Friday, 31 August 2012

地中海に消えたロンドン五輪出場の夢

ソマリアというと,すでに弊ブログ*1)において取り上げたように,2012年の失敗指数(Failed States Index)が,調査対象国中最も高く,コンゴ共和国と共に,生活環境の危険度がもっとも高い(Very High Alert)という評価を得ている国です.

それだけ多くの問題を抱え,人々が安心して暮らせる環境が整っているとは到底思われないソマリアですが,実は,前回のオリンピック北京大会には,ニ名からなる選手団を参加させています.

その内の一人,サーミヤ・ユスフ・オマール(Saamiya Yusuf Omar)さんは,女子陸上の選手で,開会式では旗手を務めました.そして,出場した200mでは,残念ながら,最下位となりましたが,そのゴールインの瞬間,観客全員が拍手して彼女の健闘を讃えました.

イスラム原理主義者によって支配されるソマリアでは,彼女のような女性のスポーツ選手は白い目で見られがちですが,そうした境遇も含め,様々なハードルを乗り越えつつ訓練に励み,彼女は北京の競技場で世界のトップランナーたちと走る機会を得たのでした.

彼女は,ソマリアの内戦が始まった1991年,モガディシオで生まれました.お父さんは,彼女が子供の頃,路上で殺害されたそうです.彼女の下には,6人の弟や妹がいました.

「世界のトップランナーたちと行進するのは,本当に素晴らしい経験でした.」彼女は,北京大会に出場したとき,インタビューされ,そう答えました.しかし,その後,彼女が持ち続けていたはずの次回のオリンピック出場の夢は,実現する事はありませんでした.

彼女が,地中海上で亡くなったことを伝えたのは,元ソマリアのオリンピック選手で,1987年のローマ大会の男子陸上1500mに出場し,ソマリアにとって唯一の金メダルを獲得したアブディ・ビレ(Abdi Bile)さんでした.アブディさんは,ソマリアのオリンッピック委員会との会見の席上,嗚咽で声を震わせながら,今年の4月,サーミヤさんが,彼女たちを乗せ,リビアからイタリアに向かって出航したボートの上で息を引き取ったと語りました.ロンドンオリンピック開催のわずか4ヶ月ほど前,スポーツを唯一の心の支えとして,つらい境遇を生き抜き,新しい世界で自分の可能性に挑戦することを夢見た21歳のアスリートを襲った悲劇でした.

今年のロンドン大会の参加国リストにソマリアは含まれていませんが,参加したアスリートの中に,ソマリア出身者がいました.男子陸上5000mと10000mで優勝した,モ・ファラ(Mo Farah)選手です.彼は,亡命先の英国の選手として出場し,一躍受け入れ国のヒーローとなりました.

Fortress Europeというブログによると,自由や安全,そして,より高い生活の質を求め,また,時には,サーミヤさんのように,その夢を実現するためにヨーロッパに渡ろうとして地中海上で命を落とした人の数は,過去20年間で,18000名にも上るそうです.その中には,私が滞在したアルジェリアの人たち*2)も含まれる事はいうまでもありません.

("Des JO à la mort, la tragédie de Saamiya la Somalienne" in 2012年8月22日付電子版Le Mondeより)


*1) cf. 失敗指数(Failed States Index)と獲得メダル数の関係をみてみると
*2) アルジェリアからヨーロッパに渡るため違法出国を試みる人々は,ハラガ(Haraga)と呼ばれ,年々其の数を増やしている.

Arte+7で視聴可 "ドイツ,シュライ(Schlei)地方の四季"

ドイツの北の端,デンマークとの国境近く,北海が入り込むシュライ地方*1)の美しい四季の変化を記録したリポルタージュです.インターネットを通じて日本でも一週間(先日,再放送されたため,2014年1月10日現地時間9時まで)無料で視聴可能です.フランス語,あるいはドイツ語で視聴できます.(時間:43分)


 *1) テオドール・シュトルムの故郷フーズムと同じシュレスビヒ・ホルシュタイン州に属する.

Thursday, 30 August 2012

2013年は,世界記録樹立75周年!?

鉄道ネタが続いて相済みません.

先日,懇意にしていただいてる,欧州での勤務経験が豊富な方から,汽車が好きなら是非英国に行くべきとのお勧めをいただきました.昔,『機関車トーマス』は観ていましたが,他の用事を兼ねてならともかく,汽車を観るためだけに海峡を越えることには,いまだに些かのためらいを覚えています.とはいえ,とりあえずは,ガイドブックだけでも購入しておこうと,日本でも,英国の保存鉄道マニアたちの間でバイブルとされている,"Railways Restored"の2012年版を購入しました.ページをめくると,見るからにマニア向けの内容で,もっぱら文字ばかり.私のような横着な鉄道好き旅行者には,少々専門的過ぎるものでした.とはいえ,30年もの長期にわたり毎年版を更新し続けている伝統の一冊だけに,アイルランドと全英国に存在する保存鉄道および関連施設が網羅され,巻末には,年間の行事予定も記載されていて,腰を据えてじっくりと英国の保存鉄道を尋ね歩くにはまさに必携の書です.私の場合は,そこまではのめりこめないので,鉄道写真の日めくりカレンダー"Faszination Eisenbahn 365 Fotos"*1) *2)の中で,英国の保存鉄道が出て来たら,それについてのくわしい情報をこのガイドブックの中で確認してみようかと思っています

恐らく,これまでドイツの保存鉄道巡りに携行した"Allzeit gute Reise!"*2)が,その豊富な地図と写真で,どこをどんな保存列車が走っているのか一瞥しただけで判るように編集されているため,それに慣れてしまっていたようです.(ドイツ語を知らなくても使えると思えるほど,親切なガイドブックです.実際,私もあまり内容を詳しく読んでいません.) なお,ドイツ語圏三か国(ドイツ・スイス・オーストリア)の保存鉄道については,今年10月に,"Museumsbahnen:250 historische EIsenbahnstrecken in Deutschland, Österreich und der Schweiz"*2)の発刊が予定されているので(すでに,Amazon.deで予約しました),どんな内容なのか,手にするのが楽しみです.

前置きが長くなりましたが,来年2013年は,蒸気機関車としての世界最高速度記録保持車(126mph),英国のマラード号(Mallard: A4形)がこの記録を樹立した1938年から数えて丁度75年目(3/4世紀)にあたるということで,この英国が誇る美しいパシフィック(2C1)が保存されているヨークの国立鉄道博物館(National Railway Museum)で,それをお祝いするさまざまな行事の開催が予定されています.

その目玉といえるのが,世界に現存する6両の同形機,つまり,マラード号とその5台の姉妹機の同博物館における一斉披露.ただ,実際に,これらのマシンが一堂に会すのは,2014年になるようですが.以下は,現存するA4形機の所在地です.英国にあるものは,マラード号を除き,全機動態保存(operational)されているようです.(国立鉄道博物館のサイトより) なお,マラード号は,この栄えある機会に塗装は新しくされますが,ボイラーへの火入れは行われないそうです.
  
  • Mallard: National Railway Museum, York, UK
  • Union of South Africa: UK, operational
  • Sir Nigel Gresley: UK, operational
  • Bittern / Dominion of New Zealand: UK, operational
  • Dominion of Canada: Montreal, Canada
  • Dwight D Eisenhower: Wisconsin, USA

詳しいことは,NRMのサイトをご覧ください.
http://www.nrm.org.uk/


ハイルブロン鉄博の扇形庫内 023(左)*3)と231K(右)
 
231Kの側面 フランス国鉄の美しいパシフィック


*1) 曜日が記されていないため,永久に使おうと思えば使える.日本の新幹線なども含め,世界各地の鉄道の写真が掲載されている.(2010年10月発行)
*2) Railways Retoredは,Amazon.co.ukにて,他のドイツ語のガイドブック及び鉄道日めくりカレンダーは,すべてAmazon.deにて購入可能.(最近は,アマゾンのみならず,欧州からの小包は,以前に比べ,比較的早く届くようになったように思います.)
*3) D51などと同じ軸配置(1D1)のスマートな二気筒旅客列車用機関車.動輪直径は,1750mm. 好きな形式の一つです.

帝国海軍所属仮装巡洋艦信濃丸(旧日本郵船所有貨客船)宛連合艦隊司令長官ノ感状

感状

假装巡洋艦信濃丸

明治三十八年五月中敵艦隊ノ北上ニ對シ連日連夜哨戒勤務ニ服シ同月二十七日佛曉早クモ敵艦隊ヲ發見シ其確實迅速ナル警報ハ聯合艦隊ノ作戰ヲ利セシコト少ナカラス其功績大ナリトス仍テ茲ニ感状ヲ授與スルモノナリ

明治三十八年六月二十日

聯合艦隊司令長官東郷平八郎




KANJO

Converted Cruiser "Shinano Maru"

During the month of May in the 38th year of Meiji (1905) the Converted cruiser "Shinano Maru" was on guard, watching for the approach of the enemy's squadron, which she sighted at early dawn on the 27th of that month. The trustworthy and prompt warning given by her, materially benefitted the strategic  measures of the Combined Fleet. In appreciation of the highly meritorious services thus rendered this Kanjo is now granted.

(Signed) Togo Heihachiro
Commander-in-Chief of the Combined Fleet

20th June of the 38th year of Meiji (1905)


(The both texts, Japanese and English, are of the copy exhibited in the Nippon Yusen Kaisha Maritime Museum in Yokohama, Kanagawa, Japan. )

日本人として,正しく綺麗な日本語は勿論ですが,できれば,正しい英語をも身につけたいものですね.上掲の二文は,先日訪れた日本郵船歴史博物館で展示されていた写しの文面です.日本語の文とその英訳のお手本のひとつとして,写させていただきました.一点だけ,面白いと思ったのは,連合艦隊の訳語として,"Combined Fleet"が使われている事.文字通り,連合艦隊の意味ですが,確か,太平洋戦争中,海軍内においては,"GF"(=Grand Fleet)が使われていたと思います.但し,正確さから言うと,日本の連合艦隊の訳語としては,やはり"Combined Fleet"を用いた方が適切に思えます.

明治期において,知識層に属する人(旧武士層)は,基本的に皆,候文は勿論,漢文の読み書きもできました.開国以降日本に上陸した米英のプロテスタント宣教師たちが,多くの士族たちと接触がもてたのも,前者の中に,中国で布教活動に携わり,中国語に精通していた人(例えば,ヘボン博士)がいたからに他なりません.実質的なクーデータ政権とはいえ,政府中枢にいた人たち,そして,官僚,軍人たちのなかには,候文,漢文,そして英文を正しく読み書きできる人たちが少なからずいたのです.彼らにしてみれば,ごく普通の事だったとは思いますが,現代から視るとうらやましい限りです.そして,世界に例のない斯くも豊かな言語的遺産を受けついでいたからこそ,明治期の三遊亭円朝以降の言文一致体の文学作品にしても,美しい日本語で綴られていたのだと思います.ただ,忘れてはならないのは,明治維新以前と以後とでは,このような,前代との連続性が存在していたのも事実ですが,同時に,それまでの哲学や歴史を学問の中心に据えて来た教育の伝統と決別し,それ迄は遊芸として,前者に比べ低く位置づけされてきた実学を重視する姿勢への転換も起こったということです.こうした,前代との不連続性,または断絶は,万国対峙を国家スローガンとして掲げる新政府のみならず,福沢諭吉を始めとする,当時野にある知識人たちによって奨励された,新しい日本人の姿勢に備わるべき特徴だったのです.

歴史的に視て,実際,日本人は,例えば戦争における敗北のような,劇的な環境の変化を経験するたびに,それまで自らの文化には存在しなかった外来の要素を驚くべき適応性をもって導入することで,生き延びてきました.古くは,天武天皇の時代,律令制度導入のきっかけとなったのも,唐と新羅の連合軍との戦いにやぶれたことであり,また,明治維新以降の,列強と比肩しうる軍事大国の構築を目指した明治政府による西洋文明のどん欲な迄の摂取にも,間接的には,アヘン戦争における清国の敗北も影響したことも事実ですが,直接的には,新政権の中心を占める薩長両藩の,幕末期,前者は薩英戦争,後者は馬関戦争で英国を始めとする四か国の連合艦隊との戦いにおける完敗の経験が,その背景にありました.*1)  そして,魔性の歴史に操られ突入した太平洋戦争後では,勝利したアメリカのみを見本として掲げ,専らこの国から多くのことを学んできたのです.こうした,日本人の姿勢は,長い時間を通して形成されてきた,生き残るための知恵の現れだと思いますが,新たな時代の潮流に適応するため,それまで培われて来た文化の様式を部分的,あるいは大幅に変更,というよりは単純に忘却することにより,多くの大切なものを失ってきたことも認めざるを得ません.丁度,何らかのトラブルにより,緊急着陸,あるいは着水した航空機から脱出する際,乗客たちが,持ち物を機内に残してシューターをすべり降りるように...

ボーデン湖(Boden See)航路の船の船尾から



*1)  この経験が,その後,明治政権の中枢を占める人々に,如何に大きな影響を及ぼし続けたかを示すと思われる一つの例は,大津事件の主犯に適用すべき刑法を巡って彼らの間にわき起こった議論です.その背景には,大国ロシアに対する極端な恐れがありました.事件の発生後,京都で開催された御前会議の席上,強硬に皇族に対する罪(刑法116条)の適用を求めたのは,当時元老の伊藤博文(長州)と西郷従道内務大臣(薩摩)の二人.特に,後者は,江戸湾にロシア艦隊が襲来することに対する恐れを隠しませんでした.文字通りのルソフォビア(Russophobia)です.また,駐日露国公使に,同条の適用を通告した青木外務大臣も長州の出身者でした.当該の御前会議に出席していた元老井上馨(長州)も,別の機会に同様の立場を示しています.なお,これに反対の立場をとった児島大審院院長は,伊予宇和島藩出身でした,徹底した勤王主義者だった児島は,様々な開明政策を実施し,幕末の九賢候の一人に数えられながらも武力討幕には反対だった藩主伊達候の姿勢に反発,脱藩し鳥羽伏見の戦いに薩長側について参加するという経歴を持っていました.彼の皇族に対する刑法の例外的適用を是としない姿勢の根底にあったのは,彼の天皇への敬慕とその天皇を中心にして建設された近代法治国家としての日本の国家主権を何としても守り抜くという使命感でした.其の意味では,家永三郎氏が言うように,彼の行動はその国家主義に由来していると言ってよいでしょう.しかし,こうした意識は,朝野を問わず,明治時代に偉業を成し遂げた人々に共通するものでした.(例えば,新島襄,福沢諭吉など) 広く海外の事情に直接間接に精通していたこれらの人々の"国家主義"は,往々にして情緒にのみ振り回されている感が否めない,現代の国家主義と称すべきものに比べ,合理的で,はるかにバランスのとれた,健全なものだったというのが率直な印象です.そして,元来児島院長と同意見だったといわれる三好退蔵検事総長は,元高鍋藩士でした.また,上述の御前会議に開かれた元老及び閣僚たちによる対策会議の席上,児島院長と同様の見解を述べたため,井上馨から一喝された陸奥宗光(当時農商務大臣)は,元紀州藩士でした.(cf. 児島惟謙『大津事件日誌』)

Tuesday, 21 August 2012

憧れのドイツ蒸機三形式(おまけ)

ノルトリンゲンの鉄道博物館の売店で購入したステッカーですが,先ほど画像を掲載したもののほかに,もう一枚だけ,41形を描いたものが手元に残っていました.(かなりの枚数を購入したのですが,この4枚を残して,ほかは皆知り合いの鉄道愛好家たちに配ってしまいました.)

BR41(Rekolok)

41形は,車軸配置(1'D1')と1600mmという動輪直径から判るように,貨物用機関車で,なかなかスマートな容姿をしており,どちらかというと好きな機関車の中に入ります.シリンダーの数は2つ.画像の機関車(ノルトリンゲン鉄博所蔵)のプレートには41 1150とありますが,これは,旧東ドイツ国鉄の所有機*1)で,Rekolok (Reconstructed Locomotiveの意)といわれる,ボイラーを新しいものに交換したマシンです.(もともと41形のボイラーには問題がありました.) 製造番号の最初の1は1970年に東独国鉄によってEDV番号(電算処理番号)が導入された際に付記されたもので,それ以前の製造番号は150でした.なお,西独国鉄(DB)におけるEDV番号の導入は1968年ですが,東独国鉄(DR)の2桁の形式番号+4桁の製造番号+1桁のセルフチェックディジットと異なり,3桁の形式番号+3桁の製造番号+1桁のセルフチェックディジットとなっています.その際,重油燃焼方式に改造されていたものは042の番号が,他のマシンには041の番号が与えられました.

1'D1'という車軸配置は,アメリカではミカド形と呼ばれますが,貨物用機関車では1'Eが支配的なドイツの帝国鉄道時代のマシンの中では異色といってよいでしょう. *2) ともあれ,上掲のシールから判るように非常にエレガントなシルエットを持っています.これは,ボイラーの仕様が美しい急行旅客用機の03と実質的に同じであり*3),その最下レベルが殆ど歩行版と同じ位置であることによるのではないかと思っています.この機関車の面白いというか,ユニークなところが動輪の軸重を18トンと20トンとに自由に変更出来るということでした.なお,問題があったSt 47 K鋼製ボイラーから改良形のSt 34鋼製ボイラーへ変更されたマシンの場合,前者の22.7トンから後者の25.5トンと重量が増加するため,動軸重が20トンを超えないように必ず18トン側に設定することが指示されていたそうです.*4)

この41形は,本来急行貨物用機として開発された機関車でしたが,その素晴らしい性能の故に,特に1950年台に各地で急行旅客列車など*5)の牽引にも用いられました. その中にはラインゴールド号やローレライ急行も含まれていて,これらの有名な列車も,1954の秋に23形がバトンを引き継ぐまで41形が牽引し,また,北ドイツのシュレースヴィヒ・ホレシュタイン州においてもノース・ウェスト急行,オランダ・スカンディナビア急行,イタリア・スカンディナビア急行なども牽引しています.*6) また,トルコに輸出されたヘンシェル製の11両(トルコ国鉄46051〜46061*7))は,1937年から30年間基軸幹線であるイスタンブール,アンカラ間のスターエンジンとして活躍しました.*8)


2013年5月12日にスイスのジサッハで開催されたSLデーに特別列車を牽引して駆けつけたバイエルン州の技術記念物(Technisches Denkmal)の41 018.高性能ボイラーに変更され,動輪軸重は18トンに設定されている.重油燃焼式に改造されたためEDV番号は042 018-2のはずだが,ナンバープレートは改造前の番号を記したものがつけられている.(二枚とも)

ドイツの蒸気機関車の中で車軸配置から視て異色といえるもののもうひとつにエレガントな高性能機23(東独国鉄によって開発されたヴァージョンは35)形があります.1940年代,不足していた中速旅客列車用として開発された形式で,車軸配置は国鉄のC58形と同じ1'C1',動輪直径は国鉄C57などと同じ1750 mm,そして最高速度は110 km/hです.ドイツの機関車の耳にあたるヴィッテ除煙板の名前の元となったドイツ帝国鉄道中央機関車開発局長Friedrich Witteが長年温めていたコンセプトに基づいたもので,前任の,こちらもやはりその名前が旧式の大きなヴァグナー除煙板につけられたRichard Paul Wagnerの補佐を務めていた時代,Wagnerからその開発の許可が下りなかったという曰く付きのモデルです.*9)


2013年4月27日に,ポーランドのウォルスティンで開催されたSL祭における23形.同日,ドイツのコットブスからウォルスティンへ向かう特別列車の補機を務めた.東独国鉄によって開発された新しいバージョンであり,ベースとなった旧23形と共通しているのはランニングギアのサイズくらい.新バージョンであることを表すため形式番号は23.10とされた.なお,1970年のEDV番号導入以降,当機には35 1019-5の番号が与えられている. (二枚とも)





*1) ノルトリンゲン鉄道博物館には,多くの旧東独国鉄所有の機関車が保存されています.
*2) 1'D1'の車軸配置を持った機関車は,バイエルンやザクセンなど旧領邦鉄道に属していたものにいくつか,また,タンク機関車にも存在しています.詳しくは,こちらのポストをごご覧ください.
*3) パイプ長6.8 m; 過熱管85本; 煙管20本
*4) "Alleskönner mit "Handicaps" in Baureihe 41, Eisenbahn JOURNAL, Special, 1.2013, pp25, 40
*5) D-Zug(急行), E-Zug(地方急行), F-Zug(長距離急行)なお,こうした列車種別は必ずしも今日のものとは一致しません.
*6) "Vom Main bis zur Küste" in Baureihe 41, Eisenbahn JOURNAL, Special, 1.2013, p50
*7) トルコの蒸気機関車の形式番号は,トルコ式の車軸配置をそのまま記したもので,46形とは総軸数6本,動輪軸数4本という意味.スイス式の4/6に相当します.詳しくはWikipediaの車軸配置の項のフランス語のページをご覧下さい.

*8) "Fuhrmeisters Heimreise im Smmer 1939 Teil 2 (Basra - Hamburg)" in BAHN Epoche, 04 Herbst 2012, p42.なお,トルコの鉄道に興味をお持ちの向きにはこちらのサイトがお薦めです.
*9) 後年,二人の間にはなにかと反目があったようです.Wagnerはドイツ帝国鉄道のEinheitslokと呼ばれる統一規格の機関車の生みの親ですし,Witteも革新的な戦時形機関車の52を開発するなど,どちらも優秀なエンジニアだったため,やむを得ない部分も合ったと思いますが,何分二人ともドイツ人ですから...cf. Friedrich Witte in Wikipedia

憧れのドイツ蒸機三形式

特に好きなドイツの蒸気機関車というと,下に画像を掲載した,パシフィック*1)の三形式で,すべて三気筒の急行旅客列車用機関車です.このうちの二形式,03 10形と01 10形は,これまでに直接目近で見ることができました.前者については,2011年7月に,音楽隊で知られたブレーメン(Bremen)と鉱山の跡が世界遺産に指定されている美しい町ゴスラー(Goslar)の間で運行された臨時列車が同形式によって牽引された際*2),当該列車への乗車が叶い,01 10形の102号機(01 1102:Blue Lady)は,ハイルブロン(Heilbronn)の鉄道博物館で見ています.が,後者,すなわち愛しき「青の貴婦人」は,残念な事に雨ざらしになっており,加えて,痛ましいことにメインロッドもはずされておりました...  I'm so sorry, my lady... そして,未だ相見えぬ10形については,その1号機が,音楽祭で名高いバイロイト(Bayreuth)近郊のノイエンマルクト蒸気機関車博物館(Deutsches Dampflokomotiv-Museum Neuenmarkt)に保存されているとのことなので,次回再びドイツを訪れる機会があった折には,何としても,そのご尊顔を拝す光栄に浴したいと思っております.(叶う事なら,同博物館にて,今年9月23日に予定されている"Kohlenhoffest"に赴くなどして.


BR03 10*3) (2'C1' h3)

BR01 10*3) (2'C1' h3)

BR10 (2'C1' h3)

(掲載画像は,以前お土産に購入した,ノルトリンゲン(バイエルン)鉄道博物館(Bayerisches Eisenbahnmuseum Nördlingen) で販売されているステッカーの一部)


*1) 機関車のタイプの名称のひとつで,機関車本体の車輪の軸配置によるもの.2C1とも表記されます.最初の2は,先輪といって,前側の台車についている車輪の軸数.次のCは,真ん中の大きな動輪の軸数(アルファベットのAから数えて三文字目にあたるため,3本という意味),そして,おしまいの1は,従輪といって,運転室,すなわちキャブの下に見える,先輪に比べて少し大きな車輪の軸数です.日本では,現在も山口線や磐越西線で運行されているC57形がこのタイプにあたります.
*2) 運行の主催団体は,ウルム鉄道友の会(Ulmer Eisenbahnfreunde e.V.). 元々01 10形66号機(三気筒;重油燃焼方式;プレート表記は01 1066)が牽引機として予定されていたのですが,当時同機の点検修理が未完了だったため,急遽03形(当該列車を牽引した03 1010は,石炭燃焼)に変更されました.軸重軽減のため,01よりボイラー直径が細く設計されている03のほうが好きな私にとってみれば思わぬ僥倖でした.03 1010は,三気筒03の初期のマシンで当初は流線型のカバーが装着されていました.(そのときに撮影した写真を少しこちらのギャラリーに掲載しています.)

特別列車の牽引機03 1010のキャプ
夕刻ブレーメン中央駅7番線ホームに戻った特別列車

(上述した理由により,近年,JR東日本で復活されたC61形よりは細身のC57形のほうが好みです.さらに欲を云わせていただければ,動輪が,輪切りにされたれんこんのような見た目のボックス車輪よりも自転車の車輪のようなスポーク車輪のほうが綺麗と思うので,私に取って最も美しい国鉄の蒸気機関車と申しますと,過去に北海道の宗谷本線などで出会ったC55形です.そうした日本の機関車に比べて,ドイツの機関車の場合,01 5のような例外を除き,その動輪はすべてスポークです.このスタイルの車輪で特に美しく感じるのは,(上記三形式の場合,)三枚の動輪の真ん中の主動輪にピストンから伸びる主連棒をつないでいる,クランクと呼ばれる部分の周辺で車軸の中心から外方向に向かって見られる,水鳥の水かきのような形状です.そのせいか,なんだか,よけいに生き物に近いように感じてしまいます.↓)


03 1010の主動輪

*3) 通常,文献等においては,01や03といった基本の形式番号の後の10は,上付数字として表記されます.この上付数字の10は,当初製造された同形式のマシンが二気筒だったため,それらから.後に製造された三気筒機を区別するためのものです.

追記:

この投稿をした後,実は,もう一形式,あこがれているドイツの機関車があったことを思い出しました.19.10形です.この機関車の車軸配置は,VDEV/VMEV/UIC-Systemと呼ばれるドイツ式表記で,1'Do1'.日本のD51形などと同じです.が,特筆すべき特徴として,その1250ミリという比較的小さな動輪直径*4)にも拘らず,最高速度時速186 kmという高速走行が可能ということが挙げられます.参考迄に,日本でも大正時代に製造された,国産第一号の貨物列車用機関車9600形の動輪の直径も同寸法ですが,こちらの最高速度は,時速65kmでした.では,どこに前者の驚異的なスピードの秘密が隠されているのでしょう.ヒントは,上に記した軸配置のDの次に書かれたo(アルファベットのオー)です.これは,通常,ディーゼル機関車や電気機関車の車軸配置表記において動輪の軸数を表すアルファベットの後ろに見られますが,動輪の軸のそれぞれに,直接,内燃機関や電動機の回転が伝わる構造であることを表す記号です.ということは,この19.10形も,その4本の動輪の軸が,それぞれ独立して,シリンダーのピストンの往復運動から生じた回転運動を受け取る仕組みとなっているのでしょうか.実は,そのとおりなのです.この,1台しか製造されなかった,19.10形の車軸配置をもう少し他の要素も含めて表記すると,1'Do1' h8となります.ここで,hは,"Heißdampf"つまり(加熱)高温蒸気を使用することを意味し,8は,シリンダ数を表します.つまり,この極めて特殊な機関車(他にも,ドイツには,四気筒やタービン式等の変わり種(?)マシンが存在しますが)は,片側4個ずつ,合計8個のシリンダが装着されているのです.そして,それぞれの動輪の軸は,v字形に配置された2個のシリンダによって回転するというわけです.誠に,ドイツの蒸気機関車においては,なんでもありということの典型的な例証のひとつといえます. 

良いこの皆さんの中で,鉄道,特に蒸気機関車が好きで,19.10形に興味をもった人がいたら,例えば,google.de(ドイツのグーグル)のBilder(画像)で,《BR 19 1001》というキーワードで検索してみてください.この風変わりな機関車の写真が見つかると思います.(19.10形については,Eisenbahn JOURNALの特別号Die Dampflokomotive - Technik und Funktion, Teil 4・Sonderbauarten deutscher Dampflokomotiven, VerlagsGruppe Bahn GmbH, 2003に豊富な写真や図面と共に詳細な解説が掲載されています.Cf. 同書"Dampfmotorlokomotiven", pp49ff)


*4) 画像を掲載した三形式の機関車の動輪直径は,皆2000ミリです.それだけ大きな動輪も備えていても,代表的急行旅客列車用機の01 10の営業最高速度は,時速150kmでした.また,日本の機関車の動輪の最大直径は,1750ミリで,1930年に東京 - 神戸間で運行が始まった特急つばめを牽引したC51形(旧18900形)以降,C62に至るまで,日本国有鉄道のすべての急行旅客列車用機関車の動輪直径は,このサイズでした.なお,ドイツの蒸気機関車の動輪の最大直径は,2300ミリ.因みに,これは,1936年5月11日,ハンブルク - ベルリンを結ぶ幹線内Friesack - Vietznitz間において合計重量197トンの列車を牽引しつつ,当時,蒸気機関車として世界最高速の200km/hをマークした05 002号機(2'C2' h3)や,流麗なデザインのタンク機関車61形(1935 製造の1号機は,2'C2' h2;1939年製造の2号機は, 高速走行時の横振軽減のため3シリンダとなり,2'C3' h3)の動輪のサイズです.なお,前者については,この輝かしい世界記録を樹立した際,速度計の針が振り切れてしまったそうで,実際は,200.4km/h,あるいは200.5km/h程度だったようですが,カーブの手前だったため,減速せざるを得ず,もしそのまま直線区間が続いていたら,当時のマシンコンディションから云って一層の加速が可能だったろうと云われています. 1936年といえば,ドイツ軍のポーランド侵攻によって勃発した第二次世界大戦の3年前で,1932年に政権の座についた,ヒットラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)が,第三帝国の国威発揚のための様々な宣伝活動を行っていた時期ですが,その意図に完全に合致する快挙でした.

ニュールンベルグ交通博物館の05 002

近代の戦争において,兵員や物資の輸送,さらには,戦争捕虜,また,その存在が国家にとって不利益をもたらすと判断された特定の民間人などの収容所への輸送(ヴィシー政権下のフランスを始め,ドイツの占領地域におけるユダヤ人たち等)を担った鉄道は,なくてはならない最重要のインフラのひとつでした.ということは,また,鉄道施設を破壊することは,陸上における敵の補給路を断ち切ることであり,戦略上極めて重要な意味を持ったのです.それをはっきりと示したのが,近代における最初の総力戦と言われる南北戦争における,シャーマン将軍(Gen. William Tecumseh Sherman)率いる北軍(Union)のアトランタから東海岸に至る進撃でした.この作戦において,将軍の率いる部隊は,鉄道を含めて当該地域における社会基盤を徹底的に破壊し,南軍(Confederacy)の補給路を断たった事で,北軍の勝利を決定づけたのでした.ところで,この進撃の模様を描いたのが,後に作曲された"Marching Through Georgia"(『東京節』の原曲)です.

05 002は,現在,ニュールンベルグ交通博物館所蔵. 同博物館は,第二次世界大戦当時,ドイツにおいて鉄道がどのように非人間的な目的のために使われたかも詳細に展示しています.(こういった歴史に思いを向けながら,特に戦時形の052(1'E h2; 動輪直径1400mm)などを見かけると,この機関車も,ユダヤ人を輸送する貨車を牽引したのかしらんなどと考えてしまいます.)

少々脚注が長くなりますが,なにがなんでもドイツが好きというわけではないものの(例えば,ドイツ人の皆さんは,我が国の捕鯨活動に対して反対しすぎるように思えてなりません),少なくとも,こうした,自国の過去を直視できる勇気をもっている点においては,この国に対し尊敬と羨望の念を抱かざるを得ません.
  
以下,1985年5月8日にドイツ連邦議会プレナーザールで行われたドイツ終戦40周年記念式典におけるド イツ連邦共和国リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説 ("Zum 40. Jahrestag der Beendigung des Krieges in Europa und der nationalsozialistischen Gewaltherrschaft. Ansprache des Bundespräsidenten Richard von Weizsäcker am 8. Mai 1985 in der Gedenkstunde im Plenarsaal des Deutschen Bundestages")よりの引用です.日本語訳は、リヒャルト ・フォン・ヴァイツゼッカー,永井 清彦 訳『新版 荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』(岩波ブックレット No. 767),岩波書店,2009年, pp10,11よりの引用.

 「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。」
" Wer seine Ohren und Augen aufmachte, wer sich informieren wollte, dem konnte nicht entgehen, daß Deportationszüge rollten."

「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません
また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

" Wir alle, ob schuldig oder nicht, ob alt oder jung, müssen die Vergangenheit annehmen. Wir alle sind von ihren Folgen betroffen und für sie in Haftung genommen.

Jüngere und Ältere müssen und können sich gegenseitig helfen, zu verstehen, warum es lebenswichtig ist, die Erinnerung wachzuhalten.


Es geht nicht darum, Vergangenheit zu bewältigen. Das kann man gar nicht. Sie läßt sich ja nicht nachträglich ändern oder ungeschehen machen. Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschließt, wird blind für die Gegenwart. Wer sich der Unmenschlichkeit nicht erinnern will, der wird wieder anfällig für neue Ansteckungsgefahren."


戦時形機関車52形(ノルトリンゲン鉄道博物館野外展示車両)

Friday, 17 August 2012

ヘルマン・ヘッセの五十回忌

先日の2012年8月9日は,日本でもファンの多い,ドイツの作家ヘルマン・ヘッセの五十回忌だったそうです.そのため,仏独共同で運営しているARTEというTV局が,記念番組を放送し,日本でもインターネットを通じて視聴する事ができました.今月の20日には,その続編が放送されるとのことなので,ご興味のある方は下記にアクセスしてみてください.

http://videos.arte.tv/fr/videos#/tv/coverflow///1/120/

年齢を重ねた今となっては,どちらかというとシュトルム(Thodor Storm: 1817-1888)のほうが好きですが,子供の頃は,夢中になってヘッセの作品を読みました.2011年の正月,休暇でスイスに滞在中,ふと思いつき,イタリア語圏チチノ州の有名な観光地ルガノ近郊のモンタニョラ(Montagnola)にある,ヘッセの記念館を訪れたことがあります.その折に訪れた,やはり近郊の町ジョルニコ(Giornico)は,とても美しく,スイスの好きな町の一つになりました.


ヘッセ記念館内部



山間の小さな村ジョルニコの夕暮れ



 *1) Arteが提供しているサービスで,Arte+7というものがあり,特定の番組が放送後一週間のみ無料でインターネットを通じて視聴可能.ただ,メニューに表示される番組のうち,かなり多くが日本においては,著作権上視聴不可.日本で視聴できるものとしては,ニュース番組のArte Journal,Reportage,360° -GEOなど.ごくまれに,子供向けの科学番組X:eniusが視聴できることがある.そして今回のような特別番組など.暫く前にライプチヒのゲバントハウスオーケストラと聖トーマス教会聖歌隊によるマタイ受難曲全曲演奏が配信され,日本でも視聴可能だった.

フェイスブックの試練

最近,フェイスブックの株式の価格の低迷がよく話題にのぼります.そもそも,私のようなものにとってみれば,フェイスブックなるものはどのように使うべきものか,あまりよくわかりません.使い方によっては,たいそう便利なもののようですが...

最近目にした雑誌の記事によると,どうやらフェイスブックの株式価格の低迷は,同社が時代の趨勢に取り残されてことが原因のようです.時代の趨勢とは,昨今のスマートフォンの普及です.

Gartnerという市場調査会社は,現在,世界中でインターネット上の情報の閲覧に用いられる機器は,情報の閲覧量から視た場合,ラップトップやデスクトップ型のコンピュータのほうが,それ以外の機器,すなわち携帯電話やスマートフォン,そしてタブレット型端末機よりも多いものの,来年は,ほぼ間違いなく,それが逆転するだろうという予測をしています.実際,およそ9億5千5百万人のフェイスブックの利用者も.その半数以上が,所有している何らかの携帯通信機器にFacebook-appをインストールしているとのことです.また,グーグル利用者を対象に実施された調査においても,やはり同様の結果が得られたそうです.そこから,浮かび上がって来る問題は,以下の3つです.
  • スマートフォン上での閲覧における広告収入は,全体の広告収入のごく一部でしかない.
  •  上記による広告収入の減少を取り戻すことができるビジネスモデルがまだ確立されていない.
  • これまで市場を支配してきた,固定型コンピュータからのインターネットへの接続を前提としている大手インターネット企業がその有利な地位を維持し続けられるかどうかは疑問.
"Techcrunch"と云うブログを綴っているJay Jamison氏は,携帯通信機器によるインターネットへの接続の時代をインターネットの第三の時代と名付けています.第一の時代は,ヤフーやグーグルといったポータルサイトの時代,そして,第二の時代は,フェイスブックやリンクドイン及びジンガといったソーシャルウェブの隆盛の時代.各時代には,それぞれ異なるニーズが存在し,それに応えられるサービスを提供する企業が興隆してきたわけです.

今や,スマートフォンが隆盛を極めつつある時代ですが,その利用者は,これまでコンピュータを使って入手していたものと同様の情報をスマートフォンを使って得ようとします.ただ,閲覧される情報の表示形態は,それぞれの機器の形状のために,前者と後者では大幅に異ならざるをえません.コンピュータに比較して画面が小さなスマートフォンでは,一度に多くの情報を閲覧することができないため,利用者は,本当に必要な情報のみが表示されることを望みます.しかし,フェイスブックにおいては,現在,デスクトップコンピュータ上でも同一の画面上に表示される情報の量がますます増大していますが,その情報のすべてを専用のアプリケーションであるFacebook-Appを使ってスマートフォン上でも表示させているのです.

そうしたフェイスブックの姿勢とは異なり,最初から携帯通信機器からのウェブへのアクセスを 前提としている企業は,一つのサービスには,それ専用のアプリケーション使用すれば良いと考えています.例えば,好みに合ったレストランを探すには,すでに日本でも用いられているフードスポッティング(Foodspotting)をといった具合です.

さらに,インスタグラム(Instagram)という携帯通信機器用画像共有サービスに比べて,ヤフーが提供している同様のサービスであるFlickrや,フェイスブックのそれは,すでに時代遅れのように見えると記事には書かれています.(インスタグラムは,フェイスブックによって,この4月に10億ドルで買収されたそうです.)

そして,こうしたモバイルウェブ環境においては,当然,それを使ったビジネスモデルも変化し始めているわけですが,広告にその収入の大半を頼っている企業に取っては,今や,それが一つの問題となっています.実際,スマートフォンなどの小さな画面上に目につくような広告を表示させることは,容易なことではありません.こうした環境で,どのような形の広告がもっとも適しているのか,その答えは,まだ出ていません.実際,米国では,携帯通信機器上におけるひとつのバナーの表示1000回につき,30から40セントしか支払われないそうです.

こうしたITビジネスを取り囲む環境の変化は,大手のIT企業の業績を悪化させ続けています.例えば,グーグルは,その収入の90%を広告から得ていますが,ここのところ,三期連続で,バナーがクリックされることで得られる収入が継続的に低下しおり,直近の四半期においては,およそ16%も低下したそうです.こうした深刻な収入の低下の打開策として同社は携帯端末用基本ソフトのAndroidの提供を開始しましたが,それによって見込んでいた広告収入の増加にはまだ至っていないようです.

フェイスブックも,その売り上げの85%は,広告によるものですが,ここのところ,その増加のペースが鈍くなっており,その原因として,以前に比べて利用者や広告収入の増加が鈍っていることがあるようです.実際,2011年においては,その増加率は,88%でしたが,今年2012年になってからというもの,その第1四半期では,45%,第2四半期においては32%でした.

そうした中,新たな成長戦略として,フェイスブックも携帯ウェブ環境への適応を模索しているようです.例えば,最近,同社はウォールのステータス・メッセージに,Likeをクリックした企業の広告を挿入することを始めました.フェイスブックの発表によると,この方法により一日あたり50万ドルもの収入が得られているとのことです.

他の企業の中には,まったく別の方法,つまり,その効果さえ疑わしい携帯通信機器の画面上における広告表示を用いずに顧客を取り込む方法を思いついたものもあります.例えば,現在,2千万人の利用者がいるWazeというGPSナビゲーションシステムとソーシャルネットワークサービスを結合させたものですが,ルート案内に加え,付近の価格の安いガソリンスタンドも示してくれるので,それらのガソリンスタンドのオーナーにとってみれば,よほど確かなマーケッティング方法であるわけです.

フェイスブックにせよ,グーグルにせよ,上述のようなサービスを開始するには,理想的と云える環境を持っているわけですが,残念ながら,彼らが,モバイルウェブ環境において躍進するためには,もう少々時間がかかりそうです.


以上,8月14日付電子版Spiegel誌掲載"Fehlende Mobil-Strategie Smartphone-Boom bedroht Facebooks Geschäft"(「モバイルフォン戦略の欠如 スマートフォンの隆盛に脅かされるフェイスブックのビジネス」)より

ユーロ圏各国債務残高及び償還時期

またまた,なんとなくグラフを作成しました.金融関係のお仕事をされている方や,経済の専門家の方たちにはおなじみの数値だと思いますがが,よいこの皆さんへの夏休みの自由研究のネタ提供第二弾です.

グラフ上をクリックすると拡大表示されます.

 縦の軸の単位は,十億ユーロです.データは,下記のドイツの週刊誌シュピーゲル誌電子版上で公開されているものから抽出したものです.なお,当該データは元々Bloomberg社によって公表されているもので,2012年6月27日現在の数値です.

簡単にいってしまえば,表示されている各国は,国債(国の借金証書)を発行し,それを自分の国や他の国の銀行などの金融機関に預けて,そこに書かれた金額を借りて国家予算の不足分を補います.しかし,借金ですから,返済(償還)期限が来ると,それを返済するか,あるいは,いったん返済して,あらためて借りることになります.グラフ上の棒は,各年に,それぞれの国がしている借金のうち,どれくらいの額が返済時期を迎えるかを示しています.グラフを見るかぎり,これらの国にとって,来年は今年よりさらにきびしくなりそうです.

http://www.spiegel.de/fotostrecke/grafiken-die-wichtigsten-fakten-zur-euro-krise-fotostrecke-57391.html

上記にアクセスすると,各国のGDPにおける債務の割合など,ほかの情報もグラフで提供されています.なお,ドイツ語なので,Googleの翻訳機能等を使って,英語に訳すと分かり易いでしょう.

Tuesday, 14 August 2012

ヨーロッパの原子力発電所の情報開示事情

* 以下は,以前書いたポストの脚注の部分を抜き出したものが,当該ポストの本文の内容との乖離が大きいために独立したポストとさせていただきました.

例えば,オーストリアというのは,原子力発電所の問題には非常に敏感な国で,自らは持っていませんが,中欧というその位置柄チェルノブイリに近 く,また,国境付近に多くの,古く危険性の高い原子力発電施設が存在していることもその理由とは思いますが,昨年の福島第一原子力発電所で事故が発生した 直後,オーストリア気象庁(ZAMG: Zentralanstalt für Meteorologie und Geodynamik)は,もちろん日本に設置されているものも含め,周辺各国にあるCTBTO(包括的核実験禁止条約機関)の観測所のデータをもとにセ シウム137やヨウ素131などの放射性物質の大気の動きによる拡散のシュミレーションをいち早く発表しています.そして,それはドイツのシュピーゲル (Spiegel)誌の3月14日付け電子版に掲載され.世界中の多くの人に極めて重要な情報が提供されました.("Wind bläst radioaktive Wolke nach Tokio":「放射能雲が風によって東京方向へ流されている」) ついでに云うと,同誌は,上述の情報に加え,福島第一原子力発電所の第3原子炉は,非 常に危険なMox燃料を使用している事を,やはり事故直後の3月13日付けの電子版で伝えています.("Plutonium-Gefahr im Krisenreaktor":「危機状況の原子炉におけるプルトニウムの危険」) 最後にもう一度,オーストリアの話に戻りまして,この国には,Global 2000という,原子力発電所の問題も含め,さまざまな分野における環境問題にとりくんでいる民間団体があり,Google Mapを使って,欧州全域にわたる原子力発電所に関する詳細な情報(事故履歴等)をイントラクティブで提供しています.興味がありましたら,下記URLに アクセスしてみてください. Google.atで,"AKWs in Europa"というキーワードで検索しても見つかります.(いずれにせよ,残念ながら,ドイツ語ですが...) http://maps.google.at/maps/ms?ie=UTF8&hl=de&msa=0&msid=212731046368592544065.000474b3dbfa178d4a444&source=embed&ll=50.401515,9.052734&spn=14.719408,23.027344&z=5

失敗指数(Failed States Index)と獲得メダル数の関係をみてみると

ご無沙汰しております.

突然ですが,ふと思い立ち,The Fund for Peaceと云う民間団体が発行している"Failed State Index"*1)と今回のロンドンオリンピックゲームの参加国毎の獲得メダル数を一つのグラフ上にプロットしてみました.

グラフ上をクリックすると拡大表示されます.*2)

下に伸びる青い柱が,各国のFSIを示していますが,元々当該の指数は正の値で示されています.ただ,今回は,見づらくなるのを避けるため, 数値はそのままで負の値に変えています.FSIは,それぞれの国の政治,経済,社会,環境,その他国民生活を取り巻くさまざまな状況の危険度といえるものを数値化したもので,国民が豊かで安定した生活を送るための条件が整っていればいるほど,其の値は小さくなります.このグラフでは,左から右へFSIの数値の小さい順,すなわち青い柱が短い順に並べてあります.これは,左に位置する国ほど,その右に位置する国に比較して住み良く,暮らし安い,逆に云うと,右に位置する国ほど,その左に位置する国より住みづらく,暮らしにくいということを表しています.グラフの一番左に位置しているフィンランドのFSIは20.0ですが,これは調査対象となっている177カ国のうち,最も低い数値であり, この国は唯一"Very Sustainable"というクラスに含められています.反対に,一番右に位置するアフガニスタンのFSIは,106.0で,私たちが良く知っているように,やはり未だに多くの問題を抱えた国であるとされているというわけです.(グラフ上では,スペースの都合で,フィンランドに付けられた"Very Sustainable"という評価の表示とアフガニスタンの"High Alert"の表示を省略しています.)実は,このFSIが紹介されているリポートを最初に目にしたとき,果たしてどのような計算方法で,そのような数値化が可能なのかと首をひねりましたが,自分が認識している各国の状況と比較して,なんとなくですが,おおよそ納得できる数値のように思えています.

次に,上に伸びている二段重ねの柱が,各国のメダル獲得数で,下の赤い部分が金メダル数,そして,その上の薄緑の部分が銀と銅メダルの獲得数を表していて,柱の上端がメダルの獲得総数を表します.各国のメダル獲得数は,オリンピックゲームの公式Webサイトに発表されているものを用いました.(http://www.london2012.com/medals/medal-count/)

自分で描いていて,こんなことを云うのもどうかと思いますが,「まあそんなものなのだろうなあ」という印象です.一点だけ,面白いと思ったことは,Very Sustainableと云う評価を得ているフィンランドと,それに続く,Sustainableと評価された国々においては,FSIとメダルの獲得数がほぼ反比例しているということです.もちろん,だからといって,「国民が持続的に豊かで安定した生活が営める国程,オリンピックゲームにおけるメダルの獲得は困難」などと云う結論を出すつもりは毛頭ありませんが.さらに,Sustainableと評価されている12カ国のうち,ルクセンブルク(FSI: 25.5), オーストリア(FSI: 27.5)*3),そしてアイスランド((FSI: 29.1)の3カ国,つまりその1/4,25%が今回のオリンピックゲームに参加していないということです.それぞれの国の不参加の理由は知りませんが,Sustainableの次のグループ,Very Stableの評価がついたすべての国が参加していることと比べても面白く思えます.なお,誤解のないように加えますと,これらの,言わば比較的豊かで安定した国々でも,やはりメダルの獲得数が少なかったことについては当然失望の声が上がったようです.*4)

今回のロンドン大会では,日本選手団は,史上最高のメダル獲得という快挙を成し遂げました.本当に素晴らしい事であり, 各選手の活躍に,個人的にも大いに励まされました.また,なじみのあるアルジェリアが,ラマダン期間中にも拘らず,男子陸上1500m走で金メダルを獲得した事もとても嬉しいできごとでした.Viva Algeria!

しまりのない内容で恐縮ですが,とりあえず以上です.

おしまいに良い子の皆さんへ

グラフも含め,上記の内容は,もちろん自由に使っていただいて構いません.夏休みの自由研究のテーマが見つからなかったときの参考にでもしてください.(でも,ならないだろうなあ... ほぼまちがいなく...) 


*1) FSIリポートは,下記URLへアクセスすることで,どなたでも入手可能です.
http://www.fundforpeace.org/global/?q=fsi2012
*2) Excelで作成したものをPNG形式に換えて本ブログに載せたのですが,拡大表示させても字が小さく読みづらいので,PDFファイルにして以下に載せました.必要な場合は,お手数ですがダウンロードしてご覧ください.(新しく開くウィンドウの画面上左上の"ファイル"をクリックするとメニューが表示されるので,其の中のダウンロードをクリックしてください.)
https://docs.google.com/open?id=0B9CLMM0ezUh7eTFoa09CT1k3ekU
*3) オーストリアというのは,原子力発電所の問題には非常に敏感な国で,自らは持っていませんが,中欧というその位置柄チェルノブイリに近 く,また,国境付近に多くの,古く危険性の高い原子力発電施設が存在していることもその理由とは思いますが,昨年の福島第一原子力発電所で事故が発生した 直後,オーストリア気象庁(ZAMG: Zentralanstalt für Meteorologie und Geodynamik)は,もちろん日本に設置されているものも含め,周辺各国にあるCTBTO(包括的核実験禁止条約機関)の観測所のデータをもとにセ シウム137やヨウ素131などの放射性物質の大気の動きによる拡散のシュミレーションをいち早く発表しています.そして,それはドイツのシュピーゲル (Spiegel)誌の3月14日付け電子版に掲載され.世界中の多くの人に極めて重要な情報が提供されました.("Wind bläst radioaktive Wolke nach Tokio":「放射能雲が風によって東京方向へ流されている」) さらに,原子力発電所関連ですが,オーストリアは,Global 2000という,原子力発電所の問題も含め,さまざまな分野における環境問題にとりくんでいる民間団体があり,Google Mapを使って,欧州全域にわたる原子力発電所に関する詳細な情報(事故履歴等)をイントラクティブで提供しています.興味がありましたら,下記URLに アクセスしてみてください. Google.atで,"AKWs in Europa"というキーワードで検索しても見つかります.(いずれにせよ,残念ながら,ドイツ語ですが...) http://maps.google.at/maps/ms?ie=UTF8&hl=de&msa=0&msid=212731046368592544065.000474b3dbfa178d4a444&source=embed&ll=50.401515,9.052734&spn=14.719408,23.027344&z=5
*4) 例えば,スイスでは:
http://www.swissinfo.ch/ger/gesellschaft/Olympia_begeistert,_Schweizer_enttaeuschten.html?cid=33298602&rss=true