Monday, 24 November 2014

勤労感謝の日(旧新嘗祭)に思い出した二本の映画

昨日,11月23日は勤労感謝の日でした.昭和23年(1948年)の法律第178号によって勤労を尊び,生産を祝い,国民が互いに感謝し合う日として祝日と定められた日です.

では,勤労感謝の日がなぜ11月23日になったかを知るには,永田久さんの著書『年中行事を「科学」する』*1)によると,神嘗祭(かむなめのまつり)と新嘗祭(にいなめのまつり)に知らなければならないそうです.以下,同書における永田氏の説明の要約です.

まず,神嘗祭は,天皇が祭祀者として,その年の収穫の初穂を太陽神である天照大神と稲の神の豊受大神(とようけのおおかみ)に供える収穫感謝のお祭りです.そして,新嘗祭は,天皇がその年の新穀をもろもろの神に供え,天皇自らも食される神人共食の感謝祭です.言わば,国民(または大御宝(おおみたから))の祭司としての天皇によって行われるサンクスギビングです.神嘗祭の起源は,元正天皇の養老5(721)年9月乙卯の日に伊勢神宮に勅使を遣わして幣吊を奉ったことが,続日本紀に記されていて,爾来9月16日が外宮,9月17日が内宮の祭儀と決めらました.ただ,この神嘗祭ですが,応仁の乱(1467 - 1477)をを契機として,後土御門天皇の治世の間に廃止されこともありました.しかし,明治維新を経た明治6(1873)年7月20日の大政官布告第258号によって復活し,以前のように9月16日と17日に執行されることになったのでした.そして,その後,明治12(1879)年7月7日太政官布告第25号によって,10月17日に改められています.神嘗祭では,皇居内で天皇自らが植えられ刈り取られた稲が,勅使により伊勢神宮にまつられ,また,伊勢の御神田の初穂が伊勢神宮に供えられます.

次に,新嘗祭ですが,天武天皇6(678)年11月乙卯の日に執行されたことが日本書紀に記されていますが,その期限は古く,稲作の到来とともに成立したもののようです.皇極天皇の治世以来,11月の「中卯の日」が祭日と定められましたが,天皇が即位後初めて行うのを大嘗祭(おおにへのまつり),毎年行われるのを新嘗祭と,二つの祭りを区別するようになりました.中卯の日とは,月の中にある2番日の卯の日のことです.長らく続いた新嘗祭も神嘗祭と同じく後土御門天皇の治世以後は途絶えていましたが,東山天皇(在位1687 - 1709)が大嘗祭を復興し,それ以来引き続いて11月中卯の日に新嘗祭が行われてきたという訳です.

では,11月の中卯の日とはどんな日なのでしょうか.朔日(月の最初の日)が卯の日ならば中卯の日は13日となり,朔日が辰の日ならば中卯の日は24日となります.そのため,中卯の日は,13日から24日までの間のいずれかの日となります.太陰太陽暦では,11月は冬至月であり,冬至は必ず11月にあるので,11月の中旬にくる中卯の日は,太陽が復活する冬至を目標にしたものと思われます.11月中卯の日の新嘗祭は,神嘗祭と新嘗祭一陽来復(冬が終わり春が来ること)を祈る冬至祭と稲の豊かな実りを神の恵みとする感謝祭とを合わせ持った祭りということができるでしょう.*2)

そして,新嘗祭の意義は,次の太政官布告によって明確に定義されています.(明治元(1868)年11月15日太政官布告第962号)
 皇国ノ稲穀ハ、天照大神顧見蒼生ノ食而可活モノナリト詔命アラセラレ、於天上狭田長田二令殖給ヒシ稲ヲ皇孫降臨ノ時下シ給ヘルモノナレハ、其神恩ヲ忘給ハス、且旱淋ノ憂無之様ニト、神武天皇以来世々ノ天皇、十一月中卵ノ日、年ノ新穀ヲ天神地祗二供セラルル重礼ニテ、三千年二近ク被為行
 當日ハ潔斉神祗ヲ拝シ、共二五穀豊熟天下太平ヲ神祗二祈奉ルヘシ 
こうして,上記布告以後,各年11月に於ける中卯の日だった明治元年11月18日,明治2年11月24日,明治3年11月24日,明治4年11月17日,明治5年11月23日に新嘗祭が厳かに執行されたのでした.

相当,脱線しましたが,本題に戻って何故11月23日が新嘗祭として固定されたのでしょうか.すでに書いたように,本来,このお祭りは11月の二番目の卯の日,つまり中卯の日に執り行われてきたのですが,これが毎年11月23日に固定されたのは,明治政府による改暦によるものです.明治政府は,明治5年に太陽暦を採用しました(文書上はユリウス暦ですが,実際はグレゴリウス歴).すなわち,明治5年12月3日を同6年1月1日に変えてしまったのです.そして,明治6年の11月中卯の日がその月の23日に当たっていたため,明治6年7月20日の太政官布告第258号によって,新嘗祭が11月23日と定められたということです.ところで,グレゴリオ暦の11月23日は,冬至から1カ月も前です.こうして,本来,冬至に合わせて行われていた収穫祭は,冬至との関係を失い,独立した感謝祭となったのでした.物事の起源であるとか本来の意味を,あまり重要視しない日本人ならではの面白い選択と言えます.

話が長くなりますが,これからは,最近思い出した映画について少し書かせていただきます.1つは,稲垣浩監督の東宝映画『日本誕生』(1959年),もうひとつは,同じ題材を扱った東映アニメーションの『わんぱく王子の大蛇(おろち)退治』(1963年)です.どちらが好きかというと,断然後者です.もちろん,実写とアニメーションのため,前者は後者に比べ,こうした題材を扱う際,おのずと技術的な制約があることは事実ですが(もちろん,円谷英二の特撮技術は素晴らしい出来ですが),それでも『前者』は,今でも,あまり好きにはなれません.一番,違和感を覚えるのは,登場する神様が肌を見せていることです.ギリシャ神話の神々にヒントを得たのでしょうが,高天原の神々が肌を見せているのには抵抗を覚えます.また,天岩戸を塞いでいた大きな岩を移動するアメノタヂカラオも同様でした.さらに違和感を覚えたのは,イザナギ,イザナミの二柱の神がまるで原始人のような身なりをしていたことでした.*3) ただ,今になって,Wikipediaで配役を調べてみると,天御中主神を奇優とでも呼べる左卜全が演じていたのには驚きました.また,主役の三船敏郎の演技は,あまり好きにはなりませんでしたが,バイプレイヤーとして吉備武彦を演じた平田昭彦の好演が光っていたのを思い出します.この映画を通じて,改めて彼のファンになりました.『わんぱく王子...』では,イザナギ,イザナミも,岩戸神楽のシーンに登場する神々もアメノウズメノミコトを除き,皆,衣服を着ています.アメノウズメについては,むしろ,あのような身なりのほうが,神話に忠実と言えるでしょう.とりわけ,この岩戸神楽のシーンについては,『わんぱく王子...』のほうが各段に勝っていると思っています.なお,面白いのは,両方の作品において音楽を担当したのが,伊福部昭だったことです.

最後に,東映アニメーションで育った世代に属する者の1人として言わせていただければ,宮崎駿監督の作品は,それなりに素晴らしいと思うのですが,やはり上記の『わんぱく王子...』など,一連の東映アニメーションの作品のほうが好きです.恐らく,その理由は,後者の日本画,あるいは大和絵の伝統を受け継ぐタッチではないかと思っています.また,構図にしても同様です.(特に構図は,ワイドスクリーン(70 mm)は淋派や狩野派の屏風画やふすま絵を彷彿とさせます.)日本人だからひいき目に見ていると言われるのは覚悟で言わせていただくと,西洋絵画と比較した場合,構図の見事さ,そのバランス感覚は日本画のほうがはるかに勝っていると思っています.近代では,その代表として速水御舟や奥村土牛などの作品を挙げることができますが,映画において,そうした伝統的な構図作りを受け継いだのは東映アニメーションと溝口健二だったのではなかったかと思っています.

残念ながら,宮崎駿監督のアニメーションには,そうした日本の美術における美しい伝統があまり感じられないのです.アニメーションの歴史を眺めたとき,このような日本画の伝統からの離脱は,いわゆる劇画と言われる『巨人の星』あたりから始まったのではないかと思っています.高度経済成長期の初期にあたる頃です.


*1) 永田 久『年中行事を「科学」する 暦のなかの文化と知恵』,東京,日本経済新聞社,1989年,pp209ff.なお,天皇が執行する祭りについては,多くの著作がありますが,てっとり早く知るには,例えば,高取正男『神道の成立』(平凡社ライブラリー)などがよいではないでしょうか.
*2) 中央集権国家の基盤にしようとした律令システムの神祇官制度における新嘗祭の位置付けについては,吉江彰夫『神仏習合』(岩波新書)などが参考になります.以下,同書の31ページ以降,仏教伝来以降,奈良時代後期から全国に広がった神々の仏教帰依(ようするに地方の豪族達の中央政府離れの口実)が律令制そのものを崩壊へと導く過程が説明されていますが,その中の一部を引用します.

祈年祭(豊年祈願)。月次祭(季節の順調な運行祈願)。新嘗祭(収穫際)などの祭りを執行するに先立ち、朝廷が公認した全国の神社の祝部らを神祗官に集め、神々への捧げ物(幣吊)を前に、神祗官役人中臣氏が神々に感謝と加護の祝詞を読み上げ、それが終るや、居並ぶ祝部らに同じ役人忌部氏がこの幣品を班給する。

[ ... ]

 つまり、皇祖神らの支えで豊かに稔った稲穂以下の種々の物をもって今年の生産に励めば、ふたたびその霊の加護を得て豊かな収穫が期待できるといっているのである。とすれば、ここに供えられた稲穂以下の物は、皇祖神らの霊で満たされ、豊作を引き出す力をもつたものと考えられることになろう。
 ところで、祈年祭と同じ内容の豊年析願祭は、当然、全国いたるところの神社で行なわれていた。そこにおいても、昨年の最良の収穫物を土地の神々に捧げ、その霊力を賦与されていたはずである。そのような地方のすべての神社のなかから、有力な神社が選ばれて、その祝部たちが、遠路はるばる帝都の神祗官にまで参集し、国家の祈年祭に参加し、皇祖神の霊力で満たされた稲穂以下を班与されていたのである。
 祝部が旅の苦労をおしてここまでやってきたのは、これによって、皇祖神すなわち大地と宇宙のすべてを司る神々の霊の乗り移った幣物を手にすることができたからであった。そしてそれをもって本国の神社に帰れば、そこで土地の神々に捧げてその霊力を賦与された稲穂らにまぜあわせ、その土地の稲穂らを宇宙の神の霊力をも付加したものにすることができ、その稲穂らを配下の村々の神社とそこに集う人々に賦与して、種粗として田に蒔かせれば、その絶大な霊力で豊かな収穫を期待できると考えたからである。
 律令国家が大宝律令ができた出発点の時点から、このような神祗祭祀で地方の有力な神社と神々のすべてを一編成し、そこに皇祖神=宇宙の神々の霊力の宿る稲穂などを班与したのは、それを地方の神々と村々に与えることで、彼らの自発的な皇祖神への感謝の気持ちを引き出し、それによって、神々への感謝の初穂の名目で、租税を取り立てることができると考えたからに他ならない。律令の条文も租・調・傭の制度も知らない一般庶民から、律令国家が租税を積極的に収取できたのは、このようなマジカルな基層信仰を国家的に統合する、呪術的な神祗官制度をもてたからなのである。

*3) 聖書の『創世記』のエピソードを取り上げた『天地創造』(The Bible: in the Beginning,1966年,米伊合作)では,アダムとエバは裸でしたが,聖書にそう書かれてあるので,そういうものだと思って見ていましたが.

No comments:

Post a Comment