Friday 5 October 2012

イル・ド・フランス小紀行 II - モンテ・クリストの館

パリを後にして,近郊線(RER)Aを使い,予約したホテルのあるSaint-Germain-En-Layeに着いたときには午後10時を過ぎていました.地図を見る限り,駅から少し距離がありそうだし,タクシーはと探しましたが,駅構内にTAXI乗り場を示すと思われる表示はあるものの,その場所へ行っても一台もありません.ホテルの予約手配書には,チェックインは午後11時までとあったので,少々焦って,番号をメモしておいたタクシーへ電話.「わかりました.すぐに参ります.」と言ってはくれたもののなかなかそれらしい車は見えません.一応,ホテルにも連絡をと電話すると,「とりあえず,タクシーが来るのを待ってみてください.うちは何時に着いてもかまいませんので.」とありがたいような,見放したような応対.ようやく来たタクシーに乗ってホテルに着いたのは,それでも11時前でした.見知らぬ土地へ出かけて際,思い通りにものごとが進まずおろおろしてしまうのは,外国人旅行客の常ですが,多少言葉が分かったとしても,初めての場所を訪れる際は,少なくとも駅の近くに宿を取ったほうがやはり無難のようです.

静かそうだと思って予約したのは,その昔,なんと国王ルイ14世のお住まいだったという由緒正しき城館だったことをホテル内のプレートのテキストを読んで初めて知りました.ただ,由緒正しすぎて,客室の遮音対策もままならないのか,夜中に隣でシャワーなど使われようものなら,たちまち騒音による拷問を体験するはめになりますし,また,あちこちの床が鴬張りとなっているため(老朽化のせいで),隣人たちが歩き回りながら奏でるにぎやかなカコフォニーにも耐えなければなりません.それでも,スタッフの対応は親切で,周囲には緑も多く,環境は静かです.翌朝,朝日に照らされた外の風景を眺めながら,事件を追って地方にやってきたシャーロック・ホームズとワトスン博士のような気分になりました.

部屋から見える風景 さすがにフランスの国旗が掲揚されている.
同上 カメラを左に向けて撮影
室内 ちらかっておりますが.「ワトスン.君はここに残ってくれたまえ.私はロンドンに戻る.調べたいことがあるのでね.」というような会話を思い出してしまいそうな雰囲気.
地上階 食堂の隣室
上掲の部屋の入り口右側に貼られたプレート ルイ14世国王陛下の居城だったとの記載が.
朝食をすませ,天気も良いので散歩がてら歩いて駅まで行こうとチェックアウトのときに道を教えてもらい,外に出ました.(お目当てのアレキサンドル・デュマの館へ行くには駅から出ているバスを使うようにと館のウェブサイトには載っていたので.) セーヌ川沿いに散歩道があるので,そこを通ってゆくのがお勧めとのことだったのですが,のんびり歩きすぎて,案の定道に迷ってしまいました.(急いで歩いても迷うときは迷いますが.) 挙句の果てに街中に置かれた地図とにらめっこしているところを通りがかった地元のご婦人に声をかけられ,アレキサンドル・デュマの館に行きたいのですがと言うと,親切に行き方を教えてくださいました.どうやら駅まで行かなくても,近くにバスの停留所がある模様.確かに言われたとおりに歩いてゆくと程なく停留所が見つかりました.

投宿したホテルの中庭
前方にはセーヌ川が地平線と平行に流れている.
駅に向かう途中 うろこ雲と野に咲くブルーの花
パリ郊外の秋の風景
同上
同上
セーヌ川
街中のロータリー デュマの館へ行くバスの停留所がこのすぐ近く
Saint-Germain-En-Layeの駅から出ている10番のバスに乗り,Les Lampesという停留所で降りてからかなり歩いてようやくデュマ先生の住まいモンテ・クリストの館に到着.(ウェブサイトで,下車する停留所として書かれていたLes Lampesの次の次の次くらいの停留所で降りたほうが近そうです.) 敷地の入り口にあるバラックハウスのような事務所に入り,入場券を買って反対側の,敷地へ抜けるドアをあけたとたん,それまで晴れていた空が俄かに掻き曇り,雨さえ降ってきました.さすがにモンテ・クリストの館(Château de Monte-Cristo)という異名までつけられているだけのこともあって,ここだけは別の空間のようです.

文豪の居館 モンテ・クリストの館
アレキサンドル・デュマ(Alexandre Dumas)の生い立ち等については,いくらでも文献その他の資料があるので,詳しいことは省きますが,彼の父親Thomas-Alexandre Dumasは,セント・ドミニク(現在のハイチ)で,フランス人貴族を父として,黒人を母として生まれたMulatto(フランス語では,Mulâtre.),そして,デュマの母親はフランス人でした.軍人だった父親は,ナポレオンのエジプト遠征にも将軍として参加しましたが,後者との意見の相違から解任されてしまいます.この決定を,ナポレオンは一生に渡って悔やんだといわれています.*1)

 ところで,デュマは稀代の食道楽としても知られていますが,以下は, その一端を示す彼の言葉です.

"L'homme reçoit de son estomac en naissant, l'ordre de manger au moins trois fois par jour, pour réparer les forces que lui enlèvent le travail, et, plus souvent encore, la paresse."
Extrait du Grand Dictionnaire de Cuisine d'Alexandre Dumas.

「人は,生まれながらにして,日に三度食事をするようにと命令を胃から受けている.それは,労働によって奪われる体力を回復させるためであるが,それ以上に,怠惰が消滅させる体力を回復させるためでもある.」
アレキサンドル・デュマの大料理辞典より

デュマは,この館で多くの客たちを手作りの料理でもてなしました.彼の献立のなかには,牡蠣のオムレツ *2)やうずらのスープ *3)などがあったそうですが,どんな味がしたんでしょうか.もっとも,牡蠣のオムレツなどは,牡蠣の卵とじのようなものと思えばよさそうですが.

そして,さらに.

"Je vois avec plaisir que ma réputation culinaire se répand et promet bientôt éffacer ma réputation littéraire. Dieu soit loué! Je pourrai donc me vouer à un état honorable et léguer à mes enfants, au lieu de mes livres dont ils n'hériteraient que pour quinze ou vingt ans, des casseroles ou des marmites dont ils hériteront pour l'éternité."
A. Dumas

 「食における私の名声が拡がり,やがて,文学におけるそれを確実に消し去ってしまうということを嬉しく思っている.神がほめたたえられます様に!それにより,私は名誉ある地位に落ち着いて留まることができるし,私の子供たちに,鍋やフライパンを相続させることができる.これらは,わずか15年か20年で消滅してしまう私の著作に比べ,永遠不滅の財産なのだ.」
A. デュマ

2002年3月26日,当時のジャック・シラク大統領は,アレキサンドル・デュマの遺灰をパンテオンに移す大統領令に署名しました.

ところで,今回投宿したSaint-Germain-En-Layeの町ですが,音楽家クロード・アシーユ・ドビュッシー(Claude Achille Debussy, 1862年8月22日 - 1918年3月25日)の生家があります.

館内の展示を一通り見終えると,天気も回復
モンテ・クリストの館の正面の高台にそびえる英国ルネサンス様式のイフの館 ここでデュマは,モンテ・クリスト伯の一部を執筆した.
イフの館の中のデュマの書斎
モンテ・クリストの館とイフの館を結ぶ橋
パリ地下鉄3号線Malesherbes駅の側に立つデュマのブロンズ像
台の背面にある三銃士のダルタニアンの像
文豪の機知に富む構想を表すような面白い形の雲が浮かんでいた.頭の上にはパートナーの到着を待ちわびる鳩が.
パリに暮らす人々を見守るデュマ.乳母車の赤ちゃんも未来の大作家かも.

モンテ・クリストの館のウェブサイト

 *1) モンテ・クリストの館内の展示より
 *2) Omelette aux huîtres
 *3)   Potage de caille en profiteroles (うずらのポタージュをシュークリームの皮のようなもののなかに入れたのだろうか.いずれにせよ,詳細は不明.)

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