鑑賞したのは,渋谷のアップリンクファクトリー.上映の前に監督をされた野村さんのご挨拶がありました.この映画の中で,特に心を打たれたのは,傷病兵たちの看護を任務とする学徒隊の各隊員に対する小池勇助隊長(軍医少佐)の,軍人としての,また一個の人間としての思いやりと,彼女たちの同隊長に対する敬愛の念でした.制作者の皆さんがこの映画で訴えようとされたことの本質を表すと思われる「かならず,生き残れ.親元へ帰れ」,「絶対に死んではならない」という小池隊長の学徒隊員たちに対して発せられた《命令》は,一般に知られた沖縄や,南方の日本の植民地で起きた,多くの非戦闘員を巻き込んだ悲劇を思い起こすとき,また,日本の伝統的風習*1)に照らし合わせたとき,にわかに信じ難い言葉だっただけに一層深い感銘を与えるものでした.そして,隊長の言葉に従い,親元に戻るために壕を出たある隊員は,途中,米兵たちが残したと思われるタバコを見つけ,それを隊長さんに持っていってあげようと壕内の隊長の元へ引き返したところ,すでに自決していた隊長を見つけ,泣き崩れたという証言も,彼女たちの隊長に対する素朴で純粋な敬愛の情を物語るもので,深く印象に残りました.隊長は,彼女たちとお別れをする際,一人一人の手を握り,声をかけたといいます.自分も含め,日本人同士が握手するというのには,以前,昔の記録映像で見た,神風特別攻撃隊の出撃シーンで上官が各隊員と握手を交わすシーンを思い出してしまい,どうも違和感を感じてしまうのですが,ここでは,そうした感情は起こらずに,素直にその様子が思い浮かべられ,胸が切なくなるのを覚えました.

もうひとつの「なさけはひとのためならず」は, 浅草寺の支院医王院の元住職であり浅草寺病院の元医師で,第二次世界大戦中の昭和十八年秋,軍医としてカンボジアのプノンペンの日本軍の陸軍病院に赴任された大森さんの体験談を綴ったものです.当時,カンボジアは,フランス領.日本は,米英とはすでに交戦状態にありましたが,昭和二十年三月にフランスに対し宣戦布告するまで,日本軍は,フランスの陸軍病院の一部の施設を自らの陸軍病院として借用していました.大森軍医は,そこで働くフランス軍の軍医たちと仲良くなり,よく一緒にお酒を飲みに出かけたそうです.(自分は,フランス語はおろか,英語もままならないのによく意思が通じたものだと,その著書の中で述懐されています.)

やがて,日本は,フランスに対し宣戦を布告.布告当日の三月九日早朝からフランス軍の各施設を攻撃,占拠しました.そうした中,親しくしていたフランス軍軍医の奥さん(婦長)が大森さんを訪ねてきて,プノンペンとその周辺にいる多くのフランス人の婦人と子供全員を,以前,フランス軍の病院の産院だった施設に集めてもらえないだろうかと不安そうにたずねました.日本軍の攻撃はもちろん,住民からも危険が及ぶことも考えられるからというのがその理由でした.彼女の心配を痛いほど理解した大森さんは,当時の作戦部隊の軍医部長が,自分が軍医となって最初の上司だった軍医大佐だったことを思い出し,その頑固ながらも真面目な性格ゆえに,婦女子を救出したいと願えば,必ず許してくれるだろうと,すぐに大佐のもとへ飛んでゆきました.そして,ことの次第を話したところ,案の定すぐに承諾され,患者車を使って輸送するようにとの指示も受けました.こうして避難させたフランス人婦女子の数は,180名を越えたそうです.戦時国際法に照らしてまったく当然のことといえますが,その後,大森さんたちがとった行動は,日本が戦争に負けた後,フランス軍の軍事法廷で裁かれる事となった大森さんの身に思わぬ報いとして反ってきました.この続きは,上掲書の中で読まれることをお勧めします.




*1)「 武士道と騎士道」,「《死の目的化》が起きた日本と起きなかったドイツ...