特に好きなドイツの蒸気機関車というと,下に画像を掲載した,パシフィック*1)の三形式で,すべて三気筒の急行旅客列車用機関車です.このうちの二形式,03 10形と01 10形は,これまでに直接目近で見ることができました.前者については,2011年7月に,音楽隊で知られたブレーメン(Bremen)と鉱山の跡が世界遺産に指定されている美しい町ゴスラー(Goslar)の間で運行された臨時列車が同形式によって牽引された際*2),当該列車への乗車が叶い,01 10形の102号機(01 1102:Blue Lady)は,ハイルブロン(Heilbronn)の鉄道博物館で見ています.が,後者,すなわち愛しき「青の貴婦人」は,残念な事に雨ざらしになっており,加えて,痛ましいことにメインロッドもはずされておりました... I'm so sorry, my lady... そして,未だ相見えぬ10形については,その1号機が,音楽祭で名高いバイロイト(Bayreuth)近郊のノイエンマルクト蒸気機関車博物館(Deutsches Dampflokomotiv-Museum Neuenmarkt)に保存されているとのことなので,次回再びドイツを訪れる機会があった折には,何としても,そのご尊顔を拝す光栄に浴したいと思っております.(叶う事なら,同博物館にて,今年9月23日に予定されている"Kohlenhoffest"に赴くなどして.
(掲載画像は,以前お土産に購入した,ノルトリンゲン(バイエルン)鉄道博物館(Bayerisches Eisenbahnmuseum Nördlingen) で販売されているステッカーの一部)
*1) 機関車のタイプの名称のひとつで,機関車本体の車輪の軸配置によるもの.2C1とも表記されます.最初の2は,先輪といって,前側の台車についている車輪の軸数.次のCは,真ん中の大きな動輪の軸数(アルファベットのAから数えて三文字目にあたるため,3本という意味),そして,おしまいの1は,従輪といって,運転室,すなわちキャブの下に見える,先輪に比べて少し大きな車輪の軸数です.日本では,現在も山口線や磐越西線で運行されているC57形がこのタイプにあたります.
*2) 運行の主催団体は,ウルム鉄道友の会(Ulmer Eisenbahnfreunde e.V.). 元々01 10形66号機(三気筒;重油燃焼方式;プレート表記は01 1066)が牽引機として予定されていたのですが,当時同機の点検修理が未完了だったため,急遽03形(当該列車を牽引した03 1010は,石炭燃焼)に変更されました.軸重軽減のため,01よりボイラー直径が細く設計されている03のほうが好きな私にとってみれば思わぬ僥倖でした.03 1010は,三気筒03の初期のマシンで当初は流線型のカバーが装着されていました.(そのときに撮影した写真を少しこちらのギャラリーに掲載しています.)
(上述した理由により,近年,JR東日本で復活されたC61形よりは細身のC57形のほうが好みです.さらに欲を云わせていただければ,動輪が,輪切りにされたれんこんのような見た目のボックス車輪よりも自転車の車輪のようなスポーク車輪のほうが綺麗と思うので,私に取って最も美しい国鉄の蒸気機関車と申しますと,過去に北海道の宗谷本線などで出会ったC55形です.そうした日本の機関車に比べて,ドイツの機関車の場合,01 5のような例外を除き,その動輪はすべてスポークです.このスタイルの車輪で特に美しく感じるのは,(上記三形式の場合,)三枚の動輪の真ん中の主動輪にピストンから伸びる主連棒をつないでいる,クランクと呼ばれる部分の周辺で車軸の中心から外方向に向かって見られる,水鳥の水かきのような形状です.そのせいか,なんだか,よけいに生き物に近いように感じてしまいます.↓)
*3) 通常,文献等においては,01や03といった基本の形式番号の後の10は,上付数字として表記されます.この上付数字の10は,当初製造された同形式のマシンが二気筒だったため,それらから.後に製造された三気筒機を区別するためのものです.
追記:
この投稿をした後,実は,もう一形式,あこがれているドイツの機関車があったことを思い出しました.19.10形です.この機関車の車軸配置は,VDEV/VMEV/UIC-Systemと呼ばれるドイツ式表記で,1'Do1'.日本のD51形などと同じです.が,特筆すべき特徴として,その1250ミリという比較的小さな動輪直径*4)にも拘らず,最高速度時速186 kmという高速走行が可能ということが挙げられます.参考迄に,日本でも大正時代に製造された,国産第一号の貨物列車用機関車9600形の動輪の直径も同寸法ですが,こちらの最高速度は,時速65kmでした.では,どこに前者の驚異的なスピードの秘密が隠されているのでしょう.ヒントは,上に記した軸配置のDの次に書かれたo(アルファベットのオー)です.これは,通常,ディーゼル機関車や電気機関車の車軸配置表記において動輪の軸数を表すアルファベットの後ろに見られますが,動輪の軸のそれぞれに,直接,内燃機関や電動機の回転が伝わる構造であることを表す記号です.ということは,この19.10形も,その4本の動輪の軸が,それぞれ独立して,シリンダーのピストンの往復運動から生じた回転運動を受け取る仕組みとなっているのでしょうか.実は,そのとおりなのです.この,1台しか製造されなかった,19.10形の車軸配置をもう少し他の要素も含めて表記すると,1'Do1' h8となります.ここで,hは,"Heißdampf"つまり(加熱)高温蒸気を使用することを意味し,8は,シリンダ数を表します.つまり,この極めて特殊な機関車(他にも,ドイツには,四気筒やタービン式等の変わり種(?)マシンが存在しますが)は,片側4個ずつ,合計8個のシリンダが装着されているのです.そして,それぞれの動輪の軸は,v字形に配置された2個のシリンダによって回転するというわけです.誠に,ドイツの蒸気機関車においては,なんでもありということの典型的な例証のひとつといえます.
良いこの皆さんの中で,鉄道,特に蒸気機関車が好きで,19.10形に興味をもった人がいたら,例えば,google.de(ドイツのグーグル)のBilder(画像)で,《BR 19 1001》というキーワードで検索してみてください.この風変わりな機関車の写真が見つかると思います.(19.10形については,Eisenbahn JOURNALの特別号Die Dampflokomotive - Technik und Funktion, Teil 4・Sonderbauarten deutscher Dampflokomotiven, VerlagsGruppe Bahn GmbH, 2003に豊富な写真や図面と共に詳細な解説が掲載されています.Cf. 同書"Dampfmotorlokomotiven", pp49ff)
*4) 画像を掲載した三形式の機関車の動輪直径は,皆2000ミリです.それだけ大きな動輪も備えていても,代表的急行旅客列車用機の01 10の営業最高速度は,時速150kmでした.また,日本の機関車の動輪の最大直径は,1750ミリで,1930年に東京 - 神戸間で運行が始まった特急つばめを牽引したC51形(旧18900形)以降,C62に至るまで,日本国有鉄道のすべての急行旅客列車用機関車の動輪直径は,このサイズでした.なお,ドイツの蒸気機関車の動輪の最大直径は,2300ミリ.因みに,これは,1936年5月11日,ハンブルク - ベルリンを結ぶ幹線内Friesack - Vietznitz間において合計重量197トンの列車を牽引しつつ,当時,蒸気機関車として世界最高速の200km/hをマークした05 002号機(2'C2' h3)や,流麗なデザインのタンク機関車61形(1935 製造の1号機は,2'C2' h2;1939年製造の2号機は, 高速走行時の横振軽減のため3シリンダとなり,2'C3' h3)の動輪のサイズです.なお,前者については,この輝かしい世界記録を樹立した際,速度計の針が振り切れてしまったそうで,実際は,200.4km/h,あるいは200.5km/h程度だったようですが,カーブの手前だったため,減速せざるを得ず,もしそのまま直線区間が続いていたら,当時のマシンコンディションから云って一層の加速が可能だったろうと云われています. 1936年といえば,ドイツ軍のポーランド侵攻によって勃発した第二次世界大戦の3年前で,1932年に政権の座についた,ヒットラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)が,第三帝国の国威発揚のための様々な宣伝活動を行っていた時期ですが,その意図に完全に合致する快挙でした.
近代の戦争において,兵員や物資の輸送,さらには,戦争捕虜,また,その存在が国家にとって不利益をもたらすと判断された特定の民間人などの収容所への輸送(ヴィシー政権下のフランスを始め,ドイツの占領地域におけるユダヤ人たち等)を担った鉄道は,なくてはならない最重要のインフラのひとつでした.ということは,また,鉄道施設を破壊することは,陸上における敵の補給路を断ち切ることであり,戦略上極めて重要な意味を持ったのです.それをはっきりと示したのが,近代における最初の総力戦と言われる南北戦争における,シャーマン将軍(Gen. William Tecumseh Sherman)率いる北軍(Union)のアトランタから東海岸に至る進撃でした.この作戦において,将軍の率いる部隊は,鉄道を含めて当該地域における社会基盤を徹底的に破壊し,南軍(Confederacy)の補給路を断たった事で,北軍の勝利を決定づけたのでした.ところで,この進撃の模様を描いたのが,後に作曲された"Marching Through Georgia"(『東京節』の原曲)です.
05 002は,現在,ニュールンベルグ交通博物館所蔵. 同博物館は,第二次世界大戦当時,ドイツにおいて鉄道がどのように非人間的な目的のために使われたかも詳細に展示しています.(こういった歴史に思いを向けながら,特に戦時形の052(1'E h2; 動輪直径1400mm)などを見かけると,この機関車も,ユダヤ人を輸送する貨車を牽引したのかしらんなどと考えてしまいます.)
少々脚注が長くなりますが,なにがなんでもドイツが好きというわけではないものの(例えば,ドイツ人の皆さんは,我が国の捕鯨活動に対して反対しすぎるように思えてなりません),少なくとも,こうした,自国の過去を直視できる勇気をもっている点においては,この国に対し尊敬と羨望の念を抱かざるを得ません.
以下,1985年5月8日にドイツ連邦議会プレナーザールで行われたドイツ終戦40周年記念式典におけるド イツ連邦共和国リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説 ("Zum 40. Jahrestag der Beendigung des Krieges in Europa und der nationalsozialistischen Gewaltherrschaft. Ansprache des Bundespräsidenten Richard von Weizsäcker am 8. Mai 1985 in der Gedenkstunde im Plenarsaal des Deutschen Bundestages")よりの引用です.日本語訳は、リヒャルト ・フォン・ヴァイツゼッカー,永井 清彦 訳『新版 荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』(岩波ブックレット No. 767),岩波書店,2009年, pp10,11よりの引用.
「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。」
" Wer seine Ohren und Augen aufmachte, wer sich informieren wollte, dem konnte nicht entgehen, daß Deportationszüge rollten."
「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」
" Wir alle, ob schuldig oder nicht, ob alt oder jung, müssen die Vergangenheit annehmen. Wir alle sind von ihren Folgen betroffen und für sie in Haftung genommen.
Jüngere und Ältere müssen und können sich gegenseitig helfen, zu verstehen, warum es lebenswichtig ist, die Erinnerung wachzuhalten.
Es geht nicht darum, Vergangenheit zu bewältigen. Das kann man gar nicht. Sie läßt sich ja nicht nachträglich ändern oder ungeschehen machen. Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschließt, wird blind für die Gegenwart. Wer sich der Unmenschlichkeit nicht erinnern will, der wird wieder anfällig für neue Ansteckungsgefahren."
BR03 10*3) (2'C1' h3) |
BR01 10*3) (2'C1' h3) |
BR10 (2'C1' h3) |
(掲載画像は,以前お土産に購入した,ノルトリンゲン(バイエルン)鉄道博物館(Bayerisches Eisenbahnmuseum Nördlingen) で販売されているステッカーの一部)
*1) 機関車のタイプの名称のひとつで,機関車本体の車輪の軸配置によるもの.2C1とも表記されます.最初の2は,先輪といって,前側の台車についている車輪の軸数.次のCは,真ん中の大きな動輪の軸数(アルファベットのAから数えて三文字目にあたるため,3本という意味),そして,おしまいの1は,従輪といって,運転室,すなわちキャブの下に見える,先輪に比べて少し大きな車輪の軸数です.日本では,現在も山口線や磐越西線で運行されているC57形がこのタイプにあたります.
*2) 運行の主催団体は,ウルム鉄道友の会(Ulmer Eisenbahnfreunde e.V.). 元々01 10形66号機(三気筒;重油燃焼方式;プレート表記は01 1066)が牽引機として予定されていたのですが,当時同機の点検修理が未完了だったため,急遽03形(当該列車を牽引した03 1010は,石炭燃焼)に変更されました.軸重軽減のため,01よりボイラー直径が細く設計されている03のほうが好きな私にとってみれば思わぬ僥倖でした.03 1010は,三気筒03の初期のマシンで当初は流線型のカバーが装着されていました.(そのときに撮影した写真を少しこちらのギャラリーに掲載しています.)
特別列車の牽引機03 1010のキャプ |
夕刻ブレーメン中央駅7番線ホームに戻った特別列車 |
(上述した理由により,近年,JR東日本で復活されたC61形よりは細身のC57形のほうが好みです.さらに欲を云わせていただければ,動輪が,輪切りにされたれんこんのような見た目のボックス車輪よりも自転車の車輪のようなスポーク車輪のほうが綺麗と思うので,私に取って最も美しい国鉄の蒸気機関車と申しますと,過去に北海道の宗谷本線などで出会ったC55形です.そうした日本の機関車に比べて,ドイツの機関車の場合,01 5のような例外を除き,その動輪はすべてスポークです.このスタイルの車輪で特に美しく感じるのは,(上記三形式の場合,)三枚の動輪の真ん中の主動輪にピストンから伸びる主連棒をつないでいる,クランクと呼ばれる部分の周辺で車軸の中心から外方向に向かって見られる,水鳥の水かきのような形状です.そのせいか,なんだか,よけいに生き物に近いように感じてしまいます.↓)
03 1010の主動輪 |
追記:
この投稿をした後,実は,もう一形式,あこがれているドイツの機関車があったことを思い出しました.19.10形です.この機関車の車軸配置は,VDEV/VMEV/UIC-Systemと呼ばれるドイツ式表記で,1'Do1'.日本のD51形などと同じです.が,特筆すべき特徴として,その1250ミリという比較的小さな動輪直径*4)にも拘らず,最高速度時速186 kmという高速走行が可能ということが挙げられます.参考迄に,日本でも大正時代に製造された,国産第一号の貨物列車用機関車9600形の動輪の直径も同寸法ですが,こちらの最高速度は,時速65kmでした.では,どこに前者の驚異的なスピードの秘密が隠されているのでしょう.ヒントは,上に記した軸配置のDの次に書かれたo(アルファベットのオー)です.これは,通常,ディーゼル機関車や電気機関車の車軸配置表記において動輪の軸数を表すアルファベットの後ろに見られますが,動輪の軸のそれぞれに,直接,内燃機関や電動機の回転が伝わる構造であることを表す記号です.ということは,この19.10形も,その4本の動輪の軸が,それぞれ独立して,シリンダーのピストンの往復運動から生じた回転運動を受け取る仕組みとなっているのでしょうか.実は,そのとおりなのです.この,1台しか製造されなかった,19.10形の車軸配置をもう少し他の要素も含めて表記すると,1'Do1' h8となります.ここで,hは,"Heißdampf"つまり(加熱)高温蒸気を使用することを意味し,8は,シリンダ数を表します.つまり,この極めて特殊な機関車(他にも,ドイツには,四気筒やタービン式等の変わり種(?)マシンが存在しますが)は,片側4個ずつ,合計8個のシリンダが装着されているのです.そして,それぞれの動輪の軸は,v字形に配置された2個のシリンダによって回転するというわけです.誠に,ドイツの蒸気機関車においては,なんでもありということの典型的な例証のひとつといえます.
良いこの皆さんの中で,鉄道,特に蒸気機関車が好きで,19.10形に興味をもった人がいたら,例えば,google.de(ドイツのグーグル)のBilder(画像)で,《BR 19 1001》というキーワードで検索してみてください.この風変わりな機関車の写真が見つかると思います.(19.10形については,Eisenbahn JOURNALの特別号Die Dampflokomotive - Technik und Funktion, Teil 4・Sonderbauarten deutscher Dampflokomotiven, VerlagsGruppe Bahn GmbH, 2003に豊富な写真や図面と共に詳細な解説が掲載されています.Cf. 同書"Dampfmotorlokomotiven", pp49ff)
*4) 画像を掲載した三形式の機関車の動輪直径は,皆2000ミリです.それだけ大きな動輪も備えていても,代表的急行旅客列車用機の01 10の営業最高速度は,時速150kmでした.また,日本の機関車の動輪の最大直径は,1750ミリで,1930年に東京 - 神戸間で運行が始まった特急つばめを牽引したC51形(旧18900形)以降,C62に至るまで,日本国有鉄道のすべての急行旅客列車用機関車の動輪直径は,このサイズでした.なお,ドイツの蒸気機関車の動輪の最大直径は,2300ミリ.因みに,これは,1936年5月11日,ハンブルク - ベルリンを結ぶ幹線内Friesack - Vietznitz間において合計重量197トンの列車を牽引しつつ,当時,蒸気機関車として世界最高速の200km/hをマークした05 002号機(2'C2' h3)や,流麗なデザインのタンク機関車61形(1935 製造の1号機は,2'C2' h2;1939年製造の2号機は, 高速走行時の横振軽減のため3シリンダとなり,2'C3' h3)の動輪のサイズです.なお,前者については,この輝かしい世界記録を樹立した際,速度計の針が振り切れてしまったそうで,実際は,200.4km/h,あるいは200.5km/h程度だったようですが,カーブの手前だったため,減速せざるを得ず,もしそのまま直線区間が続いていたら,当時のマシンコンディションから云って一層の加速が可能だったろうと云われています. 1936年といえば,ドイツ軍のポーランド侵攻によって勃発した第二次世界大戦の3年前で,1932年に政権の座についた,ヒットラー率いる国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)が,第三帝国の国威発揚のための様々な宣伝活動を行っていた時期ですが,その意図に完全に合致する快挙でした.
ニュールンベルグ交通博物館の05 002 |
近代の戦争において,兵員や物資の輸送,さらには,戦争捕虜,また,その存在が国家にとって不利益をもたらすと判断された特定の民間人などの収容所への輸送(ヴィシー政権下のフランスを始め,ドイツの占領地域におけるユダヤ人たち等)を担った鉄道は,なくてはならない最重要のインフラのひとつでした.ということは,また,鉄道施設を破壊することは,陸上における敵の補給路を断ち切ることであり,戦略上極めて重要な意味を持ったのです.それをはっきりと示したのが,近代における最初の総力戦と言われる南北戦争における,シャーマン将軍(Gen. William Tecumseh Sherman)率いる北軍(Union)のアトランタから東海岸に至る進撃でした.この作戦において,将軍の率いる部隊は,鉄道を含めて当該地域における社会基盤を徹底的に破壊し,南軍(Confederacy)の補給路を断たった事で,北軍の勝利を決定づけたのでした.ところで,この進撃の模様を描いたのが,後に作曲された"Marching Through Georgia"(『東京節』の原曲)です.
05 002は,現在,ニュールンベルグ交通博物館所蔵. 同博物館は,第二次世界大戦当時,ドイツにおいて鉄道がどのように非人間的な目的のために使われたかも詳細に展示しています.(こういった歴史に思いを向けながら,特に戦時形の052(1'E h2; 動輪直径1400mm)などを見かけると,この機関車も,ユダヤ人を輸送する貨車を牽引したのかしらんなどと考えてしまいます.)
少々脚注が長くなりますが,なにがなんでもドイツが好きというわけではないものの(例えば,ドイツ人の皆さんは,我が国の捕鯨活動に対して反対しすぎるように思えてなりません),少なくとも,こうした,自国の過去を直視できる勇気をもっている点においては,この国に対し尊敬と羨望の念を抱かざるを得ません.
以下,1985年5月8日にドイツ連邦議会プレナーザールで行われたドイツ終戦40周年記念式典におけるド イツ連邦共和国リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説 ("Zum 40. Jahrestag der Beendigung des Krieges in Europa und der nationalsozialistischen Gewaltherrschaft. Ansprache des Bundespräsidenten Richard von Weizsäcker am 8. Mai 1985 in der Gedenkstunde im Plenarsaal des Deutschen Bundestages")よりの引用です.日本語訳は、リヒャルト ・フォン・ヴァイツゼッカー,永井 清彦 訳『新版 荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領ドイツ終戦40周年記念演説』(岩波ブックレット No. 767),岩波書店,2009年, pp10,11よりの引用.
「目を閉ざさず、耳を塞がずにいた人びと、調べる気のある人たちなら、(ユダヤ人を強制的に)移送する列車に気づかないはずはありませんでした。」
" Wer seine Ohren und Augen aufmachte, wer sich informieren wollte, dem konnte nicht entgehen, daß Deportationszüge rollten."
「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。だれもが過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされております。
心に刻みつづけることがなぜかくも重要なのかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。
問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」
" Wir alle, ob schuldig oder nicht, ob alt oder jung, müssen die Vergangenheit annehmen. Wir alle sind von ihren Folgen betroffen und für sie in Haftung genommen.
Jüngere und Ältere müssen und können sich gegenseitig helfen, zu verstehen, warum es lebenswichtig ist, die Erinnerung wachzuhalten.
Es geht nicht darum, Vergangenheit zu bewältigen. Das kann man gar nicht. Sie läßt sich ja nicht nachträglich ändern oder ungeschehen machen. Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschließt, wird blind für die Gegenwart. Wer sich der Unmenschlichkeit nicht erinnern will, der wird wieder anfällig für neue Ansteckungsgefahren."
戦時形機関車52形(ノルトリンゲン鉄道博物館野外展示車両) |
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