フランス語圏で発行されている雑誌や新聞の記事の中から,あまり日本の報道が扱わない話題や提供しない視点を紹介します.たまに,ドイツ語圏の雑誌や新聞の記事も紹介します.そして,ときには,それらを通して見えてくる日本の社会や日本人についても考えます.その他,旅行の報告や趣味の話(主に鉄道)などをつれづれなるままに綴ることもあります.
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Tuesday, 10 March 2015
Friday, 20 November 2009
プロヴァンス小紀行II - エックスの秋
13日から14日にかけて、再び、エックス(Aix-en-Provence)を訪れました。前回は盛夏の頃でしたが、今回、街はすっかり秋の装いを身にまとっていて、しかも時折小雨も降るといった、どこか物憂げな雰囲気の、それでいてシックな佇まいを見せていました。
一夜の宿を取ったのは、駅に近い、比較的静かな界隈。大学の学部なども近いようで、学生たちの姿が目につきました。
一夜の宿を取ったのは、駅に近い、比較的静かな界隈。大学の学部なども近いようで、学生たちの姿が目につきました。
Friday, 23 October 2009
プロヴァンス小紀行(おまけ)
日本では、そろそろ錦秋の時期を迎えているころと存じます。
私の素性と身の上をご存知の皆様は、すでにご承知ですが、現在、仕事でアルジェリアに滞在しています。
入国にあたり発給されたのが、三ヶ月間有効のビジネス(商用)ビザといわれるものなのですが、これによって滞在する間、最低一ヶ月に一度の出国が義務付けられています。このありがたい(?)義務を果たすため、一ヶ月に一度、滞在地に程近い空港とフランスのマルセイユ間に就航しているアルジェリア航空の直行便を利用して、前回訪れたプロヴァンス地方の小旅行を楽しんでいます。
先日、訪れたのは、Salon-de-Provenceという、今まで聞いたこともない町で、マルセイユ空港から直行バスで50分のところに位置しています。小さい町ですが、いわゆる観光都市とは異なり、土地の人々の普段の暮らしがゆったりとしたペースで営まれているといった印象を受けました。
一夜の宿を取ったのは、ホテル・セレクト(Hotel Select)という、これまたこの町の佇まいと調和がとれた、いたってこじんまりとしたホテルで、若いオーナーが言うには、開業したのは今から1年ほど前とのこと。この町は初めてという私に、サロンの町の歴史や見所、そしてお勧めの町一番の高級レストラン*1)まで紹介してくださり、その店でゆったりと夕食をとって、ホテルに戻ってからは、ご主人と、お互いのこれまでの人生についてなど四方山話に花が咲き、初対面にもかかわらず、しまいにはすっかり親しくなっていました。
*1) Restaurant La Salle à Manger
文字通り、「食堂」という意味の名前の店ですが、壁画や天井画で飾られたダイニング・ルームでとる食事はなかなかの趣があります。町一番の高級店というので、「ネクタイもジャケットも持ってきてないし…」とためらう私の背中を押してくれたのは、ドナルドさんの「ここはパリじゃないし、ジーンズとTシャツでも大丈夫ですから」という言葉。恐る恐る入ってみたところ、もう夜は冷えるのでと暖炉に火が入れられた店内の雰囲気と、スタッフたちのユーモアのこもった暖かいもてなしですっかり緊張もほぐれ、いただいたのは鴨のベリー・ソース添え。かなりボリュームがありましたが、久しぶりに味わう鴨料理でまさに絶品の味。前菜、メイン・ディッシュ、デザート、コーヒー、そして飲み物で、50ユーロ程度でしたが、まぁ、一人旅でもたまには許される贅沢かなと心のなかでつぶやきながら、「Bon week-end!(楽しい週末を!)」というお店の方の言葉に送られ、夜の静かなサロンの通りをホテルへ向かいました。途中訪れた、修復がほぼ終わったという近くの教会の、ライトアップされた美しい姿とその上に広がる星空が印象的でした。オーナーのドナルド(Donald)さんは、サロンでホテルの経営を始めるまで、パリのホテル・リッツなどのホテルの菓子職人として働いていたそうで、奥様のラエリリア(Laeriria)さんもやはりホテルに勤務されていたとのこと。そして、ドナルドさんは、サロンに来る直前は、マドレーヌ広場にあるLucas Cartonという高級レストランのチーフ・パティシエだったそうです。
そんなご夫妻が、パリでの生活に疲れを感じ、新たな人生の一歩を踏み出す場所として選んだのがこのサロンだったというわけです。
さて、このサロンの町ですが、いくつか興味深いところがあります。これからお伝えするのは、すべてドナルドさんから伺ったことの受け売りですが、まず、その昔ノストラ・ダムスが44歳のとき、故郷Saint-Rémy de Provenceを離れて移り住み、人生の終焉を迎えたのがこの町で、彼がカトリーヌ・ド・メディチと出会ったことを記念するページェントが毎年9月末ごろ、市民総出で行われるそうです。もちろん、彼の記念館もあります。そして、もうひとつ。マルセイユ石鹸という商品名を耳にされた方も多いと思いますが、この町は、唯一マルセイユ石鹸の製造工場が現存している地でもあるのです。そして、やはりマルセイユ石鹸の博物館もあります。(そういう意味では、一応観光客を意識しているようですが、絵葉書すら売っている店も見つけることができませんでした。)
ほかにも多くの興味深いものがあります。ご興味がありましたら、是非一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか。そして、滞在は、是非ホテル・セレクトで。(ホテルのサイトから直接予約が可能です。もちろん、英語でも対応してくれます。) 場所は、マルセイユ空港から17番のバスに乗ってその終点、Place Jules Morganから歩いて5分程度のところ、rue de Suffren 35番地です。
それでは、町で撮影した風景とドナルドさんからご提供いただいた、先ほど述べた野外ページェントの写真を数枚。

最後に、テオドール・ジュルダン(Théodore Jourdan:1833-1906)という画家について一言。今回、サロンで出会ったものの中で、非常に印象に残ったのが、主に羊の群れや、それを牧する羊飼いを描いた作品で知られる、このプロヴァンスの画家でした。町の中心に位置する城砦の中で彼の絵の展覧会が開催されていたので訪れたのですが、そのとき会場にいたのは、私のほかにはやさしい笑顔で迎えてくれた案内の女性のみ。ゆったりと流れる午後の時間の中でそれぞれの絵の中に吸い込まれてしまいそうな、そんな温もりを感じさせる作品ばかりの、やはりこの町にふさわしい展覧会でした。プロヴァンスというと、セザンヌを除くと、パニョルを始め、どちらかというと土地にゆかりの作家たちが思い出されますが、さらにここにも一人、プロヴァンスを代表する偉大な画家がいることを改めて知り、とても豊かな気持ちになってサロンを後にしました。
私の素性と身の上をご存知の皆様は、すでにご承知ですが、現在、仕事でアルジェリアに滞在しています。
入国にあたり発給されたのが、三ヶ月間有効のビジネス(商用)ビザといわれるものなのですが、これによって滞在する間、最低一ヶ月に一度の出国が義務付けられています。このありがたい(?)義務を果たすため、一ヶ月に一度、滞在地に程近い空港とフランスのマルセイユ間に就航しているアルジェリア航空の直行便を利用して、前回訪れたプロヴァンス地方の小旅行を楽しんでいます。
先日、訪れたのは、Salon-de-Provenceという、今まで聞いたこともない町で、マルセイユ空港から直行バスで50分のところに位置しています。小さい町ですが、いわゆる観光都市とは異なり、土地の人々の普段の暮らしがゆったりとしたペースで営まれているといった印象を受けました。
一夜の宿を取ったのは、ホテル・セレクト(Hotel Select)という、これまたこの町の佇まいと調和がとれた、いたってこじんまりとしたホテルで、若いオーナーが言うには、開業したのは今から1年ほど前とのこと。この町は初めてという私に、サロンの町の歴史や見所、そしてお勧めの町一番の高級レストラン*1)まで紹介してくださり、その店でゆったりと夕食をとって、ホテルに戻ってからは、ご主人と、お互いのこれまでの人生についてなど四方山話に花が咲き、初対面にもかかわらず、しまいにはすっかり親しくなっていました。
*1) Restaurant La Salle à Manger
文字通り、「食堂」という意味の名前の店ですが、壁画や天井画で飾られたダイニング・ルームでとる食事はなかなかの趣があります。町一番の高級店というので、「ネクタイもジャケットも持ってきてないし…」とためらう私の背中を押してくれたのは、ドナルドさんの「ここはパリじゃないし、ジーンズとTシャツでも大丈夫ですから」という言葉。恐る恐る入ってみたところ、もう夜は冷えるのでと暖炉に火が入れられた店内の雰囲気と、スタッフたちのユーモアのこもった暖かいもてなしですっかり緊張もほぐれ、いただいたのは鴨のベリー・ソース添え。かなりボリュームがありましたが、久しぶりに味わう鴨料理でまさに絶品の味。前菜、メイン・ディッシュ、デザート、コーヒー、そして飲み物で、50ユーロ程度でしたが、まぁ、一人旅でもたまには許される贅沢かなと心のなかでつぶやきながら、「Bon week-end!(楽しい週末を!)」というお店の方の言葉に送られ、夜の静かなサロンの通りをホテルへ向かいました。途中訪れた、修復がほぼ終わったという近くの教会の、ライトアップされた美しい姿とその上に広がる星空が印象的でした。オーナーのドナルド(Donald)さんは、サロンでホテルの経営を始めるまで、パリのホテル・リッツなどのホテルの菓子職人として働いていたそうで、奥様のラエリリア(Laeriria)さんもやはりホテルに勤務されていたとのこと。そして、ドナルドさんは、サロンに来る直前は、マドレーヌ広場にあるLucas Cartonという高級レストランのチーフ・パティシエだったそうです。
そんなご夫妻が、パリでの生活に疲れを感じ、新たな人生の一歩を踏み出す場所として選んだのがこのサロンだったというわけです。
さて、このサロンの町ですが、いくつか興味深いところがあります。これからお伝えするのは、すべてドナルドさんから伺ったことの受け売りですが、まず、その昔ノストラ・ダムスが44歳のとき、故郷Saint-Rémy de Provenceを離れて移り住み、人生の終焉を迎えたのがこの町で、彼がカトリーヌ・ド・メディチと出会ったことを記念するページェントが毎年9月末ごろ、市民総出で行われるそうです。もちろん、彼の記念館もあります。そして、もうひとつ。マルセイユ石鹸という商品名を耳にされた方も多いと思いますが、この町は、唯一マルセイユ石鹸の製造工場が現存している地でもあるのです。そして、やはりマルセイユ石鹸の博物館もあります。(そういう意味では、一応観光客を意識しているようですが、絵葉書すら売っている店も見つけることができませんでした。)
ほかにも多くの興味深いものがあります。ご興味がありましたら、是非一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか。そして、滞在は、是非ホテル・セレクトで。(ホテルのサイトから直接予約が可能です。もちろん、英語でも対応してくれます。) 場所は、マルセイユ空港から17番のバスに乗ってその終点、Place Jules Morganから歩いて5分程度のところ、rue de Suffren 35番地です。
それでは、町で撮影した風景とドナルドさんからご提供いただいた、先ほど述べた野外ページェントの写真を数枚。

もちろん、ドナルドさん夫妻もこのとおり。奥様が持っている籠のなかは、ラベンダです。
最後に、テオドール・ジュルダン(Théodore Jourdan:1833-1906)という画家について一言。今回、サロンで出会ったものの中で、非常に印象に残ったのが、主に羊の群れや、それを牧する羊飼いを描いた作品で知られる、このプロヴァンスの画家でした。町の中心に位置する城砦の中で彼の絵の展覧会が開催されていたので訪れたのですが、そのとき会場にいたのは、私のほかにはやさしい笑顔で迎えてくれた案内の女性のみ。ゆったりと流れる午後の時間の中でそれぞれの絵の中に吸い込まれてしまいそうな、そんな温もりを感じさせる作品ばかりの、やはりこの町にふさわしい展覧会でした。プロヴァンスというと、セザンヌを除くと、パニョルを始め、どちらかというと土地にゆかりの作家たちが思い出されますが、さらにここにも一人、プロヴァンスを代表する偉大な画家がいることを改めて知り、とても豊かな気持ちになってサロンを後にしました。
Friday, 31 July 2009
アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリ忌
今日は、サン・テグジュペリの命日です。
65年前の1944年7月31日、『星の王子さま』の作者アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの搭乗機ロッキードP-38ライトニングF5Bは、マルセイユの沖で消息を絶ちました。連合軍のプロヴァンス沿岸上陸が2週間後に迫っていたその日の朝、ドイツ占領下のリヨンの東方地域偵察のため、グルノーブルを目指してコルシカ島のボルゴ(Borgo)基地を飛び立った後まもなくのことでした。1500馬力のエンジンを2基搭載し、時速650Kmで高度10000mまで上昇可能という高性能を有するとはいえ、サン・テグジュペリ少佐の搭乗機は偵察機仕様で、機銃も爆弾も搭載されてはおらず、装着されていた数台の写真機が、彼の唯一の"武器"でした。
それから50年以上も経った1998 年9月7日、付近で漁をしていた地元の漁師ビアンコさんは、引き上げた網の中に、跳び跳ねる魚に混じって鈍く光る小さな金属片を見つけました。それは、以下の文字が刻まれた、金属製のブレスレットでした。
" ANTOINE DE SAINT-EXUPERY (CONSUELO), c/o REYNAL AND HITCHCOCK INC., 386 4TH AVE. N.Y.C. U.S.A."
* CONSUELOは、彼の妻の名前(Prénom)
やがて、この小さな遺品の発見がきっかけとなって調査が開始され、2000年、海洋考古学者ヴァンレルさんにより、当該地点の海底に横たわる残骸が、この著名な航空作家が操縦していた飛行機のものであることが最終的に確認されました。
マルセイユ近郊の入り江を巡る遊覧船から望むリウ列島(l'Archipel de Riou)。7つの島から成るこの小列島付近の海底から彼の搭乗機の残骸が発見されました。
昨年、ドイツの研究者たちの調査により、彼の搭乗機を撃墜したのが、当時24歳のホルスト・リッペルト(Horst Rippert: 終戦時少尉)が操縦する、エックス・アン・プロヴァンスに駐留していたドイツ空軍第200航空戦隊所属のメッサーシュミットBf 109 G型機であったことが判明しました。戦後は、第2ドイツ放送(ZDF)の記者として活躍したリッペルト氏ですが、少年時代、サン・テグジュペリの作品を愛読し、彼に憧れてパイロットの道を選んだと言います。半世紀以上前のその日、マルセイユ沿岸から制空圏内に侵入しようとする自由フランス空軍(F.A.F.L.)のP-38を発見し、その翼めがけて銃撃を加えたとき、やがて海に向かって墜ちてゆく同機の操縦かんを握っていたのが、敬慕する空の英雄だったことに気づくすべもありませんでした。パイロットは、最後まで脱出せず、彼の顔を見ることもできませんでした。数日後、自分が撃墜したのがサン・テグジュペリの搭乗機であったことを知らされ、それが間違いであることをひたすら願いつづけたそうです。しかし、その願いも空しく、否定しようのない事実が明らかになります。リッペルト氏は、当時を振り返り、「もし、あの操縦席に座っているのが誰なのか知っていたら、攻撃はしなかった...」と述べたそうです。撃墜されたとき、サン・テグジュペリは44歳。その最後の飛行の途中、遭遇した敵機の操縦士が20歳年下の、かつて自分が大空を自由に駆け巡る夢を与えた若者だったことなど想像もしなかったでしょう。
* F.A.F.L. = les Forces Aériennes Françaises Libres
サン・テグジュペリの作品を通じてパイロットになる夢を抱いたドイツ人少年は、自分だけではなかったとも語るリッペルト氏。祖母は、ユダヤ人だそうです。自分がユダヤ人の血統に属していることは軍に打ち明けていましたが、不思議なことに一度も問題視されたことはなく、技量的にも相当優秀なパイロットだったようです。
* 2008年3月15日付電子版『La Provence』(www.laprovence.com)の記事「Ils ont retrouvé le pilote qui a abattu Saint-Exupéry」参照。さらに、ドイツ語ですが、電子版『Frankfurter Allgemeine』(www.faz.net)の記事「Antoine de Saint-Exupéry in die Geschichte abgetaucht」にもリッペルト氏の発見に至った経緯が詳しく述べられています。
マルセイユ市では、今日からサン・テグジュペリの栄誉を讃えるための様々な催し物が開催されます。(因みに、今日は、研究者たちによるシンポジウムや、フランス空軍のミラージュ戦闘機による編隊飛行などが予定されているとのことです。)
詳しくは、マルセイユ市の公式サイト(www.marseille.fr)、そして一連の行事の公式サイト(www.marseillesaintex.org)をご覧ください。
また、パリ近郊のル・ブゥルジュ空港(Paris-Le Bourget)内にある航空宇宙博物館(musée de l'air et de l'espace)でも、現在、サン・テグジュペリ展を開催中です。(www.mae.org)
* 瑣末なことですが、サン・テグジュペリが操縦していたP-38ライトニング戦闘機は、速度、加速性能共に我国の零式艦上戦闘機を上回る性能を備えた優秀な双発戦闘機であり、1943年4月18日、前線視察のため、ソロモン諸島ブーゲンビル上空を飛行中の山本五十六連合艦隊司令長官搭乗の一式陸上攻撃機を撃墜したのもP-38でした。
65年前の1944年7月31日、『星の王子さま』の作者アントワーヌ・ド・サン・テグジュペリの搭乗機ロッキードP-38ライトニングF5Bは、マルセイユの沖で消息を絶ちました。連合軍のプロヴァンス沿岸上陸が2週間後に迫っていたその日の朝、ドイツ占領下のリヨンの東方地域偵察のため、グルノーブルを目指してコルシカ島のボルゴ(Borgo)基地を飛び立った後まもなくのことでした。1500馬力のエンジンを2基搭載し、時速650Kmで高度10000mまで上昇可能という高性能を有するとはいえ、サン・テグジュペリ少佐の搭乗機は偵察機仕様で、機銃も爆弾も搭載されてはおらず、装着されていた数台の写真機が、彼の唯一の"武器"でした。
それから50年以上も経った1998 年9月7日、付近で漁をしていた地元の漁師ビアンコさんは、引き上げた網の中に、跳び跳ねる魚に混じって鈍く光る小さな金属片を見つけました。それは、以下の文字が刻まれた、金属製のブレスレットでした。
" ANTOINE DE SAINT-EXUPERY (CONSUELO), c/o REYNAL AND HITCHCOCK INC., 386 4TH AVE. N.Y.C. U.S.A."
* CONSUELOは、彼の妻の名前(Prénom)
やがて、この小さな遺品の発見がきっかけとなって調査が開始され、2000年、海洋考古学者ヴァンレルさんにより、当該地点の海底に横たわる残骸が、この著名な航空作家が操縦していた飛行機のものであることが最終的に確認されました。
マルセイユ近郊の入り江を巡る遊覧船から望むリウ列島(l'Archipel de Riou)。7つの島から成るこの小列島付近の海底から彼の搭乗機の残骸が発見されました。昨年、ドイツの研究者たちの調査により、彼の搭乗機を撃墜したのが、当時24歳のホルスト・リッペルト(Horst Rippert: 終戦時少尉)が操縦する、エックス・アン・プロヴァンスに駐留していたドイツ空軍第200航空戦隊所属のメッサーシュミットBf 109 G型機であったことが判明しました。戦後は、第2ドイツ放送(ZDF)の記者として活躍したリッペルト氏ですが、少年時代、サン・テグジュペリの作品を愛読し、彼に憧れてパイロットの道を選んだと言います。半世紀以上前のその日、マルセイユ沿岸から制空圏内に侵入しようとする自由フランス空軍(F.A.F.L.)のP-38を発見し、その翼めがけて銃撃を加えたとき、やがて海に向かって墜ちてゆく同機の操縦かんを握っていたのが、敬慕する空の英雄だったことに気づくすべもありませんでした。パイロットは、最後まで脱出せず、彼の顔を見ることもできませんでした。数日後、自分が撃墜したのがサン・テグジュペリの搭乗機であったことを知らされ、それが間違いであることをひたすら願いつづけたそうです。しかし、その願いも空しく、否定しようのない事実が明らかになります。リッペルト氏は、当時を振り返り、「もし、あの操縦席に座っているのが誰なのか知っていたら、攻撃はしなかった...」と述べたそうです。撃墜されたとき、サン・テグジュペリは44歳。その最後の飛行の途中、遭遇した敵機の操縦士が20歳年下の、かつて自分が大空を自由に駆け巡る夢を与えた若者だったことなど想像もしなかったでしょう。
* F.A.F.L. = les Forces Aériennes Françaises Libres
サン・テグジュペリの作品を通じてパイロットになる夢を抱いたドイツ人少年は、自分だけではなかったとも語るリッペルト氏。祖母は、ユダヤ人だそうです。自分がユダヤ人の血統に属していることは軍に打ち明けていましたが、不思議なことに一度も問題視されたことはなく、技量的にも相当優秀なパイロットだったようです。
* 2008年3月15日付電子版『La Provence』(www.laprovence.com)の記事「Ils ont retrouvé le pilote qui a abattu Saint-Exupéry」参照。さらに、ドイツ語ですが、電子版『Frankfurter Allgemeine』(www.faz.net)の記事「Antoine de Saint-Exupéry in die Geschichte abgetaucht」にもリッペルト氏の発見に至った経緯が詳しく述べられています。
マルセイユ市では、今日からサン・テグジュペリの栄誉を讃えるための様々な催し物が開催されます。(因みに、今日は、研究者たちによるシンポジウムや、フランス空軍のミラージュ戦闘機による編隊飛行などが予定されているとのことです。)
詳しくは、マルセイユ市の公式サイト(www.marseille.fr)、そして一連の行事の公式サイト(www.marseillesaintex.org)をご覧ください。
また、パリ近郊のル・ブゥルジュ空港(Paris-Le Bourget)内にある航空宇宙博物館(musée de l'air et de l'espace)でも、現在、サン・テグジュペリ展を開催中です。(www.mae.org)
* 瑣末なことですが、サン・テグジュペリが操縦していたP-38ライトニング戦闘機は、速度、加速性能共に我国の零式艦上戦闘機を上回る性能を備えた優秀な双発戦闘機であり、1943年4月18日、前線視察のため、ソロモン諸島ブーゲンビル上空を飛行中の山本五十六連合艦隊司令長官搭乗の一式陸上攻撃機を撃墜したのもP-38でした。
Thursday, 30 July 2009
プロヴァンス小紀行(4) マルセル・パニョルのこと
マルセル・パニョルといえば、カミュやジオーノと共に南フランスを代表する作家であり、彼の代表作である『少年時代の思い出』(『Souvenirs d'enfance』)シリーズに含まれる4作品、『La Gloire de mon père』、『Le Château de ma mère』、『Le Temps des secrets』、『Le Temps des amours』のタイトルがすぐに頭に浮かぶ方も多いのではないかと思います。
この4作品には異なる邦題が存在しているようなので、とりあえずは直訳、あるいは意訳すると、それぞれ『我が父の栄光』、『母の館』、『少年時代の秘密』、『恋するころ』というようになるでしょうか。(パニョルファンの方へ - イメージをこわしてしまったらごめんなさい。)
最初の2作品は、1990年に映画化され、日本でも公開されたようです。そして、残りの2作品は、それから17年後の2007年に、国営テレビ局のFrance2及びFrance3が中心となってテレビドラマ化され、France2において放送されました。これら4作品とも、とても素晴らしい作品ですが、個人的には、特に1990年に制作された最初の2作品が好きです。そこでは、ごく平凡な家族の幸せが描かれ、同時にそれがいかにはかなく、壊れやすいものであるかも表現されているように感じました。同様に、それを一緒に育み、分かち合った相手の死によっていきなり終止符が打たれてしまう友情も。ただ、だからこそ、それらは守ってゆくべきなのではないだろうか、そして、それこそが人生に意味を、また、価値を与えることではないかとも。
(これらの作品のDVDは、原作本も含めて、Amazon.frにて購入可能です。なお、老婆心ながら、これらフランス製のDVDの再生時に出力される映像信号はPAL方式のため、一般の家庭用テレビで鑑賞する場合は、PALからNTSC方式に変換可能なDVDプレイヤーが必要です。パソコンでは、通常、問題なく再生されます。)
そういえば、ふと感じたことですが、子どもを主役とした映画は、どうもスペインや、イタリア、そしてフランスとラテン系の国に名作が多いように思えます。私の好みの問題かもしれませんが。
それと、改めてパニョルが制作した映画のリスト(上掲の4つの小説各巻の終わりに掲載されています)を見ると、ジャン・ジオーノの原作の映画化が少なくないことにも気がつきました。実際、パニョルが制作した作品は、1931の『Marius』から1967年の『Le curé de Cucugnan』まで、3回制作された『Topaze』を含め、合計23本に及びますが、そのうち、ジオーノの原作に基づくものは4本で、これほど多くの原作をパニョルの映画作品に提供している作家は他にいません。なぜでしょう。例えば、マルセイユ出身の名喜劇俳優フェルナンデル(Fernandel : 1903-1971)が研屋(rémouleur)の役で登場する、初期の代表作『Regain』(1937)も、ジオーノの原作に基づいています。( オーバーニュにあるマルセル・パニョル記念館の学芸員の方から、「なにか、質問はありませんか」と聞かれたとき、質問しておけばよかった~!やはり、どこへ行くにも予習が大切ですね。)
また、彼は、父親の期待どおり、一時期教職についていますが、エクス・アン・プロヴァンスの大学で専攻したのは、英文学だったのですね。フランスを代表する作家の一人で、しかもアカデミー・フランセーズ会員だったマルセル・パニョルが、若いころ英文学を勉強していたとは。これも、少々意外な、でも嬉しい発見でした。
なお、パニョルについての情報をとても丁寧にまとめているサイトがありましたので、以下にお知らせしておきます。
www.marcel-pagnol.com
また、オーバーニュ市観光局の公式ウェブサイト(www.oti-paysdaubagne.com)にも、パニョル縁の地を訪ねるトレッキングについてなど、パニュル関連の情報が掲載されています。(ホーム・ページの「Nos collines」にポインターを合わせると表示されるメニューの「Le Garlaban de Pagnol」をクリックしてみてください。)
さて、今回、折角マルセイユに来たのだからと、友人に勧められて一緒に訪ねたパニョルゆかりの場所はというと、その生家(現在は、記念館)があるオーバーニュ(Aubagne) 、その近郊の彼の墓があるラ・トレイユ(La Treille)の墓地、『母の館』に登場するラ・ビュジヌの城(Le Château de la Buzine)、マルセイユ10区に残る、1897年から1900年にかけて彼の父が勤務した公立サン・ルウ初等学校跡(L'Ecole communnale de Saint Loup - 彼の家族もそこに住んでいました。)などです。
ラ・トレイユは、もちろん、彼が少年時代に家族と共に休暇を過ごした村。周囲に広がる自然は、上記作品の中で語られるさまざまな思い出を育んだ舞台です。
なお、ラ・ビュジヌの城は、現在、映画資料館として公開されるべく改修工事中で入館はできません。詳しくは、マルセイユ市の公式ウェブサイトをご覧ください。
オーバーニュにあるマルセル・パニョル記念館の学芸員は、柔道をたしなんでいると言うとても親切な若い男性で、どことなく小学校の先生を思わせる雰囲気の方でした。地図の上に、その学芸員の方が書いてくれた道筋を頼りにたどり着いたパニョルの墓。近くに、『母の館』の舞台となった水路がありました。また、墓地に向かう途中、やはり『母の館』の中のワン・シーンで、父親の元教え子で、水路管理人のブジーグとマルセルの家族が一緒にテラスのテーブル囲む、居酒屋のレ・キャトル・セゾン(Les Quatre Saisons)の側を通りました。
この4作品には異なる邦題が存在しているようなので、とりあえずは直訳、あるいは意訳すると、それぞれ『我が父の栄光』、『母の館』、『少年時代の秘密』、『恋するころ』というようになるでしょうか。(パニョルファンの方へ - イメージをこわしてしまったらごめんなさい。)
最初の2作品は、1990年に映画化され、日本でも公開されたようです。そして、残りの2作品は、それから17年後の2007年に、国営テレビ局のFrance2及びFrance3が中心となってテレビドラマ化され、France2において放送されました。これら4作品とも、とても素晴らしい作品ですが、個人的には、特に1990年に制作された最初の2作品が好きです。そこでは、ごく平凡な家族の幸せが描かれ、同時にそれがいかにはかなく、壊れやすいものであるかも表現されているように感じました。同様に、それを一緒に育み、分かち合った相手の死によっていきなり終止符が打たれてしまう友情も。ただ、だからこそ、それらは守ってゆくべきなのではないだろうか、そして、それこそが人生に意味を、また、価値を与えることではないかとも。
(これらの作品のDVDは、原作本も含めて、Amazon.frにて購入可能です。なお、老婆心ながら、これらフランス製のDVDの再生時に出力される映像信号はPAL方式のため、一般の家庭用テレビで鑑賞する場合は、PALからNTSC方式に変換可能なDVDプレイヤーが必要です。パソコンでは、通常、問題なく再生されます。)
そういえば、ふと感じたことですが、子どもを主役とした映画は、どうもスペインや、イタリア、そしてフランスとラテン系の国に名作が多いように思えます。私の好みの問題かもしれませんが。
それと、改めてパニョルが制作した映画のリスト(上掲の4つの小説各巻の終わりに掲載されています)を見ると、ジャン・ジオーノの原作の映画化が少なくないことにも気がつきました。実際、パニョルが制作した作品は、1931の『Marius』から1967年の『Le curé de Cucugnan』まで、3回制作された『Topaze』を含め、合計23本に及びますが、そのうち、ジオーノの原作に基づくものは4本で、これほど多くの原作をパニョルの映画作品に提供している作家は他にいません。なぜでしょう。例えば、マルセイユ出身の名喜劇俳優フェルナンデル(Fernandel : 1903-1971)が研屋(rémouleur)の役で登場する、初期の代表作『Regain』(1937)も、ジオーノの原作に基づいています。( オーバーニュにあるマルセル・パニョル記念館の学芸員の方から、「なにか、質問はありませんか」と聞かれたとき、質問しておけばよかった~!やはり、どこへ行くにも予習が大切ですね。)
また、彼は、父親の期待どおり、一時期教職についていますが、エクス・アン・プロヴァンスの大学で専攻したのは、英文学だったのですね。フランスを代表する作家の一人で、しかもアカデミー・フランセーズ会員だったマルセル・パニョルが、若いころ英文学を勉強していたとは。これも、少々意外な、でも嬉しい発見でした。
なお、パニョルについての情報をとても丁寧にまとめているサイトがありましたので、以下にお知らせしておきます。
www.marcel-pagnol.com
また、オーバーニュ市観光局の公式ウェブサイト(www.oti-paysdaubagne.com)にも、パニョル縁の地を訪ねるトレッキングについてなど、パニュル関連の情報が掲載されています。(ホーム・ページの「Nos collines」にポインターを合わせると表示されるメニューの「Le Garlaban de Pagnol」をクリックしてみてください。)
さて、今回、折角マルセイユに来たのだからと、友人に勧められて一緒に訪ねたパニョルゆかりの場所はというと、その生家(現在は、記念館)があるオーバーニュ(Aubagne) 、その近郊の彼の墓があるラ・トレイユ(La Treille)の墓地、『母の館』に登場するラ・ビュジヌの城(Le Château de la Buzine)、マルセイユ10区に残る、1897年から1900年にかけて彼の父が勤務した公立サン・ルウ初等学校跡(L'Ecole communnale de Saint Loup - 彼の家族もそこに住んでいました。)などです。
ラ・トレイユは、もちろん、彼が少年時代に家族と共に休暇を過ごした村。周囲に広がる自然は、上記作品の中で語られるさまざまな思い出を育んだ舞台です。
なお、ラ・ビュジヌの城は、現在、映画資料館として公開されるべく改修工事中で入館はできません。詳しくは、マルセイユ市の公式ウェブサイトをご覧ください。
オーバーニュにあるマルセル・パニョル記念館の学芸員は、柔道をたしなんでいると言うとても親切な若い男性で、どことなく小学校の先生を思わせる雰囲気の方でした。地図の上に、その学芸員の方が書いてくれた道筋を頼りにたどり着いたパニョルの墓。近くに、『母の館』の舞台となった水路がありました。また、墓地に向かう途中、やはり『母の館』の中のワン・シーンで、父親の元教え子で、水路管理人のブジーグとマルセルの家族が一緒にテラスのテーブル囲む、居酒屋のレ・キャトル・セゾン(Les Quatre Saisons)の側を通りました。Wednesday, 29 July 2009
プロヴァンス小紀行(3) マルセイユと近郊の入り江巡り
プロヴァンスを旅行する上でお奨めしないことを2つほど。
まず、
今回、マルセイユとその近郊を友人の運転する車で移動していて気がついたことですが、相当運転に自信がある場合は別ですが、マルセイユの市内をレンタカーで移動するのは避けたほうがよさそうです。何しろ、土地の人たちの交通法規についての意識といえば、進路変更の際にウィンカーを点滅させるかどうかはオプションに過ぎないと豪語するほどのレベルなので...(実際、高速道路の走行中、それが決して誇張ではないことがすぐにわかりました。フランスの他の地域においても、13という番号(マルセイユの番号、まさに納得の行く番号です)付きのナンバー・プレートをつけた車が側に来たら要注意です。)
レンタカーを借りる場合は、Aix-en-Provenceのような比較的小さな地方都市で借りることをお奨めします。(Euorpcarなどで。)
モンプリエ(Montpellier)に向かう際に通った高速A55線マルティーグ(Martigues)付近。右側に広がるのは、ベル湖(Etang de Berre)。
次に、
これはフランスを旅行する上で、どこでも共通することですが、ICチップ付でないクレジットカードの携行はお奨めできません。必ずICチップ付のものを携行しましょう。(スイスなど、他の国でも断然便利です。)なぜなら、都市の公共交通であろうと、フランス国鉄だろうと、すべての交通機関の自動券売機において、それ以外のクレジットカードは受け付けられないからです。(自動券売機を使おうとすると、まず、そういった旨の注意書きが表示されます。使えないカードとして、特に、American Expressのカードは、固有名で表示されます。)このことは、また、日本国内において、voyages-sncf.comなどを使って列車の予約をする場合でも、頭に入れておくと良いでしょう。というのは、日本で予約をして、現地の最寄の駅の自動券売機で切符を受け取る場合も、受け取りの際に使えるのはICチップ付のクレジットカードのみだからです。そして、その場合、予約の際に情報を入力したカードと同一のカードであることが必要です。
さて、このマルセイユですが、ご存知のように、フランスを代表する港町のひとつで、紀元前600年ごろ、フェニキア人達が現在の旧港(Le Vieux-Port)のあたりに住み着いたのが、その起源とされています。今や、ユーロ・メディテラネ(Euroméditerranée)と名づけられた総合開発計画に基づき、新たな港湾施設や市内各所の整備が進められ、地中海を代表する港湾都市の名に恥じない姿に生まれ変わろうとしています。聞くと、日本から訪れる観光客は比較的少ないとのことでしたが、北アフリカやその他の、旧フランス植民地からの移民やその子孫が多く、彼らが持ち込んだ文化と地元の文化が融合しあった独特の異国情緒を味わうことができる町です。
ところで、マルセイユとパリとでは、どちらの面積が広いと思われますか。答えは、マルセイユなのです。(パリ市の10540 Ha、すなわち105.4 Km²に対し、マルセイユ市の面積は、なんとその2倍以上の24062 Ha、204.62 Km²!)
以下、マルセイユの市内と、入江巡りの船上にて撮影した写真を数枚アップします。今回参加した入江(Les Calanques)巡りは、船でマルセイユ近郊の12の入江を3時間半かけて巡るというもの。船は、旧港から出航します。
マルセイユの守護聖母教会(Basilique Notre-Dame-de-la-Garde)から見た海。
沖に見える、一番左の島の左辺りがサン・テグジュペリが操縦する偵察機が墜落した地点だそうです。数年前、そこで発見された残骸が、彼の搭乗機のものであることが確認された後、撃墜したと思われる元ドイツ空軍パイロットへのインタビューがニュースで紹介され、その際、この元パイロットは、「もし、彼が乗っていることがわかっていたら、撃墜しなかっただろう...」と語ったそうですが、戦時下だった当時のこと、もちろんそんなことは不可能だったでしょう。
会堂の中には、遭遇した海難から救われた善男善女から、お礼として奉納された、彼らが実際に乗っていた船や飛行機の模型が吊り下げられていました。
第7区の海岸沿いに住んでおられる、友人の知り合いのお宅に夕食に招かれたときに、近くで撮影したもの。左下から上に続く階段を昇りきった左奥がそのお宅。海を見下ろすテラスで黄昏行く空を眺めながら食事をするなど生れて初めての経験。食後は、皆で近くを散策。オレンジ色の照明に照らされた小路の雰囲気が印象に残りました。
同じく、第7区にあるヴァロン・デ・ゾッフ(Vallon des Auffes)という入り江(漁港)。左端に見える窓のある建物が、シェ・フォンフォン(ブイヤベースで有名なレストラン)。
入り江巡りに出かける日、港で見かけた漁犬(?)。さすがに魚が好物のようで、このあとご主人から与えられた魚に早速舌鼓。
まず、
今回、マルセイユとその近郊を友人の運転する車で移動していて気がついたことですが、相当運転に自信がある場合は別ですが、マルセイユの市内をレンタカーで移動するのは避けたほうがよさそうです。何しろ、土地の人たちの交通法規についての意識といえば、進路変更の際にウィンカーを点滅させるかどうかはオプションに過ぎないと豪語するほどのレベルなので...(実際、高速道路の走行中、それが決して誇張ではないことがすぐにわかりました。フランスの他の地域においても、13という番号(マルセイユの番号、まさに納得の行く番号です)付きのナンバー・プレートをつけた車が側に来たら要注意です。)
レンタカーを借りる場合は、Aix-en-Provenceのような比較的小さな地方都市で借りることをお奨めします。(Euorpcarなどで。)
次に、
これはフランスを旅行する上で、どこでも共通することですが、ICチップ付でないクレジットカードの携行はお奨めできません。必ずICチップ付のものを携行しましょう。(スイスなど、他の国でも断然便利です。)なぜなら、都市の公共交通であろうと、フランス国鉄だろうと、すべての交通機関の自動券売機において、それ以外のクレジットカードは受け付けられないからです。(自動券売機を使おうとすると、まず、そういった旨の注意書きが表示されます。使えないカードとして、特に、American Expressのカードは、固有名で表示されます。)このことは、また、日本国内において、voyages-sncf.comなどを使って列車の予約をする場合でも、頭に入れておくと良いでしょう。というのは、日本で予約をして、現地の最寄の駅の自動券売機で切符を受け取る場合も、受け取りの際に使えるのはICチップ付のクレジットカードのみだからです。そして、その場合、予約の際に情報を入力したカードと同一のカードであることが必要です。
さて、このマルセイユですが、ご存知のように、フランスを代表する港町のひとつで、紀元前600年ごろ、フェニキア人達が現在の旧港(Le Vieux-Port)のあたりに住み着いたのが、その起源とされています。今や、ユーロ・メディテラネ(Euroméditerranée)と名づけられた総合開発計画に基づき、新たな港湾施設や市内各所の整備が進められ、地中海を代表する港湾都市の名に恥じない姿に生まれ変わろうとしています。聞くと、日本から訪れる観光客は比較的少ないとのことでしたが、北アフリカやその他の、旧フランス植民地からの移民やその子孫が多く、彼らが持ち込んだ文化と地元の文化が融合しあった独特の異国情緒を味わうことができる町です。
ところで、マルセイユとパリとでは、どちらの面積が広いと思われますか。答えは、マルセイユなのです。(パリ市の10540 Ha、すなわち105.4 Km²に対し、マルセイユ市の面積は、なんとその2倍以上の24062 Ha、204.62 Km²!)
以下、マルセイユの市内と、入江巡りの船上にて撮影した写真を数枚アップします。今回参加した入江(Les Calanques)巡りは、船でマルセイユ近郊の12の入江を3時間半かけて巡るというもの。船は、旧港から出航します。
マルセイユの守護聖母教会(Basilique Notre-Dame-de-la-Garde)から見た海。沖に見える、一番左の島の左辺りがサン・テグジュペリが操縦する偵察機が墜落した地点だそうです。数年前、そこで発見された残骸が、彼の搭乗機のものであることが確認された後、撃墜したと思われる元ドイツ空軍パイロットへのインタビューがニュースで紹介され、その際、この元パイロットは、「もし、彼が乗っていることがわかっていたら、撃墜しなかっただろう...」と語ったそうですが、戦時下だった当時のこと、もちろんそんなことは不可能だったでしょう。
会堂の中には、遭遇した海難から救われた善男善女から、お礼として奉納された、彼らが実際に乗っていた船や飛行機の模型が吊り下げられていました。
入り江巡りに出かける日、港で見かけた漁犬(?)。さすがに魚が好物のようで、このあとご主人から与えられた魚に早速舌鼓。プロヴァンス小紀行(2) ブイヤベースのこと
もともと今回の小旅行の目的は、大学時代のルームメートを訪ねるというものだったため、せいぜい数日程度当地に留まるつもりだったのですが、折角26年振りに会うのだからと先方から言われ、結局彼の家で1週間過ごすことになってしまいました。「長崎といえばちゃんぽん」程度の知識しか、マルセイユについても持ち合わせていなかった私のわずかな関心の対象といえば、当然そのブイヤベースくらいなもので、先月25日、リヨンから乗ったTGVでマルセイユのサン・シャルル駅に夕刻到着し、それまで滞在していた天候不順のスイスの涼しさが恋しくなるほど容赦なく照りつける太陽の下にいきなり降り立ったときは、率直な感想として、「やれやれ、こんな暑いところで1週間も過ごすのか」とため息まじりに心の中でつぶやいたものでしたが、このブイヤベースが思いがけなく最高の思い出のひとつとなりました。
本物のブイヤベースが味わえると、長く当地に暮らしている、友人の知り合いの方から教えていただいたのは、シェ・フォンフォン(Chez Fonfon)というお店でしたが、結局私たちが訪れたのは、マルセイユの東南端、第8区に位置するレ・グード(Les Goudes)という小さな漁港にあるレストラン、レスプライ・デゥ・グラン・バー・デ・グード(l'Esplaï du Grand Bar des Gourdes - なんだか、お経のように聞こえる長い名前のお店です)。オーナーは、生れも育ちもこちらという生粋のグードっ子で、魚や料理法についての知識はもちろん豊富。ブイヤベースについて詳しく、しかもとても親切に教えてくれました。(ご興味がある方は、お店のサイトをご覧ください。)
このお店、実は、マルセイユ近郊の入り江めぐりの船に乗った際に、船員さんから教えていただいたお店で、なんでもオーナーはその方のご友人とのこと。
上述したシェ・フォンフォンもそうですが、とにかく、その日の獲りたての魚が船から直接厨房に上げられ、料理されるということなので、新鮮さは請け合いです。そして、もちろん出される料理の味のほうも。ただ、魚の種類によっては、肉などと同様に少し熟成させたほうがいいものもあるとのこと。初めて知りました。
個人のブログでお店について紹介してもいいですかと尋ねると、「もちろん、よろこんで」ということだったので、以下がお店のサイトのURL及び連絡先です。
www.grandbardesgoudes.com
29, av. Désiré-Pellaprat, les Goudes, 13008 Marseille
04 91 73 43 69
夏の期間は、1週間から10日前までの予約がお奨め(海側の席を確保するため)だそうですが、オーナーによると、10月なども良いですよとのことでした。
なお、日本のフランス語仲間のTさん(フランスでの勤務経験を持ち、相当なフランス通で特にワインに詳しい)によると、ブイヤベースには、ロゼ・ワインが合うそうです。プロヴァンスのロゼでしょうか。そういえば、近くのテーブルに着いていた年配のご夫婦が、やはりロゼ・ワインを味わっておられました。
本物のブイヤベースが味わえると、長く当地に暮らしている、友人の知り合いの方から教えていただいたのは、シェ・フォンフォン(Chez Fonfon)というお店でしたが、結局私たちが訪れたのは、マルセイユの東南端、第8区に位置するレ・グード(Les Goudes)という小さな漁港にあるレストラン、レスプライ・デゥ・グラン・バー・デ・グード(l'Esplaï du Grand Bar des Gourdes - なんだか、お経のように聞こえる長い名前のお店です)。オーナーは、生れも育ちもこちらという生粋のグードっ子で、魚や料理法についての知識はもちろん豊富。ブイヤベースについて詳しく、しかもとても親切に教えてくれました。(ご興味がある方は、お店のサイトをご覧ください。)
このお店、実は、マルセイユ近郊の入り江めぐりの船に乗った際に、船員さんから教えていただいたお店で、なんでもオーナーはその方のご友人とのこと。
上述したシェ・フォンフォンもそうですが、とにかく、その日の獲りたての魚が船から直接厨房に上げられ、料理されるということなので、新鮮さは請け合いです。そして、もちろん出される料理の味のほうも。ただ、魚の種類によっては、肉などと同様に少し熟成させたほうがいいものもあるとのこと。初めて知りました。
個人のブログでお店について紹介してもいいですかと尋ねると、「もちろん、よろこんで」ということだったので、以下がお店のサイトのURL及び連絡先です。
www.grandbardesgoudes.com
29, av. Désiré-Pellaprat, les Goudes, 13008 Marseille
04 91 73 43 69
夏の期間は、1週間から10日前までの予約がお奨め(海側の席を確保するため)だそうですが、オーナーによると、10月なども良いですよとのことでした。
なお、日本のフランス語仲間のTさん(フランスでの勤務経験を持ち、相当なフランス通で特にワインに詳しい)によると、ブイヤベースには、ロゼ・ワインが合うそうです。プロヴァンスのロゼでしょうか。そういえば、近くのテーブルに着いていた年配のご夫婦が、やはりロゼ・ワインを味わっておられました。
プロヴァンス小紀行(1) プロヴァンスとは?
今回、訪れた地方ですが、一般に"プロヴァンス"と呼ばれているところです。では、具体的にプロヴァンスとは地理的にフランスのどのあたりに位置するのかというと、これまではっきりとは知りませんでした。
念のため、Wikipediaで調べてみると、かつては某伯爵の領地で、現在の行政区分にあてはめると、Provence-Alpes-Côte d'Azurの大部分に相当し、西はローヌ川(Rhône)、東はヴァル川(Var)によって区切られた地域だそうです。しかし、文化及び観光の視点から眺めたとき、さらに広い地域にプロヴァンスは広がっているようです。すなわち、西は、ローヌ川を越えて、ヴィドゥールル川(Vidourle)に至り、現在のガル県(Gar)、アルデッシュ県(Ardèche)、そしてドゥローム県(Drôme)のそれぞれの南部分を含むとされています。
ただ、今回、私が携行した『GEOGUIDE Provence』(Gallimard出版)という観光案内書では、上記よりやや狭い地域がプロヴァンスとして定義されていて、単純に、アルプ・オートゥ・プロヴァンス(Alpes-Haute-Provence) ブッシュ・ドゥ・ローヌ(Bouches-du-Rône)、そしてヴォークリューズ(Vaucluse)の3県が含まれているだけでした。
そのため、観光地としてのプロヴァンス地方は、上記3県と考えていいでしょう。(参考までに、『木を植えた男』(JEAN GIONO 『L'homme qui plantait des arbres』)舞台となった地域は、この地方のすぐ上(北)に位置します。)
プロヴァンスの特徴として挙げられるのは、まず、かなり野生的な地域であるということ。海、山ともに、素晴らしい自然の造形美に出会うことができます。ただし、プロヴァンスに含まれる地域で海(地中海)に面しているのは、マルセイユとその近郊のみです。トゥーロン、サン・トロペ、カンヌ、ニースなどは、一般にプロヴァンスには含まれません。
念のため、Wikipediaで調べてみると、かつては某伯爵の領地で、現在の行政区分にあてはめると、Provence-Alpes-Côte d'Azurの大部分に相当し、西はローヌ川(Rhône)、東はヴァル川(Var)によって区切られた地域だそうです。しかし、文化及び観光の視点から眺めたとき、さらに広い地域にプロヴァンスは広がっているようです。すなわち、西は、ローヌ川を越えて、ヴィドゥールル川(Vidourle)に至り、現在のガル県(Gar)、アルデッシュ県(Ardèche)、そしてドゥローム県(Drôme)のそれぞれの南部分を含むとされています。
ただ、今回、私が携行した『GEOGUIDE Provence』(Gallimard出版)という観光案内書では、上記よりやや狭い地域がプロヴァンスとして定義されていて、単純に、アルプ・オートゥ・プロヴァンス(Alpes-Haute-Provence) ブッシュ・ドゥ・ローヌ(Bouches-du-Rône)、そしてヴォークリューズ(Vaucluse)の3県が含まれているだけでした。
そのため、観光地としてのプロヴァンス地方は、上記3県と考えていいでしょう。(参考までに、『木を植えた男』(JEAN GIONO 『L'homme qui plantait des arbres』)舞台となった地域は、この地方のすぐ上(北)に位置します。)
プロヴァンスの特徴として挙げられるのは、まず、かなり野生的な地域であるということ。海、山ともに、素晴らしい自然の造形美に出会うことができます。ただし、プロヴァンスに含まれる地域で海(地中海)に面しているのは、マルセイユとその近郊のみです。トゥーロン、サン・トロペ、カンヌ、ニースなどは、一般にプロヴァンスには含まれません。
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