確かに評判通りの見ごたえのある映画でした.特に冒頭から中盤にかけてのゴジラ出現を受けての行政,自衛隊の対応シーンの臨場感は見事としか言いようがありませんでした.ただ,首相をはじめとして閣僚たちが死亡,あるいは行方不明となってからの展開は,その前の部分が際立った現実味を帯びていたため,逆に虚構性が目立ってしまい,作品全体としてなんともちぐはくな出来栄えとなってしまったのは残念です.SF映画というものは,一旦,観る側が虚構性を強く意識してしまうと,作品に描かれている出来事を追体験できなくなり,それから距離を置き,客観的な批判の対象としてしまうものなのです.別の言い方をするならば,映画は,ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』の中で定義している’遊び’を架空の世界に創り出し,それを観客に追体験させるものと言えます.ホイジンガによると'遊び'には日常から切り離された時空とその時空を支配するルールが必要です.そして,そのルールには一貫性,整合性が無くてはならないのですが,『シン・ゴジラ』では,それが欠けてしまっています.ようするに,この映画は,最初はサッカーだったものが,後半からラグビーになってしまったような作りとなっています.
虚構性を最初に感じたのは,主人公のゴジラ撃滅特命大臣の元に設置された省庁横断のタスクチームのメンバーの言動,行動が現実離れしている,すなわち不自然であるように思えたためです.ようするに,彼らが普段まず目にすることはないだろうという変わった面々なのです.ロボットのような話し方をする女性などは,その典型ともいえるものです.そのような人々が一つの部屋に集まっている光景はまさにオタクの集団と形容できるもので,一瞬で興ざめしてしまいました.(別にオタク自体が悪いということではありません.不肖私も蒸気機関車オタクです.) そして,もうひとつ,虚構性を強く感じさせたのはアメリカ政府から派遣された日系人女性特使です.どうせなら,本当の日系二世の俳優を使えばよかったのに,何故か日本人俳優を使っています.その仕草が名門の出のお嬢さんといったステレオタイプそのもので,さらに興ざめしてしまいました.そして,この作品のストーリー展開について,一挙に様々な疑問が湧いてきました.つまり,この時点で,『シン・ゴジラ』は,私にとって娯楽の対象ではなく,客観的な批判の対象となってしまったのです.すなわち,上記のオタクの集団と日系人女性特使の登場で映画は,あたかもコンピューターゲームのような展開となり,それまで強かった現実性のゆえに逆に虚構性が一層強く感じられるようになってしまったのです.第一作目のゴジラでは,作品全体を貫く強い現実性により虚構性が観る側の意識の彼方に追いやられていました.その理由のひとつとして挙げられるのは,最も弱い立場に置かれた国民たちを襲った悲劇のひとつひとつが真近からしっかりと描かれていたからでしょう.被害に遭った船舶の乗組員の家族たちの不安と焦燥,彼らに詰め寄られる海上保安庁職員の対応,最初の上陸地,大戸島で犠牲となった政治(まさじ)とその母親,嵐の中で彼らを必死に呼び続ける新吉(後に尾形に引き取られる).避難できず死を覚悟する母子家族.そして,ゴジラに対峙する防衛隊と警戒本部との悲痛な交信.そして,何と言っても極めつけは,野戦病院のような臨時の救護所で恵美子に抱かれ,泣きながら母を呼ぶ被爆した少女と言えます.これらの人々が,いやがおうにも作品の現実性を高めていました.
さて,上で述べた『シン・ゴジラ』のストーリー展開に関する疑問のひとつめは,ゴジラが日本に上陸する蓋然性です.そもそもゴジラが食べたという放射性廃棄物とは何処に廃棄されたものだったのか.日本近海だったのか.仮に日本近海であったとしても,必ずしも日本に上陸する必要があったのか.この疑問に対する説明は全くありませんでした.その点,第一作目のゴジラでは,大戸島の島民たちが国会の特別委員会で被害の模様を報告した際,山根博士は,ゴジラが大戸島に(やがては日本本土に)上陸した理由として,度重なる水爆実験の結果,安住の地を追い出されたと述べています.しかも,同作品では,最初に被害を受けたのは付近を航行中の船舶でした.そして,大戸島,やがて日本本土への上陸というように,敢えて言うならば,ゴジラの凶暴性が増し加わってゆくような描き方がなされています.また,海中のゴジラを探知するのに無人対潜哨戒艇(ACTUV)を使えたのではないでしょうか.
疑問のふたつめは,アメリカ政府およびアメリカ軍の介入が際立って少ないということです.ゴジラが稲村ケ崎へ上陸しますが,周辺には横須賀,座間,厚木,瀬谷などの米軍基地及び施設があります.日本には米軍将兵の家族41,695人ほどが暮らしているそうですが,沖縄が最も多いとしても,関東地域に暮らしている家族もかなりの数にのぼるでしょう.そんなところに,あんな怪物が姿を現したら,アメリカ政府は直ちに空母等を使って軍人の家族や軍属たちに対し本国送還の措置を講じるでしょう.また,今回登場したゴジラは,背びれからも強力な破壊光線を照射するようですが,日本の首都圏上空は横田基地の管制空域であり,実質的に飛行禁止空域です.そこを飛行する軍用機に対し,そのような潜在的な脅威が存在することに対し,アメリカ軍が黙っていることは絶対にありえません.
疑問のみっつめは,ゴジラを凍結するために凍結材を口に流し込みますが,一応生物として呼吸をしているのであれば,睡眠状態であるなら食道の入り口は閉じているはずではないかということです.仮に食道の入り口が開いていたとしても,そこから注入された冷却材が胃,腸を経たのち血管を通じて全身に行き渡れるのか,大いに疑問です.いずれにせよ,ゴジラのどの部分がエネルギー源なのかの説明もありません.全身を凍結させるのであれば,貫通爆弾のようなものを使って冷却材を注入したほうがよかったのではないでしょうか.凍結材についてさらに言えば,何故外国から輸入しようとしないのか不思議です.ゴジラの遺伝情報を解明するために各国のコンピューターを接続しクラウドとして用いているのに,凍結材の増産のために他国に協力を要請しない理由が判りません.
疑問のよっつめは,凍結に成功したゴジラを何故すぐに攻撃しないのかということです.アメリカ軍が直ちに核攻撃に踏み切ったとしてもおかしくありません.そういえば,ゴジラの攻撃には自衛隊の最新兵器が用いられていますが,もし,命中精度が高いのであれば,ゴジラの眼を狙うべきでしょう.
疑問のいつつめは,列車爆弾の非合理性です.鉄道ファンとしてさすがに呆れました.はっきり言って,車両の無駄遣いです.どのみち脱線ししてしまうわけだし,先頭の爆薬を装填した車両の爆破効果以外は,ほかの車両による打撃効果はほとんどないでしょう.どうしても,こうした方法で攻撃したいのであれば,コキ,ワキ,ホキ,タキなどの重い貨車1両か2両に爆薬を装填し,ディーゼル機関車(架線が破損する恐れがあるので)で推進運転をして突っ込ませればある程度の効果があるかもしれません.もっとも,その際には機関車が自動運転が可能か,そうでなければDF50のような貫通扉を備えた車両でその後ろにやはり貫通扉付きの運転台付きキハ185などを連結して,直線区間に入ったらマスコンを全開にしてキハに乗り移って機関車から切り離して逃げるしかないでしょう.あるいは,貨車を連結しないで機関車で推進運転し,目標に一定距離近づいた時点で機関車に急ブレーキをかけるかといったところでしょうか.いずれにせよ,そもそも民間企業の動産,不動産を自衛隊の作戦のために提供させることが,さらに民間人をこのようなオペレーションに参加させることが,法律的に許されるのか疑問です.
他にも疑問はありますが,きりがないのでこの辺りでやめておきますが,ここで,第一作目のゴジラが私のような日本の伝統的な精神文化の中で育てられたものにとって何故しっくりくるのか,個人的な考えをご披露すると,最初のゴジラのストーリーの構造は能と同じだからであると言えます.ゴジラは,水爆実験の犠牲となった怨霊,つまりシテです.そこには原爆や水爆実験の犠牲となった人々の怨念も含まれているでしょう.そして,そのゴジラを理解しようとするワキが山根博士です.ただ,この映画にはもう一人ワキが登場します.芹沢博士です.後者は自らを人柱としてゴジラをかつてのその安住の地,海中で葬ります.つまり彼岸へ送るわけです.最後の場面を貫いて流れるレクイエムは,こうした展開だからこそ私たちの心を打つのです.ゴジラは,この怪物に憑依しているといっても過言ではないあまたの原爆,水爆の犠牲者の怨霊とともに安住の地に葬り去られるわけです.なお,第一作目のゴジラでは,放射能火炎を吐く前に背ビラが光りますが,口から炎を吐くというのは,ギリシャ神話や西洋の伝説にヒントを得ているのでしょうが,夜空に不気味に光る背びれは雷を連想させます.雷と言えば,日本の最強の怨霊である菅原道真公の怨霊,天皇さえ殺害したという火雷天神の武器です.
最後に,『シン・ゴジラ』の主人公である現場の責任者について所管を述べておしまいにしたいと思います.正直に言って,あのような人間,とりわけ政治家がいたら非常に恐ろしいことだと思います.考え方や行動が自衛隊の制服組より軍人的であり,ゴジラの体内で起こっている核融合のようなものを人類にとっての福音(ευαγγέλιο)とまで言い切る政治家を選出する選挙区は一体どこなのでしょう.第一作目のゴジラでは核は絶対悪として描かれました.芹沢博士は,オキシジェンデストロイヤーについて言っています.「原爆対原爆,水爆対水爆,そのうえこの恐怖の武器を人類のうえに加えることは,科学者として,いや一個の人間として許すわけにはいかない.」と. 『シン・ゴジラ』の主人公がいうようなゴジラと人類の共存など,芹沢博士や山根博士にとってはありえないことなのです.『シン・ゴジラ』の主人公は,確かにゴジラへの核攻撃を避けさせることに成功します.しかし,だからといって真のステーツマンとして国民のことを本当に大事に思っているのかその疑問を払拭してくれるシーンはありません.率直に言って,独善的な人間ではないのか,そして,結局は国民をそっちのけにして自らが勝手に描く理想の国家を築こうとするタイプの政治家ではないのか,そういった疑念が頭をよぎりました.つまり,どこか現総理大臣に通じる部分が無きにしもあらずです.加えて,登場する閣僚を含む文官公務員は自らの保身と出世を,タスクフォースのオタク集団はゲームを楽しむことを目的として行動しているように見えます.これらの人々が活躍する『シン・ゴジラ』,まさに時代を映した映画なのかもしれません.
虚構性を最初に感じたのは,主人公のゴジラ撃滅特命大臣の元に設置された省庁横断のタスクチームのメンバーの言動,行動が現実離れしている,すなわち不自然であるように思えたためです.ようするに,彼らが普段まず目にすることはないだろうという変わった面々なのです.ロボットのような話し方をする女性などは,その典型ともいえるものです.そのような人々が一つの部屋に集まっている光景はまさにオタクの集団と形容できるもので,一瞬で興ざめしてしまいました.(別にオタク自体が悪いということではありません.不肖私も蒸気機関車オタクです.) そして,もうひとつ,虚構性を強く感じさせたのはアメリカ政府から派遣された日系人女性特使です.どうせなら,本当の日系二世の俳優を使えばよかったのに,何故か日本人俳優を使っています.その仕草が名門の出のお嬢さんといったステレオタイプそのもので,さらに興ざめしてしまいました.そして,この作品のストーリー展開について,一挙に様々な疑問が湧いてきました.つまり,この時点で,『シン・ゴジラ』は,私にとって娯楽の対象ではなく,客観的な批判の対象となってしまったのです.すなわち,上記のオタクの集団と日系人女性特使の登場で映画は,あたかもコンピューターゲームのような展開となり,それまで強かった現実性のゆえに逆に虚構性が一層強く感じられるようになってしまったのです.第一作目のゴジラでは,作品全体を貫く強い現実性により虚構性が観る側の意識の彼方に追いやられていました.その理由のひとつとして挙げられるのは,最も弱い立場に置かれた国民たちを襲った悲劇のひとつひとつが真近からしっかりと描かれていたからでしょう.被害に遭った船舶の乗組員の家族たちの不安と焦燥,彼らに詰め寄られる海上保安庁職員の対応,最初の上陸地,大戸島で犠牲となった政治(まさじ)とその母親,嵐の中で彼らを必死に呼び続ける新吉(後に尾形に引き取られる).避難できず死を覚悟する母子家族.そして,ゴジラに対峙する防衛隊と警戒本部との悲痛な交信.そして,何と言っても極めつけは,野戦病院のような臨時の救護所で恵美子に抱かれ,泣きながら母を呼ぶ被爆した少女と言えます.これらの人々が,いやがおうにも作品の現実性を高めていました.
さて,上で述べた『シン・ゴジラ』のストーリー展開に関する疑問のひとつめは,ゴジラが日本に上陸する蓋然性です.そもそもゴジラが食べたという放射性廃棄物とは何処に廃棄されたものだったのか.日本近海だったのか.仮に日本近海であったとしても,必ずしも日本に上陸する必要があったのか.この疑問に対する説明は全くありませんでした.その点,第一作目のゴジラでは,大戸島の島民たちが国会の特別委員会で被害の模様を報告した際,山根博士は,ゴジラが大戸島に(やがては日本本土に)上陸した理由として,度重なる水爆実験の結果,安住の地を追い出されたと述べています.しかも,同作品では,最初に被害を受けたのは付近を航行中の船舶でした.そして,大戸島,やがて日本本土への上陸というように,敢えて言うならば,ゴジラの凶暴性が増し加わってゆくような描き方がなされています.また,海中のゴジラを探知するのに無人対潜哨戒艇(ACTUV)を使えたのではないでしょうか.
疑問のふたつめは,アメリカ政府およびアメリカ軍の介入が際立って少ないということです.ゴジラが稲村ケ崎へ上陸しますが,周辺には横須賀,座間,厚木,瀬谷などの米軍基地及び施設があります.日本には米軍将兵の家族41,695人ほどが暮らしているそうですが,沖縄が最も多いとしても,関東地域に暮らしている家族もかなりの数にのぼるでしょう.そんなところに,あんな怪物が姿を現したら,アメリカ政府は直ちに空母等を使って軍人の家族や軍属たちに対し本国送還の措置を講じるでしょう.また,今回登場したゴジラは,背びれからも強力な破壊光線を照射するようですが,日本の首都圏上空は横田基地の管制空域であり,実質的に飛行禁止空域です.そこを飛行する軍用機に対し,そのような潜在的な脅威が存在することに対し,アメリカ軍が黙っていることは絶対にありえません.
疑問のみっつめは,ゴジラを凍結するために凍結材を口に流し込みますが,一応生物として呼吸をしているのであれば,睡眠状態であるなら食道の入り口は閉じているはずではないかということです.仮に食道の入り口が開いていたとしても,そこから注入された冷却材が胃,腸を経たのち血管を通じて全身に行き渡れるのか,大いに疑問です.いずれにせよ,ゴジラのどの部分がエネルギー源なのかの説明もありません.全身を凍結させるのであれば,貫通爆弾のようなものを使って冷却材を注入したほうがよかったのではないでしょうか.凍結材についてさらに言えば,何故外国から輸入しようとしないのか不思議です.ゴジラの遺伝情報を解明するために各国のコンピューターを接続しクラウドとして用いているのに,凍結材の増産のために他国に協力を要請しない理由が判りません.
疑問のよっつめは,凍結に成功したゴジラを何故すぐに攻撃しないのかということです.アメリカ軍が直ちに核攻撃に踏み切ったとしてもおかしくありません.そういえば,ゴジラの攻撃には自衛隊の最新兵器が用いられていますが,もし,命中精度が高いのであれば,ゴジラの眼を狙うべきでしょう.
疑問のいつつめは,列車爆弾の非合理性です.鉄道ファンとしてさすがに呆れました.はっきり言って,車両の無駄遣いです.どのみち脱線ししてしまうわけだし,先頭の爆薬を装填した車両の爆破効果以外は,ほかの車両による打撃効果はほとんどないでしょう.どうしても,こうした方法で攻撃したいのであれば,コキ,ワキ,ホキ,タキなどの重い貨車1両か2両に爆薬を装填し,ディーゼル機関車(架線が破損する恐れがあるので)で推進運転をして突っ込ませればある程度の効果があるかもしれません.もっとも,その際には機関車が自動運転が可能か,そうでなければDF50のような貫通扉を備えた車両でその後ろにやはり貫通扉付きの運転台付きキハ185などを連結して,直線区間に入ったらマスコンを全開にしてキハに乗り移って機関車から切り離して逃げるしかないでしょう.あるいは,貨車を連結しないで機関車で推進運転し,目標に一定距離近づいた時点で機関車に急ブレーキをかけるかといったところでしょうか.いずれにせよ,そもそも民間企業の動産,不動産を自衛隊の作戦のために提供させることが,さらに民間人をこのようなオペレーションに参加させることが,法律的に許されるのか疑問です.
他にも疑問はありますが,きりがないのでこの辺りでやめておきますが,ここで,第一作目のゴジラが私のような日本の伝統的な精神文化の中で育てられたものにとって何故しっくりくるのか,個人的な考えをご披露すると,最初のゴジラのストーリーの構造は能と同じだからであると言えます.ゴジラは,水爆実験の犠牲となった怨霊,つまりシテです.そこには原爆や水爆実験の犠牲となった人々の怨念も含まれているでしょう.そして,そのゴジラを理解しようとするワキが山根博士です.ただ,この映画にはもう一人ワキが登場します.芹沢博士です.後者は自らを人柱としてゴジラをかつてのその安住の地,海中で葬ります.つまり彼岸へ送るわけです.最後の場面を貫いて流れるレクイエムは,こうした展開だからこそ私たちの心を打つのです.ゴジラは,この怪物に憑依しているといっても過言ではないあまたの原爆,水爆の犠牲者の怨霊とともに安住の地に葬り去られるわけです.なお,第一作目のゴジラでは,放射能火炎を吐く前に背ビラが光りますが,口から炎を吐くというのは,ギリシャ神話や西洋の伝説にヒントを得ているのでしょうが,夜空に不気味に光る背びれは雷を連想させます.雷と言えば,日本の最強の怨霊である菅原道真公の怨霊,天皇さえ殺害したという火雷天神の武器です.
最後に,『シン・ゴジラ』の主人公である現場の責任者について所管を述べておしまいにしたいと思います.正直に言って,あのような人間,とりわけ政治家がいたら非常に恐ろしいことだと思います.考え方や行動が自衛隊の制服組より軍人的であり,ゴジラの体内で起こっている核融合のようなものを人類にとっての福音(ευαγγέλιο)とまで言い切る政治家を選出する選挙区は一体どこなのでしょう.第一作目のゴジラでは核は絶対悪として描かれました.芹沢博士は,オキシジェンデストロイヤーについて言っています.「原爆対原爆,水爆対水爆,そのうえこの恐怖の武器を人類のうえに加えることは,科学者として,いや一個の人間として許すわけにはいかない.」と. 『シン・ゴジラ』の主人公がいうようなゴジラと人類の共存など,芹沢博士や山根博士にとってはありえないことなのです.『シン・ゴジラ』の主人公は,確かにゴジラへの核攻撃を避けさせることに成功します.しかし,だからといって真のステーツマンとして国民のことを本当に大事に思っているのかその疑問を払拭してくれるシーンはありません.率直に言って,独善的な人間ではないのか,そして,結局は国民をそっちのけにして自らが勝手に描く理想の国家を築こうとするタイプの政治家ではないのか,そういった疑念が頭をよぎりました.つまり,どこか現総理大臣に通じる部分が無きにしもあらずです.加えて,登場する閣僚を含む文官公務員は自らの保身と出世を,タスクフォースのオタク集団はゲームを楽しむことを目的として行動しているように見えます.これらの人々が活躍する『シン・ゴジラ』,まさに時代を映した映画なのかもしれません.
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