今年は,オーストリアに鉄道が開通してから175周年にあたるそうです.これを機に,オーストリア連邦鉄道本社では,ナチス政権下,ドイツ帝国鉄道に吸収されていた時代についての展示が行われていました.以下は,その中のキンダー・トランスポート(Kindertransport)関連の展示の一部で,キンダー・トランスポートによって救われたアリザ・テンネンバウム(Alisa Tennenbaum)さんの証言です.(原文はドイツ語なので,拙いながら日本語に訳しました.)
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当時のアリザさん |
私は,1929年9月3日,ウィーンの伝統的なユダヤ人家庭に生まれました.私の上には,当時7歳の姉ミリアムがいました.父モシェ・シェルツアーはオーストリア生まれ,そして母エディットはポーランドの南部ガリツィエン(Galizien)地方の出身でした.両親は,豆などを売る店を営んでいました.私が通っていた学校はユダヤ教徒とキリスト教徒の共学校でした.私たちの身の回りに大きな変化が起こり始めた1938年3月12日,私は学校にいました.その日を境に,すべてのユダヤ人の生徒は学校を退学させられることになりました.そして,3月末にユダヤ人のための学校が開校されました.しかし,《クリスタル・ナハト》*1)直後の11月10日,この学校も閉鎖されてしまいました.実際,当時はユダヤ人は大変危険な状況に置かれていたため,子供たちは皆家に戻りました.そして,その日,一人の女性がやってきて,父が捕らえられたことを私たちに告げたのです.その10日後,父からの葉書が届きました.ダッハウから出されたものでした.*2)
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アリザさんと一緒にウィーンから来た少女たち 1942年 ウィンダーミルの寮で | |
当時,多くのユダヤ人がパレスティナへ行くことのできるビザを得ようとしました.しかし,それを得ることができたのは,わずか60名だけでした.ただ,その中に私の姉が含まれていました.1939年1月27日,ユダヤ人学校は再び開校されました.授業を受けているとき,隣に住んでいる人が学校を訪ねて来て,父がダッハウの収容所から開放されたことを知らせてくれました.私は家に走って戻りました.父はベッドに腰掛けて泣いていました.頭の毛は剃られていました.父は三ヶ月以内にオーストリアを離れなければなりませんでしたが,幸いなことに,カナダに住んでいる親類が書いてくれた一通の手紙によって,父は英国への渡航ビザを取得し,1939年4月,英国に向けて旅立つことができました.父は,母と私を英国に来させようとしましたが,結局,母は私をキンダートランスポートに申し込みました.そして,私は,1939年8月22日,母を一人オーストリアに残し,英国へ向けて出発したのです.
ロンドンに着いた私たちは,大きな円形競技場に集められました.私は,そこで,子供たちを探しに来た多くの大人たちの中に父を探しましたが,見つかりませんでした.そして,最後には,私ともう一人,小さな男の子だけが誰からも引き取られずに,そこに残ったのです.私の首には短い言葉が書かれた札が下げられました.そこには《ニューキャッスルへ搬送》と記されていました.私は,一人で列車に乗せられました.そして,移動中泣き続けました.手に独英辞典を持ちながら.たまたま乗り合わせていた司祭と一人の女性がドイツ語で私に話しかけ,慰めてくれました.そして,私が,降りる駅を間違えないように助けてくれました.下車駅では,亡命してくる子供たちの世話をしている二人のユダヤ人女性が私を待っていて,女子寮に連れて行ってくれました.そして,到着の二日後,私は学校に通い始めました.教師は女性で,私を本当に助けてくれました.
到着してから一週間後の1939年9月3日,突然サイレンが鳴り響きました.私は,それを私の誕生日のお祝いだと思いました.しかし,それは開戦を知らせるサイレンだったのです.私たちは,今後,人前でドイツ語を話さないように言われました.ドイツ語は敵国語だったからです.そんなある日,イスラエルへ移住した姉からの手紙が届きました.しかし,私は,英国にいるはずの父についても,また,ウィーンに残してきた母についても何の知らせも受け取っていませんでした.それから七週間後,英国軍の制服を着た父親が突然訪ねて来たのです.20人いた寮生のうち,父が英国にいるのは私一人でした.
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戦争中に綴られたアリザさんの日記 |
その後,父は,すべての寮生たちの父親となりました.ただ,私には未だ消息が知れない,ウィーンの母のことが気にかかっていました.父は三ヶ月おきに私たちを訪ねて来てくれましたが,私は大陸で一体何が起こっているのか知りませんでした.それでも,寮の職員たちは私たちを慰めるために懸命に努力してくれました.そして,1945年5月2日,待ちに待った母の消息を知らせる電報を受け取ったのです.そこには,彼女がラヴェンスブリュックの収容所から解放され,シュヴェーデンで静養中と書かれていました.私は,この素晴らしい知らせを大急ぎで父と姉とに電報で伝えました.でも,私以外の寮生たちは,皆,両親を失っていましたため,私は彼女たちに対して後ろめたさを感じました.ドイツとオーストリアのユダヤ人は,最初にナチスからの迫害を被った人たちでした.父と私は,こうして生き延びることができたのも,1939年に英国に亡命できたからと心から感謝しています.
母は,1946年に私たちのもとに来ることができました.当時,私は16歳になっていました.母は,私が英国に向けて出発した後に彼女の身に起こったこと話してくれました.黄色い星の印を自らの衣服に縫い付けさせられた母は,ある日,ポーランドのロッヅというところのユダヤ人居住区に移送され,その後,アウシュビッツへ移送されました.そして,次にベルリン近郊の労働キャンプに移され,そこでクルップ社の弾薬工場でポーランド語とドイツ語の通訳として働かさました.その後,ザクセンハウゼン,ラヴェンスブリュックへと移送された後,1945年4月28日に実施された捕虜の交換により,ようやく彼女は解放され,シュヴェーデンへ移されたのでした.私たちのところへ来たときの彼女の年齢は48歳,体重は42キロでした.
アリザ・テンネンバウムさんは,現在,家族とイスラエルに暮らしています.
*1)水晶の夜事件(すいしょうのよるじけん、独:Kristallnacht(クリスタル・ナハト)) とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動である。ユダヤ人の住宅、商店地域、シナゴーグなどが次々と襲撃、放火された。ナチ政権による「官製暴動」の疑惑も指摘されている。事件当時は「帝国水晶の夜(Reichskristallnacht)」と呼ばれていた。この事件によりドイツにおけるユダヤ人の立場は大幅に悪化し、後に起こるホロコーストへの転換点の一つとなった。なお、水晶の夜という名前の由来は、破壊されたガラスが月明かりに照らされて水晶のようにキラキラきらめいていたことにあるといわれている。(cf. Wikipedia "Kristalnacht")
*2) ダッハウ強制収容所(ダッハウきょうせいしゅうようじょ、独語:Konzentrationslager Dachau)は、ドイツ・バイエルン州・ミュンヘンの北西15キロほどのところにある都市ダッハウに存在したナチス・ドイツの強制収容所である。ナチスの強制収容所の中ではオラニエンブルク強制収容所と並んで最も古い強制収容所と言われ、後に創設された多くの強制収容所のモデルとなった。(cf. Wikipedia "ダッハウ強制収容所")
以下は,英国へ向けて旅立った子供たちが持って行った鞄の中身を再現した写真.彼らに持ち出しが許されていたのは,旅行鞄と手荷物,それぞれ一つずつと10マルクの現金のみであり,化粧品,高価な物品,金銭,楽器,写真機などを旅行鞄にいれるのは禁じられていた.彼らを載せた列車の多くは夜間に出発した.彼らの両親は,子供たちの出発の日時を2日から14日前に知らされたのみであり,ほとんどの場合,子供たちには,準備のための時間も両親たちとの決別を惜しむ時間も十分に与えられることはなかった.
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ウィーンを離れリバプール駅に到着した子供たち |
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展示会場で上映されていたKindertransportのビデオに見入る男性 画面に映し出されるKindertransportのパンフレットには,"Get them out before it is too late"の文字が. |
下の写真は,会場に設置されたユダヤ人の搬送に使用された貨車を模したセットの内部.壁に迫害を受けた人々の写真が貼られています.中では,何回目の搬送で何人の人が運ばれたかを淡々と読み上げるアナウンスが流れます.1列車で5,000人が搬送されました.1両の有蓋貨車には50名を乗せるとされていましたが,場合によっては150名もの人が同一車両に乗せられました.(Cf. Engwert, A., Kill, S., Ed. Sonderzüge in den Tod, Köln, Weimar, Wien, 2009, p56)
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ウィーンを出発した移送列車の経路 行き先は,各地の強制収容所(△印)などだった. |
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キンダー・トランスポートの説明 1938年から1939にかけて,列車と船による子供たちの英国への搬送は合計23回に及び,それによって一万人を上回る数の子供たちが救出された.彼らの出身国は,ドイツ,オーストリア,チェコスロバキア,ポーランド. |
この展示"Verdrängte Jahre - Bahn und Nationalsozialismus in Österreich 1938 - 1945"についての詳しいことは,下記のサイトを参照ください.
なお,会場は,ウィーンのオーストリア連邦鉄道本社一階です.(Foyer der ÖBB Infrastruktur 1020 Wien, Praterstern 3,地下鉄Praterstern下車) 今年の10月31日まで開催.観覧は,土日を除く毎日8時から17時まで.入場は無料です.
下は,キンダートランスポートの
記事が掲載された
Bahnepoche 2015年秋号の表紙.
なお,キンダートランスポートについては,
英語圏および
ドイツなどで多くの本が出版されていますが,
Wikipediaでも詳しい説明とともに各地の記念碑が紹介されています.
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