Saturday 17 December 2016

憲法を巡る議論を聞いて思い出したこと - 所感

昨今の憲法を巡る話題を耳にして思い出したのは,本居宣長の次の歌です.

言挙(ことあげ)せぬ国にはあれども枉説(まがこと)の言挙こちたみ言挙す()

言挙しない国とは,もちろん我が敷島,あるいは秋津島,すなわち日本のことです.彼のもっともよく知られた次の歌にも,そうした思想は表現されています.
敷島のやまと心を人とはば朝日ににほふ山ざくら花
こうした傾向は,近代では中原中也などにも受け継がれていますし,日本の俳句や漢字にヒントを得て構築されたエイゼンシュタインのモンタージュ理論などの基底を成すものです. (より身近であるお芝居の世界に於ける典型例は『忠臣蔵』の中のワンシーン.大高源吾と彼の俳句の先生だった其角との両国橋上での次のリスポンソリアルです.其角「年の瀬や 水の流れと人の身は」;源吾「あしたまたるる その宝船」.もちろん,こうしたエピソードは『忠臣蔵』の中に他にもあまた存在しますし,他の作品,例えば同じ歌舞伎の演目の中では『義経千本桜』,浪曲では,やはり忠臣蔵のスピンオフのひとつ『天野屋利兵衛』などに見られますが,きりがないのでこの程度で留めます.でも,これらのお芝居に於ける'言挙'を避ける所作は,思いやりの精神を示すものであり,以下で述べる「甘え」や「依存」とは異なるものです,)

そして,思い出した言葉をもうひとつ.『西園寺公と政局』の中の元老西園寺公望の次の言葉です.
「どうも日本人は一体王制が嫌いで,やっぱり武家政治が向くのかな.憲法がどうしてそんなに厭なのかな.」
アメリカから押し付けられたにせよ(実際はそんなことありませんが),そうでないにせよ,私たち日本人は,言葉によって縛られるのがいやなのです.しかるに西洋的近代人にはなれず,日本社会全体およびそれに含まれる全ての社会集団が今だに幼児的且つ情緒的依存性,つまり『甘え』によってのみ成り立つ日本的村落共同体的組織であり続けているのです.暫く前に騒がれた電通の新入社員の方の自殺も,その根本的な原因はここにあります.彼女は,上司,そして企業組織の甘えに応えるよう強いられた,そしてそれに全力を注いで応えようとしたものの,力尽きるに至り,自らの命を絶たざるを得ない状況に追い込まれてしまったのです.それは,母子が無理心中しようとしたものの,母のみが自殺した場合,または育児ノイローゼに悩み母親が自殺した場合と構造的に見て同じ事象なのです.本当にお気の毒に思います.彼女は,そして,彼女と同じ道を選ばざるをえなかったすべての方々は,日本の,そして日本人の前近代性の犠牲になったと言っても過言ではありません.より正確に言うならば,前近代的な意識や思考から抜け出せないまま,西洋の制度を選択的に導入し続けたこの国の歪んだフランケンシュタインのような'近代化'の犠牲となったと言えるでしょう.甘えや依存に慣れきった上司や組織が特定の従業員に過度の負担を強いる行為は,丁度,大勢の赤ちゃんが1人の母親に一度にお乳をせがむようなものであるとも述べておきます.

古代ギリシャ,エペソスの女神アルテミス.(Wikipediaのフリー画像) これだけお乳があれば,一度に大勢の赤ちゃんに十分に飲ませることができますが,人間1人の身体,精神的能力は限られています.

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