数日前の記事ですが、いくつかご紹介します。
最初は、14歳の男子中学生が、川に飛び込み、溺れていた10歳の女の子を助けたという話題。場所は、Aare川の畔、Flumenthalという、比較的多く人が訪れるところだそうで、地図を見ると、Solothurnという都市に近く、BaselとBernのほぼ中間です。
14歳のドミアノさんが、友人たちと一緒に日光浴をするため、芝生を上にタオルを広げようとしようとしたとたん、女の子の叫び声を聞きました。彼女は、母親と一緒にこの場所に来ていたのですが、母親が友人と話しをしている間に、川に入り、石につまづき、急な川の流れに巻き込まれていたのです。もちろん、母親はすぐに気づき、川に入って助けようとしたのですが、自らも溺れかけ、自力で岸に戻るのがやっとだったそうです。
ドミアノさんは、警察に通報するとともに、川に沿って女の子を追いかけ、そして自ら川に飛び込み、彼女を救出しました。彼自身、サッカーは好きだけれども、泳ぎはそれほど得意でもないとのことですが、当時、水温もかなり低かった模様で、警察によると、もし彼の行為がなければ彼女は助からなかっただろうとのこと。
(6月19日付電子版『Solothurner Tagblatt』に掲載された「Das ist der junge Lebensretter」より)
(なお、上記新聞のサイトに、ドミアノさんの写真が載っています。例えば、「Lebensretter」、あるいは「Flumenthal」で検索すると記事が表示されますので、ご興味があれば。正直に言って、「この人、本当に14歳なのかな」と思うほど、しっかりした顔つきの好青年です。)
次は、地球温暖化に関する話題。
ご多聞にもれず、当地での関心も強く、とりわけ深刻な結果として、この10年間でスイスの氷河全体の8分の1が解けてしまったことが、6月23日付の『Blickabend』に紹介されていました。
(「Rekordschmerlze」より)
最後は、歴史に関するお話です。
先日の6月18日ですが、1940年のこの日、ロンドンの亡命政権におけるド・ゴール将軍は、亡命先からラジオを通じてフランス人に、ドイツ軍の侵攻に対しての抵抗を呼びかけたそうです。放送は、その日の夜19時に流れ、フランスの歴史に残る演説のうちのひとつに数えられているそうです。
でも、確か、ド・ゴール将軍も日本人のことを「エコノミック アニマル」と呼んだというようなことを、どこかで聞いたような記憶があります。(Web上で探しても、確たる記録はありませんでしたが。)この「エコノミック アニマル」という言葉は、もともと、当時のパキスタンの首相ブット氏が、(本当かどうか知りませんが)日本を褒める意味で用いたことばだったとか。しかし、今でも日本人をanimal économiqueと称する人たちが、フランス人の中にもいます。(例えば、日本の戦後史に関する記述などで。)
もともと唯一の創造神を信じるキリスト教文明においては、人間と他の被造物(つまり、人間以外の動物たちや自然)との間には厳然たる区分けが存在しています。人間には、他の被造物を管理するという義務が負わされているのと同時に、それらを利用することが許されています。その点、日本の神道(幕末以降相当キリスト教の影響を受け、本来持っていなかった創造神や死後の審判といった思想を取り入れましたが)においては、人も神も自然(つまり動物なども)、皆イザナギとイザナミの二柱の神より生まれ出でており、さらに、イザナギ、イザナミももとをたどれば、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産霊神(たかむすびのかみ)、そして神産霊神(かみむすびのかみ)から生まれ出でているわけですから、皆家族親戚のようなもので、すでに述べたような西洋的な人間と動物がまったく異なる被造物であるといった考え方は基本的にはありません。
ようするに、西洋人が人間を動物の範疇に含めるということは、ちょっと問題があるように思えるのです。歴史を見ると、西洋において人間の虐殺が行われる場合、虐殺の対象はすべて人間の範疇からはずされています。つまり、西洋人にとって組織的に殺戮を行う場合、その対象となる人たちは、キリスト教が定義する人間ではないことが必要なのです。例えば、悪魔と契約を結んだ魔女のように。(フランスで迫害をうけたユグノーたちも同様です。)そして、ナチスによって殺害されたユダヤ人たちなど。後者は、キリストを殺したために呪われた人種であり、そのほかありとあらゆる理由によって人間以外の存在とされてしまいました。
最近では、キューバのグアンタナモ収容所で虐待を受けた人たち、あるいはまた原爆が投下されたときの日本人も、上記の意味で、アメリカ人から人間に害をなす人間以外の存在と見做されてしまったのでしょう。
仮に自分より劣った存在であったとしても、人間の範疇(つまり、自分たちと同様に神から造られた本来の人間)に含まれている場合は、そうした劣った存在を教え導く姿勢も西洋文化には見られます。でも、一旦、それらの存在が人間と見做されなくなった場合、想像を超える規模の悲劇が人間の手によってもたらされてしまったのです。もちろん、今は(すくなくともヨーロッパは)、そうした危険に気づいていると思いますが。
少し、深刻な方向に話を持っていってしまいましたが、明日からマルセイユの友人を訪ねて南仏に出かけます。天候が心配ですが、また、折に触れて現地の模様をご報告させていただきます。
最初は、14歳の男子中学生が、川に飛び込み、溺れていた10歳の女の子を助けたという話題。場所は、Aare川の畔、Flumenthalという、比較的多く人が訪れるところだそうで、地図を見ると、Solothurnという都市に近く、BaselとBernのほぼ中間です。
14歳のドミアノさんが、友人たちと一緒に日光浴をするため、芝生を上にタオルを広げようとしようとしたとたん、女の子の叫び声を聞きました。彼女は、母親と一緒にこの場所に来ていたのですが、母親が友人と話しをしている間に、川に入り、石につまづき、急な川の流れに巻き込まれていたのです。もちろん、母親はすぐに気づき、川に入って助けようとしたのですが、自らも溺れかけ、自力で岸に戻るのがやっとだったそうです。
ドミアノさんは、警察に通報するとともに、川に沿って女の子を追いかけ、そして自ら川に飛び込み、彼女を救出しました。彼自身、サッカーは好きだけれども、泳ぎはそれほど得意でもないとのことですが、当時、水温もかなり低かった模様で、警察によると、もし彼の行為がなければ彼女は助からなかっただろうとのこと。
(6月19日付電子版『Solothurner Tagblatt』に掲載された「Das ist der junge Lebensretter」より)
(なお、上記新聞のサイトに、ドミアノさんの写真が載っています。例えば、「Lebensretter」、あるいは「Flumenthal」で検索すると記事が表示されますので、ご興味があれば。正直に言って、「この人、本当に14歳なのかな」と思うほど、しっかりした顔つきの好青年です。)
次は、地球温暖化に関する話題。
ご多聞にもれず、当地での関心も強く、とりわけ深刻な結果として、この10年間でスイスの氷河全体の8分の1が解けてしまったことが、6月23日付の『Blickabend』に紹介されていました。
(「Rekordschmerlze」より)
最後は、歴史に関するお話です。
先日の6月18日ですが、1940年のこの日、ロンドンの亡命政権におけるド・ゴール将軍は、亡命先からラジオを通じてフランス人に、ドイツ軍の侵攻に対しての抵抗を呼びかけたそうです。放送は、その日の夜19時に流れ、フランスの歴史に残る演説のうちのひとつに数えられているそうです。
でも、確か、ド・ゴール将軍も日本人のことを「エコノミック アニマル」と呼んだというようなことを、どこかで聞いたような記憶があります。(Web上で探しても、確たる記録はありませんでしたが。)この「エコノミック アニマル」という言葉は、もともと、当時のパキスタンの首相ブット氏が、(本当かどうか知りませんが)日本を褒める意味で用いたことばだったとか。しかし、今でも日本人をanimal économiqueと称する人たちが、フランス人の中にもいます。(例えば、日本の戦後史に関する記述などで。)
もともと唯一の創造神を信じるキリスト教文明においては、人間と他の被造物(つまり、人間以外の動物たちや自然)との間には厳然たる区分けが存在しています。人間には、他の被造物を管理するという義務が負わされているのと同時に、それらを利用することが許されています。その点、日本の神道(幕末以降相当キリスト教の影響を受け、本来持っていなかった創造神や死後の審判といった思想を取り入れましたが)においては、人も神も自然(つまり動物なども)、皆イザナギとイザナミの二柱の神より生まれ出でており、さらに、イザナギ、イザナミももとをたどれば、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産霊神(たかむすびのかみ)、そして神産霊神(かみむすびのかみ)から生まれ出でているわけですから、皆家族親戚のようなもので、すでに述べたような西洋的な人間と動物がまったく異なる被造物であるといった考え方は基本的にはありません。
ようするに、西洋人が人間を動物の範疇に含めるということは、ちょっと問題があるように思えるのです。歴史を見ると、西洋において人間の虐殺が行われる場合、虐殺の対象はすべて人間の範疇からはずされています。つまり、西洋人にとって組織的に殺戮を行う場合、その対象となる人たちは、キリスト教が定義する人間ではないことが必要なのです。例えば、悪魔と契約を結んだ魔女のように。(フランスで迫害をうけたユグノーたちも同様です。)そして、ナチスによって殺害されたユダヤ人たちなど。後者は、キリストを殺したために呪われた人種であり、そのほかありとあらゆる理由によって人間以外の存在とされてしまいました。
最近では、キューバのグアンタナモ収容所で虐待を受けた人たち、あるいはまた原爆が投下されたときの日本人も、上記の意味で、アメリカ人から人間に害をなす人間以外の存在と見做されてしまったのでしょう。
仮に自分より劣った存在であったとしても、人間の範疇(つまり、自分たちと同様に神から造られた本来の人間)に含まれている場合は、そうした劣った存在を教え導く姿勢も西洋文化には見られます。でも、一旦、それらの存在が人間と見做されなくなった場合、想像を超える規模の悲劇が人間の手によってもたらされてしまったのです。もちろん、今は(すくなくともヨーロッパは)、そうした危険に気づいていると思いますが。
少し、深刻な方向に話を持っていってしまいましたが、明日からマルセイユの友人を訪ねて南仏に出かけます。天候が心配ですが、また、折に触れて現地の模様をご報告させていただきます。