Sunday 8 July 2018

《自己責任》とは《絆》を断ち切るのに有効な言葉.大船渡で,ある日曜日に思ったこと - 所感

《自己責任》と言う言葉を耳にするようになったのは,イラクが大量破壊兵器を所有していると言う虚偽の根拠に基づくアメリカの同国の侵攻が終了後の2004年4月以降,現地を訪れた日本人のジャーナリストやボランティアが,テロリスト集団の人質になったり,また,当該集団によって殺害されたりした頃に,広く使われ始めたような覚えがあります.

そして,《絆》と言う言葉は,特に東日本大震災後に,よく見聞きするようになったような気がします.

ある人たちが島国根性が染みついていると形容する私たち日本人は,確かに,それが,自分たちに関係しない限り,他国で起きていることに,全くと言ってよいほど無関心です.それが甚だしいのは,特に人権が絡む問題や事件です.また,人の命が危険にさらされ,日本人もその解決のために現地で活動している事件についても,典型的な日本のメディアであるNHKは,一切,報道しません.また,日本人が抱くロシアの心象を傷つけるようなことも,現政権をおもんばかって,(すなわち,官邸の意向を《忖度》して,) こちらも一切,報道しません.今や,私たちも主にインターネットを通じて日常的に接することができる外国の報道は,例えば,自国民が巻き込まれていようといまいと,重要な事件や事故は,必ず詳細に報道します.(個人的には,家にいるときは,主に音楽と文化番組と毎正時のニュースを配信する北ドイツ文化放送をBGMとして流し,寝る前にはBBCのNewsroomに耳を傾けるのは,そのためです.)

私たちは,日本に生まれれば,すでにその時点で,互いに日本国民同士であると言う意識が無意識下であっても(,または,無意識下であれば,なおのこと),他の国で一般的に人々る以上に強く持ち,そのため,相手や同じ集団に属する他者の生存に対し,一定の責任を負っていると言う認識も他の国で認識されている以上に強く持っています.まさに,生まれば,村の氏神様の氏子となるのと一緒です.そして,こうした,元々の氏神を中心にした人々の自村帰属意識を国民全体に拡大し,彼らの氏神(,あるいはその代理)は天皇であると言うイデオロギーを発案したのは,長州藩士伊藤博文や肥後藩士の井上毅ですが,それ以降,日本人の一般的な世界観のそれ以上の拡大を促す契機は生まれませんでした.

そうなると,上述したケースの前者の場合は,そうした《絆》の切断およびその正当性を自らに納得させることが必要になりますが,それは,簡単に言えば,罪責感から逃れるためです.別の言い方をするなら,日本人と言う,互いの生存に対し極めて強い責任意識を,殆ど生まれながらに持っているが故に,敢えて,そうした言葉で特定の状況下で面倒なものと変化した当該の関係性を切断し,自らに咎がないことを自らと同じ集団に属する他者にも宣言しなければなりません.そうした際には,日本人の精神に伝統的に染みついている日本的言霊信仰に基づき,新しい言葉を使用することが有効であると理解され(漢語も含め外国語が特に有効.それも,自らが憧れ,模範とする国の言葉),使われ始めたのが,この《自己責任》と言う言葉ではないでしょうか.なお,同族に属する他者に対する,こうした強い責任意識が,別の場面では他者に対する封建的な不寛容につながってしまうことは言うまでもありません.敷衍して言えば,そうした傾向は,いわゆる《いじめ》の動機の一部を成すものと言えるでしょう.

そして,後者のケースでは,そうした同族の他者の生存に対して負っている(,あるいは負わされている,)責任を忘れてはいないことを自らと同族の他者たちに,敢えて宣言しなければなりません.こちらも,もちろん,罪責感から逃れるためです.そこで,使われたのが,《絆》と言う言葉であると言えるでしょう.

個人的には,《自己責任》と言う意味が曖昧模糊とした言葉よりも,(それなりの)《覚悟》,《心構え》,あるいは《心づもり》の方が,はるかに意味内容が明確であり,好きです.

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