Tuesday, 21 August 2012

憧れのドイツ蒸機三形式(おまけ)

ノルトリンゲンの鉄道博物館の売店で購入したステッカーですが,先ほど画像を掲載したもののほかに,もう一枚だけ,41形を描いたものが手元に残っていました.(かなりの枚数を購入したのですが,この4枚を残して,ほかは皆知り合いの鉄道愛好家たちに配ってしまいました.)

BR41(Rekolok)

41形は,車軸配置(1'D1')と1600mmという動輪直径から判るように,貨物用機関車で,なかなかスマートな容姿をしており,どちらかというと好きな機関車の中に入ります.シリンダーの数は2つ.画像の機関車(ノルトリンゲン鉄博所蔵)のプレートには41 1150とありますが,これは,旧東ドイツ国鉄の所有機*1)で,Rekolok (Reconstructed Locomotiveの意)といわれる,ボイラーを新しいものに交換したマシンです.(もともと41形のボイラーには問題がありました.) 製造番号の最初の1は1970年に東独国鉄によってEDV番号(電算処理番号)が導入された際に付記されたもので,それ以前の製造番号は150でした.なお,西独国鉄(DB)におけるEDV番号の導入は1968年ですが,東独国鉄(DR)の2桁の形式番号+4桁の製造番号+1桁のセルフチェックディジットと異なり,3桁の形式番号+3桁の製造番号+1桁のセルフチェックディジットとなっています.その際,重油燃焼方式に改造されていたものは042の番号が,他のマシンには041の番号が与えられました.

1'D1'という車軸配置は,アメリカではミカド形と呼ばれますが,貨物用機関車では1'Eが支配的なドイツの帝国鉄道時代のマシンの中では異色といってよいでしょう. *2) ともあれ,上掲のシールから判るように非常にエレガントなシルエットを持っています.これは,ボイラーの仕様が美しい急行旅客用機の03と実質的に同じであり*3),その最下レベルが殆ど歩行版と同じ位置であることによるのではないかと思っています.この機関車の面白いというか,ユニークなところが動輪の軸重を18トンと20トンとに自由に変更出来るということでした.なお,問題があったSt 47 K鋼製ボイラーから改良形のSt 34鋼製ボイラーへ変更されたマシンの場合,前者の22.7トンから後者の25.5トンと重量が増加するため,動軸重が20トンを超えないように必ず18トン側に設定することが指示されていたそうです.*4)

この41形は,本来急行貨物用機として開発された機関車でしたが,その素晴らしい性能の故に,特に1950年台に各地で急行旅客列車など*5)の牽引にも用いられました. その中にはラインゴールド号やローレライ急行も含まれていて,これらの有名な列車も,1954の秋に23形がバトンを引き継ぐまで41形が牽引し,また,北ドイツのシュレースヴィヒ・ホレシュタイン州においてもノース・ウェスト急行,オランダ・スカンディナビア急行,イタリア・スカンディナビア急行なども牽引しています.*6) また,トルコに輸出されたヘンシェル製の11両(トルコ国鉄46051〜46061*7))は,1937年から30年間基軸幹線であるイスタンブール,アンカラ間のスターエンジンとして活躍しました.*8)


2013年5月12日にスイスのジサッハで開催されたSLデーに特別列車を牽引して駆けつけたバイエルン州の技術記念物(Technisches Denkmal)の41 018.高性能ボイラーに変更され,動輪軸重は18トンに設定されている.重油燃焼式に改造されたためEDV番号は042 018-2のはずだが,ナンバープレートは改造前の番号を記したものがつけられている.(二枚とも)

ドイツの蒸気機関車の中で車軸配置から視て異色といえるもののもうひとつにエレガントな高性能機23(東独国鉄によって開発されたヴァージョンは35)形があります.1940年代,不足していた中速旅客列車用として開発された形式で,車軸配置は国鉄のC58形と同じ1'C1',動輪直径は国鉄C57などと同じ1750 mm,そして最高速度は110 km/hです.ドイツの機関車の耳にあたるヴィッテ除煙板の名前の元となったドイツ帝国鉄道中央機関車開発局長Friedrich Witteが長年温めていたコンセプトに基づいたもので,前任の,こちらもやはりその名前が旧式の大きなヴァグナー除煙板につけられたRichard Paul Wagnerの補佐を務めていた時代,Wagnerからその開発の許可が下りなかったという曰く付きのモデルです.*9)


2013年4月27日に,ポーランドのウォルスティンで開催されたSL祭における23形.同日,ドイツのコットブスからウォルスティンへ向かう特別列車の補機を務めた.東独国鉄によって開発された新しいバージョンであり,ベースとなった旧23形と共通しているのはランニングギアのサイズくらい.新バージョンであることを表すため形式番号は23.10とされた.なお,1970年のEDV番号導入以降,当機には35 1019-5の番号が与えられている. (二枚とも)





*1) ノルトリンゲン鉄道博物館には,多くの旧東独国鉄所有の機関車が保存されています.
*2) 1'D1'の車軸配置を持った機関車は,バイエルンやザクセンなど旧領邦鉄道に属していたものにいくつか,また,タンク機関車にも存在しています.詳しくは,こちらのポストをごご覧ください.
*3) パイプ長6.8 m; 過熱管85本; 煙管20本
*4) "Alleskönner mit "Handicaps" in Baureihe 41, Eisenbahn JOURNAL, Special, 1.2013, pp25, 40
*5) D-Zug(急行), E-Zug(地方急行), F-Zug(長距離急行)なお,こうした列車種別は必ずしも今日のものとは一致しません.
*6) "Vom Main bis zur Küste" in Baureihe 41, Eisenbahn JOURNAL, Special, 1.2013, p50
*7) トルコの蒸気機関車の形式番号は,トルコ式の車軸配置をそのまま記したもので,46形とは総軸数6本,動輪軸数4本という意味.スイス式の4/6に相当します.詳しくはWikipediaの車軸配置の項のフランス語のページをご覧下さい.

*8) "Fuhrmeisters Heimreise im Smmer 1939 Teil 2 (Basra - Hamburg)" in BAHN Epoche, 04 Herbst 2012, p42.なお,トルコの鉄道に興味をお持ちの向きにはこちらのサイトがお薦めです.
*9) 後年,二人の間にはなにかと反目があったようです.Wagnerはドイツ帝国鉄道のEinheitslokと呼ばれる統一規格の機関車の生みの親ですし,Witteも革新的な戦時形機関車の52を開発するなど,どちらも優秀なエンジニアだったため,やむを得ない部分も合ったと思いますが,何分二人ともドイツ人ですから...cf. Friedrich Witte in Wikipedia

憧れのドイツ蒸機三形式

特に好きなドイツの蒸気機関車というと,下に画像を掲載した,パシフィック*1)の三形式で,すべて三気筒の急行旅客列車用機関車です.このうちの二形式,03 10形と01 10形は,これまでに直接目近で見ることができました.前者については,2011年7月に,音楽隊で知られたブレーメン(Bremen)と鉱山の跡が世界遺産に指定されている美しい町ゴスラー(Goslar)の間で運行された臨時列車が同形式によって牽引された際*2),当該列車への乗車が叶い,01 10形の102号機(01 1102:Blue Lady)は,ハイルブロン(Heilbronn)の鉄道博物館で見ています.が,後者,すなわち愛しき「青の貴婦人」は,残念な事に雨ざらしになっており,加えて,痛ましいことにメインロッドもはずされておりました...  I'm so sorry, my lady... そして,未だ相見えぬ10形については,その1号機が,音楽祭で名高いバイロイト(Bayreuth)近郊のノイエンマルクト蒸気機関車博物館(Deutsches Dampflokomotiv-Museum Neuenmarkt)に保存されているとのことなので,次回再びドイツを訪れる機会があった折には,何としても,そのご尊顔を拝す光栄に浴したいと思っております.(叶う事なら,同博物館にて,今年9月23日に予定されている"Kohlenhoffest"に赴くなどして.


BR03 10*3) (2'C1' h3)

BR01 10*3) (2'C1' h3)

BR10 (2'C1' h3)

(掲載画像は,以前お土産に購入した,ノルトリンゲン(バイエルン)鉄道博物館(Bayerisches Eisenbahnmuseum Nördlingen) で販売されているステッカーの一部)


*1) 機関車のタイプの名称のひとつで,機関車本体の車輪の軸配置によるもの.2C1とも表記されます.最初の2は,先輪といって,前側の台車についている車輪の軸数.次のCは,真ん中の大きな動輪の軸数(アルファベットのAから数えて三文字目にあたるため,3本という意味),そして,おしまいの1は,従輪といって,運転室,すなわちキャブの下に見える,先輪に比べて少し大きな車輪の軸数です.日本では,現在も山口線や磐越西線で運行されているC57形がこのタイプにあたります.
*2) 運行の主催団体は,ウルム鉄道友の会(Ulmer Eisenbahnfreunde e.V.). 元々01 10形66号機(三気筒;重油燃焼方式;プレート表記は01 1066)が牽引機として予定されていたのですが,当時同機の点検修理が未完了だったため,急遽03形(当該列車を牽引した03 1010は,石炭燃焼)に変更されました.軸重軽減のため,01よりボイラー直径が細く設計されている03のほうが好きな私にとってみれば思わぬ僥倖でした.03 1010は,三気筒03の初期のマシンで当初は流線型のカバーが装着されていました.(そのときに撮影した写真を少しこちらのギャラリーに掲載しています.)

特別列車の牽引機03 1010のキャプ
夕刻ブレーメン中央駅7番線ホームに戻った特別列車

(上述した理由により,近年,JR東日本で復活されたC61形よりは細身のC57形のほうが好みです.さらに欲を云わせていただければ,動輪が,輪切りにされたれんこんのような見た目のボックス車輪よりも自転車の車輪のようなスポーク車輪のほうが綺麗と思うので,私に取って最も美しい国鉄の蒸気機関車と申しますと,過去に北海道の宗谷本線などで出会ったC55形です.そうした日本の機関車に比べて,ドイツの機関車の場合,01 5のような例外を除き,その動輪はすべてスポークです.このスタイルの車輪で特に美しく感じるのは,(上記三形式の場合,)三枚の動輪の真ん中の主動輪にピストンから伸びる主連棒をつないでいる,クランクと呼ばれる部分の周辺で車軸の中心から外方向に向かって見られる,水鳥の水かきのような形状です.そのせいか,なんだか,よけいに生き物に近いように感じてしまいます.↓)


03 1010の主動輪

*3) 通常,文献等においては,01や03といった基本の形式番号の後の10は,上付数字として表記されます.この上付数字の10は,当初製造された同形式のマシンが二気筒だったため,それらから.後に製造された三気筒機を区別するためのものです.

追記:

この投稿をした後,実は,もう一形式,あこがれているドイツの機関車があったことを思い出しました.19.10形です.この機関車の車軸配置は,VDEV/VMEV/UIC-Systemと呼ばれるドイツ式表記で,1'Do1'.日本のD51形などと同じです.が,特筆すべき特徴として,その1250ミリという比較的小さな動輪直径*4)にも拘らず,最高速度時速186 kmという高速走行が可能ということが挙げられます.参考迄に,日本でも大正時代に製造された,国産第一号の貨物列車用機関車9600形の動輪の直径も同寸法ですが,こちらの最高速度は,時速65kmでした.では,どこに前者の驚異的なスピードの秘密が隠されているのでしょう.ヒントは,上に記した軸配置のDの次に書かれたo(アルファベットのオー)です.これは,通常,ディーゼル機関車や電気機関車の車軸配置表記において動輪の軸数を表すアルファベットの後ろに見られますが,動輪の軸のそれぞれに,直接,内燃機関や電動機の回転が伝わる構造であることを表す記号です.ということは,この19.10形も,その4本の動輪の軸が,それぞれ独立して,シリンダーのピストンの往復運動から生じた回転運動を受け取る仕組みとなっているのでしょうか.実は,そのとおりなのです.この,1台しか製造されなかった,19.10形の車軸配置をもう少し他の要素も含めて表記すると,1'Do1' h8となります.ここで,hは,"Heißdampf"つまり(加熱)高温蒸気を使用することを意味し,8は,シリンダ数を表します.つまり,この極めて特殊な機関車(他にも,ドイツには,四気筒やタービン式等の変わり種(?)マシンが存在しますが)は,片側4個ずつ,合計8個のシリンダが装着されているのです.そして,それぞれの動輪の軸は,v字形に配置された2個のシリンダによって回転するというわけです.誠に,ドイツの蒸気機関車においては,なんでもありということの典型的な例証のひとつといえます. 

良いこの皆さんの中で,鉄道,特に蒸気機関車が好きで,19.10形に興味をもった人がいたら,例えば,google.de(ドイツのグーグル)のBilder(画像)で,《BR 19 1001》というキーワードで検索してみてください.この風変わりな機関車の写真が見つかると思います.(19.10形については,Eisenbahn JOURNALの特別号Die Dampflokomotive - Technik und Funktion, Teil 4・Sonderbauarten deutscher Dampflokomotiven, VerlagsGruppe Bahn GmbH, 2003に豊富な写真や図面と共に詳細な解説が掲載されています.Cf. 同書"Dampfmotorlokomotiven", pp49ff)


*4) 画像を掲載した三形式の機関車の動輪直径は,皆2000ミリです.それだけ大きな動輪も備えていても,代表的急行旅客列車用機の01 10の営業最高速度は,時速150kmでした.また,日本の機関車の動輪の最大直径は,1750ミリで,1930年に東京 - 神戸間で運行が始まった特急つばめを牽引したC51形(旧18900形)以降,C62に至るまで,日本国有鉄道のすべての急行旅客列車用機関車の動輪直径は,このサイズでした.なお,ドイツの蒸気機関車の動輪の最大直径は,2300ミリ.因みに,これは,1936年5月11日,ハンブルク - ベルリンを結ぶ幹線内Friesack - Vietznitz間において合計重量197トンの列車を牽引しつつ,当時,蒸気機関車として世界最高速の200km/hをマークした05 002号機(2'C2' h3)や,流麗なデザインのタンク機関車61形(1935 製造の1号機は,2'C2' h2;1939年製造の2号機は, 高速走行時の横振軽減のため3シリンダとなり,2'C3' h3)の動輪のサイズです.なお,前者については,この輝かしい世界記録を樹立した際,速度計の針が振り切れてしまったそうで,実際は,200.4km/h,あるいは200.5km/h程度だったようですが,カーブの手前だったため,減速せざるを得ず,もしそのまま直線区間が続いていたら,当時のマシンコンディションから云って一層の加速が可能だったろうと云われています. 1936年といえば,ドイツ軍のポーランド侵攻によって勃発した第二次世界大戦の3年前で,1932年に政権の座についた,ヒットラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)が,第三帝国の国威発揚のための様々な宣伝活動を行っていた時期ですが,その意図に完全に合致する快挙でした.

ニュールンベルグ交通博物館の05 002

近代の戦争において,兵員や物資の輸送,さらには,戦争捕虜,また,その存在が国家にとって不利益をもたらすと判断された特定の民間人などの収容所への輸送(ヴィシー政権下のフランスを始め,ドイツの占領地域におけるユダヤ人たち等)を担った鉄道は,なくてはならない最重要のインフラのひとつでした.ということは,また,鉄道施設を破壊することは,陸上における敵の補給路を断ち切ることであり,戦略上極めて重要な意味を持ったのです.それをはっきりと示したのが,近代における最初の総力戦と言われる南北戦争における,シャーマン将軍(Gen. William Tecumseh Sherman)率いる北軍(Union)のアトランタから東海岸に至る進撃でした.この作戦において,将軍の率いる部隊は,鉄道を含めて当該地域における社会基盤を徹底的に破壊し,南軍(Confederacy)の補給路を断たった事で,北軍の勝利を決定づけたのでした.ところで,この進撃の模様を描いたのが,後に作曲された"Marching Through Georgia"(『東京節』の原曲)です.

05 002は,現在,ニュールンベルグ交通博物館所蔵. 同博物館は,第二次世界大戦当時,ドイツにおいて鉄道がどのように非人間的な目的のために使われたかも詳細に展示しています.(こういった歴史に思いを向けながら,特に戦時形の052(1'E h2; 動輪直径1400mm)などを見かけると,この機関車も,ユダヤ人を輸送する貨車を牽引したのかしらんなどと考えてしまいます.)

少々脚注が長くなりますが,なにがなんでもドイツが好きというわけではないものの(例えば,ドイツ人の皆さんは,我が国の捕鯨活動に対して反対しすぎるように思えてなりません),少なくとも,こうした,自国の過去を直視できる勇気をもっている点においては,この国に対し尊敬と羨望の念を抱かざるを得ません.
  
以下,1985年5月8日にドイツ連邦議会プレナーザールで行われたドイツ終戦40周年記念式典におけるド イツ連邦共和国リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説 ("Zum 40. Jahrestag der Beendigung des Krieges in Europa und der nationalsozialistischen Gewaltherrschaft. Ansprache des Bundespräsidenten Richard von Weizsäcker am 8. Mai 1985 in der Gedenkstunde im Plenarsaal des Deutschen Bundestages")よりの引用です.日本語訳は、リヒャルト ・フォン・ヴァイツゼッカー,永井 清彦 訳『新版 荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』(岩波ブックレット No. 767),岩波書店,2009年, pp10,11よりの引用.

 「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。」
" Wer seine Ohren und Augen aufmachte, wer sich informieren wollte, dem konnte nicht entgehen, daß Deportationszüge rollten."

「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません
また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

" Wir alle, ob schuldig oder nicht, ob alt oder jung, müssen die Vergangenheit annehmen. Wir alle sind von ihren Folgen betroffen und für sie in Haftung genommen.

Jüngere und Ältere müssen und können sich gegenseitig helfen, zu verstehen, warum es lebenswichtig ist, die Erinnerung wachzuhalten.


Es geht nicht darum, Vergangenheit zu bewältigen. Das kann man gar nicht. Sie läßt sich ja nicht nachträglich ändern oder ungeschehen machen. Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschließt, wird blind für die Gegenwart. Wer sich der Unmenschlichkeit nicht erinnern will, der wird wieder anfällig für neue Ansteckungsgefahren."


戦時形機関車52形(ノルトリンゲン鉄道博物館野外展示車両)

Friday, 17 August 2012

ヘルマン・ヘッセの五十回忌

先日の2012年8月9日は,日本でもファンの多い,ドイツの作家ヘルマン・ヘッセの五十回忌だったそうです.そのため,仏独共同で運営しているARTEというTV局が,記念番組を放送し,日本でもインターネットを通じて視聴する事ができました.今月の20日には,その続編が放送されるとのことなので,ご興味のある方は下記にアクセスしてみてください.

http://videos.arte.tv/fr/videos#/tv/coverflow///1/120/

年齢を重ねた今となっては,どちらかというとシュトルム(Thodor Storm: 1817-1888)のほうが好きですが,子供の頃は,夢中になってヘッセの作品を読みました.2011年の正月,休暇でスイスに滞在中,ふと思いつき,イタリア語圏チチノ州の有名な観光地ルガノ近郊のモンタニョラ(Montagnola)にある,ヘッセの記念館を訪れたことがあります.その折に訪れた,やはり近郊の町ジョルニコ(Giornico)は,とても美しく,スイスの好きな町の一つになりました.


ヘッセ記念館内部



山間の小さな村ジョルニコの夕暮れ



 *1) Arteが提供しているサービスで,Arte+7というものがあり,特定の番組が放送後一週間のみ無料でインターネットを通じて視聴可能.ただ,メニューに表示される番組のうち,かなり多くが日本においては,著作権上視聴不可.日本で視聴できるものとしては,ニュース番組のArte Journal,Reportage,360° -GEOなど.ごくまれに,子供向けの科学番組X:eniusが視聴できることがある.そして今回のような特別番組など.暫く前にライプチヒのゲバントハウスオーケストラと聖トーマス教会聖歌隊によるマタイ受難曲全曲演奏が配信され,日本でも視聴可能だった.

フェイスブックの試練

最近,フェイスブックの株式の価格の低迷がよく話題にのぼります.そもそも,私のようなものにとってみれば,フェイスブックなるものはどのように使うべきものか,あまりよくわかりません.使い方によっては,たいそう便利なもののようですが...

最近目にした雑誌の記事によると,どうやらフェイスブックの株式価格の低迷は,同社が時代の趨勢に取り残されてことが原因のようです.時代の趨勢とは,昨今のスマートフォンの普及です.

Gartnerという市場調査会社は,現在,世界中でインターネット上の情報の閲覧に用いられる機器は,情報の閲覧量から視た場合,ラップトップやデスクトップ型のコンピュータのほうが,それ以外の機器,すなわち携帯電話やスマートフォン,そしてタブレット型端末機よりも多いものの,来年は,ほぼ間違いなく,それが逆転するだろうという予測をしています.実際,およそ9億5千5百万人のフェイスブックの利用者も.その半数以上が,所有している何らかの携帯通信機器にFacebook-appをインストールしているとのことです.また,グーグル利用者を対象に実施された調査においても,やはり同様の結果が得られたそうです.そこから,浮かび上がって来る問題は,以下の3つです.
  • スマートフォン上での閲覧における広告収入は,全体の広告収入のごく一部でしかない.
  •  上記による広告収入の減少を取り戻すことができるビジネスモデルがまだ確立されていない.
  • これまで市場を支配してきた,固定型コンピュータからのインターネットへの接続を前提としている大手インターネット企業がその有利な地位を維持し続けられるかどうかは疑問.
"Techcrunch"と云うブログを綴っているJay Jamison氏は,携帯通信機器によるインターネットへの接続の時代をインターネットの第三の時代と名付けています.第一の時代は,ヤフーやグーグルといったポータルサイトの時代,そして,第二の時代は,フェイスブックやリンクドイン及びジンガといったソーシャルウェブの隆盛の時代.各時代には,それぞれ異なるニーズが存在し,それに応えられるサービスを提供する企業が興隆してきたわけです.

今や,スマートフォンが隆盛を極めつつある時代ですが,その利用者は,これまでコンピュータを使って入手していたものと同様の情報をスマートフォンを使って得ようとします.ただ,閲覧される情報の表示形態は,それぞれの機器の形状のために,前者と後者では大幅に異ならざるをえません.コンピュータに比較して画面が小さなスマートフォンでは,一度に多くの情報を閲覧することができないため,利用者は,本当に必要な情報のみが表示されることを望みます.しかし,フェイスブックにおいては,現在,デスクトップコンピュータ上でも同一の画面上に表示される情報の量がますます増大していますが,その情報のすべてを専用のアプリケーションであるFacebook-Appを使ってスマートフォン上でも表示させているのです.

そうしたフェイスブックの姿勢とは異なり,最初から携帯通信機器からのウェブへのアクセスを 前提としている企業は,一つのサービスには,それ専用のアプリケーション使用すれば良いと考えています.例えば,好みに合ったレストランを探すには,すでに日本でも用いられているフードスポッティング(Foodspotting)をといった具合です.

さらに,インスタグラム(Instagram)という携帯通信機器用画像共有サービスに比べて,ヤフーが提供している同様のサービスであるFlickrや,フェイスブックのそれは,すでに時代遅れのように見えると記事には書かれています.(インスタグラムは,フェイスブックによって,この4月に10億ドルで買収されたそうです.)

そして,こうしたモバイルウェブ環境においては,当然,それを使ったビジネスモデルも変化し始めているわけですが,広告にその収入の大半を頼っている企業に取っては,今や,それが一つの問題となっています.実際,スマートフォンなどの小さな画面上に目につくような広告を表示させることは,容易なことではありません.こうした環境で,どのような形の広告がもっとも適しているのか,その答えは,まだ出ていません.実際,米国では,携帯通信機器上におけるひとつのバナーの表示1000回につき,30から40セントしか支払われないそうです.

こうしたITビジネスを取り囲む環境の変化は,大手のIT企業の業績を悪化させ続けています.例えば,グーグルは,その収入の90%を広告から得ていますが,ここのところ,三期連続で,バナーがクリックされることで得られる収入が継続的に低下しおり,直近の四半期においては,およそ16%も低下したそうです.こうした深刻な収入の低下の打開策として同社は携帯端末用基本ソフトのAndroidの提供を開始しましたが,それによって見込んでいた広告収入の増加にはまだ至っていないようです.

フェイスブックも,その売り上げの85%は,広告によるものですが,ここのところ,その増加のペースが鈍くなっており,その原因として,以前に比べて利用者や広告収入の増加が鈍っていることがあるようです.実際,2011年においては,その増加率は,88%でしたが,今年2012年になってからというもの,その第1四半期では,45%,第2四半期においては32%でした.

そうした中,新たな成長戦略として,フェイスブックも携帯ウェブ環境への適応を模索しているようです.例えば,最近,同社はウォールのステータス・メッセージに,Likeをクリックした企業の広告を挿入することを始めました.フェイスブックの発表によると,この方法により一日あたり50万ドルもの収入が得られているとのことです.

他の企業の中には,まったく別の方法,つまり,その効果さえ疑わしい携帯通信機器の画面上における広告表示を用いずに顧客を取り込む方法を思いついたものもあります.例えば,現在,2千万人の利用者がいるWazeというGPSナビゲーションシステムとソーシャルネットワークサービスを結合させたものですが,ルート案内に加え,付近の価格の安いガソリンスタンドも示してくれるので,それらのガソリンスタンドのオーナーにとってみれば,よほど確かなマーケッティング方法であるわけです.

フェイスブックにせよ,グーグルにせよ,上述のようなサービスを開始するには,理想的と云える環境を持っているわけですが,残念ながら,彼らが,モバイルウェブ環境において躍進するためには,もう少々時間がかかりそうです.


以上,8月14日付電子版Spiegel誌掲載"Fehlende Mobil-Strategie Smartphone-Boom bedroht Facebooks Geschäft"(「モバイルフォン戦略の欠如 スマートフォンの隆盛に脅かされるフェイスブックのビジネス」)より

ユーロ圏各国債務残高及び償還時期

またまた,なんとなくグラフを作成しました.金融関係のお仕事をされている方や,経済の専門家の方たちにはおなじみの数値だと思いますがが,よいこの皆さんへの夏休みの自由研究のネタ提供第二弾です.

グラフ上をクリックすると拡大表示されます.

 縦の軸の単位は,十億ユーロです.データは,下記のドイツの週刊誌シュピーゲル誌電子版上で公開されているものから抽出したものです.なお,当該データは元々Bloomberg社によって公表されているもので,2012年6月27日現在の数値です.

簡単にいってしまえば,表示されている各国は,国債(国の借金証書)を発行し,それを自分の国や他の国の銀行などの金融機関に預けて,そこに書かれた金額を借りて国家予算の不足分を補います.しかし,借金ですから,返済(償還)期限が来ると,それを返済するか,あるいは,いったん返済して,あらためて借りることになります.グラフ上の棒は,各年に,それぞれの国がしている借金のうち,どれくらいの額が返済時期を迎えるかを示しています.グラフを見るかぎり,これらの国にとって,来年は今年よりさらにきびしくなりそうです.

http://www.spiegel.de/fotostrecke/grafiken-die-wichtigsten-fakten-zur-euro-krise-fotostrecke-57391.html

上記にアクセスすると,各国のGDPにおける債務の割合など,ほかの情報もグラフで提供されています.なお,ドイツ語なので,Googleの翻訳機能等を使って,英語に訳すと分かり易いでしょう.

Tuesday, 14 August 2012

ヨーロッパの原子力発電所の情報開示事情

* 以下は,以前書いたポストの脚注の部分を抜き出したものが,当該ポストの本文の内容との乖離が大きいために独立したポストとさせていただきました.

例えば,オーストリアというのは,原子力発電所の問題には非常に敏感な国で,自らは持っていませんが,中欧というその位置柄チェルノブイリに近 く,また,国境付近に多くの,古く危険性の高い原子力発電施設が存在していることもその理由とは思いますが,昨年の福島第一原子力発電所で事故が発生した 直後,オーストリア気象庁(ZAMG: Zentralanstalt für Meteorologie und Geodynamik)は,もちろん日本に設置されているものも含め,周辺各国にあるCTBTO(包括的核実験禁止条約機関)の観測所のデータをもとにセ シウム137やヨウ素131などの放射性物質の大気の動きによる拡散のシュミレーションをいち早く発表しています.そして,それはドイツのシュピーゲル (Spiegel)誌の3月14日付け電子版に掲載され.世界中の多くの人に極めて重要な情報が提供されました.("Wind bläst radioaktive Wolke nach Tokio":「放射能雲が風によって東京方向へ流されている」) ついでに云うと,同誌は,上述の情報に加え,福島第一原子力発電所の第3原子炉は,非 常に危険なMox燃料を使用している事を,やはり事故直後の3月13日付けの電子版で伝えています.("Plutonium-Gefahr im Krisenreaktor":「危機状況の原子炉におけるプルトニウムの危険」) 最後にもう一度,オーストリアの話に戻りまして,この国には,Global 2000という,原子力発電所の問題も含め,さまざまな分野における環境問題にとりくんでいる民間団体があり,Google Mapを使って,欧州全域にわたる原子力発電所に関する詳細な情報(事故履歴等)をイントラクティブで提供しています.興味がありましたら,下記URLに アクセスしてみてください. Google.atで,"AKWs in Europa"というキーワードで検索しても見つかります.(いずれにせよ,残念ながら,ドイツ語ですが...) http://maps.google.at/maps/ms?ie=UTF8&hl=de&msa=0&msid=212731046368592544065.000474b3dbfa178d4a444&source=embed&ll=50.401515,9.052734&spn=14.719408,23.027344&z=5

失敗指数(Failed States Index)と獲得メダル数の関係をみてみると

ご無沙汰しております.

突然ですが,ふと思い立ち,The Fund for Peaceと云う民間団体が発行している"Failed State Index"*1)と今回のロンドンオリンピックゲームの参加国毎の獲得メダル数を一つのグラフ上にプロットしてみました.

グラフ上をクリックすると拡大表示されます.*2)

下に伸びる青い柱が,各国のFSIを示していますが,元々当該の指数は正の値で示されています.ただ,今回は,見づらくなるのを避けるため, 数値はそのままで負の値に変えています.FSIは,それぞれの国の政治,経済,社会,環境,その他国民生活を取り巻くさまざまな状況の危険度といえるものを数値化したもので,国民が豊かで安定した生活を送るための条件が整っていればいるほど,其の値は小さくなります.このグラフでは,左から右へFSIの数値の小さい順,すなわち青い柱が短い順に並べてあります.これは,左に位置する国ほど,その右に位置する国に比較して住み良く,暮らし安い,逆に云うと,右に位置する国ほど,その左に位置する国より住みづらく,暮らしにくいということを表しています.グラフの一番左に位置しているフィンランドのFSIは20.0ですが,これは調査対象となっている177カ国のうち,最も低い数値であり, この国は唯一"Very Sustainable"というクラスに含められています.反対に,一番右に位置するアフガニスタンのFSIは,106.0で,私たちが良く知っているように,やはり未だに多くの問題を抱えた国であるとされているというわけです.(グラフ上では,スペースの都合で,フィンランドに付けられた"Very Sustainable"という評価の表示とアフガニスタンの"High Alert"の表示を省略しています.)実は,このFSIが紹介されているリポートを最初に目にしたとき,果たしてどのような計算方法で,そのような数値化が可能なのかと首をひねりましたが,自分が認識している各国の状況と比較して,なんとなくですが,おおよそ納得できる数値のように思えています.

次に,上に伸びている二段重ねの柱が,各国のメダル獲得数で,下の赤い部分が金メダル数,そして,その上の薄緑の部分が銀と銅メダルの獲得数を表していて,柱の上端がメダルの獲得総数を表します.各国のメダル獲得数は,オリンピックゲームの公式Webサイトに発表されているものを用いました.(http://www.london2012.com/medals/medal-count/)

自分で描いていて,こんなことを云うのもどうかと思いますが,「まあそんなものなのだろうなあ」という印象です.一点だけ,面白いと思ったことは,Very Sustainableと云う評価を得ているフィンランドと,それに続く,Sustainableと評価された国々においては,FSIとメダルの獲得数がほぼ反比例しているということです.もちろん,だからといって,「国民が持続的に豊かで安定した生活が営める国程,オリンピックゲームにおけるメダルの獲得は困難」などと云う結論を出すつもりは毛頭ありませんが.さらに,Sustainableと評価されている12カ国のうち,ルクセンブルク(FSI: 25.5), オーストリア(FSI: 27.5)*3),そしてアイスランド((FSI: 29.1)の3カ国,つまりその1/4,25%が今回のオリンピックゲームに参加していないということです.それぞれの国の不参加の理由は知りませんが,Sustainableの次のグループ,Very Stableの評価がついたすべての国が参加していることと比べても面白く思えます.なお,誤解のないように加えますと,これらの,言わば比較的豊かで安定した国々でも,やはりメダルの獲得数が少なかったことについては当然失望の声が上がったようです.*4)

今回のロンドン大会では,日本選手団は,史上最高のメダル獲得という快挙を成し遂げました.本当に素晴らしい事であり, 各選手の活躍に,個人的にも大いに励まされました.また,なじみのあるアルジェリアが,ラマダン期間中にも拘らず,男子陸上1500m走で金メダルを獲得した事もとても嬉しいできごとでした.Viva Algeria!

しまりのない内容で恐縮ですが,とりあえず以上です.

おしまいに良い子の皆さんへ

グラフも含め,上記の内容は,もちろん自由に使っていただいて構いません.夏休みの自由研究のテーマが見つからなかったときの参考にでもしてください.(でも,ならないだろうなあ... ほぼまちがいなく...) 


*1) FSIリポートは,下記URLへアクセスすることで,どなたでも入手可能です.
http://www.fundforpeace.org/global/?q=fsi2012
*2) Excelで作成したものをPNG形式に換えて本ブログに載せたのですが,拡大表示させても字が小さく読みづらいので,PDFファイルにして以下に載せました.必要な場合は,お手数ですがダウンロードしてご覧ください.(新しく開くウィンドウの画面上左上の"ファイル"をクリックするとメニューが表示されるので,其の中のダウンロードをクリックしてください.)
https://docs.google.com/open?id=0B9CLMM0ezUh7eTFoa09CT1k3ekU
*3) オーストリアというのは,原子力発電所の問題には非常に敏感な国で,自らは持っていませんが,中欧というその位置柄チェルノブイリに近 く,また,国境付近に多くの,古く危険性の高い原子力発電施設が存在していることもその理由とは思いますが,昨年の福島第一原子力発電所で事故が発生した 直後,オーストリア気象庁(ZAMG: Zentralanstalt für Meteorologie und Geodynamik)は,もちろん日本に設置されているものも含め,周辺各国にあるCTBTO(包括的核実験禁止条約機関)の観測所のデータをもとにセ シウム137やヨウ素131などの放射性物質の大気の動きによる拡散のシュミレーションをいち早く発表しています.そして,それはドイツのシュピーゲル (Spiegel)誌の3月14日付け電子版に掲載され.世界中の多くの人に極めて重要な情報が提供されました.("Wind bläst radioaktive Wolke nach Tokio":「放射能雲が風によって東京方向へ流されている」) さらに,原子力発電所関連ですが,オーストリアは,Global 2000という,原子力発電所の問題も含め,さまざまな分野における環境問題にとりくんでいる民間団体があり,Google Mapを使って,欧州全域にわたる原子力発電所に関する詳細な情報(事故履歴等)をイントラクティブで提供しています.興味がありましたら,下記URLに アクセスしてみてください. Google.atで,"AKWs in Europa"というキーワードで検索しても見つかります.(いずれにせよ,残念ながら,ドイツ語ですが...) http://maps.google.at/maps/ms?ie=UTF8&hl=de&msa=0&msid=212731046368592544065.000474b3dbfa178d4a444&source=embed&ll=50.401515,9.052734&spn=14.719408,23.027344&z=5
*4) 例えば,スイスでは:
http://www.swissinfo.ch/ger/gesellschaft/Olympia_begeistert,_Schweizer_enttaeuschten.html?cid=33298602&rss=true

Monday, 7 June 2010

アルジェリアの風の便り - 苺祭りが終わると

外出の機会があまりない中、週一度、金曜日に滞在先からスキクダ(SKIKDA)市内行きのバスが運行されています。片道およそ45分。朝の9時過ぎに市内に着いて、11時過ぎ出発なので2時間程度の自由時間ですが、それでも海辺を散策したりして、少しは気分転換ができます。

先日の5月28日から3日間、スキクダで毎年恒例の苺祭りという催しがありました。残念なことに金曜日の28日の夜から始まったため、催し物は見物できませんでしたが、街中で苺を売る露店がいくつも並んでいました。土地の人の薦めるおいしい苺の頂き方は、何でもバラの水の中に苺を入れて、それをフリーザーで凍らせるのだとか。

天候が不安定な5月も終わり、こちらは、いよいよ夏(乾季)の始まりのようです。



港町スキクダのメイン・ストリート、画面右手へ歩き突き当りが港。



メイン・ストリートの両側は、坂になっていて、小さな店が軒を連ねる裏道が何本もメイン・ストリートに平行して走っています。港に向かって左手が特ににぎやかで、これは屋内青果市場(右手の建物)付近の様子。



苺の露店の主人と友人の方



港に近い裏通り



メイン・ストリートを進み、港に突き当たってから左に曲がった海沿いの道。海側に面白い形の柵が立っています。下が海水浴場のため、自動車の転落防止のためのようです。右側は港。



行き付けの喫茶店から海(もちろん地中海)を望む

Sunday, 6 June 2010

束の間のスイス

申請後4ヶ月も待たされましたが、ようやくアルジェリア政府から滞在許可が発行され、出国後の再入国が可能になったため、休暇を過ごしに再びスイスに出かけました。 といっても、仕事の都合で僅か1週間ですが。

最寄のコンスタンティン空港からバーゼル・ミュールーズ空港(Euroairport Bâle-Mulhouse Freiburg)までの飛行時間は、ほぼ2時間。二重国籍(?)のこの空港からは、フランスにもスイスにも出ることができます。というわけでスイス側の出口を出たところでバーゼル駅行きのバスが待っていて、このバスに乗って駅までは、およそ15分程度の道のり。ところで、この空港内には、スイス国鉄(SBB=Swiss Federal Railway)の出張窓口があり、バーゼル発の列車の乗車券を購入することができます。その場合、空港からバーゼル駅までのバスの乗車券も含まれているので、別に購入する必要はありません。

今回の旅の目玉はなんといっても5月9日の母の日に合わせて運行されたレティッシュ鉄道のSL列車に乗ったこと。それから、クール(Chur)で開催されていたヘルマン・ヘッセの水彩画展とジャコメッティの絵画展、そして、ベルンではアルベルト・アンカー(Albert Anker)展を訪れることができました。ジャコメッティ というとあのやたらに細い、人の彫刻を思い出しますが、というかそれしか思い出せませんが、今回の絵画展は、そのジャコメッティ(Alberto Giacometti:1901.10-1966.1)のお父さん(Giovanni Giacometti:7. März 1868.3-1933.6) の作品展です。当初、父親と息子を同一人物と思い込んでいたため、彼がセガンティーニの友人だったこと、また、ゴッホの影響も受けていること、そして彼を通して間接的に日本の浮世絵の影響も受けていることを知り、少々意外に感じたものですが、父子と分かり、また別の驚きを覚えました。アンカー展は、日本でも開催されたようですが、もともとキリスト教の神学を学んだ人とのことで、こちらもゴッホにある意味で通じるところはあるのですが、その人生も画風もまったくゴッホと異なるように思えます。例えば、ゴッホが動なら、アンカーは静、また、前者が異端なら、後者は正統、そして孤独の中で自ら死を選んだゴッホと孫たちに囲まれ人生の最後の日々を家族と共に穏やかに過ごしたアンカー、等等...。少々単純すぎる対比ですが、同じように神学を学んだ二人の画家の違いはどこから来ているのでしょう。

天候には余り恵まれなかったものの、久しぶりに外に出られたことで、少々おおげさですが命の洗濯をすることができました。というと、アルジェリアの人たちに失礼かな...でも、こちらに戻ったら戻ったで、なぜか落ち着くのは、単にスイスに比べて物価が極端に安いということだけではなく、やはり住めば都で、知らない間にこちらの水や空気に馴染んでしまったということなのでしょうか。


毎度お世話になります。滞在地バード・ラガーツ(Bad Ragaz)の駅。
駅の正面から画面右手に伸びるのが駅前通り。



その駅前通りを滞在先の知人宅まで歩く途中、
振り返ると夕日に染まるファルクニス(Falknis)の姿が迫ってきました。



冬の長い当地では、5月になるといっせいに花が咲き出します。


近所のギーセン公園(Giessen Parc)の池には水鳥の姿が。


村はずれから昔の温泉場まで4Km 程度、
タミナ川(Tamina)に沿って散歩道が整備されています。

散歩道の両側は断崖絶壁


1時間ほど歩いてたどり着くのは、プフェファース旧湯治場(Bad Pfäfers)旧修道院の建物。何でも、スイスで一番旧いバロック様式の建物だそうです。現在、中にはレストラン、歴史資料の展示室があります。たまたま、訪れた日は、《風景神話学》(Landschaftmythologie)についての展示が行われていたのですが、その内容がとても面白く、帰りに村の本屋さんで同学の提唱者クルト・デルングス(Kurt Derungs)氏の著作を求めました。
Derugns, K./Schlatter, C. QUELLEN KULTE ZAUBERBERGE Landschaftmythologie der Ostschweiz und Vorarlberg, Solothun, 2005, edition amalia

風景神話学(英語ではLandscape Mythologyと訳されています:cf.Wikipedia)とは、ケルトやキリスト教の文化の影響を受ける以前、古代ヨーロッパ(Derungs氏のフィールドは、東スイス)において平和な農耕母系社会を形成していた人々が自然を、その背後に潜む神秘的な力も含めてどのように理解していたかということを明らかにする学問分野です。つまり、身の回りの自然の景観を古代の人たちの目を通して眺める試みなのです。日本の柳田國男や折口信夫などの民俗学に通じるかも知れません。



建物の裏手。さらに奥に進むと断崖に挟まれた狭いタミナ峡谷の中に入ることができます。


1階にあるレストランの食卓


SL列車の出発駅 ラントクアルト(Landquart) 
最近、そばにアウトレットモールができました。
(まだ、かなり空き店舗が目立ちますが。)



いよいよSL列車の入線



高原列車の旅


途中の駅で
動輪についてはスポーク派です。



母の日とあって、列車には手まわしオルガンのおじさんも乗り込み、列車が停車するたびにホームに降り立ち演奏をしてくれました。一日中手を廻し続けるとあって、相当体力が求められる仕事。笑顔で愛嬌をふりまき、子供たちにはオルガンの下の引き出しの中のキャンディをサービス。本当にご苦労様でした

お昼休みを過ごしたダボスの教会の玄関にいたわんちゃん。教会の中のご主人を待ちわびていたようすで、先に出てきた私に向かってさびしそうに鼻をならしました。写真をとらせてもらおうとそばに寄り、構図を決めた瞬間、上目遣いでこちらを見ながら大きな伸び。ほどなく出てきたご主人(地元の奥さんらしい)から笑顔で挨拶されました。"Grüezi!"(スイスのドイツ語圏で交わされる挨拶。"Grüss Gott"に相当。)

ところで、以前から疑問に思っているのですが、向こうから声をかけておきながら、こちらがそばに来ると、目の前であくびや伸び。犬でも猫でもよく目にする行動ですが、何を意味するのか未だにわかりません。

客車も昔のものを使っています。夕方、終着駅ラントクアルト到着間近の車内。

Friday, 20 November 2009

プロヴァンス小紀行II - エックスの秋

13日から14日にかけて、再び、エックス(Aix-en-Provence)を訪れました。前回は盛夏の頃でしたが、今回、街はすっかり秋の装いを身にまとっていて、しかも時折小雨も降るといった、どこか物憂げな雰囲気の、それでいてシックな佇まいを見せていました。


夏から引き続き、『ピカソとセザンヌ展』が開催されているグラネ美術館
(Musée Granet)のそばの小路。夏とはまったく異なる表情。


一夜の宿を取ったのは、駅に近い、比較的静かな界隈。大学の学部なども近いようで、学生たちの姿が目につきました。


投宿したHôtel Les Quatre Dauphins近くの広場(Place des Quatre Dauphins)。
中央に、名前の通り、4頭のイルカが形どられた噴水があります。

アルジェリアの風の便り

先日、夕方仕事から車で滞在先に戻る途中、走行中の国道の向こうに広がる風景を見ながら、「自分の国からこんなに離れたところにいても、ちゃんと息ができる。ということは、当然、日本で吸っている空気と成分がそれほど、というかまったく変わらない空気がここにも存在しているわけだ」という思いが、なぜか突然頭の中に浮かびました。ここに書くほどのことも、敢えて人に伝えるほどのことでもないのですが、なぜか、そのことがしきりに不思議に思えたのです。(なんだか、別の星にいるように感じているような物言いで、土地の人たちには申し訳ないのですが。)

そして、「人間というものは、この地球という星の大体どこでも生きることができる生き物で、逆に言えば、地球という星も、人間が生きることのできる環境を、大体どこでも提供してくれているわけだ...」ということを改めて実感し、ちょぴり新鮮な感動を味わった瞬間でした。


夕暮れ間近の風景。Didouche Mourad近郊。


コンスタンティンの子供たち。人懐っこさ(正確には、無邪気な
馴れ馴れしさというべきかも知れませんが)には驚かされます。

Friday, 23 October 2009

プロヴァンス小紀行(おまけ)

日本では、そろそろ錦秋の時期を迎えているころと存じます。

私の素性と身の上をご存知の皆様は、すでにご承知ですが、現在、仕事でアルジェリアに滞在しています。

入国にあたり発給されたのが、三ヶ月間有効のビジネス(商用)ビザといわれるものなのですが、これによって滞在する間、最低一ヶ月に一度の出国が義務付けられています。このありがたい(?)義務を果たすため、一ヶ月に一度、滞在地に程近い空港とフランスのマルセイユ間に就航しているアルジェリア航空の直行便を利用して、前回訪れたプロヴァンス地方の小旅行を楽しんでいます。

先日、訪れたのは、Salon-de-Provenceという、今まで聞いたこともない町で、マルセイユ空港から直行バスで50分のところに位置しています。小さい町ですが、いわゆる観光都市とは異なり、土地の人々の普段の暮らしがゆったりとしたペースで営まれているといった印象を受けました。

一夜の宿を取ったのは、ホテル・セレクト(Hotel Select)という、これまたこの町の佇まいと調和がとれた、いたってこじんまりとしたホテルで、若いオーナーが言うには、開業したのは今から1年ほど前とのこと。この町は初めてという私に、サロンの町の歴史や見所、そしてお勧めの町一番の高級レストラン*1)まで紹介してくださり、その店でゆったりと夕食をとって、ホテルに戻ってからは、ご主人と、お互いのこれまでの人生についてなど四方山話に花が咲き、初対面にもかかわらず、しまいにはすっかり親しくなっていました。

*1) Restaurant La Salle à Manger
文字通り、「食堂」という意味の名前の店ですが、壁画や天井画で飾られたダイニング・ルームでとる食事はなかなかの趣があります。町一番の高級店というので、「ネクタイもジャケットも持ってきてないし…」とためらう私の背中を押してくれたのは、ドナルドさんの「ここはパリじゃないし、ジーンズとTシャツでも大丈夫ですから」という言葉。恐る恐る入ってみたところ、もう夜は冷えるのでと暖炉に火が入れられた店内の雰囲気と、スタッフたちの
ユーモアのこもった暖かいもてなしですっかり緊張もほぐれ、いただいたのは鴨のベリー・ソース添え。かなりボリュームがありましたが、久しぶりに味わう鴨料理でまさに絶品の味。前菜、メイン・ディッシュ、デザート、コーヒー、そして飲み物で、50ユーロ程度でしたが、まぁ、一人旅でもたまには許される贅沢かなと心のなかでつぶやきながら、「Bon week-end!(楽しい週末を!)」というお店の方の言葉に送られ、夜の静かなサロンの通りをホテルへ向かいました。途中訪れた、修復がほぼ終わったという近くの教会の、ライトアップされた美しい姿とその上に広がる星空が印象的でした。オーナーのドナルド(Donald)さんは、サロンでホテルの経営を始めるまで、パリのホテル・リッツなどのホテルの菓子職人として働いていたそうで、奥様のラエリリア(Laeriria)さんもやはりホテルに勤務されていたとのこと。そして、ドナルドさんは、サロンに来る直前は、マドレーヌ広場にあるLucas Cartonという高級レストランのチーフ・パティシエだったそうです。

そんなご夫妻が、パリでの生活に疲れを感じ、新たな人生の一歩を踏み出す場所として選んだのがこのサロンだったというわけです。

さて、このサロンの町ですが、いくつか興味深いところがあります。これからお伝えするのは、すべてドナルドさんから伺ったことの受け売りですが、まず、その昔ノストラ・ダムスが44歳のとき、故郷Saint-Rémy de Provenceを離れて移り住み、人生の終焉を迎えたのがこの町で、彼がカトリーヌ・ド・メディチと出会ったことを記念するページェントが毎年9月末ごろ、市民総出で行われるそうです。もちろん、彼の記念館もあります。そして、もうひとつ。マルセイユ石鹸という商品名を耳にされた方も多いと思いますが、この町は、唯一マルセイユ石鹸の製造工場が現存している地でもあるのです。そして、やはりマルセイユ石鹸の博物館もあります。(そういう意味では、一応観光客を意識しているようですが、絵葉書すら売っている店も見つけることができませんでした。)

ほかにも多くの興味深いものがあります。ご興味がありましたら、是非一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか。そして、滞在は、是非ホテル・セレクトで。(ホテルのサイトから直接予約が可能です。もちろん、英語でも対応してくれます。) 場所は、マルセイユ空港から17番のバスに乗ってその終点、Place Jules Morganから歩いて5分程度のところ、rue de Suffren 35番地です。

それでは、町で撮影した風景とドナルドさんからご提供いただいた、先ほど述べた野外ページェントの写真を数枚。


旧市街(これまた小さい)の入り口の門の上の時計塔。


野外ページェントでは、町全体が中世一色に染まります。
りりしい少年騎士君。もちろん、乗っているのは本当の馬です。

この日ばかりは、衣装同様エレガントに。(?)

そして、ホテル・セレクトもこの日ばかりは、
王家のシンボルである百合の紋章でデコレーション。


もちろん、ドナルドさん夫妻もこのとおり。奥様が持っている籠のなかは、ラベンダです。

最後は、普段のご夫妻です。
頼んでもいないのに、愛犬(11歳)もしっかりフレームにおさまってくれました。
さすがは、ホテルの犬。サービス精神は旺盛です。

最後に、テオドール・ジュルダン(Théodore Jourdan:1833-1906)という画家について一言。今回、サロンで出会ったものの中で、非常に印象に残ったのが、主に羊の群れや、それを牧する羊飼いを描いた作品で知られる、このプロヴァンスの画家でした。町の中心に位置する城砦の中で彼の絵の展覧会が開催されていたので訪れたのですが、そのとき会場にいたのは、私のほかにはやさしい笑顔で迎えてくれた案内の女性のみ。ゆったりと流れる午後の時間の中でそれぞれの絵の中に吸い込まれてしまいそうな、そんな温もりを感じさせる作品ばかりの、やはりこの町にふさわしい展覧会でした。プロヴァンスというと、セザンヌを除くと、パニョルを始め、どちらかというと土地にゆかりの作家たちが思い出されますが、さらにここにも一人、プロヴァンスを代表する偉大な画家がいることを改めて知り、とても豊かな気持ちになってサロンを後にしました。

Monday, 31 August 2009

「ウグイス譲」をフランス語でいうと

ひとつ忘れないうちに。

選挙運動で、宣伝カーから候補者の名前を連呼する《ウグイス譲》ですが、フランス語でなんというかご存知ですか。

答えは、Demoiselle rossignolです。日本語の単語を、そのままフランス語の単語に置き換えただけですが、そう言うみたいです。

cf.: Le Japon prêt à tenter une alternance historique
Par Philippe Mesmer, publié le 29/08/2009 11:00 - mis à jour le 29/08/2009 11:43

選挙結果についての記事

朝から冷えますね。なんでも今日の気温は、10月ごろのものだとか。

正直言って、選挙の結果には驚きました。まさか、これほど大きな変化が起きるとはさすがに想像しておりませんでした。

そこで、一通りフランスの主要新聞・雑誌のサイトに掲載された日本の今回の選挙関連記事に目を通してみました。(『Le Monde』、『Le Figaro』、『Obs』、『Libération』、 『L'Express』、そしてドイツの『Spiegel』など)

上記メディアのうち、ほとんどは選挙の結果を淡々と伝えているだけでしたが、エクスプレスとシュピーゲルの記事は、事の本質を捉えているように思えたので、少し紹介しておきます。もっとも、その内容は、日本では多かれ少なかれ誰もが知っていることなのですが。

まず、エクスプレスの記事(Le Japon prêt à tenter une alternance historique
Par Philippe Mesmer, publié le 29/08/2009 11:00 - mis à jour le 29/08/2009 11:43)から。

なお、日付を見るとお分かりのように、これは投票日の前日に書かれた記事です。でも、政権交代がほぼ確実に実現する見通しと書かれています。面白いと思ったのは、リードの部分で、ちょっと引用させていただきますと

Séisme électoral en vue! Après plus d'un demi-siècle, les conservateurs du PLD
devraient céder le pouvoir au PDJ réformateur lors des législatives de ce
dimanche. La fin du soutien aveugle à Washington, mais pas des dynasties qui
gouvernent l'archipel.

と書かれてありまして、最後のLa fin du soutien aveugle à Washington, mais pas des dynasties qui gouvernent l'archipel.というところが、さすがに良くわかっていらっしゃるといった感じです。つまり、「アメリカに対する無条件の支持の終焉、でも、"王朝"による日本の支配が終わるわけではない」といったような意味です。ここでいわれている王朝とは、天皇家ではもちろんありません。敗北した自民党総裁麻生太郎氏も、勝利した民主党代表の鳩山由紀夫氏も、それぞれ祖父が首相経験者なので、結局日本は、そのような"王朝"による支配が継続している国なんだということを記者は言いたいのです。その意味では、今回の政権交代は、吉田王朝から鳩山王朝への支配(王権)の移動というわけですね。フランス人にとって、王朝や王家などという言葉は、革命以前の時代の語彙に属するわけですから、彼らの感覚にとっては、日本は到底近代市民国家とは程遠い政治形態を持っている国と映るのでしょう。

記事の本文には、両氏ともお金持ちの息子(botchan:《ぼっちゃん》)であること、さらに、日本の議員には世襲が多いこと(自由民主党では、35.1%、民主党でも、10.6%)が紹介されており、特に世襲議員の代表格として小泉元首相の息子進次郎氏が挙げられていました。ただ、麻生自民党が小泉総裁時代に続いてアメリカべったりだったのと異なり、民主党が政権に就いたら、ワシントンとはかなり距離を置くことになりそうだとも書かれてありました。

それともうひとつ感心したのは、日本のメディアが取り上げていない、老人党が言及されていたことでした。

次は、ドイツのシュピーゲル誌の記事です。

30. August 2009, 16:27 Uhr
Historischer Wahlsieg
Hatoyama beendet Japans Einparteienherrschaft

こちらの記事は選挙の結果が確定してから書かれたもので、内容で目を引いたのは、Keine Partei im westlichen Sinneという中見出しに続く段落でした。自民党のことを言ったもので、ようするに、同党は西洋の概念では、ひとつの政党とは定義できない存在ということです。

日本でもよく言われてきたこと(シュピーゲルの記者も日本のメディアを通して知ったのでしょう)ですが、自民党という集団は、それ自身の中に与党と野党を含んでいるようなもので、所属議員たちは、社会に存在する様々な団体と結びつき、それらにとっての利益を獲得することが彼らの仕事でした。もちろん、それによって、彼らも利益が得られるからです。そして、党は、そうした団体の代表である政治家間の調整役として機能していたわけです。しかし、自民党議員の支持基盤である農村の経済的疲弊や、大企業の経営不振などにより、個々の団体へ分配できる利益が大幅に減少した結果、このような仕組みは働かなくなってしまいました。つまり、個々の団体に利益を分配することで維持できていた権力も分配するものがなくなったことによって彼らから去って行ってしまったというわけです。

というようなことが書かれていました。

まずは、これにて。

Sunday, 30 August 2009

選挙の結果は

もし、政権が変わったら、先日、「現代の神々と祭司たち」という投稿の中で述べたような、官僚=神々、政治家=祭司、団体=氏子、さらに加えれば、アメリカという絶対神によって構成されている、この国のこれまでの形がこわれるのか、それとも、やはりこの形が存続してゆくのかおおいに興味がある。

アメリカと日本は本当に価値観を共有しているか

少々小言幸兵衛のようですが、最近、テレビを観ていて政治家(例えば、今の総理大臣)などが口にする言葉で気になったものがあるので、ご紹介します。

それは、「日本とアメリカは価値観を共有している」という言葉です。この言葉を聞くたびに「うーん。確かに表面上はそう見えるかもしれないけど本当にそうなのかなぁー」と頭の中でつぶやいています。さらに、「ナイーブと言うのか、よくもまぁそう自信をもって言い切れるものだ」とも。

彼らによると、日本はアメリカ同様、民主主義や自由主義を信奉しているからというのですが、確かにこの間の戦争に負けて、戦勝国のアメリカの指導によりこうした考えを土台にした諸制度が導入されました。でも、そのちょっと前までは、「進め一億火の玉だ」とか、「一億層玉砕」とか叫ばれていたわけで、現人神と仰ぐ天皇を頂点とする国体護持のためにすべての国民が生命を犠牲にすることが求められていたのです。(8月15日がすでに過ぎているにもかかわらず、このようなことを書くのは少々季節遅れかもしれませんが。日本では、季節ごとに語られるテーマが決まっているので。)

それが、戦争が終わったと同時にアメリカの従順な教え子として、恩師から教わる様々な価値観を無条件で受け入れるようになる。こうした変節がなぜ可能だったのか、不思議でならないのです。といいますか、そのときアメリカから教わったことは、今でも本当に理解されているのだろうかという疑問が、最近頭から去らないのです。

先日、『戦前日本人の対ドイツ意識』という本を読みました。なかなか興味深いことが、しかもわかりやすく書かれていて、読んで得した気持ちになった一冊でした。この本によると、1930年代、ナチスが政権を掌握したとき、日本では人種差別を公言するヒトラーに対する警戒感のほうが支配的でしたが、1939年のドイツのポーランド侵攻に始まる、周辺各国への電撃的な軍事作戦の成功が伝えられると世論はこぞってドイツを贔屓するようになります。個人より国家を重視し、前者は後者に奉仕すべきという国家社会主義(Nationalsozialismus:ナチズム)は、日本の国体護持を最優先とする思想に近いなどという論説なども現れます。とにかく強い者につきたがるというのは、この民族の伝統的な習性のようです。

「バスに乗り遅れるな」という合言葉が新聞に頻繁に現れるのはこの時期です。ようするに、勝ち馬に乗り遅れるなということです。1940年、フランスがドイツに屈して、アジアにおけるその影響力がなくなったと判断するやいなや、日本は仏領インドシナへの進駐を開始します。

ここで面白いと思うのは、この時期、日本では、「ドイツ最高、ヒットラー万歳」という風潮が支配的だったのに反して、当のドイツにおいては、ポーランド侵攻、すなわち実際の戦争への突入を契機に、国民の国家に対する信頼が揺らぎ始めていたということが、最近の研究でわかってきたと言うことです。

手元にある『Volkes Stimme』という本にそのあたりの事情が述べられていて、例えば、「フォルクス・ワーゲン貯蓄」の加盟者数の推移がそれを如実に示しているといいます。「フォルクス・ワーゲン貯蓄」というのは、当時、購入代金の半分まで貯蓄すれば、ナチスが生産している文字通りの国民車であるフォルクス・ワーゲンを手にすることができるという制度ですが、その加入者の数が、1938年から1939年までは、8万から10万だったのに対して、戦争が始まった1940年の12月には、2万以下に減少しているのです。―75%以上という急激な落ち込みです。この調査を紹介したPhilipp Kratz氏は、これは、国民のナチス、すなわちヒットラーの戦争遂行能力に対する信頼の変化をあらわしているといいます。誰だって、自分の国の将来に不安を感じるとき、国営の機関などにお金を預けようとは思いませんものね。

戦時中、ドイツに対してこの国の国民が抱いていた熱狂は、戦後は、ドイツや日本を敗北させた超大国アメリカへと向かいました。変わり身の早さ、変節の巧みさには驚くものがあります。そして、現代においては、自分たちはアメリカと価値観を共有していると自信をもって言い切ってしまう。こうした日本人の、自らの過去をいとも簡単に忘れてあっけらかんとしている姿勢に漠然とした危うさを感じてしまう昨今なのです。

参考:
岩村正史『戦前日本人の対ドイツ意識 』, 2005, 慶應義塾大学出版会 
Göty Aly 編『Volkes Stimme Skepsis und Fürervertrauen im Nationalsoyialismus』, 2006, Fischer Verlag GmbH, Frankfurt am Main

文明と人名 (補足)

前の投稿の内容を補足させていただきます。

人間と他の動物の区別は、例えば、言葉にも表れています。具体的には、西洋の言葉において、人間と動物の身体の各部分の呼び方が異なるのです。

フランス語では、犬などの肉食獣の口を《gueule》と呼びます。人間の口や顔をgueuleと言うこともありますが、非常に下品な表現です。 ドイツ語でも、《Maul》というのは動物の口のことで、通常、人の口には使いません。さらに、ドイツ語では「食べる」という動詞は、人間の場合は《essen》を使い、動物の場合は《fressen》です。(人間の場合でも、ときに後者を使うこともありますが、あまり上品な表現ではありません。)

さらに、四足動物の足ですが、フランス語では《patte》という言葉を使い、人の足を意味する《pied》などは使いません。日本語でも、正しくは《前足》、《後足》と呼びますが、一般的に私たちは、猫や犬などの前足を《手》とよんだりしています。

また、鳥や獣の足の爪は、フランス語では《griffe》、さらに猛禽類については、《serre》という言葉で呼びます。日本語の場合、虎やライオンの場合も、あるいは鷲の場合も、皆等しく人と同様に《爪》という言葉で呼んでいます。

ただ、ここでひとつ断っておきたいのは、こうした、言語に見られる人間と動物の差別化の原因が、単純にキリスト教の影響によるものということはできないということです。フランス語にしろ、ドイツ語にしろ、少なくともその元となる言語は、常識的に考えてキリスト教が入ってくる前から存在していたでしょうから。どちらかというと、言語のほうが宗教に影響を与えた、あるいは宗教の枠組みを規定したと考えたほうが自然でしょう。とはいえ、ヨーロッパの言語にせよ、キリスト教にせよ、いきなりこの世に現れたわけではなく、前者の場合はラテン語やギリシャ語、後者の場合はユダヤ教といったように、それぞれ先祖をもっているので、さらにこれらの先祖の過去を辿ってゆくと、何か別のことがわかってくるかもしれません。とりあえずは、ユダヤ教やキリスト教は、上述のように、人間と動物が全く別の存在であるという世界観が支配的な土壌において誕生したと考えてよいでしょう。

それから、日本では個人名が公共施設などに付けられることが極めて少ない理由として、御霊信仰や儒教の影響が考えられるのではと書きましたが、さらにそれに加えて、日本独特の農耕村落共同体の習性もある程度の影響を与えているかもしれません。すなわち、特定の個人の価値を重要視しない、あるいは個人が目立つことを好まず、みんなが一緒に同じことをするのが理想的という考えです。もっとも、それには例外があって、外国で優秀な働きをするスポーツ選手、ノーベル賞受賞者、宇宙飛行士などがそれにあたります。外国で評価されると、生き神のように祭り上げるというのが、現代のこの国の面白い風習です。昔は皇室との関係、今は、外国との関係が権威の裏づけとなっているようです。

これに関連して、面白いのは、日本人の《平等》という言葉の理解の仕方です。みんなが同じになること、同じことをすることが《平等》の意味であるように一般的に信じられている、そんな気がしてなりません。例えば、日本中どこの地方もみな同じようになることが平等といったふうにです。ところが、中央集権国家であり、《自由》、《博愛》とともに《平等》をモットーとするフランスを旅行していて気がつくのは、それぞれの地方の伝統、文化といった特色が非常に違う、そしてそれらが愛され尊重されているということです。こうした地方の独自性こそがフランス全体の豊かさのを作り上げているのではないでしょうか。年間8000万人という観光客を集めている、世界一の観光国のフランスの強さのひとつの理由はそこにあると思うのです。日本の地方でも、独自色を打ち出そうとしている所があります。でも、それを、海外からの評価を得ることで実現しようとする地域も少なくなく、ギネスブックに載せてもらうために、世界一長い何かを作るといったような行動に現れています。

Saturday, 29 August 2009

文明と人名

外国の、例えばフランス、あるいはアメリカの法律には、それを提出した議員さんの名前が付けられていることが少なくありません。日本では考えられませんね。

最近のフランスにおける例を挙げれば、セリエ法(loi scellier)というのがあります。 François Scellierさんという議員が提出した、不動産税制に関する法律です。(La Tribuneのサイト上において、来る9月2日、セリエさん自身とこの法律について、チャットで議論できるのだそうです。これも、日本では考えられませんね。

http://www.latribune.fr/patrimoine/20090826trib000414697/chat-le-2-septembre-avec-francois-scellier-depute-conseiller-general-du-val-d-oise.html)

また、ヨーロッパの街角をあるいていると、あるいは地図を眺めても気がつきますが、道や通りに人の名前や歴史上重要な出来事がおきた年月日などがついていることに気がつきます。これも日本では見られません。

こうした個人の名前は、他に学校などにもつけられています。例えば、先日訪れたフランスのマルセイユでも、マルセル・パニョル、あるいはジャック・プレヴェールの名を冠した中学校を見かけました。

さらに、ヨーロッパを鉄道で旅行すると、乗車した特急列車の愛称に偉人の名前がついている場合があります。日本では、ごくわずかな例外を除き、やはりこうしたケースはありません。*1)

交通関連でいうと、リヨンの飛行場には、サン・テグジュペリの名が付され、また、パリの飛行場にもド・ゴール大統領の名前がついています。アメリカでは、NASAのジョンソン宇宙センター ニューヨークのケネディ空港等等、枚挙に限りがありません。

軍艦も同様です。外国では、プリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales:英)、キング・ジョージ5世(King George V:英)とか、ビスマルク(Bismarck:独)、あるいはリシュリュー(Richelieu:仏)といった名前がつけられますが、帝国海軍では、旧国名(戦艦:長門、武蔵など)、山や川の名前(巡洋艦:鳥海、妙高など)、気象現象をあらわす言葉(駆逐艦:初霜、雪風など)がつけられました。なお,南極観測船しらせは、直接的には人名ではなく、白瀬大尉に因む白瀬氷河からつけられたものです。

ただ、面白いことに、明治時代に鉄道の機関車に個人名が付けられたことがあります。鉄道ファンならご存知の方もおられると思いますが、北海道の官営幌内鉄道(手宮-幌内)を走った弁慶号、義経号、静号などの6両です。これらは、アメリカから輸入された、牛よけつきの前輪軸数、動輪軸数がともに2本(2B:ウェスタンスタイル)という西部劇に出てきそうな7100型機関車ですが、ほかの3両には、「比羅夫」、「光圀」、「信広」という名前がつけられました。それぞれ、安倍比羅夫(あべのひらふ)、徳川光圀(とくがわみつくに)、そして武田信広(たけだのぶひろ)のことでしょう。安倍と武田は、北海道の先住民と戦って勝利した武将、そして、徳川光圀、すなわち水戸の黄門様は、なんでも北海道の調査を命じたとか。いずれにせよ、この三人は北海道とは縁があるわけです。交通博物館のサイトの解説では、当時の欧米の慣習に従って、機関車に歴史上の人物の名前をつけたとありますが、当時のニューヨーク領事であった高木三郎の意見によったものともいわれています。

ここで、少し話が横道にそれます。ご容赦を。

ところで、明治のクーデター政権(あるいは、開拓使でしょうか)が徳川家の人間の名前をよくつけさせてくれたものだと思いますが、それよりさらに奇異に思えるのは、なぜ弁慶、義経、静御前の名前を選んだのかということです。確かに、伝説によると義経主従は、奥州平泉から、兄頼朝の掃討を逃れるため北海道に渡ったといいます。さらに、そのまま大陸に渡り、モンゴルまで行ったとか。そう考えれば、彼らも北海道とは無縁ではありません。でも、なにかしっくりしません。少なくとも個人的にですが。

高木三郎と言う人は、旧庄内藩士の息子で、その家は戊辰戦争の折、クーデター軍から朝敵(天皇の敵)と呼ばれた側に属していました。そこから、想像をそうとう膨らませたのが以下の仮説です。あくまでも、当該の機関車の命名者が高木自身であったとしたらという条件つきですが。

戊辰戦争に勝利した薩長等のクーデター軍は、北海道に逃げ込んだ榎本武揚率いる旧幕府艦隊の残存部隊を函館まで追撃し、彼らを降伏に追い込みます。榎本たちは、北海道の地で旧幕臣団による共和国の建設を望んだのですが、その希望は潰えてしまいます。高木は、庄内藩士を父に持つ身として、こうした旧幕軍の最後を十分承知していたはずです。そして、榎本たち旧幕臣たちの北海道に託して実らなかった夢も。

東北出身である高木にとって、義経たちの物語、さらに彼らにまつわる伝説もなじみのあるものだったでしょう。さらに、兄が差し向けた軍勢によって殺された義経とその忠実な家来の運命は、クーデター軍によって滅ぼされた奥羽越列藩同盟の東北諸藩のそれに重なるものがあったかもしれません。そして、民衆たちの義経たちへの同情から生れたと思われる、彼らの北海道生存伝説と旧幕臣団の北海道共和国というはかない夢もどこかつながっていたのではないでしょうか。ことによると、高木は、今や、彼らを滅ぼしたクーデター政権によって推し進められている北海道開拓の最前線で活躍する機関車に、彼らと同様の運命を辿った義経、弁慶、静という名前をつけることにより、彼らの思いを遂げさせてやろうとしたのではなかったか。そんなことを想像しています。少々ロマンチストすぎますね。

もとの話に戻りましょう

西洋では公共の施設や乗り物に人の名前を冠するが、日本にはそうした習慣はないのはなぜかということですが、その理由をひとことでいうと、前者は、ユダヤ・キリスト教の影響、後者は御霊信仰、あるいは儒教の影響ではないかと思っています。

先に、日本のケースについて考えてみましょう。御霊信仰というのは、不本意な死に方をした人間は、死後も霊としてこの世に生きる人々に良くない影響、つまり危害を及ぼすという考えです。菅原道真や崇徳院などにまつわる言い伝えが、その代表的な例です。彼らの祟りを鎮めるために適切な祭祀が執り行われる必要があります。そして、儒教では、霊はよりしろに宿ると言う考えがあります。つまり、何かに霊が乗り移るという信仰です。人が亡くなったとき、その人が日常使っていたもの(例えば湯のみ茶碗など)を壊す習慣があります。これは、その人の霊がそれに乗り移ることを避ける意味があると思われます。また、遺体の上に刃物を載せますが、これは、反対に霊の抜け殻となった遺体に別の霊が宿るのを防ぐためです。基本的に、誰しも死ぬのはいやですから、できれば死後もこの世に、家族のそばに留まりたい、ただ、そのためには何らかのよりしろが必要なのです。しかし、一般的に、死んだ人の霊がこの世に留まり続けるのは、良いこととは思われていません。やはり、それは不自然なことであり、ともするとその霊は、生きている人に良くない影響を与えることがありうるという考えは、私たちの間に広く浸透しています。

以上が、日本において、欧米におけるような、通りや学校やその他いろいろなものに、人の名前をつけるという習慣が根付かなかった理由です。つまり、何かに人の名前をつけてしまうと、その人の霊がそこに宿ってしまうのではないかというほとんど無意識の恐れがあると思えるのです。例えば、学校にある人物の名前を付したとします。そして、あるときそれが火事で消失でもしたりしたら。私たちは、それにより、その学校に名前が付けられた人の(霊の)怒りを買ってしまい、何か良くないことが起きるのではないか、そういう心配は持たないでしょうか。

施設に人の名前が付けられても大丈夫な場合は、主に神社等の宗教施設です。身近な例では、東郷神社、乃木神社などです。もちろん、両者とも偉功を成し遂げた軍人であり、軍事大国を目指した当時の政府のプロパガンダの道具的側面も否定できませんが。この場合、彼らは神として正しく祭られているので、安心というわけです。正しく祭られれば、特に生前に偉大な働きを行った人の霊は、生きている人たちに恩寵を与えてくれます。

そして、今度は、西洋のケースです。キリスト教文化が支配的な今日の西洋では、少なくとも上記のような考えはほとんどありません。生き続ける死者としてのヴァンパイヤの伝説もありますが、基本的に人間に危害を与えるのは、悪魔です。しかし、悪魔に対する恐れより、人間こそがこの世の主人公であるという考えのほうが優勢です。人間は、他の被造物(神によって創造されたもの、自然や動物など)に比べ、まったくことなるステータスが与えられています。彼は、他の被造物の主人であり、管理者なのです。ですから、人間が造った施設など、すわなち文明の所産に人の名前をつけるとは、この世界に支配者としての刻印を残すことであり、ごく自然なことなのです。

【神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」 】
- 旧約聖書 創世記 1章 27,28節(新共同訳)

そして、最後に忘れてはいけないことは、こうしたキリスト教(及びユダヤ教)の、人間が自然も含め、他の被造物の支配者であるという思想には、同時に、彼らを管理し、保護するという責任と義務を負っているということも含まれるので、環境の劣化に対する関心やその保護に積極的に取り組む姿勢を生み出す契機をも提供しているということです。


スイス イッティンゲン(Ittingen)にて

*1 EuroCity(欧州国際都市間特急)の愛称(例):
フランツ・リスト(FRANZ LISZT) ブダペスト― ウィーン
バルトーク・ベラ(BALTOK BELA) ブダペスト― ウィーン
モーツァルト(MOZART) ミュンヘン― ウィーン
スタンダール(STENDAHL) パリ― ヴェニス
パウ・カザルス(PAU CASALS) チューリヒ― バルセロナ
フランシスコ・デ・ゴヤ(FRANSICSO DE GOYA) パリ― マドリード
マリア・テレジア(Maria Theresia) ウィーン― インスブルック― チューリヒ
ヨハン・シュトラウス(Johann Strauss) ウィーン― ヴェニス
アントン・ドボルザーク(Antonín Dvořák) ウィーン― プラハ
ヨハン・グレゴール・メンデル (Johann Gregor Mendel) ウィーン― プラハ
パガニーニ(Paganini) ヴェロナ― ミュンヘン
ミケランジェロ(Michelangelo) リミニ - ミュンヘン
レオナルド・ダヴィンチ(Leonardo Da Vinci) ミラノ― ミュンヘン
デゥマ(Dumas) ミラノ― パリ(TGV)
カイザリン・エリザベート(KAISERIN ELISABETH) チューリヒ―ザルツブルク
サルバドール・ダリ(SALVADOR DALI) ミラノ― バルセロナ
ストラディヴァリ(STRADIVARI) ウィーン―ヴェニス
ドン・ジョヴァンニ(DON GIOVANNI)ウィーン―ザルツブルク
ロッシーニ(ROSSINI) ウィーン― フィレンツェ― ローマ
トスカ (TOSCA) ウィーン― ローマ
* ドン・ジョヴァンニとトスカは、オペラの登場人物の名前ですが。

Thursday, 27 August 2009

現代の神々と祭司たち

どうでもいいことなのですが、「天下り」という言葉がいつ頃から使われ始めたのか、以前から気になっていたので、先日、市立図書館に出かけた折、読売新聞のデータベースで検索してみました。

すると、字こそ違え、「天降り」という言葉自体は、1896年(明治24年)8月24日の朝刊2面「官海の輿論」という記事の中で用いられているのが最初だったことがわかりました。ただ、ここでは、現在のように、退職した官僚が特殊法人や民間企業に再就職するといった意味で使われてはおらず、政治家が各省庁のトップ、すなわち大臣や長官に就任するといった意味で使われていました。前者のような意味で用いられるようになったのは、果たしていつ頃からか、それについて調べている時間はなかったのですが、天下りという言葉はやはり日本人にとってなじみの深い言葉なのでしょう。

「天下り」という言葉は、記紀神話が伝える天孫降臨の物語に由来しています。天孫降臨の物語とは、それを作り上げた為政者の意向をもっともよく反映していると考えれらる『日本書紀』の第一の一書によると、次のような話です。

「あるとき、高天原(たかまがはら:天上にある神様たちが集う場所)において、神々の司令官である天照大神(アマテラスオオミカミ:天皇家の先祖)がニニギノミコトという神様に、地上、すなわち日本の地に《下る》ことを命じ、後者はそれに従い、日向の高千穂の峰に降り立った。」

日向というのは、今の宮崎県のあたりをあらわす地名ですが、そのなかに太陽神である天照大神と関連のある《日》という文字が入っているために作者によって選ばれたのだろうと言われています。そして、このニニギノミコトから、天皇家による日本支配が始まったとされています。

ところで、神々が集う高天原では、この世の森羅万象について評議がされますが、現代の世の中で森羅万象を司っているのは、(少なくとも日本においては)宮庁であり、そこで働く官僚たちです。俗に、役所や役人の総称として《お上(かみ)》と言う言葉が使われますが、正に言い得て妙です。実際、今日の日本において、行政のみならず、それに加えて立法、司法の三権を司っている官僚こそ、現代の《神々》と言ってよいでしょう。では、本来、法律を制定し行政の指揮をとるという自らの役割を、すべて官僚にゆだねている政治家たちはというと、彼らは、これらの神々を《祭る(まつる)》祭司と言えます。古来、日本において政治とは「まつりごと」であり、神々をさまざまな捧げものや芸能によって楽しませ、彼らから恩寵を受けることを意味しますが、これら現代の神々と祭司たちは、無意識のうち(?)にこうした、およそ近代市民社会とは無縁の図式に従ってそれぞれの生存と権益を守り続けているわけです。そして、業界団体は自分たちの利益を増やしてくれる族議員にすがり、地域共同体は、できるだけ多くの税金が自分たちの地域共同体に還元されることを願って、それをかなえてくれそうな人物を議員として選出し国会に送り込もうとします。彼らは皆、現代の祭司である政治家たちの《まつりごと》によって、官僚という神々から恩寵が与えられることをひたすら祈る氏子たちと言うことができます。彼らにとっては、個々の業界の共同体、そして、個々の地域の共同体の存続と繁栄だけが課題であり、それらすべてを包含する《全体》という視点は不在です。このような、いわば《ゲーム》が続いているのは、宗教改革もルネサンスも市民革命も自発的に経験せず、環境の変化に対応するためだけの目的で近代国家になろうとしたこの小さな島国の宿命といえばそれまでですが。

フランスの新型インフルエンザ対策

今更ながらですが、フランスにおけるA/H1N1型インフルエンザ対策の内容を少しご紹介します。

フランスにおけるワクチンの予定確保量(発注した量)は94,000,000本で、早ければ9月から徐々に使用可能となるそうです。なお、効果を確実にするため、2回の摂取が必要であるため、単純に計算して47,000,000人分はまもなく確保できるということになります。

参考までに、フランスの人口は、2008年現在、フランスの人口(海外県も含む)は63,578,000人で、その内訳は、次のとおりです。

20歳未満:15,901,940人
20歳から59歳:34,164,647人
60歳以上:13,511,413人
(INSEEの資料より)

因みに、今日の世界のワクチン市場をリードしているのは、ご存知かもしれませんが、GlaxoSmithKline (GSK)(英)、 Novartis(スイス)、そしてSanofi Pasteur(フランス)です。

なお、マスクの着用については、その効果が科学的に証明されていないことから、フランスの保健当局としては、特に奨励はしていません。

参考:
Grippe A(H1N1) : les étapes de la course au vaccin
LE MONDE | 15.08.09 | 14h22 • Mis à jour le 15.08.09 | 19h13

Les questions que les Fançais se posent sur l'épidémie
La Tribune.fr - 19/08/2009 | 08:46

Thursday, 6 August 2009

日本の裁判員裁判とフランスの重罪院(cour d'assise)

最近、日本でも裁判員制度が施行され、連日マスコミによって最初の裁判員裁判の模様が報道されています。こうした一般市民が職業裁判官と一緒に審理を行う制度は、フランスにも存在していて、それが行われる機関は、クール・ダシーズ(cour d'assise)と呼ばれ、日本語では《重罪院》と訳されます。重罪院は、その名称のとおり、未遂既遂の殺人、レイプ、凶器を用いた強盗などの重大凶悪犯罪を裁く法廷であり、2000年1月以降、再審請求が可能となりましたが、上級裁判所への控訴制度はありません。重罪院で宣告された判決に対し、不服の申し立てがあった場合は、新たに選出された陪審員(juré)たちにより構成された重罪院で再審が行われます。ただ、過去において、再審の請求が行われた例は少ないようです。その理由としては、凶悪事件が対象となるため、再審が行われた場合、量刑が重くなる可能性が大きいからと言われています。

アングロ・サクソン各国の、判例に基づくコモン・ローとは異なる大陸法(成文法)を採用しているフランスやドイツなど(特に刑事裁判制度はドイツ)に倣って司法制度が形作られたわが国で導入された裁判員制度は、やはり後者二国の陪審制度、あるいは参審制度を手本としたようです。もっとも、陪審制度発祥の地は英国であり、それを、フランスではフランス革命以降、そして、ドイツでもフランスの影響を受け、それぞれ導入しています。

* フランス語のassiseは、英語ではassizeですが、『シャーロック・ホームズ』シリーズなどでは、やはり陪審制裁判を示す言葉として現れま す。(cf.:「The Boscombe Valley Mystery」 in 『The Adventures of Sherlock Holms』等 面白いのは、時にホームズ先生が、ベーカーストリート221Bの自室で、自らを裁判官(judge)、ワトスン博士を陪審員(jury) として私設の法廷(?)を開き、犯人に無罪の判決を下すというシーンが登場すること。やはり、陪審員制度発祥の地で生れた探偵小説ならではのことですね。 cf.:「The Abbey Grange」in 『The Return of Sherlock Holmes」等)
しかし、日本の刑事裁判制度における裁判員裁判の位置づけは、その審理の対象が地方裁判所が管轄する事件に限られており、そこで下された判決については、従来どおり上級裁判所への控訴が可能であるため、この点では、上述のフランスの重罪院における裁判とは異なります。それでは、参審制と称される、ドイツの裁判における市民参加制度と比較した場合は、どうでしょう。ドイツでも、市民が参加する審理(Shöffengericht - 慣例的にSchwurgerichtと呼ばれることもあります)の対象となるのは、フランス同様、人命に危害が及ぶ事件です。まず、量刑が4年未満と判断される事件に限っていうと、初審は、区裁判所(Amtsgericht)で市民が参加して行われ、そこで宣告された判決に不服がある場合は、上級裁判所である州裁判所(Landesgericht)に控訴することができるので、この点では日本と似ています。ただ、日本の高等裁判所における控訴審では、職業裁判官のみが審理に当たりますが、ドイツでは、州裁判所における控訴審の審理にも市民が参加します。次に、量刑が4年以上の禁固刑に相当すると判断された重大事件については、市民参加のもと州裁判所で初審が行われますが、その判決について上級裁判所である上級州裁判所(Oberlandesgericht)への控訴は認められておらず、連邦通常裁判所(Bundesgerichtshof)への上告のみが可能とされています。この場合、上告審は、連邦通常裁判所の大刑事部(Großer Senat für Strafsachen) で行われますが、ここでは職業裁判官のみが審理にあたります。

以上、非常にわかりづらく、中途半端な説明になってしまい、忸怩たるものを感じますが、日本の裁判員制度は、刑事裁判制度全体を視野に含めた場合、どちらかというと、やはり刑事裁判制度の導入元であるドイツのそれに近いといってよさそうな気がしないでもありません。が、いくつかの点でそう言い切ってよいものか判断しかねるというのが偽らざるところです。

さて、前置きが長くなりましたが、最近、このフランスの重罪院で審理された事件で少々気になったものがあったので、ご報告します。

その事件が発生したのは、2006年1月20日から21日にかけての夜。当時23歳だった携帯電話販売員のイラン・アリミ(Ilan Halimi)さんは、主犯である28歳のユスフ・フォファナ(Youssouf Fofana)被告を中心とする若者のグループによって拉致された上、オ・ドゥ・セイヌ(Hauts-de-Seine)県のバニュー(Bagneux)の集合住宅(HLM)内の一室に監禁され、彼と27名の共犯者から数週間に及ぶ暴行を受けました。そして、2月13日、レソンヌ(l'Essonne)付近の鉄道の線路脇で発見され、病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認されました。犯行グループは、アリミさんの監禁中、600回にわたって被害者の自宅に電話をかけ、両親に450,000ユーロに及ぶ身代金を要求しました。日本でも間違いなく裁判院裁判の対象となる事件です。なお、アリミさんはユダヤ人でした。

当然、このケースは、一般市民が裁判に参加する重罪院(事件当時少年を含むため、少年重罪院)に送られ、先日判決が下りました。その内容は、主犯格のフォファナ被告に対しては終身懲役刑(1981年の社会主義政権による死刑廃止後フランスにおける最高刑)、そして、共犯者のうち、2名は無罪、それ以外の25名には執行猶予付きの禁固6ヶ月から懲役18年というものでしたが、アリミさんを連れ出す役を演じた女性は(事件当時未成年者)は、9年の禁固刑でした。

逮捕後のファファナ被告のユダヤ人に対する激しい差別的言動の影響もあり、共犯者に下されたこれらの判決に対し量刑が軽すぎるとする、被害者の家族はもちろん、全国のユダヤ人団体や人権擁護団体などの猛反発を受け、アリオ・マリー(Michèle Alliot-Marie)司法相が、検察側に再審の請求を行うよう求めるという異例の事態に発展しました。このような政府側の司法への介入に対し、もちろん被告側の弁護団は一斉に反発しましたが、結局、共犯者のうち、14名について重罪院での再審が決定したというのが、現在までの経緯です。

この事件に関する一連のニュースを読みながら、日本で発生した類似の事件を思い出しました。1999年に発生した栃木リンチ殺害事件です。それはまた、同年に発生した、桶川ストーカー事件と共に捜査に当たろうともしない警察の姿勢や責任が厳しく問われた事件でもありました。今後は、日本でも、こうした凶悪な事件の裁判に一般市民が裁判員として参加することになるわけですが、私たちが司法の現場に立ち会い、そこで体験し感じたことが、昨今色々と不備が指摘されている司法制度、さらには行政制度に積極的にフィードバックされ、この国に、普遍的な人権の概念と主権者である市民としての意識が広く浸透し、それらを十分に反映する真の近代市民国家としての形が整うことを願うものです。


サン・テチエンヌ近郊 知人宅の庭先で

参考資料(主なもの):

I. 文献

・東京三弁護士会陪審制度委員会 編 『フランスの陪審制とドイツの参審製 ― 市民が参加する刑事裁判
 ― 』, 1966, 東京
(とてもわかりやすく書かれている本でお奨めです。)

* 今日の重罪院制度をめぐる議論や、特に同院に焦点をあてた司法制度改革についてご興味をお持ちの方には、次の2冊をお奨めします。
・L'Harmattan 編 『Pour une réforme de la cour d'assises: Entretiens avec François Staechele [et al]』(Collection Logiques juridiques), 1996, Paris
・Association française pour l'histoire de la justice 編 『La Cour d'assises : bilan d'un héritage démocratique』(Collection Histoire de la Justice 13), 2001, Paris

II. ウェブサイト

・最高裁判所サイト
・電子版『LeFigaro』 www.lefigaro.fr Ilan Halimi事件関連記事
・電子版『Le Nouvel Observateur』 permanent.nouvelobs.com 同上
・電子版『Der Spiegel』 www.spiegel.de 同上
・フランス共和国司法省サイトwww.justice.gouv.fr/
* 重罪院については、http://www.justice.gouv.fr/index.php?rubrique=10031&ssrubrique=10033&article=12027 に詳しい説明があります。
・ドイツ連邦共和国連邦司法省サイトwww.bmj.bund.de/
* 『Übersicht über den Gerichtsaufbau in der Bundesrepublik Deutschland』 (図表 ドイツの刑事裁判制度)
- http://www.bmj.bund.de/files/5ab9326da171af40c9c8a358cac1a8d1
/978/Schaubild%20Gerichtsaufbau%20-%20deutsch.pdf
- http://www.bmj.bund.de/files/-/976/Schaubild%20Gerichtsaufbau%20-%20englisch.pdf (同英語版)- http://www.bmj.bund.de/files/-/979/Schaubild%20Gerichtsaufbau%20-%20franz%C3%B6sisch.pdf (同フランス語版)
* Jörg-Martin Jehle 『Strafrechtspflege
in Deutschland』(ドイツの刑事裁判制度), 2009(第5版)
- http://www.bmj.bund.de/media/archive/945.pdf#search=%22schwurgericht%22
- http://www.bmj.bund.de/media/archive/960.pdf#search=%22sch%C3%B6ffengericht%22 (同英語版)