大船渡に来てから読んだ本の中に,ジャーナリストの門田隆将さんの『記者たちは海に向かった』があります.最初から引き込まれ,一気に読み終えました.それから程なくして,この本のあとがきで,津田大介さんが薦めていた同じ門田さんの『死の淵を見た男』も読んだのですが,何か,奇妙な読後感を覚えていることに気づきました.
端的に言うと,文章が汗臭いのです.体育会系的文章と言ったほうが判りやすいかもしれません.登場人物たちの関係,また,彼らの人となりの説明において,これでもかといわぬばかりに,彼らが学生時代に所属した運動部や,そして,その体格などが詳しく説明され,彼らの関係も,同じ運動をしていた者同士といった視点から述べられています.まるで,彼らが危機に立ち向かえたのは,皆,運動部に属して体も心も鍛えぬいていたためだと言っているように思えなくもないほどです.
もちろん,今でも上掲の2冊は読んで良かったと思っています.ただ,'汗臭さ'について言うなら,本来,もっとこうした汗臭さを感じて良さそうな旧海軍兵学校の生活にも言及がある,例えば阿川弘之の『米内光政』,実松譲『新版 米内光政』などを読んでも,不思議なことにそうした汗臭さを感じることは微塵もありません.
話があちこちへ飛んで申し訳ありませんが,今,これを書きながら,子供の頃にテレビで視た一連の青春ドラマシリーズの第一作『青春とはなんだ』(日本テレビ,1965年10月24日 - 1966年11月13日(41回)原作は石原慎太郎)の挿入歌『貴様と俺』(歌:布施明(作詞:岩谷時子 作曲・編曲:いずみたく)を思い出しました.が,それでも,上述したまでの汗臭さは感じません.
ここで,標題の問いに対する私自身の答えは,(同世代の方なら想像に難くないと思いますが,)東京オリンピックあたりからというものです.今でも思い出しますが,それまで欠かさず読んでいた『少年サンデー』や『少年マガジン』などの週刊少年雑誌は,そのころから全く読まなくなりました.理由は単純で,さしたる面白味を感じないスポーツものが増えてきたせいです. スポーツもの,あるいはスポーツ根性ものと呼ばれるコミック作品の第一号と言ってもよい『巨人の星』が『少年マガジン』での連載が開始されるのが1966年.オリンピックの東京開催の翌々年です.コミック誌は読まなくなったものの,この作品は,たまにテレビで視ていましたが,友達との会話にのぼるとしても「大リーグボール養成ギブスをつけて,何もしていなときは,星飛雄馬は一体どういう姿勢になっているのだろうか」などと冗談の種としてくらいでした.
日本が汗臭くなったのが,理性と精神,あるいは根性の対立,あるいは相克において前者が後者に対し劣勢になったからと,仮に言えるとしたら,大好きだった(今も好きですが),東宝のSFおよび特撮映画の変遷がそれを明白に示してくれるので,下の表にこのャンルに属する主だった作品をまとめてみました.
上の表をみるとき,これらの特撮映画において理性や知性が,それまで占めていた地位を根性,あるいは単なるエンターテーメント性に譲り渡したのが,東京オリンピックとそれに続く数年の間だったと感じるのです.それを端的に表しているのが,1954年の『ゴジラ』で山根博士役を演じ,その後も,数々の作品で理性を象徴する科学者の役を演じた志村喬や同じく芹沢博士を演じた平田昭彦が,そうした役柄で登場しなくなったことではないかと思っています.(平田昭彦が最後に科学者の役を演じたのは,『さよならジュピター』(東宝,イオ合作, 1984年)) 志村が東宝の特撮映画で最後に科学者の役を演じたのは,『フランケンシュタイン対地底怪獣』だったと思います.(この映画とその続編ともいえる『... サンダ対ガイラ』にも科学者は登場しますが,もはや,純粋な意味でSF映画というジャンルに属さなくなるその後の作品群への移行期にあった作品と言えるでしょう.(強いて言えば,理知性を重んじるモチーフをテレビにおいて受け継いだのは,『怪奇大作戦』だったと思います.) こうした東宝のSF映画には,他にも村上冬樹や中村伸郎などが科学者として登場し,彼らは物語の展開において重要な役割を果たしていました.
汗臭くなった日本では,ことさら若尊老卑主義(Jeunisme)や年齢による差別(Agism)が強まっています.そして,'いじめ'や'麻薬'の使用をしないよう訴えるポスターには,世界で活躍する若いアスリートの写真が印刷されていますが,ある人々が子供たちの模範にしたいアスリートの世界にも問題がないわけではありません.コーチによる暴力を伴う行き過ぎた指導,麻薬の使用等々.アスリートたちは,純粋に自分の能力の限界に挑戦し,世界で活躍することだけを目標とします.それ自体,もちろん素晴らしいことです.しかし,すべての人が彼らのようになることは,逆に百害あって一利なしであることにも気づかなければなりません.今や,日本は,その歴史に於いてもっとも封建的な時代に入ったようです.明治政府の有司専制の弊害は,戦前,戦後を通じて,顔の見えない官僚組織に受け継がれ,さらに巨大強固なものとなっています.もし,すべての日本人がアスリートのように,わき見もふらず,ひたすら国が示す目標に向かって働き続けるのであれば,官僚は,国民を自らの利益のために使う興行主に例えることができるでしょう.それはまた,「俺についてこい!」(大松博文元女子バレー日本代表チーム監督の言葉)的社会,あるいは国とでも言えるものかも知れません.いや,日本人は,そういわれなくても誰かについていってしまう民族のようです.今回のカルロス・ゴーン逮捕に至る日産の姿勢も,それを示していると言えるでしょう.
最後に,冒頭で紹介した2冊に戻りますが,汗臭い人間ドラマが著者が描きたかった内容であり,他を望むのであれば,それに応えてくれる内容の本を見つければよいだけの話といわれればその通りです.個人的には,マークI型固有の問題,福島第一原子力発電所の設計の問題,そして,同じタイプの原子炉を使っていながら最悪の事態は避けられた女川原子力発電所との違い,特に貞観,慶長の津波被害を念頭に置き,後者を高台に設置することの重要性を訴えた平井弥之助の功績などを,別の複数の本を通じて知ることができました.ただ,未だ,技術者の視点から検証した本には出会っておりません.例えば,神風特別攻撃が目的合理性の視点からいかに非合理極まりないものであったかを明瞭に述べた内藤 初穂 【著】『海軍技術戦記』 (1976年)のような.
端的に言うと,文章が汗臭いのです.体育会系的文章と言ったほうが判りやすいかもしれません.登場人物たちの関係,また,彼らの人となりの説明において,これでもかといわぬばかりに,彼らが学生時代に所属した運動部や,そして,その体格などが詳しく説明され,彼らの関係も,同じ運動をしていた者同士といった視点から述べられています.まるで,彼らが危機に立ち向かえたのは,皆,運動部に属して体も心も鍛えぬいていたためだと言っているように思えなくもないほどです.
もちろん,今でも上掲の2冊は読んで良かったと思っています.ただ,'汗臭さ'について言うなら,本来,もっとこうした汗臭さを感じて良さそうな旧海軍兵学校の生活にも言及がある,例えば阿川弘之の『米内光政』,実松譲『新版 米内光政』などを読んでも,不思議なことにそうした汗臭さを感じることは微塵もありません.
話があちこちへ飛んで申し訳ありませんが,今,これを書きながら,子供の頃にテレビで視た一連の青春ドラマシリーズの第一作『青春とはなんだ』(日本テレビ,1965年10月24日 - 1966年11月13日(41回)原作は石原慎太郎)の挿入歌『貴様と俺』(歌:布施明(作詞:岩谷時子 作曲・編曲:いずみたく)を思い出しました.が,それでも,上述したまでの汗臭さは感じません.
ここで,標題の問いに対する私自身の答えは,(同世代の方なら想像に難くないと思いますが,)東京オリンピックあたりからというものです.今でも思い出しますが,それまで欠かさず読んでいた『少年サンデー』や『少年マガジン』などの週刊少年雑誌は,そのころから全く読まなくなりました.理由は単純で,さしたる面白味を感じないスポーツものが増えてきたせいです. スポーツもの,あるいはスポーツ根性ものと呼ばれるコミック作品の第一号と言ってもよい『巨人の星』が『少年マガジン』での連載が開始されるのが1966年.オリンピックの東京開催の翌々年です.コミック誌は読まなくなったものの,この作品は,たまにテレビで視ていましたが,友達との会話にのぼるとしても「大リーグボール養成ギブスをつけて,何もしていなときは,星飛雄馬は一体どういう姿勢になっているのだろうか」などと冗談の種としてくらいでした.
日本が汗臭くなったのが,理性と精神,あるいは根性の対立,あるいは相克において前者が後者に対し劣勢になったからと,仮に言えるとしたら,大好きだった(今も好きですが),東宝のSFおよび特撮映画の変遷がそれを明白に示してくれるので,下の表にこのャンルに属する主だった作品をまとめてみました.
年 | 作品 | 備考 |
1954 | ゴジラ,透明人間 | |
1955 | ゴジラの逆襲 | |
1956 | 空の大怪獣ラドン | |
1957 | 地球防衛軍 | |
1958 | 美女と液体人間,大怪獣バラン | |
1959 | 宇宙大戦争 | |
1960 | 電送人間,ガス人間第一号 | |
1961 | モスラ | |
1962 | 妖星ゴラス,キングコング対ゴジラ | |
1963 | マタンゴ,海底軍艦 | |
1964 | 宇宙大怪獣ドゴラ,モスラ対ゴジラ,三大怪獣地球最大の決戦,怪獣大戦争 | 東京オリンピック |
1965 | フランケンシュタイン対地底怪獣,太平洋戦争の奇跡 キスカ,ゴジラ・エビラ・モスラ 南海の大決闘 | 巨人の星 |
1966 | フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ | ウルトラQ,ウルトラマン(-1967) |
1967 | キングコングの逆襲,怪獣島の決戦 ゴジラの息子 | |
1968 | 怪獣総進撃 | 怪奇大作戦(-1969),国鉄のダイヤ大改正 |
1969 | 日本海大海戦,ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃 | |
1970 | ||
1971 | ゴジラ対ヘドラ |
上の表をみるとき,これらの特撮映画において理性や知性が,それまで占めていた地位を根性,あるいは単なるエンターテーメント性に譲り渡したのが,東京オリンピックとそれに続く数年の間だったと感じるのです.それを端的に表しているのが,1954年の『ゴジラ』で山根博士役を演じ,その後も,数々の作品で理性を象徴する科学者の役を演じた志村喬や同じく芹沢博士を演じた平田昭彦が,そうした役柄で登場しなくなったことではないかと思っています.(平田昭彦が最後に科学者の役を演じたのは,『さよならジュピター』(東宝,イオ合作, 1984年)) 志村が東宝の特撮映画で最後に科学者の役を演じたのは,『フランケンシュタイン対地底怪獣』だったと思います.(この映画とその続編ともいえる『... サンダ対ガイラ』にも科学者は登場しますが,もはや,純粋な意味でSF映画というジャンルに属さなくなるその後の作品群への移行期にあった作品と言えるでしょう.(強いて言えば,理知性を重んじるモチーフをテレビにおいて受け継いだのは,『怪奇大作戦』だったと思います.) こうした東宝のSF映画には,他にも村上冬樹や中村伸郎などが科学者として登場し,彼らは物語の展開において重要な役割を果たしていました.
汗臭くなった日本では,ことさら若尊老卑主義(Jeunisme)や年齢による差別(Agism)が強まっています.そして,'いじめ'や'麻薬'の使用をしないよう訴えるポスターには,世界で活躍する若いアスリートの写真が印刷されていますが,ある人々が子供たちの模範にしたいアスリートの世界にも問題がないわけではありません.コーチによる暴力を伴う行き過ぎた指導,麻薬の使用等々.アスリートたちは,純粋に自分の能力の限界に挑戦し,世界で活躍することだけを目標とします.それ自体,もちろん素晴らしいことです.しかし,すべての人が彼らのようになることは,逆に百害あって一利なしであることにも気づかなければなりません.今や,日本は,その歴史に於いてもっとも封建的な時代に入ったようです.明治政府の有司専制の弊害は,戦前,戦後を通じて,顔の見えない官僚組織に受け継がれ,さらに巨大強固なものとなっています.もし,すべての日本人がアスリートのように,わき見もふらず,ひたすら国が示す目標に向かって働き続けるのであれば,官僚は,国民を自らの利益のために使う興行主に例えることができるでしょう.それはまた,「俺についてこい!」(大松博文元女子バレー日本代表チーム監督の言葉)的社会,あるいは国とでも言えるものかも知れません.いや,日本人は,そういわれなくても誰かについていってしまう民族のようです.今回のカルロス・ゴーン逮捕に至る日産の姿勢も,それを示していると言えるでしょう.
最後に,冒頭で紹介した2冊に戻りますが,汗臭い人間ドラマが著者が描きたかった内容であり,他を望むのであれば,それに応えてくれる内容の本を見つければよいだけの話といわれればその通りです.個人的には,マークI型固有の問題,福島第一原子力発電所の設計の問題,そして,同じタイプの原子炉を使っていながら最悪の事態は避けられた女川原子力発電所との違い,特に貞観,慶長の津波被害を念頭に置き,後者を高台に設置することの重要性を訴えた平井弥之助の功績などを,別の複数の本を通じて知ることができました.ただ,未だ,技術者の視点から検証した本には出会っておりません.例えば,神風特別攻撃が目的合理性の視点からいかに非合理極まりないものであったかを明瞭に述べた内藤 初穂 【著】『海軍技術戦記』 (1976年)のような.
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