Monday, 3 September 2012

心を打たれた二つの話

今年の夏,二つ程,とても心を打たれる話と出会いました.両方とも実話です.一つは一本の映画の中で,もう一つは一冊の本の中で.

映画のタイトルは,『ふじ学徒隊』.沖縄の海燕社が制作した短編ドキュメンタリー映画です.そして,本のほうは,大森 亮潮著『人情浅草地図』に収められている「 なさけはひとのためならず」です.

この二つの話に共通しているのが,その両方において,日本軍の軍医がとった行動が普遍的な人間愛に裏打ちされていた(少なくとも私にはそう思えました) ものだったということです.

『ふじ学徒隊』を鑑賞したのは,渋谷のアップリンクファクトリー.上映の前に監督をされた野村さんのご挨拶がありました.この映画の中で,特に心を打たれたのは,傷病兵たちの看護を任務とする学徒隊の各隊員に対する小池勇助隊長(軍医少佐)の,軍人としての,また一個の人間としての思いやりと,彼女たちの同隊長に対する敬愛の念でした.制作者の皆さんがこの映画で訴えようとされたことの本質を表すと思われる「かならず,生き残れ.親元へ帰れ」,「絶対に死んではならない」という小池隊長の学徒隊員たちに対して発せられた《命令》は,一般に知られた沖縄や,南方の日本の植民地で起きた,多くの非戦闘員を巻き込んだ悲劇を思い起こすとき,また,日本の伝統的風習*1)に照らし合わせたとき,にわかに信じ難い言葉だっただけに一層深い感銘を与えるものでした.そして,隊長の言葉に従い,親元に戻るために壕を出たある隊員は,途中,米兵たちが残したと思われるタバコを見つけ,それを隊長さんに持っていってあげようと壕内の隊長の元へ引き返したところ,すでに自決していた隊長を見つけ,泣き崩れたという証言も,彼女たちの隊長に対する素朴で純粋な敬愛の情を物語るもので,深く印象に残りました.隊長は,彼女たちとお別れをする際,一人一人の手を握り,声をかけたといいます.自分も含め,日本人同士が握手するというのには,以前,昔の記録映像で見た,神風特別攻撃隊の出撃シーンで上官が各隊員と握手を交わすシーンを思い出してしまい,どうも違和感を感じてしまうのですが,ここでは,そうした感情は起こらずに,素直にその様子が思い浮かべられ,胸が切なくなるのを覚えました.

もうひとつの「なさけはひとのためならず」は, 浅草寺の支院医王院の元住職であり浅草寺病院の元医師で,第二次世界大戦中の昭和十八年秋,軍医としてカンボジアのプノンペンの日本軍の陸軍病院に赴任された大森さんの体験談を綴ったものです.当時,カンボジアは,フランス領.日本は,米英とはすでに交戦状態にありましたが,昭和二十年三月にフランスに対し宣戦布告するまで,日本軍は,フランスの陸軍病院の一部の施設を自らの陸軍病院として借用していました.大森軍医は,そこで働くフランス軍の軍医たちと仲良くなり,よく一緒にお酒を飲みに出かけたそうです.(自分は,フランス語はおろか,英語もままならないのによく意思が通じたものだと,その著書の中で述懐されています.)

やがて,日本は,フランスに対し宣戦を布告.布告当日の三月九日早朝からフランス軍の各施設を攻撃,占拠しました.そうした中,親しくしていたフランス軍軍医の奥さん(婦長)が大森さんを訪ねてきて,プノンペンとその周辺にいる多くのフランス人の婦人と子供全員を,以前,フランス軍の病院の産院だった施設に集めてもらえないだろうかと不安そうにたずねました.日本軍の攻撃はもちろん,住民からも危険が及ぶことも考えられるからというのがその理由でした.彼女の心配を痛いほど理解した大森さんは,当時の作戦部隊の軍医部長が,自分が軍医となって最初の上司だった軍医大佐だったことを思い出し,その頑固ながらも真面目な性格ゆえに,婦女子を救出したいと願えば,必ず許してくれるだろうと,すぐに大佐のもとへ飛んでゆきました.そして,ことの次第を話したところ,案の定すぐに承諾され,患者車を使って輸送するようにとの指示も受けました.こうして避難させたフランス人婦女子の数は,180名を越えたそうです.戦時国際法に照らしてまったく当然のことといえますが,その後,大森さんたちがとった行動は,日本が戦争に負けた後,フランス軍の軍事法廷で裁かれる事となった大森さんの身に思わぬ報いとして反ってきました.この続きは,上掲書の中で読まれることをお勧めします.




*1)「 武士道と騎士道」,「《死の目的化》が起きた日本と起きなかったドイツ...

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