Thursday, 4 September 2014

ドラマに描かれたエルキュール・ポワロのクリスチャンとしての側面

間もなく日本でも最終シーズンが放送されるアガサ・クリスティー原作のテレビドラマ『名探偵ポワロ』ですが,最近,これまでに放送された作品をもう一度ビデオで観てみました.そこで,ひとつ改めて気がついた,というか気になったことがあります.それは,以前から少なからず感じていたことですが,原作というよりドラマの中で描かれる(デヴィド・スーシェ演じる)ポワロという人物の宗教観,あるいは彼のクリスチャンとしての姿勢です.例えば,『死との約束』("Appointment with Death")のラストシーンで,彼は,危うく人身売買に対象にされかけ救われた若い女性に次の言葉をかけます."There is nothing in the World that cannot be repaired by the hand of mighty God."(日本語版では,「この世に全知全能の神が,その御手によっていやすことができない傷はありません.」)そして,彼女にロザリオをプレゼントします.そのあと,彼女が,ホテルの内庭から外へ出て行く彼のほうに目をやると画面を白い鳩が横切り,ポワロの姿はもう見えなくなっているという展開です.

元々,Wikipediaの『死との約束』に関する解説にあるように,この小説のドラマ化においてはかなりの変更がなされたようですが,特にこの,原作には無いラストシーンは,制作者が描こうとしたポワロという人物を知る上で重要に思えます.鳩は,聖書が語るノアの洪水後,乾いた陸地が表れたということを知らせたことから希望のシンボルと言えます.(また,先礼を受けたキリストの上に下った聖霊のシンボルでもあります.)上述のシーンの少し前に,ポワロが事件に巻き込まれた一組の若い男女にパンドラの箱についての話をします.ポワロは彼らとの会話の中で,パンドラの箱の中から悪いことがすべて箱から出て行った後に希望も世界へ飛び出したと言います.飛び立った鳩は,その表象として挿入されたのかも知れません.

こうした,ポワロのクリスチャン的姿勢を強調する演出は,生涯を通じて英国国教会の信者であり続け,他のミステリー作家とは異なり,自身の著作においてキリスト教的価値観や世界観を登場人物に直接的に語らせたアガサ・クリスティーの創作姿勢の延長線上にあるでしょうし,さらに言えば,ドラマのポワロ像は,制作者によってクリスティーの視点に立って再解釈されたもの,あるいは,彼女がこの探偵に与えた宗教性を一層強調したものとなっているように見えます.*1) このように信仰に厚いという性質が強調される一方で,ドラマのポワロは女性や弱者に優しく,礼儀正しく正義感に溢れる理想的紳士としても描かれていますが,この点については,相当,原作と乖離があるようです.ただ,これらの彼のキャラクターに顕著な二つの要素から,ことによると制作者は,このベルギー人の小男に中世の敬虔なクリスチャン騎士のイメージを重ねようとしたのかも知れません.(それにしては,趣味がずいぶん贅沢に思えますが.*2))そうした印象を抱かせたひとつの例として,最終シリーズの『象は忘れない』("Elephants Can Remember " )のクライマックスシーンが挙げられます.謎解きの最後の決め手となるフランス人女性とのパリにおける彼女の店での会話の最後,ポワロの質問に対し,感情の高まりを抑えきれずに「あの日,私の人生も終わった」と言い放つ彼女を優しくなだめながら「貴方も私も結婚はしていません.恐らく,今後も結婚することはないでしょう.しかし,彼らは結婚すべきなのです.」というやりとりは,(かなり個人的な感想ですが,)新約聖書の『聖マタイによる福音書』の中の結婚に関するキリストの言葉を暗示しているように思えました.*3) こうした振る舞いを見ると,彼を形容する言葉としては,騎士より,むしろ神父,いえ修道士のほうがふさわしいかもしれません.でも,中世の騎士は修道士的な側面も含んでいたでしょうから,すでに述べたように,やはり中世の敬虔なクリスチャン騎士という言葉がふさわしいと言えるでしょう.*4)

実際,クリスティーは,自らが創り出したこの探偵をカトリック教会の信者に設定しました.ポワロが愛し続ける祖国ベルギーの国教はカトリックであり,彼が警察官として長年暮らした首都ブリュッセルは,フランス語圏に位置しています.それらをベルギーの伝統的要素として擁護する側と,反対にカトリック教会を過去の遺物として攻撃し,さらにフラマン語をベルギー全体において公用語化させようとする,革新派とでも呼べる側の対立が犯罪の背景となっているのが,ポワロが警察官時代に起きた事件を回想する『チョコレートの箱』("The Chocolate Box")です.しかも,革新派は,当時のベルギーにとっての仮想敵国であるドイツ寄りの姿勢さえも示していますが,ドイツはプロテスタントが優勢な国であり,こうしたことも祖国を愛し伝統を擁護する側に対立する要素となっています.この作品の中では,2つの殺人事件が起こります.1つめの犯人は革新派の側に立つ人物で,その被害者は伝統を擁護する側に立つ人物でした.そして,2つめにおける被害者は1つめの犯人であり,犯行は伝統を擁護する側の人物によって,彼が犯した殺人の罪を罰するためと伝統的祖国を守るために行われたものでした.ポワロは,2つめの事件の犯人を突き止め,さらに,殺害されたのが1つめの犯人だったことも知るに至りますが,彼は,殺人は許されない行為である旨を前者に強く説く一方,その名前の公表を最後迄避けます.2つめの殺人の動機が,犯人の祖国を守ろうとする勇気と犠牲心であったというのがその理由でした.こうした,ポワロの伝統的ベルギーを強く愛する姿勢を明確に示した点で,この作品は他に比較して少々異色な一編といえるでしょう.ただ,凶悪犯の罪を罰するために殺人が法的枠組みの外で行われ,しかも,カトリックと反カトリック,あるいはプロテスタントとの文化的,精神的対立も背景を構成する1要素となっているという点では,後に取り上げる『オリエント急行殺人事件』と共通性を持っているといえます.なお,タイトルに含まれ,ドラマの中で重要な役割を果たすチョコレートも,ベルギーの伝統を構成する要素のひとつであることは言う迄もありません.*5)

また,面白いことに,いくつかの作品の中でカトリックで有る無しが犯人探しにおいて重要な手がかりとなることもあります.そのなかのひとつ,『砂に書かれた三角形』("Triangle at Rhodes")では,犯人の嫌疑がかけられた1人の男性がカトリックであると知った瞬間から,彼はポワロの容疑者リストからはずされます.カトリック教会は,離婚および再婚を認めないからというのがその理由です.ただ,配偶者と死別した場合は,再婚が認められます.それが,犯罪の動機となったのが『エッジウェア卿の死』("Lord Edgware Dies")です.ポワロは,登場人物の1人の結婚相手が式をウェストミンスター寺院(Westminster Abbey)ではなく,ウェストミュンスター大聖堂(Westminster Cathedral)で挙げる予定であると聞いたことから,結婚相手がカトリックであることを知り,そのことから最終的に犯人をあぶり出すことに成功します.前者は英国国教会の,そして,後者はカトリックの教会だからです.また,『ジョニー・ウェイバリー誘拐事件』("The Adventure*6) of Johnnie Waverly")のように,犯行現場となる旧い城館が,元々カトリック信者の家族の住居として建てられていたため,特殊な構造となっており,それが犯罪の実行に利用されるという作品もあります.さらに,カトリック以外の宗教もストーリー展開の重要な要素となるものもあります.『あなたの庭はどんな庭?』("How does your garden grow?")という作品がそれで,登場人物の1人,ロシアからの亡命者である女性がロシア正教の信者で有るか無いかが,ポワロの謎解きの決定的な鍵のひとつとなっています.同時に,ドラマにおけるポワロ像のみかも知れませんが,この作品の中で,他の宗教に対しても崇敬の姿勢を示していたことも興味深く思ったものです.そして,彼女へ対するポワロの特別ないたわりも,彼自身が亡命者であり,亡命先の国教とは異なる宗派に所属していることから,似た境遇に生きる者としての彼の心情を自然に表現する巧みな演出と思いました. ところで,『ハロウィーン・パーティー』("Hallowe'en Party")の中で,ポワロは,ある日曜日,明らかに英国国教会所属の教会(ほぼ間違いなく地元の"Parish Church")の礼拝に,彼の,ごく自然な習慣であるかのように出席します.*7) つまり,ポワロは,カトリック教会と英国国教会の違いにさほどこだわってはいないようなのです.亡命先の英国に対する敬意からなのかどうか,その正確な理由は判りませんが,一方で,こうしたポワロの行動にクリスティー自身の両教派に対する姿勢が反映されているような気もします.つまり,キリスト教の源流を形成しているのは,あくまでもカトリック教会ですが,英国の文化,より正確に言うと歴史上の王室の特殊な事情により,その源流より僅かながら離れるに至ってしまったのが英国国教会という理解をしていたのではないかということです.平たく言えば,前者が本家で,後者は分家のようなものというわけです.しかし,クリスティーは,英国王の臣民として生涯後者に留まることを選んだのではないでしょうか.*8) そして,こうした彼女の英国国教会への忠誠から見て取れる祖国愛が,そのまま,ポワロのカトリック教会への忠誠とベルギーに対する祖国愛とに投影されているように思えます.とはいえ,彼女の祖国愛は,決して個人の命を無視するものでないことも,『愛国殺人』("One, Two, Buckle My Shoe")の中のポワロの犯人に対する次の言葉から察することができそうです.「あなたは,この国が平和であると強調されましたね.そう,それも結構.でも,私の関心は国家ではありません.私が関心を持っているのは,自分の命を他人に奪われない,そういう権利を持っている個々の人間です.」*9)

ただ,クリスチャンであるならば,本来,自殺は容認しないはずであるのに,ポワロが犯人の自殺を容認する場合が,まれにあります.例えば,『エンドハウスの怪事件』("Peril at End House")のラストシーンでは,逮捕された真犯人が護送される際に自殺するためにコカインを隠した腕時計を持ち出すのを故意に見逃しています.この点については,ことによるとポワロは,犯人をキリストを裏切り,自ら首を吊って死んだユダのように看做していたのかも知れません.また,『ナイルに死す』("Death on the Nile")のラストシーンでも,ポワロは犯人達が自殺する可能性を知っていましたが,敢えてそれを防くことはしませんでした.*10) それでも,計画された殺人がポワロの活躍によって未遂に終わるという珍しいストーリーの作品『スズメバチの巣』("Wasp's Nest")の中では,ポワロは,他者の殺害に対してはもちろんですが,自殺に対しても,人生からの安易な逃避として批判的な姿勢を示しています.『アクロイド殺人事件』("The Murder of Roger Ackroyd")でも,ラストシーンで,彼は拳銃で自殺しようとする犯人に向かって止めるように叫びます.*11) また,『オリエント急行殺人事件』の冒頭,1人の軍人の罪がポワロによって暴かれ,その結果,彼は自殺するというシーンがあり,それについてのポワロの台詞は日本語版では「人には常に選択肢がありますが,彼は,嘘をつく道を選び,裁きを受けることになったのです.」ですが,英語版では"A man like your friend, lieutenant, always has choice. And it was his choice to lie that brought him into difficulty with the law."となっていて(イタリックの箇所をより直訳に近い形で訳すと「(そのことが)彼を法的に問題のある立場へと導いた.」),ここでも,自殺という結果に終わった選択肢は誤りだったと言うのがポワロの思いと解釈することができます.そして,『ホロー荘の殺人』("The Hallow")のラストシーンでは,犯人の女性が自殺するのを防ぐことをできなかった彼は,彼女の遺体の側に暫く(恐らく警察が到着するまでの間)残ることで,むしろ不幸な人生を送った彼女に対する深い憐憫を表しもします.(去って行く,というか,彼がその場を去ることを勧めた彼女の友人と別れの挨拶をするとき,彼の目が潤んでいるように見えました.)彼のこうした姿勢に,敬虔なクリスチャンとはいえ,決して教条主義的ではない優しい人間性が示されているようにも思えるのです.

ところで,私生活において,クリスティーは,最初の夫とは彼の愛人問題で離婚しています.そして,再婚相手は中東で知り合ったカトリックの考古学者でした.いささか単純すぎる想像ですが,離婚に至ってしまった最初の結婚でつらい思いをした彼女は,英国国教会の信者に留まりつつも,離婚および再婚を認めないカトリック教会に対し,こうした行為を認める自らが所属する教会よりも,上述したようにキリスト教の源流として,より強い信頼を寄せていたのかも知れません.実際,彼女は離婚後,生涯を通じて聖餐にあずかろうとはしませんでした.*12)

上記が理由だったがどうかは知りませんが,彼女のカトリックへの好意的姿勢を示す興味深い例として知られているのは,彼女は,カトリック教会におけるラテン語ミサの復活のための請願書に署名した非カトリック信者の有名人の1人だったということです.彼女たちの希望はバチカンに受け入れられ,1971年,法王パウロVI世から例外的にイングランドとウェールズにおけるラテン語ミサ(トリエントミサ)の執行の許可が正式に下されますが,この特別な許可(Indult)に,"Agatha Christie's Indult”というニックネームがつけられています.

Nick Baldrock氏によると,凡そ探偵小説と呼ばれるものにおける犯人探し(whodunit)の前提となっているのは,カトリック教会が説く原罪の概念だそうです.つまり,人はだれでも生まれながらの罪人であり,すべての登場人物が罪を於かす可能性を持っているというわけです.*13) 確かに,アガサ・クリスティーの作品は,特にそれを強く感じさせるように思えます.例えば,この後のポストで紹介する『オリエント急行殺人事件』のドラマにおいても原罪の概念が背景を構成する要素のひとつになっていると思いますが,最後の謎解きのシーンでポワロは,犯人(複数)に対し,新約聖書の『ローマ人への手紙』の中の聖パウロが述べているように,悪人に対し,人間が直接罰を与えるのではなく神の手に委ねることを説きます.*14) このように,犯人たちと探偵の間で,大げさに言えば《神学論争》が展開されるというストーリーはミステリー小説としては異例としか言いようがありません.異例と言えば,クリスティーの他の作品における犯罪の主な動機が,男女関係のもつれや家族間の遺産相続の問題などであるのに対し,『オリエント急行殺人事件』では,敢えて言うなら純粋に《復讐》,あるいは,法的枠組み外で行われる《処罰》と言えるものであるということも挙げられるでしょう.そして,その処罰の実施が,神によって許されるものなのかという《神学的》問題への解答が最後迄明確にならないままとなっています.

さて,その『オリエント急行殺人事件』における神学的問題を巡る論争についてですが,彼とは完全に異なる見解を主張する犯人たちは,皆アメリカという国のプロテスタンティズムという,ポワロにしてみれば,キリスト教の《異端》の文化に馴染んでいるか,あるいは法や宗教の教えより情緒を優先する人たちです.とりわけ,その論争の中で神によって許されない罪も存在すると断言し,彼の対極の立場に自分を置いたのは,すでに,事件後,彼による尋問において同様の発言をしたスウェーデン人のプロテスタント(ルター派?)の女性宣教師でした.また,皮肉なことに,ドラマの中で,事件が発生する前にポワロが神に祈るシーンに続いて,罰が与えられることになるイタリア系アメリカ人が祈るシーンが挿入されるのですが,こうした設定とシークェンスが暗示するように,彼も本来はポワロと同じカトリックなのでしょう.しかも,彼自身,最初のポワロとの会話で自ら神の加護を信じ,犯した罪の償いをする意思があると語っているのです.

ドラマの最後で,ロザリオを携えたポワロが,無言で積もった雪の中を歩いて行くシーンは,果たして,原罪を担っている人間という被造物が,いかに凶悪な罪であれ,その罪を犯した別の人間に,神に代わって罰を与えることが許されるのか,しかも,殺害という形で後者に罰を与えた者の裁きを,立憲君主国とは言え,事実上の独裁国家の官憲に委ねることは正しいことなのかといった問いへの答えを探す彼の葛藤と苦悩を表しているようで強く印象に残りました.

以上,この英国を代表する女流ミステリー作家が英国国教会の信者であり,カトリック教会にも好意的であったことを見てきましたが,やはり英国の女性で,政治の分野でその鉄腕を振るったサッチャー元首相というとプロテスタント系のメソジストでした.教会という組織が個人と神とのインターフェイスとして,その権限に基づいた様々な手段によって個々の信者に神からの罪の許しを得させ,彼らの救済を保証するカトリックとは異なり,プロテスタントは,神(あるいはキリスト)と信者の一対一の関係(契約)を重要視します.こうした信仰理念に基づく価値観が資本主義に大きな影響を与えたということを,マックス・ウェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で説いていることはよく知られています.ウェーバーが言及しているのは,特にカルヴァン派,つまり長老教会系プロテスタントだと思いますが,例えば,「天は自らを助くる者を助く」("Heaven helps those who help themselves.")という言葉で知られる英国の作家サミュエル・スマイルズもスコットランド改革派長老教会の家庭の出身です.メソジストと長老派と言うと多少教理的に異なる部分もありますが,結果的にはスマイルズの言葉が示すように,現世における個人の勤勉な態度,そして,それによって得られる富は神の祝福(または神から与えられる救い)の証明という理解が,これらのプロテスタントの信仰を特徴づけていることは間違いありません.このように考えると,サッチャー元首相の政治姿勢の根底にあったものも彼女の信仰,すなわちプロテスタント的理念だったようにも思えて来るのです.1人はミステリーの女王と呼ばれ,もう1人は鉄の女と呼ばれた英国の著名な2人の女性ですが,同じキリスト教とは言え,異なる信仰がそれぞれが活躍した世界に対する姿勢を決定したのだとしたら...そう考えると,改めて人間の営みにおける宗教の持つ影響力の大きさに驚きを禁じ得ません.

ところで,凡そ半世紀に亘ってベルギー人の名探偵を演じ続けたデビッド・スーシェですが,生まれがユダヤ系の彼は,ポワロシリーズが開始された1989年に英国国教(Church of England)に改宗し,ポワロの撮影の合間をぬって全聖書の朗読版を完成させています.その他,聖パウロや聖ペテロゆかりの土地を巡った番組にも案内役として登場しています.

最終シーズンの第3話『ヘラクレスの難業』("The Labours of Hercules")の撮影に使われたと思ったスイス,ルガノのモンテ・ブレ・ケーブルカーの終点,モンテ・ブレ山頂駅.しかし,確認したところ,実際に使われたのはフランスのグルノーブル近郊のこちらのケーブルカーでした.(Cf. Agatha Christie's Poirot: discover the locations of the hit detective series) さらに,舞台となったHotel Olymposは,英国のアイレスバリーのHalton Houseで,スイスのホテルではありません.また,映画やドラマのロケによく使われますが,歴史的建造物であり,特別な機会以外一般には公開されておりません.(Cf. The Labours of Hercules in Wikipedia)また,個人のブログのようですが,ポワロのドラマについて撮影場所(Location)も含め,詳しい情報を提供している "INVESTIGATING AGATHA CHRISTIE'S POIROT"やエピソード毎に撮影場所を紹介している"ON LOCATION WITH POIROT!"というサイト,さらに登場した自動車を紹介しているサイトもありましたのでお伝えしておきます.なお,Radio Timesのポワロシリーズの特集ページはこちらから.そして,鉄道ファン,特にSLファンの方のために,各エピソードに登場した機関車や客車で確認出来たものは,次の映画『オリエント急行殺人事件』(1974)に登場した車両 で紹介しています.





*1) ポワロが,聖書に精通していることも,例えば『葬儀を終えて』の中で,彼が,依頼人の弁護士が墓碑に記すべきものとして提案した言葉が,旧約聖書の詩編からの引用であるというコメントを加えていることなどから明らかです.
*2) 中世以来の騎士道の伝統を正統的に受け継いた紳士のヒーローと言えば,やはりシャーロック・ホームズでしょう.もっとも,同じ探偵小説とは言え,彼の生みの親であるコナン・ドイルの作品は,時代的に,ややゴチック的要素が含まれているので,クリスティーの作品とは別のジャンルと言えそうです.
*3) 日本語版は観ていないので,どのような訳なのか知りませんが,英語版でのポワロの台詞は,"Mademoiselle, neither you nor I are married. We may never be married. But they should be.."「彼らは,結婚するよう定められているのです.」とも訳せるかも知れません.
*4) 弱い立場に置かれた女性に対するポワロのクリスチャンとしての優しさは,『満潮に乗って』でも表れます.彼は教会の庭のベンチで,主要な登場人物の1人である若い女性の傍らに腰掛け,悲嘆にくれる彼女を次の言葉で慰めます.(括弧内は女性の台詞です.日本語版は観ていないので英語版をご紹介します.)Do you know when the priest he is buried, he is always facing his parishioners? Oui. Because when the Day of Judgement it comes, and the dead they all arise, he can greet them and lead them through the gates of Paradise. It is a beautiful idea, hm? (He shan't be leading me.) You must not say that, ma chère. Despair is a sin. (l'm cut off from the mercy of God.) No, no, no, no, no. Nobody is cut off from the mercy of God. Ever. しかし,ラストシーンで,彼は冷酷非道な真犯人に対して次の辛辣な言葉を投げつけます.(もちろん,最初のクローズは仮定なので,実際の彼の信条でないことは言う迄もありません.)If God should withhold His mercy from anyone on Earth, monsieur, it surely will be you.
*5) 『ポワロのクリスマス』の中でも,ポワロは祖国ベルギーのチョコレートを買い求め,それを味わいながら1人でクリスマスを過ごそうとします.また,『盗まれたロイヤル・ルビー』でも,やはり,1人で過ごすクリスマスのためにDu Prèsという店でチョコレートを求めますが,店名からしてベルギーのチョコレートを扱う店のような印象を与えるものの,ロンドンにそのような店が存在するか,あるいはしていたかは判りません.(ココアも彼はよく飲みます.)また,パリで評判の10人のチョコレート職人はL'EXPRESSのこちらのページで紹介されています.
*6) もうひとつ,ロシアから亡命した女性が登場する作品があります.『あなたの庭...』と同様,"Poirot's Early Cases"に収録されている『二重の手がかり』("Double Clues")です.自伝も読んでいないので,軽率なことは言えないのですが,ことによると,クリスティーは,これらの作品の中に登場する祖国を追われたロシア人女性に,執筆当時の自らのつらい身の上を重ねていたのかもしれません.というのは,彼女が最初の夫に離婚を要求されたのが1926年(離婚が成立したのは1928年.)であり,『二重の手がかり』が発表されたのが1923年,そして『あなたの庭...』は,1932年と離婚の前後に書かれているからです.

*7)  『ハロウィーン・パーティー』という作品は,舞台設定のせいもあると思いますが,全シリーズを通して特に宗教的色彩を強く感じさせる仕上がりとなっています.そこでは,全編を通して正統なキリスト教と異教との対立が描かれているように見えます.最初の殺人は,異教の風習の名残りであるハロウィーンの夜に起こり,さらに,犯罪には絶えず魔女や異教の神を信奉するギリシャといった要素への関連づけがされています.また,犯罪の被害者の母親は経験なクリスチャンであり,堪え難い不幸の犠牲となった自分を旧約聖書の『ヨブ記』のヨブになぞらえ,彼女と牧師との会話で,その一部がかなり長く引用されますが,こうしたことも探偵小説としては異例のように思えます.そして,この作品を締めくくるのが,ポワロの,ハロウィーン(正しくは,翌日の万聖節)とは本来,死者を追悼する日であるという台詞であることも,この作品の宗教的色彩をさらに濃くしているように感じられます.
*8) クリスティーのカトリック教会に対して好意を示しつつも,英国に対する忠誠を優先する姿勢は,元々カトリックである北アイルランドの独立運動を背景とした『誘拐された総理大臣』("The Kidnapped Prime Minister")に表れているようにも思えます.
*9) 英語版では,"..., you talk of the continued peace of this nation, huh? Oh, yes, that is very good. But Poirot is not concerned with nations. Poirot is concerned with private individuals, who have the right not to have taken from them their lives."ですが,文末近くの"from them"を国家,つまり"nations"と解釈することも可能のような気がします.さらに,これに類する思想が,『複数の時計』におけるポワロの次の台詞に表れているように思えます."And I tell you monsieur that I value the weak liberal England, as you call it, as a country well worth the fighting for." ドイツと戦争状態に陥った際,重要な軍事機密をドイツへ伝えることでドイツの勝利を早め,英国側の犠牲をできるだけ少なくすることこそ愛国的行為と主張する犯人たちに対し,ポワロは,彼らが(軍事的に)弱く自由な英国と呼ぶ国も,そのために戦う価値があると強い口調で反論します.彼のこの言葉の背景には,祖国を追われる原因を作ったナチス・ドイツへの憎しみがあることは疑う余地はありませんが,同時に,個々人の生きる権利が尊重され守られる国というのが彼が《自由な英国》という言葉に込めた意味のように感じられます.
*10) ラストの乗客達が下船する場面の直前に,犯人の1人である女性とポワロが会話するシーンが挿入されています.そのときの彼女の言葉"Do you remember when I said I must follow my star? It's finally burned out, hasn't it?"から,すでにポワロは犯人が自殺をすることを予見していたような印象を与える演出となっています.そして,上陸後,犯人はポワロに共犯者との最後のキスをすることへの許可を求め,ポワロはうなづきますが,実質的に彼らの自殺の容認を意味していたことはあきらかです.そして,彼らが自殺したあと,ポワロが発した言葉は,"It is not always that simple."(日本語版では,「単純には割り切れません.」)でした.
*11) ポワロと犯人との個人的な関係も影響しているとは思いますが.
*12) 元々,英国国教会(Church of England)は,英国王ヘンリーVIII世が妃のキャサリンとの離婚を当時の法王クレメンスVII世が認めなかったため,自国のカトリック教会を伝統的ローマ・カトリック教会から分離独立させたことにより成立した教会です.なお,アガサ・クリスティーの作品のキリスト教的性格については,First Thingsというサイトに2009年8月4日付でNick Baldock氏が"The Christian World of Agatha Christie"という興味深い記事を書いています.同氏は,その中で,彼女が少女時代に学校で算数の教師から聴き,生涯に亘って影響を受けたという次の言葉を彼女の自伝から引用していますが,とりわけ離婚という彼女のつらい経験を思うとき,この言葉の意味が強く迫ってくる気がします.

"All of you,” she said, “every one of you”will pass through a time when you will face despair. If you never face despair, you will never have faced, or become, a Christian, or known a Christian life. To be a Christian you must face and accept the life that Christ faced and lived; you must enjoy things as he enjoyed things; be as happy as he was at the marriage at Cana, know the peace and happiness that it means to be at harmony with God and with God’s will. But you must also know, as he did, what it means to be alone in the Garden of Gethsemane, to feel that all your friends have forsaken you, that those you love and trust have turned away from you, and that God Himself has forsaken you. Hold on then to the belief that that is not the end. If you love, you will suffer, and if you do not love, you do not know the meaning of a Christian life . . . . years later [those words] were to come back to me and give me hope at a time when despair had me in its grip.”(日本語訳は,恐れ入りますが,ハヤカワ文庫などの『アガサ・クリスティー自伝』をご参照ください.)
ふと目にしたアガサ・クリスティーの公式サイトに以下の彼女の言葉が掲載されていたので,こちらもご紹介します.彼女は,とても幸福な少女時代を過ごしたようですね.)

"One of the luckiest things that can happen to you in life is to have a happy childhood. I had a very happy childhood."
*13) Idem.
*14) 『五匹の子豚』("Five Little Pigs")のラスト・シーンのポワロの台詞「...裁きはきっと行われます.」(英語版では,"... justice may still be done.")も,彼の同様の考えを示していると思われます. こうした,悪人には,いつか正義によって罰が下されるという思想は,『ゴルフ場殺人事件』で謎解きをするポワロの「ここで,彼が長年逃れて来た正義が,彼を捕えました. 裁きの時が,ついに来たのです.一本の手が,彼を背後から刺しました.」という言葉にも見ることができます.ただ,英語版では"Only then the justice, which he had for so long eluded, overtakes him. Fantasy is made reality. An unknown hand stabs him in the back."となっており,厳密に言えば,イタリックの「(欺瞞としての)作り話が現実となった.」といった意味の箇所が,日本語版では訳されておらず,「裁きの時が,ついに来たのです.」という文で置き換えられています.

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