Thursday 14 April 2016

1945日8月10日付原子爆弾使用についての外務省の対米抗議文内に用いられた'非人道的'という言葉

長い引用なので,折り畳みます.対米抗議文にはマーカーをつけました.原爆を'非人道的'と形容しているのが2箇所.同じく'人道を無視'したものと述べているのが1箇所です.英語訳については,アメリカの国立公文書館に行けば閲覧ができるのではないかと思います.正直に申して,英語訳に興味があります.

「終戦の詔勅」は原子爆弾について、こう触れている。

 交戦己に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦朕が百僚有司の励精朕が一億衆庶の奉公各々最 善を尽せるに拘らず戦局必ずしも好転せず世界の人勢亦我に利あらず加之敵は新に残虐 なる爆弾を使用し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る而も交戦を継続せむか終に我が 民族の滅亡を招来するのみならず延て人類の文明をも破却すべし斯の如くむは朕何を以て か億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜし むるに至れる所以なり      

 この「敵は新に残虐なる爆弾を使用し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る」の個所に清書後加筆がなされ、「敵は新に残虐なる爆弾を使用し〔て頻りに無辜を殺傷し〕惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る」となったのは、加瀬英明『天皇家の戦い」によれば、清書 者が「緊張して、一字一字を写して」いき、「ようやく清書を終えて」読み合わせてみたと ころ、ちょうどこの「九字を落してしまっ」ていたからである。天皇に提出する文書に「書 き損じは絶対に許されない」、にもかかわらずいまぼく達の見ることのできる「終戦の詔勅」 に異例にも原子爆弾の「惨害」に触れて「頻りに無辜を殺傷し」と臣民への暴虐(?)に関 する記述が書き加えられた形になっているのは、清書者の書き損じにたいし、上司の迫水久 常が「時間がないから書き込んでもよい」と述べたからだというのが、前記加瀬英明の著書の説明である。

 この説明を信じるか、信じないかは、ぼく達の判断に委ねられているわけだが、ただ一つはっきりしているのは、ステムソンの原子爆弾の威力と天皇の威光に関して下した判断が、 ここにそのまま生きているということである。
 八月十五日に放送された「終戦の詔勅」において特徴的なのは、ここで天皇がその「威 光」にかけて原子爆弾の「威力」を非難してはいないということである。詔勅は原子爆弾の 「残虐」性とそれが「頻りに無辜を殺傷」した事実に言及してはいるが、皇祖皇宗の神霊の威光にかけて、この未知の残虐な「火器」の威力を弾劾するという姿勢は示していない。天皇は、この未知の爆弾の出現によってその惨害がどこまで及ぶか「真に測るべからぎる」事態が招来された、このまま交戦を続ければ民族の滅亡にいたるばかりか、「人類の文明をも 破却」する結果となろう、そうなれば自分は何によって臣民を維持しまた神霊に謝ることができるだろうか、自分が降伏を受け入れるのはそのためにはかならないと、いってみれば ―― スチムソンの予見した通り――原子爆弾の威力を国民にたいし、彼らが「天皇の譲歩を 納得する」理由として、掲げているのである。
 日本国民は天皇の「聖断」によって戦争の範を脱することができたということが、しばし ばいわれる。しかし天皇は「原子爆弾」の投下という「超自然的な兵器の出現」によって、 その「聖断」の可能性の端緒をとらえた。
 ここに生じているのは、ちょうど一カ月前ボツダムでバーンズとトルーマンに生じたこととほぼ変らない。八月十五日、ぼく達は、天皇自身を含め、原子爆弾の「威力」をかりて国民規模で天皇の「威光」からの″出エジプト″を果たした。そこで原子爆弾の「威力」は、 チャーチルの述べたように、ぼく達が天皇の「威光」から離脱する無意識裡の理由とされ、 ぼく達はぼく達の頭上に掲げる「天皇」の傘を脱すると同時に、いわば「原子爆弾」の傘の 下へとそっと移ったのである。  一九四五年八月六日、はじめて世界に原子爆弾の「威力」が示された時、これにたいして直ちに抗議声明を出そうとした日本の外務省と情報局の動きは、まだ本当の原子爆弾かわからないという口実の下、国民の士気低下をおそれる軍部の反対によって、押しとどめられ た。中国新聞社編『ヒロシマの記録」によれば、八月七日のトルーマン大統領声明にたいする最初の抗議が現われたのは、九日朝のロンドンの新聞であり、興味深いことにそれは「読者」の投書だったという。
 その後、ヨーロッパを中心に、アメリカによる原子爆弾使用にたいする非難は各所に拡が る気配を見せる。日本政府が、戦前戦後を通じてただ一度、この原子爆弾投下について対米抗議文をスイス政府を通じて提出するのは、八月十日のことである。
「本月六日米国航空機は広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し瞬時にして多数の市民を 殺傷し同市の大半を潰滅せしめたり」とはじまるこの抗議文は、この爆弾が「交戦者、非交戦者の別なく、また男女老若を問はず、すべて爆風および幅射熱により無差別に殺傷」する 「未だ見ざる惨虐なるもの」と述べ、それに続けてこう記している。少し長いが、外務省の 『終戦史録』にも載っていないので「朝日新聞」一九四五年八月十一日付に従って次に引用 する。

 聊々交戦者は害敵手段の選択につき無制限の権利を有するものに非ざること及び不必要 の苦痛を与ふべき兵器、投射物其他の物質を使用すべからざることは戦時国際法の根本原則にして、それぞれ陸戦の法規慣例に関する条約付属書、陸戦の法規慣例に関する規則第 二十二条、及び二十三条(ホ)号に名定せらるるところなり。米国政府は今次世界の戦乱 勃発以来再三にわたり毒ガス乃至その他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の輿論により不法とせられをれりとし、相手国側において、まづこれを使用せざる限り、これを使用することなかるべき旨声明したるが、米国が今回使用したる本件爆弾は、その性能の無差別かつ残虐性において、従来かゝる性能を有するが故に使用を禁止せられるをる毒ガスその他の兵器を遥かに凌駕しをれり。米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたり帝国の諸都市に対して無差別爆撃を実施し来り(……)而して今や新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物にも比し得ざる無差別性残虐性を有する本件 爆弾を使用せるは人類文化に対する新たなる罪悪なり。帝国政府はここに自からの名において、かつまた全人類および文明の名において米国政府を糾弾すると共に即時かゝる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す。

 この日本政府が「自からの名」とまた「全人類および文明の名」において米国政府にたい して行なった非難と抗議は、現在までのところ、米国政府にこたえられていない。また現在までのところ、日本政府によっても再度、取りあげられてはいない。ぼく達の一般的な感情をいえば、中国で、朝鮮で、また南方のアジア各地で「残虐非道」な侵略をほしいままにした日本政府が、何をいうか、というところであり、また、もし日本が先にこれを完成させていたら、必ずや日本政府はこれを敵に用いたのではないか、というところである。 おそらく、その議論は説得力をもっているが、しかし、たとえどのような極悪非道の政府であれ、それがそのようなものとして承認されている限り、その政府は、国際法上、もう一つの極悪非道を、非難し、告発する権利をもっている。
 ここには、一九四三年一月、カサブランカでルーズベルトとチャーチルが思い描いただろう反応がそっくりそのまま姿を現わしているとぼくは思う。彼らがあの「ノン・コミットメ ント」、「フリーハンド」の施策を敗戦国に適用しようとした時、彼らは――もし戦争終結までが長びき、この種の投下、殺数が続き、告発がなされ続ける場合―― このような告発からどのようにして身をまもるか、その方途をこそ考えていたに違いないからである。 アメリカにおける当時の政府中枢の最も強力な原子爆弾使用反対論者として知られる海軍提督リーハイは、 一九四四年七月、ルーズベルトとこの問題について検討した折り、この問題の帰結は明白だとして、ルーズベルトに、もしわれわれがこれを使ったら、敵も必ずわれ われにこれを使うだろう、と述べている。そして、いったん原子爆弾を使ってしまった以 上、アメリカは、「国際連合かそれに代わる国際機関が世界から脅威を取り去る保障をしない限り、つねに敵となりうる相手より多量の、また高性能の原子爆弾をかかえていなければ ならない」運命を背負ってしまったと嘆いている。(『私はそこにいた』四四〇 – 四四二頁)
 しかし、この八月十日の日本政府の抗議は、この時いちどその使用者につきつけられ、これを最後に世界史の中に消えた。ここにはあの無条件降伏政策が、明らかに機能している。 そうではないだろうか。たしかにルーズベルトがあの時、考えていたようにではない。しかし、それは、彼にそれを構想させたものかも知れない原子爆弾が、彼の死後、彼を押しのけ、「威力」として天皇の「威光」と等価交換される、そのような手続きを踏んで生き残ったことをつうじて、機能することをやめないのである。

– 加藤典洋 著 『アメリカの影 戦後再見』(講談社学術文庫1182), 講談社, 東京, 1995年, pp287ff

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