Thursday, 30 August 2012

帝国海軍所属仮装巡洋艦信濃丸(旧日本郵船所有貨客船)宛連合艦隊司令長官ノ感状

感状

假装巡洋艦信濃丸

明治三十八年五月中敵艦隊ノ北上ニ對シ連日連夜哨戒勤務ニ服シ同月二十七日佛曉早クモ敵艦隊ヲ發見シ其確實迅速ナル警報ハ聯合艦隊ノ作戰ヲ利セシコト少ナカラス其功績大ナリトス仍テ茲ニ感状ヲ授與スルモノナリ

明治三十八年六月二十日

聯合艦隊司令長官東郷平八郎




KANJO

Converted Cruiser "Shinano Maru"

During the month of May in the 38th year of Meiji (1905) the Converted cruiser "Shinano Maru" was on guard, watching for the approach of the enemy's squadron, which she sighted at early dawn on the 27th of that month. The trustworthy and prompt warning given by her, materially benefitted the strategic  measures of the Combined Fleet. In appreciation of the highly meritorious services thus rendered this Kanjo is now granted.

(Signed) Togo Heihachiro
Commander-in-Chief of the Combined Fleet

20th June of the 38th year of Meiji (1905)


(The both texts, Japanese and English, are of the copy exhibited in the Nippon Yusen Kaisha Maritime Museum in Yokohama, Kanagawa, Japan. )

日本人として,正しく綺麗な日本語は勿論ですが,できれば,正しい英語をも身につけたいものですね.上掲の二文は,先日訪れた日本郵船歴史博物館で展示されていた写しの文面です.日本語の文とその英訳のお手本のひとつとして,写させていただきました.一点だけ,面白いと思ったのは,連合艦隊の訳語として,"Combined Fleet"が使われている事.文字通り,連合艦隊の意味ですが,確か,太平洋戦争中,海軍内においては,"GF"(=Grand Fleet)が使われていたと思います.但し,正確さから言うと,日本の連合艦隊の訳語としては,やはり"Combined Fleet"を用いた方が適切に思えます.

明治期において,知識層に属する人(旧武士層)は,基本的に皆,候文は勿論,漢文の読み書きもできました.開国以降日本に上陸した米英のプロテスタント宣教師たちが,多くの士族たちと接触がもてたのも,前者の中に,中国で布教活動に携わり,中国語に精通していた人(例えば,ヘボン博士)がいたからに他なりません.実質的なクーデータ政権とはいえ,政府中枢にいた人たち,そして,官僚,軍人たちのなかには,候文,漢文,そして英文を正しく読み書きできる人たちが少なからずいたのです.彼らにしてみれば,ごく普通の事だったとは思いますが,現代から視るとうらやましい限りです.そして,世界に例のない斯くも豊かな言語的遺産を受けついでいたからこそ,明治期の三遊亭円朝以降の言文一致体の文学作品にしても,美しい日本語で綴られていたのだと思います.ただ,忘れてはならないのは,明治維新以前と以後とでは,このような,前代との連続性が存在していたのも事実ですが,同時に,それまでの哲学や歴史を学問の中心に据えて来た教育の伝統と決別し,それ迄は遊芸として,前者に比べ低く位置づけされてきた実学を重視する姿勢への転換も起こったということです.こうした,前代との不連続性,または断絶は,万国対峙を国家スローガンとして掲げる新政府のみならず,福沢諭吉を始めとする,当時野にある知識人たちによって奨励された,新しい日本人の姿勢に備わるべき特徴だったのです.

歴史的に視て,実際,日本人は,例えば戦争における敗北のような,劇的な環境の変化を経験するたびに,それまで自らの文化には存在しなかった外来の要素を驚くべき適応性をもって導入することで,生き延びてきました.古くは,天武天皇の時代,律令制度導入のきっかけとなったのも,唐と新羅の連合軍との戦いにやぶれたことであり,また,明治維新以降の,列強と比肩しうる軍事大国の構築を目指した明治政府による西洋文明のどん欲な迄の摂取にも,間接的には,アヘン戦争における清国の敗北も影響したことも事実ですが,直接的には,新政権の中心を占める薩長両藩の,幕末期,前者は薩英戦争,後者は馬関戦争で英国を始めとする四か国の連合艦隊との戦いにおける完敗の経験が,その背景にありました.*1)  そして,魔性の歴史に操られ突入した太平洋戦争後では,勝利したアメリカのみを見本として掲げ,専らこの国から多くのことを学んできたのです.こうした,日本人の姿勢は,長い時間を通して形成されてきた,生き残るための知恵の現れだと思いますが,新たな時代の潮流に適応するため,それまで培われて来た文化の様式を部分的,あるいは大幅に変更,というよりは単純に忘却することにより,多くの大切なものを失ってきたことも認めざるを得ません.丁度,何らかのトラブルにより,緊急着陸,あるいは着水した航空機から脱出する際,乗客たちが,持ち物を機内に残してシューターをすべり降りるように...

ボーデン湖(Boden See)航路の船の船尾から



*1)  この経験が,その後,明治政権の中枢を占める人々に,如何に大きな影響を及ぼし続けたかを示すと思われる一つの例は,大津事件の主犯に適用すべき刑法を巡って彼らの間にわき起こった議論です.その背景には,大国ロシアに対する極端な恐れがありました.事件の発生後,京都で開催された御前会議の席上,強硬に皇族に対する罪(刑法116条)の適用を求めたのは,当時元老の伊藤博文(長州)と西郷従道内務大臣(薩摩)の二人.特に,後者は,江戸湾にロシア艦隊が襲来することに対する恐れを隠しませんでした.文字通りのルソフォビア(Russophobia)です.また,駐日露国公使に,同条の適用を通告した青木外務大臣も長州の出身者でした.当該の御前会議に出席していた元老井上馨(長州)も,別の機会に同様の立場を示しています.なお,これに反対の立場をとった児島大審院院長は,伊予宇和島藩出身でした,徹底した勤王主義者だった児島は,様々な開明政策を実施し,幕末の九賢候の一人に数えられながらも武力討幕には反対だった藩主伊達候の姿勢に反発,脱藩し鳥羽伏見の戦いに薩長側について参加するという経歴を持っていました.彼の皇族に対する刑法の例外的適用を是としない姿勢の根底にあったのは,彼の天皇への敬慕とその天皇を中心にして建設された近代法治国家としての日本の国家主権を何としても守り抜くという使命感でした.其の意味では,家永三郎氏が言うように,彼の行動はその国家主義に由来していると言ってよいでしょう.しかし,こうした意識は,朝野を問わず,明治時代に偉業を成し遂げた人々に共通するものでした.(例えば,新島襄,福沢諭吉など) 広く海外の事情に直接間接に精通していたこれらの人々の"国家主義"は,往々にして情緒にのみ振り回されている感が否めない,現代の国家主義と称すべきものに比べ,合理的で,はるかにバランスのとれた,健全なものだったというのが率直な印象です.そして,元来児島院長と同意見だったといわれる三好退蔵検事総長は,元高鍋藩士でした.また,上述の御前会議に開かれた元老及び閣僚たちによる対策会議の席上,児島院長と同様の見解を述べたため,井上馨から一喝された陸奥宗光(当時農商務大臣)は,元紀州藩士でした.(cf. 児島惟謙『大津事件日誌』)

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