Sunday, 14 June 2015

日本の表層的な民主主義 - 憲法解釈による集団的自衛権行使容認論を聞いて思ったこと

元々,西洋のような,世界の外にいる超越神が絶対的な権威によって価値を与える啓示宗教の文化圏と異なり,純粋に自然宗教が精神文化の基礎を成している日本に於いて,前者に於ける契約という概念は存在しません.ユダヤ教も,イスラム,キリスト教も,神との契約がその教理の根幹を成しています.契約とは,こちらも拘束されますが,相手も拘束されます.つまり,その契約を人間と結んだ神自身も拘束されるのです.*1) 契約という人工的な関係を知らない日本では,伝統的に強者が弱者を支配するという図式が今日迄続いています.弱者は,強者との間に言葉を覚える前の幼児,あるいは乳児と母親の関係に例えられる'自然な'情緒的な関係を築き,強者より恩恵を受けようとします.正に'甘え','依存'の関係です.そして,この場合の母親の立場にある者は,自らの欲求のままに子供の立場にある者が行動すれば,つまり,自らに依存し,自らの支配を受け入れる限り慈母となり続けますが,ひとたび,その欲求が裏切られると恐母になります.それは,私たちの祖先が長い期間をかけて,自然から刷り込まれた集団の無意識とでも呼べるものでしょう.日本の自然は,豊かな恵みを与えると同時に,ときには残酷な災害をも引き起こすからです.

ここ数十年の世の中の動きを見ていて,不気味に感じることがあります.それは,地方自治体から交通機関などが,さまざまなマスコットキャラクターを宣伝に使うようになり,あたかも世間が遊園地のような様相を見せている一方で,女子高校生が同世代の男子の集団によって殺害され,死体がコンクリート詰めにされたり,中学生が,仲間だった集団に殺害されるといった,子供が子供を残虐な方法で殺す凶悪犯罪も発生していることです.

こうした最近の社会の二つの側面の間には,際立った隔たりがあるように思えますが,実は,いずれにおいても上述した疑似母子関係が存在しています.前者に於いては, 特定の集団がマスコットキャラクターという,子供が喜びそうな道具,つまり'玩具'を使って,不特定多数の他者とそうした関係を築こうとつとめ,後者では,集団の中で最も力の強い者がリーダーとなり,他の力の劣ったメンバーを自らの支配下に置き,彼らを自分に対して依存するように仕向けるのです.前者では,マスコットキャラクターを用いる側が,そして,後者ではリーダーが母親的な存在です.いずれの場合も,支配する側が子供となる疑似母子関係を築き,自らの欲求を満たす為に利用します.ただ,前者の場合,構築された,あるいは構築されようとしている関係に於ける役割が逆であるとも考えられます.つまり,マスコットキャラクターを用いる側が子供で,それによるアピールを受ける側が母親です.こうした関係においては,前者は,支配,というより恩寵を受けようとする側となります.いずれの関係も,時によって交代したり,あるいは同時に存在することも可能です.言語によって明確に規定された契約がないので,各当事者の役割は簡単に入れ替わることができるのです.また,少年の集団による凶悪犯罪の場合は,その関係を保っている構造が崩れそうになると,つまり,支配体制が崩れそうになると,その原因であるメンバーを殺害することで,この世界から消去させてしまいます.「可愛さ余って憎さ百倍」と言う訳です.こうした構造は,一連のオウム真理教の事件にもあてはまりますし,多かれ少なかれ,日本社会のすべての集団を動かしているダイナミックと言えるでしょう.そして,それは,最近,頻繁に報道される親による自分の子供の殺害及び子供による自分の親の殺害(とりわけ母親や祖母の)に於いても見いだせる構造でもあります.前者の場合は,親の支配というより拘束を逃れるために,そして,後者の場合は,支配を拒む対象の消去です.以上のように考えて来ると,日本の,特に現代社会は,ユング派のErich NeumanやSiegmund Hurwitzの言う'Great Mother'の恐母的側面,あるいはユングの言う女性性('Anima')の暗黒的側面の力が異常に強くなっていると言えるかもしれません.(とりわけ児島惟謙*2)大審院長のような人物がいた明治維新前後の時代に比べるとですが.)

ユダヤキリスト教文化圏に於けるものと同様の'契約'という概念を持たず,従ってそれを尊ぶことを知らず,ことごとく情緒的な甘えの構造に本能的に支配されている社会において,西洋のような近代民主主義が育つのは極めて困難なことと言わざるを得ません.この国では,国民の代表である議員を選ぶ側と議員に選ばれる側との間の関係も上記の関係に自分達を位置づけているのです.そして,標記の憲法解釈による集団的自衛権行使容認論も,自分たちが,日本とアメリカとの間の関係もこうした疑似母子的関係であるという蜃気楼に踊らされていることに気づかない時代政治屋たちが,'母'であるアメリカから嫌われることを極端に恐れている証左にしか過ぎないように思えてなりません.それに加えて,今の総理大臣を務めている方の出身地は,明治維新以前に欧米連合艦隊からの艦砲射撃によってこてんぱんに叩かれ,敗北を味わった伝統があることも彼の無意識に何らかの影響を及ぼしているかも知れません.(馬関戦争)

蛇足になりますが,子供の間で起きる「暴行」や「障害」行為の「いじめ」という言葉への置き換えも,言葉が目に見えない超自然的な力を持つと言う日本人の伝統的な言霊信仰に則した,事象を穏やかな言葉で表現することで,そうした事象が過激化,深刻化することが抑えられるという無意識の思い込みが存在していることも否めないとは思いますが,上述した疑似母子的関係から捉えても納得がゆきます.子供は,社会,あるいは国が,さらに正確に言えば,実際に支配している人間たちにとって都合の良い存在で有り続ける必要があります.後者にしてみれば,子供たちは,後に述べるような自ら思考することが可能な'大人'になってもらっては困る訳です.そのため,「いじめ」あるいは「命を大切にしよう」などという定義が極めて曖昧な,すなわち現実的内容が殆ど無い,言わば架空の概念を生み出す言葉を用いて現実から切り離し,彼らを子供,つまり素直な被支配者に留めようとするわけです.さらに,それは明言されない赦しの行為とも言えます.赦す目的は,子供を自分につなぎ止めておく,つまり母と子としての関係を維持するためです.また,政府が病的な迄に報道,特にテレビ報道の影響を恐れるのは,支配される側,つまり国民が'子供'でなくなり,自分で思考し,自分なりの価値体系を持つこと,すなわち大人になることを恐れるからです.もちろんビジネスにおいても同じです.そもそも消費社会の発展には,消費者が自らの価値体系を築かずに,絶えずそれを外界ないしは他者に求め続ける子供に留まることが重要なのですから.

残念ながら,今日の日本に於いては,民主主義にとって欠くことのできない正確な議論を可能にする共通の言語体系が定義されていないように思えます.つまり,国会議員も含め多くの人が,そうした言語による論理的な情報交換ができる関係を築くことができない状況にあるようです.言葉に於ける貧困とも形容できる状況です.自らが生きている世界を言語によって思考上に再現し,それを基に未来を想定する能力に乏しいならば,法律の制定はもちろん,民主主義政治を実現させることなど不可能です.今,この国を支配しているのはLOGOSではなくPATHOS,つまり,理性によって導かれた合理性ではなく情緒の言いなりとなる非合理性のようです.




*1) 興味深ことに,日本の海軍軍人で軍縮条約に詳しかった横山一郎少将は,軍縮条約とは,こちらも縛られるが,相手も縛っておけるという認識を持っていましたが,後にクリスチャンになっています.
*2) 鳥羽伏見戦に際しては,あまりにも勤王の志が強ったため,脱藩して鹿児島藩長州藩連合軍側に参加しましたが,それまでは宇和島藩士であり,当然,武士階級に属するものとして朱子学などの宋学の素養があり,言語による思考に慣れていたという背景があったことも見逃せません.

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