Tuesday 3 September 2013

日本人を少し理解するためのヒント - ドラマとアニメーションから見えてくるもの

先日,スイスで旧フランス国鉄の蒸気機関車2両を見る機会がありました.1両はマウンテンタイプの241A65,そしてもう1両はミカドタイプの141R1244です.後でこれらの機関車を撮影した写真を見ながら,昔の怪獣映画『サンダ対ガイラ』(1966年,東宝)を思い出しました.これら2両のエンジンをほぼ同時に見たため,241Aの塗装はブラウン系なので山のフランケンシュタイン*1)で善人のサンダ(山ダ)を,そして,141Rのほうはグリーン系なので海のフランケンシュタインで凶悪なガイラ(海ラ)を記憶の深い底から呼び覚ましたようです.『サンダ対ガイラ』 を思い出すと,同時に2011年に放送されたテレビドラマ『妖怪人間ベム』も思い出しました.後者は,子供の頃観ていたアニメーションと同じ題名だったため,懐かしさから年甲斐も無く観てしまったのですが,内容的にはアニメーションとは全くと言って良い程異なるものだったので,どうしても違和感は覚えざるを得ませんでした.しかし,自分が持っていたイメージとはかなり異なるとはいえ,主人公を演じる三人の俳優の演技の素晴らしさを始め,脇役の俳優たちの醸し出す,何かとても温かい雰囲気が気に入り,結局最終回迄観てしまいました.そして,最終回を観た後に頭に浮かんで来たのが,『サンダ対ガイラ』だったのです.それは,両方とも一つの細胞(あるいは細胞のようなもの)から善と悪の性質を持った二種類の個体が生まれるという点で共通していたからでした.

ところで,このふたつの物語にはもうひとつ共通するものがあるように思えるのです.それは,登場する生物と彼らの父親的存在との関係性です.『サンダ対ガイラ』では,二人のフランケンシュタインと彼らの研究を続けるスチュワート博士との間に,そして『妖怪人間ベム』では,三人の妖怪人間と彼らを造り出した緒方博士との間に存在するものです.ただ,その関係性も厳密に言うとそれぞれにおいてやや異なっていて,前者においては,父親的存在であるスチュワート博士が,防衛隊から攻撃されようとするフランケンシュタインたちを救うために彼らを見つけようとします.つまり,父が子を探すわけです.逆に,後者では,ベムたちは自分たちを造った緒方博士に会おうとします.こちらでは,父を探す子の姿が描かれます.子供の成長段階に照らして考えると,前者は,幼児,あるいは小児と父親の関係,そして,後者は,さらに成長した少年,または青年と父親との関係に例えることが出来るでしょう.(三人の妖怪人間は,子供と大人ですが.)しかし,どちらの話においても,子供と父親との間の関係が断ち切れている前提は共通しています.

前置きが長くなりましたが,実は,この子供と父親との関係,特に《父親を探し求める子供》的な衝動が集団としての日本人の行動を無意識のうちに方向付けているように思えてならないのです.
一般に,生物における父親の役割は,家族の防衛,食物の調達,子供の教育と言われます.人間の父親にとって,特に最後の教育は重要な役目です.ここでいう教育とは,単に倫理規範を教えると言ったものではなく,例えば,自分たちが生きている世界の構造や仕組みを示し,それとの関係の築き方など,生きて行くための知識や技術の伝達です.歴史を眺めたとき,日本人は,特に歴史の転換点において,この教育をしてくれる父親的存在を絶えず外国に求めてきました.具体的には,6世紀や7世紀に仏教や律令制を教えてくれた唐,明治国家を建設するときに手本とした欧米諸国,そして,第二次世界大戦における敗北後は,民主国家を実現するための教育者としてのアメリカという具合に.何故,日本人は外国に教育してくれる父親的存在を探さなければならなかったのかというと,それは自然環境との関係が父親と子供の間より母親と子供の間に存在するものに近いものだったことが原因ではなかったかと思います.豊かで季節毎にさまざまな食物の恩恵をもたらしてくれる一方で,台風,地震,火山噴火などの災害により周期的に被害をももたらすというのが日本の自然です.特に災害については,山,谷,川といった地理的形状によって人々の移動も物理的に制限されていたため,村落全体の存続が不可能になるほどの壊滅的な被害が発生する場合もあり得ます.こうした条件の下で暮らす人間にとって,彼らが生きる世界を形成する日本の自然は,その性質から子供を慈しむ母親であると同時に気まぐれでヒステリックな恐ろしい母親に近い存在として捉えるのが,世界との関係性構築のために選択した合理的な認識方法だったのではないでしょうか.ただ,その結果として,自然を分析し,それを支配する原則を見つけ出し,それを管理,制御,利用して自分たちのために《よりよい状態》を造り出すといった行動,すなわち人間という生き物の文化という営み*2)へ向かわせる衝動が抑えられてしまい,それよりは自然が与えられるものを待ち受け,なおかつそれがヒステリックな行動に出ないよう機嫌をとる(具体的には宗教的な祭祀によって)という,どちらかというと受動的で静的な,そして小児的な姿勢が発達してしまった,そのために,対世界の関係が大きく変化し,自らの存続を確保するためには行動様式を大きく変えざるを得ない場合などには,どうしても自分たちを教え導いてくれる存在を外に求めざるを得なくなってしまったのではないか,そう思えるのです.つまり,保護者としての母親の介入,あるいは仲介が前提である幼児,あるいは小児として世界と向き合う姿勢ではもはや生存が確保されないような急激な変化が世界に生じたときに,そこでの行動の仕方を教えてくれる教育者としての父親的存在の不在です.

翻って,幕末以降近代化を目指す日本が手本にした西洋諸国を眺めてみると,それらは自らの力で工業文明や近代市民社会を築き上げてきました.その歴史的なプロセスを眺めてみると,父親的権威との対決,そして否定,例えているならば《父親殺し》とでも言える出来事が時折起きているのに気がつきます.それらはこうした西洋の歴史の中でブースター的な役割を果たしたと言って良いと思います.判り易い例を挙げれば,宗教改革の口火を切ったマルティン・ルターによる当時のカトリック教会への疑問提示です.それまで教会は,教皇を頂点に地上に置ける神の代理機関として,民衆の精神へはもちろん,世俗的な権威へまで支配を及ぼしていました.ルターは,教会が神から授与されたという権威そのものに疑問を呈したのです.その疑問とは,彼が聖書という神からの啓示を研究してたどり着いた結論でした.聖書はクリスチャンにとって普遍の真理を示した神の言葉です.しかし,それと教会の教えや行為とが一致していないことを彼は発見したのでした.宗教改革が起こった16世紀から100年以上経って英国では啓蒙主義運動が起こり,やがてそれはフランスやドイツなど大陸にも広がり,フランス革命の思想的な背景にもなりました.啓蒙主義運動も普遍的真理の探求がその目指すところでしたが,こちらは必ずしも聖書の啓示にこだわらず,自然科学などの方法を用いて,むしろ 聖書の外にそれをを見いだそうとしました.啓蒙主義運動の一つの結果とも言えるフランス革命も,それまで民衆を支配して来た王や貴族の権威や支配の否定であり,その意味でやはり《父親殺し》だったと言えます.なお,ここで心に留めておきたいのは,こうした父親殺しには,それまで父親的な存在(基本的には支配する権威)が示していた世界像が真実ではないことの発見が前提となっているということです. つまり,父親の支配を受けていた子供としての人々は,父親を殺した後,世界と新しい関係を築いてよりよい状況で生きてゆける新しい世界像を自らの力で発見している必要があるのです.日本人には,この新しい世界像を自ら発見する能力を身につける事がたまたまできなかったと言えると思います.あるいは必要ないと判断したのかもしれません.

ドラマとアニメーションの話に戻ります.すでに『妖怪人間ベム』において主人公の三人の妖怪人間たちが,父親を探していたことを述べました.彼らは自分たちの生みの親である緒方博士から本当の人間になる方法を教えてもらうことを望んでいました.それと,時折挿入されるショットで彼らの誕生を待つ優しい博士の様子が示されることから,父親を知らない彼らが博士の愛情を求めていたことも感じられます.つまり,父親との対決もその否定もないのです.そこにあるのは,ひたすら父親の愛情を求める(未成熟の)子供たちと彼らの想像のなかの慈愛に満ちた父親の存在です.さらに,『サンダとガイラ』に至っては,逆に彼らを気遣う父親的存在であるスチュワート博士のほうが彼らを探しているのです.もちろん,父親との対決も否定もありません.このように,本来父親から受けるべき愛情を何 らかの理由で受けることができず,時間を経てからもなお父親からそれを受けようとする子供(殆どの場合,男子)の姿は,日本のドラマやアニメーションの中で繰り返し描かれます.最近のもので印象に残った例は,NHK-FMで今年7月27日に放送されたオーディオドラマ『星を掘れ!』です.主人公の若い科学者は生命の起源を探るために探査船の調査航海*3)に参加しますが,彼はそこで,かつて自分と母親を捨てた父親と再会します.主人公の初島は再会した専門技術者の父親に彼が昔家族に対してとった行動に対する非難を浴びせます.しかし,最後はその父から科学者としての能力を肯定され,評価を受け取ります.ここでは,多少の対立めいたものも見えますが,やはり父親の根本的な否定はありません.本当であれば自分と母親に与えるべきだった愛情の要求に対して,父親からは息子に対する評価という形でそれへの応答が返されるわけです.似たような設定は,アニメーションの『新海底軍艦』(1995年,1996年)でも使われていました.国連軍に所属する主人公の有坂は,南極に現れた奇妙な物体を調査中それから攻撃を受け海に漂流しますが,海底軍艦に救出されます.その艦長が有坂の実の父親なのです.有坂は任務のために自分たち家族を捨てた父を非難しますが,最終的には海底軍艦の乗員に加わり,父と行動を共にします.ここでも断ち切れていた父子の関係の修復という構図が現れます.

ところで,『新海底軍艦』とはストーリーにおいてほとんど何の共通点もありませんが,1963年の東宝作品『海底軍艦』においてもやはり父親探しが描かれていました.ただ,探す主体は,男の子ではなく海底軍艦の艦長神宮司大佐の一人娘真琴です.第二次世界大戦末期,パナマ運河に向けて出撃した神宮寺大佐は航海中ムー帝国の潜水艦から攻撃され行方不明とされましたが,実際は南洋の島で万能軍艦「轟天号」を建造していたのです.再会した際,父が固執し続ける戦中の世界像と戦後の教育を受けた彼女の世界像との相違のために二人の間に激しい対決が生じるのですが,最後に父親は真琴たちの希望に応えて,当初「日本を再び世界へ雄飛させるため」に建造した海底軍艦を,世界中を破壊し始めたムー帝国を撃滅するためにその出撃を決断します.ただ,ここで注意しておきたいのは,世界像とそれに由来する価値観の相違による対決の本当の主体は大佐と真琴ではなく大佐と彼の元上官である楠見ということです.真琴は育ての親である楠見と共通の価値観を持ち,そのために実の父を楠見に従うように嘆願したに過ぎません.楠見と神宮司の関係は,象徴的に父(楠見)と子(神宮寺)の間のそれと観ることもできないことはありません.そう解釈した場合,構図としては『サンダ対ガイラ』に近いものになります.父親としての楠見が,南洋の島で海底軍艦を建造している子供としての神宮寺大佐を探しに行くからです.そして,当初は異なる価値観のために父親と対決していた子が,結果として父の価値観を共有するに至ります.ここでの対決の結末も,やはり決別ではなく和解なのです.さらに,楠見が抱く世界像と価値観は,彼自身が発見したものではなかったということも重要です.それらは,戦後占領軍が日本国民に対して実施した教育によって教えられたもの,つまり,戦後,日本の父親役となったアメリカによってもたらされた世界像であり,価値観だったのです.

次に戦後のテレビ・アニメーションをみてみますが,少なくとも最初に放送された『鉄腕アトム』(1963年)から1968年の『巨人の星』以前の作品,より正確に言えば1966年の『遊星仮面』までの殆どにおいて,主人公が男の子,そして彼の実の父親(あるいはそれに相当する存在)は死亡などの理由で不在,あるいは簡単に再会できないような状況に置かれているという点が共通しています.*4)その父親も,なかには『鉄腕アトム』の生みの親,天馬博士のようにどこか怪しげというかどちらかというと反社会的な傾向のある危険な雰囲気を持った人物もいます.戦後20年近く経て誕生したこれらのテレビ・アニメーションですが,それらにおける父親の存在の希薄さは何を意味するのでしょう.すでに述べたように,父親は子供たちに世界像や価値観を伝えるという役目を担っている存在です.父親やそれに相当する何らかの権威が示す世界像や価値観の誤謬や非正当性を暴き,自らが新しく発見したそれらに従ってよりよい世界を実現してゆこうとすることが父親殺しです.日本を戦争に駆り立てた世界像や価値観は,第二次世界大戦における敗北と同時に否定され,新たにアメリカによって持ち込まれたそれらによって置き換えられました.つまり,かつての日本人の世界像と価値観を培った古い父親的権威は連合軍によって殺されたわけです.この,自らの手によらずに外国という他者により父親が殺されるという経験が無意識のうちに,例えば戦後のアニメーションにおいて,所与の設定としての父親の不在という形で現れたものではないかと思うのです.そして,戦後23年を経て満を持したかのように,過去の消え去ったように思えた世界像や価値観を部分的とはいえ携えつつ,圧倒的なインパクトを与える存在として復活したのが『巨人の星』の主人公,星飛雄馬の父親,星一徹と言えるでしょう.(本当はそんなシーンはなかったようですが,まるで食卓をひっくり返すように.)『巨人の星』は,いわゆるスポーツ根性ものというジャンルの最初の作品と言われますが,日本でのオリンピック開催のおよそ4年後,高度経済成長期の真只中,一丸となって経済発展を目指してしゃにむに努力する当時の日本人を叱咤激励するかのように現れたのがこのアニメーションでした.すなわち,世界経済における大日本帝国の復活を応援するかのように.そして,それまでの,1950年代後半から始まったソ連とアメリカの宇宙開発競争から影響を受けての宇宙と言う舞台設定は,スポーツシーンへと変わったのでした.*5)

さて,上の段落では,第二次世界大戦における連合軍に対する敗北によって,それまでの日本人を支配してきた世界像や価値観は,明治以来それを植え付けて来た父親的権威である天皇中心の中央集権体制の解体と同時に新しいものと入れ替わったと述べました.つまり,そこでの父親はアメリカという他者によって殺されたであると.ということは,少なくとも日本に於いても,殺す対象としての古い父親的なものは存在しうるということでしょうか.答えは然りであり否です.つまり,条件が揃えば殺される対象になりうる父親的なものは存在します.しかし,その条件である子供による新たな世界像や価値観の発見がなされないので,彼は殺される対象にはなり得ないのです.でも,先ほど,日本はその歴史を通じて絶えず教育者としての父親を外国に求めて来たと書きました.ということは,戦争に負けたとき,アメリカによって象徴的な意味で殺された父親とは何だったのでしょうか.それを理解する手助けとなるのが,特に明治以降の天皇の二面性です.つまり,彼らの外向きの顔と内向きの顔の存在です.明治政府による政権掌握以後,それまで日本に於ける仏教界における最高権威だった天皇は,突然,プロイセンの皇帝のように軍服に身を包み日本軍の最高司令官になります.それどころか,宮中の生活全般も洋風に改められます.この時期の日本は,その体制の枠組みを当時名目共に軍事大国だったプロシアから学ぼうとしていました.その意味で,プロシアは日本を教育してくれる父親だったので す.その父親に習う模範的な子供として天皇は自ら率先して急速に洋化,より正確にいえばプロイセン化("verpreuisst")したのです.もちろん,実態は明治政府の指導者たちによってにそうさせられたわけですが.このように,外に向かっては父親の教えを従順に受け入れる模範的な子供として振る舞い,内,すなわち国内に向かっては,皇祖である天照大神の天壌無窮の命令に従ってこの豊葦原中国を永遠に治める支配者としての権威と百姓(おおみたから,i.e. 国民全体)に対する慈悲を併せ持った国の家父長として振る舞うようになったのです.もちろん,天皇の洋化には国民全体の父として彼らに範を垂れるという目的もあったことも事実です.

すでに述べたように,これまで日本人は,新しい世界像や価値観を創造しようとはしませんでした.彼はそれらを外国から輸入することを選んだのです.というより,そうすることが最も合理的と判断した,あるいは判断せざるを得なかったのでしょう.ただ,輸入する際,盲目的にそれらを受け入れることはしませんでした.将来にわたっての自らの存続と繁栄にとって最も役に立ちそうなものを選択的に輸入してきたのです.(当然の目的ですが.)そして,一旦受け入れ,習い覚えたものは,明治以降では国民の父としての天皇の権威と結びつき,それらを教えてくれた国とは別の国によって否定される迄存続したのです.それと対決,あるいはそれを否定する動きが国内からは起こらなかったというわけです.なお,幕末から明治以降の歴史をみたとき,明治維新の主役たちは,開国する迄はプロイセンについてあまり知らず,彼らの出身藩が置かれた状況から,むしろ英国と近い関係を持っていたことも事実です.その流れからと思いますが,最初の条約改正も英国との間で実現しましたし,日露戦争直前には日英同盟が締結され,その後もしばらくは英米と比較的良好な関係を維持しました.しかし,それにも第一次大戦以降歪みが生じ,やがて昔父親として仰いだプロイセンを彷彿とさせるヒットラー率いるナチス・ドイツと同盟を結ぶに至ります.もっとも,すでに幕末において鹿児島藩や長州藩では軍備拡充が最優先とされ,実質的に近代軍事国家を目指していたことから,両藩出身の下級武士たちによって形成されていた明治政権が,新たに建設しようとしている明治国家の最もふさわしい手本としてプロイセンを選んだのは極めて自然の成り行きだったとも言えます.ところで,今でも,アジアに於ける軍事的優位性の確立や資源確保のための中国や南方諸国の植民地化の試みも,それはプロイセンを始め,西洋列強の模範に従ったものであり,日本だけが非難されるべきではないという意見を聞くことがありますが,こうした,過ちを犯しても父親から受けた教育のせいにして責任を回避する姿勢は,まさに父親殺しができない未成熟の子供的発達段階である証左なのです.

なお,話しが前後しますが,明治維新は父親殺しと見ることができるかというと,やはりできません.明治維新,より正確に言えば,王政復古によって復活したのは天皇の権威,つまり古い父親的な権威だからです.では倒された徳川政権はというと,鎌倉以来幕府の将軍は自らを「武家の頭領」と呼んでいることから判るように,明治のクーデターを実行した西南雄藩を始め,それ以外の藩とは父子という関係より兄弟のような関係を持つ存在同士だったというべきでしょう.ある意味で,明治維新はその発生の状況を見る限り,象徴的には父親殺しというより,いなくなった父親探しというべき事件だったと言えると思います.

以上,とりとめもないことを書き連ねてしまいましたが,ひとまず結論を以下のように記したいと思います.僅かでも日本人を理解するヒントになればたいへん幸せです.日本人は絶えず外国に教育者としての父親を求めてきましたが,そのことはとりもなおさず日本人が永遠の子供(ユングの言うプエルに近い)であり続けることを意味し,その傾向は今でもドラマやアニメーションなどの物語のなかに投影されつづけていると.そういえば,宮崎駿監督の最後の長編作品となった『風立ちぬ』においても,その中の堀越技師とカプローニ氏の関係にもこうした傾向は明確に見て取れます.『風立ちぬ』も含めて,これまで見てきた最近のドラマやアニメーションの傾向を過去のものと比較するとき,思いなしか父親を希求する傾向が強くなっているような気がしなくもありません.例えば,1965年の『ハッスルパンチ』と2011年の『妖怪人間ベム』の比較してみるとそれが見えてきます.両作品とも,主人公は三人で父親,あるいは父親に相当する存在を知りません.メンバーはどちらも男性 x 2 + 女性 x 1ですが,決定的な違いは,父親探しというモチーフの有無です.前者ではあまり感じられず,後者では言うまでもなくストーリーを構成する重要な要素のひとつです.後者のキャッチフレーズである「早く人間になりたい」は,主人公たちの父親への愛慕をも表しているとも言えます.それに反して,前者ではテーマソング(何となく植木等の『だまって俺についてこい』(1964)と同じ哲学を含んでいるような歌)で歌われているように,ジャンクヤードの廃車の中で共同生活を営む三人の孤児たちのモットーは「やなやつぁどんどんやっつけろ」であり,父親に対する愛慕など微塵も感じられません.彼らにやっつけられる悪人ガリガリ博士も,一応冷酷なギャンク団のボスであり孤児たちをジャンクヤードから追い出そうと努力するのみで両者の間には愛情による関係など成立し得ません.ハッスルパンチの主人公たちの底抜けの朗らかさと楽天性は,東京オリンピックを成功させ,高度経済成長を成し遂げつつある当時の日本人が持っていたより良い未来の実現を信じて疑わない単純で素朴な信念を表していたのかもしれません.当時の日本は,敗戦迄国家や人々の成長と発展を抑え続けて来た古い父親的権威から解放され,バイタリティに溢れた若々しい息吹がみなぎっていて,アメリカから教えられた新しい世界像と価値を基にして自らの手で新しいより良い国の建設が可能と信じていたでしょうから.そして,そのとき日本は,象徴的な意味で成熟し父親から独立できた感じていたかもしれません.しかし,そのおよそ50年後,気がつくと知らないうちに再び父親を探し始めていたというのが最近のこの国の無意識の心理のようです.憲法改正の議論もそうした流れのなかに含まれる動きのように思えます.ただし,探している父親がどうも古い錆びついた鎧を身にまとった,少しきな臭さのする存在であるように思えてならないのも事実ですが.





*1) 本来,フランケンシュタインというのは,当該の怪物(複数の死体のそれぞれから切り離した一部をつなぎ合わせて造られた)の生みの親である科学者の名前であり,その意味では,フランケンシュタインの怪物とでも呼ぶべきなのでしょうが,字数を節約するため,ここでは怪物そのものの呼称とします.
*2) ホイジンガ / 堀越孝一 訳『朝の影のなかに』(中公文庫),中央公論社,昭和59年,pp40ff
*3) ふと,ドイツのSonneを思い出したました.それとNWVMのことを.
*4) 『鉄腕アトム』(1963),『鉄人28号』(1963),『狼少年ケン』(1963),『少年忍者風のフジ丸』(1964),『ビッグX』(1964),『スーパー・ジェッター』(1965),『宇宙パトロールホッパ』(1965),『宇宙人ピピ』(1965),『宇宙エース』(1965),『宇宙少年ソラン』(1965),『ハッスルパンチ』(1965),『レインボー戦隊ロビン』(1966),『海賊王子』(1966),『ハリスの旋風』(1966),『遊星仮面』(1966)など参照.なお,ハッスルパンチでは主人公は複数(ジャンクヤードのような場所で廃棄された自動車の中で共同生活をする三人の孤児).また,『オバケのQ太郎』(1965)などもQ太郎を主人公と見れば,これらのカテゴリーに含まれないこともなさそうです.
*5) この時代の記憶は,今でも日本人の集団の無意識を形成するひとつの重要な要素のようで,特にNHKの報道における取り上げる話題の価値付けなどに影響を及ぼし続けています.例えば「宇宙」と「スポーツ」は人間,あるいは子供たちにに夢を与えることができる最も重要なフィールドであって,それらに関する話題は最優先で報道すべきという恐ろしい程単純な,ほとんど信仰に近い姿勢がその具体的な表れです.そして,こうした報道が受け入れられるのは,あるいは必要とされるのは,海外で活躍するスポーツ選手は,外国の手本に従う模範的な子供であり,彼らの活躍を自分の分身のように受け止め,国民全体で喜ぶのが当然というルールを無意識のうちに人々によって共有されているからです.同様のことが宇宙飛行士についても言えます.このような,スポーツ選手などと人々との関係は,どちらかというと子供と母親の間のそれに近いものと言えます.つまり,子供が学校で教師にほめられたことを自分のこととして無条件で喜ぶといった母親の態度に近いものなのです.そして,そこには,自ら価値を決める事ができず,絶えずそれを外国に求める,だから外国から認められ評価してもらおうとする姿勢が見られるのです.

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