Friday, 22 May 2009

インフルエンザと虫送り

先の投稿で言及しましたが、感染した方が通う学校に帰宅の際に利用した鉄道路線を利用している子どもの親から、もし、自分の子が感染したらどう責任をとるのかといった電話があったそうです。

この記事を目にしたとき、ふと、地方の伝統的な風習である虫送りの行事のことを思い出しました。今でも、あちこちで実施されていると思いますが、その名残が残っている場所もあります。ようするに、稲などに害を与える虫たちを村はずれまで送ってゆく、つまり自分たちの村から追い出すという行為を模した宗教儀礼です。あるいは、魔よけとして、大きな草鞋を村はずれ、つまり境界に飾るというのも、同じ願いの表れです。この場合は、「このように大きな草鞋を履く生き物がいるのだぞ。悪鬼よ、入ってくるな」というメッセージがこめられているわけです。

もともと、山や谷などによって囲まれ閉鎖性が強く、地縁と血縁で結ばれた、いわば家族の延長のような村落共同体が生活の場だった私たちにとって、自らが属するもの以外の共同体や前者と後者の間に存在する空間は、まったく別の論理や原則が支配する世界、あるいは異次元といえるようなものであり、それらから侵入しようと悪鬼たちはシャットアウトすべきですし、反対に自分たちの共同体のなかで作物に害を与える虫たちは、よその共同体に行ってもらいたい。そこで、どれほど作物に害を与えようとしったことではない、というわけです。こうした姿勢についてその良し悪しを議論するとことは意味がありません。ただ、伝統的にそのような文化が育ってきただけの話です。

明治以降の急速な近代化、工業化によって、こうした、地縁血縁集団=生活の場および一生を過ごす場といった伝統的な民族文化は、壊れてゆきました。もっとも、すでに江戸時代頃からそうした構造は、少しずつ壊れ始めていたかもしれません。しかし、そこでは、異なる共同体の出身者たちも、新しい擬似家族を構成することで、伝統的な地縁血縁集団に近い性格をもつ組織に所属することができたのです。「大家といえば親同様、店子といえば子同様」といった考えです。

明治国家も、やはり大きな家族としてスタートしました。そこにおける究極の父が天皇でした。このような国家制度を考案したのが、明治政府のイデオローグ井上毅です。そして、第2次大戦後、さらに高度経済成長期において、さまざまな社会組織がやはり家族の構造をもっていました。企業、役所、政党等々。しかし、ことなる擬似家族集団の間に存在する場は空白のまま残されてきたのです。それは、現在でも自らが属する集団を囲む異次元の空間のままなのです。そこで、はじめに紹介した、子どもの親のような発言がなされるわけです。さらに言えば、現在は、擬似家族集団が形成されにくいため、さらにそうした傾向が強くなっているのかもしれません。結局は、文字通りの物理的な家族のみが、そうした集団になりつつあるのかもしれません。極言するならば、自分の家族以外の場は、災厄をもたらすことがない限り関知せず、災厄をもたらしかねない事態が出現した場合は、それを再びそこへ追いやるべき異次元の空間ということです。

日本社会には、Publicという空間の認識、そしてそれに伴う道徳が発展しなかったとよくいわれます。実際、そう感じざるを得ません。日本において、「公共道徳」なるものは、もともと存在せず、擬似家族集団が形成されることで、それに似たような倫理性が保たれていたにすぎないように思えるのです。第2次大戦時、国家のために身を捧げるということは、国家という大きな家の首長である天皇に自身の存在を捧げるということでした。当時、戦争遂行の大儀とされた、「大東亜共栄圏」にしても、東条英機ら指導者たちは、それをやはり家族にたとえることを好んだそうです。つまり、最終的には情緒的な絆で結ばれた要素によって構成されている組織として、家族を提示することで、共同体の存続、繁栄にって必要な一切の道徳、倫理が個々人の行動を支配するようになると信じたのです。
複数の社会集団に属する人々が接する場が、パブリックの場です。しかし、今日でも、そこは依然として異次元の空間であり続けているようです。これまで日本人は、定住農耕民族として長い年月をかけて発展させてきた、自分たちのもともとの有り様と、近代化の模範と仰いだ西洋近代国家の市民社会の違いに気がつかないまま、さらに後者の土台となっているさまざまな思想に関心を向けずに、一人前の近代国家となるべく努力してきました。しかし、果たしてこのような状況のまま、未来に突き進んでいって大丈夫なのでしょうか。そのことについて、インフルエンザよりも不安を感じているのは、私だけではないと思うのですが。

パンとサーカスのRPG

今回の新型インフルエンザをめぐる騒動から、今の日本の社会の仕組みとそこにおけるメディアの機能について考えさせられています。

少年たちの凶悪犯罪について報道がされる際、それについての識者といわれる人たちのコメントの中に、よくコンピュータゲームの影響ではないかという言葉が聞かれます。そして、彼らは、現実と仮想の区別がつかなくなっているなどと。

確かに十分考えられることではないかと思えます。しかし、それが本当であろうとなかろうと、今、新型インフルエンザをめぐってマスコミを中心にして起きている現象も、ある意味でひとつの”ゲーム”といえるように思えるのです。そして、それに結果的に参加している(あるいはさせられている)私たちは、ほとんどの場合、その認識をもたないまま行動しているような気がしてなりません。

特に小泉自民党の郵政民営化を争点とした選挙から、このゲームははっきりと日本社会に根付いた姿を見せ始めたように感じます。

そのゲームというのは、一言でいうと、「石打の刑」です。それを見物し、参加する民衆に石を投げるべき対象が示され、さらに彼らにその対象に対して投げる石も提供されるというものです。郵政民営化選挙においては、石を投げる相手を示したのが、当時の小泉自民党総裁であり、それをマスコミは大々的に伝えました。そして、比較的最近の小沢前民主党代表の代表辞任に至る経緯においては、彼を刑場に引き出したのは、文字通り検察庁です。前者において、小泉氏が民衆に提供した石は、「反対勢力」、「守旧派」といった言葉であり、後者において、マスコミは「説明責任」という言葉を石として提供しました。

(さらに以前、紛争状態のイラクへ入国し、誘拐された日本人のグループに対しては、「自己責任」というのがその石でした。)

「あなたは小沢氏が説明責任を果たしたとおもいますか」といった問いを、マスコミが彼らの世論調査の中で人々に投げかける場合、それに対して肯定、あるいは否定の回答を返した調査対象のうち、どれだけの人が説明責任という言葉を自分なりに定義していていたでしょうか。実際は、もっともらしい、なんとなくみんなが投げやすい石になりやすい言葉だっただけではないでしょうか。さらに、気になるのは、この質問に対する回答の比率を”国民”はというくくりで紹介するだけということです。男女別、世代別といったくくりは、出そうとしません。ひたすら多くのパーセンテージを集めるためでしょう。つまり、どれだけダメージを引き起こしているかという「スコア」としての世論調査です。

そして、こうしたマスコミがお膳立てするゲームのストーリーやルールが日常の生活に影響を及ぼしているように思えるのです。その良い例が、今回の東京での初めての感染者として紹介されてしまった、女子高生とその家族や彼女が通う学校です。彼らは非難や誹謗を受け、女子高生は罪悪感さえ抱き、母親を通じて謝罪までしたといいます。

こうしたゲームは、「いじめ」とまったく同じ構造のように見えます。結局、ストレス解消がその目的なのかもしれません。今回のストレスは、もちろん病気に感染するかもしれないという不安です。

今のように、不安が解消されない、つまりストレスが浸透し、高まっている状態において、マスコミによる報道は、結果的に石打の対象として一般の人さえも(その人が被害者の場合も)提示してしまう可能性があるのです。より正確にいうならば、マスコミ側にその意図がないとしても、その報道に接する私たちの側に、「石打の刑ゲーム」のストーリー展開とルールがあまりにも深く刷り込まれてしまっているために、報道の対象となった人をほとんど無条件で石打の対象と理解してしまう可能性があるということです。「魔女狩り」、「犯人(あるいはスケープゴート)探し」の構図がそこで生れます。ひたすら衆目を個別特殊の対象にのみひきつけようとする。そこには公平や普遍といった視点は微塵も見られません。実際、日本のマスコミにおいては、前の投稿で紹介した『Le Monde』の記事のように、今回のことから本当の原因を追求しようともしないし、さらに今後の危険性についての報道がほとんどなされません。ただ、毎日毎日、今日はどこで何人が感染したという報告ばかりです。

ところで、話題にならないのが、日本人の咳やくしゃみに対する姿勢。欧米人と比べて特に違和感を感じるのが、日本人のくしゃみの仕方です。口や鼻をハンカチで覆うなど一切しない。だから、マスクをしたがるのかもしれません。もともと、くしゃみとは、鼻から体内に入ってきた悪魔を「糞でも食め!」といって対外に排出する行為と考えられていたようで、それからすると口や鼻を塞がずに思い切り行うというのは自然なのかもしれません。それでも、外国ではあの音を聞くと周りの人は驚くようで、ハワイの空港などでは日本語で、「くしゃみの際はハンカチで口や鼻を覆いましょう」といった表示があるとか。

Thursday, 21 May 2009

経済効率の優先とインフルエンザ

5月20付電子版『Le Monde』より

経済効率最優先の、家畜の密集度が非常に高い養豚場、あるいは養鶏場は、今回のインフルエンザのような疾病の病原体を生み出してしまう可能性があるといわれています。こうした環境においては、ウィルスは連鎖的に感染し、遺伝子を交換しあうなどして変異する機会が与えられてしまうためです。(米国の国立保健衛生局の調査結果:cf.Journal of Environmental Health Perspectives, 14 novembre 2006)

さらに、自然では到底存在しえないほどの密度で、豚や鶏が飼育されている場合、そうでない場合に比べ、一般に病気に罹る罹る確率も高くなります。それを防ぐために、多量の抗生物質が飼料に混ぜられ継続的に与えられます。このことから、こうした養豚場や養鶏場で発生、あるいは変異した病原菌は、すでに抗生物質に対するある程度の耐性も備えてしまう可能性があるというのです。実際、フランスの国立保健医療研究所(Inserm)の報告によれば、養豚場に勤めている人たちから、抗生物質に対して耐性も持っているバクテリアが検出された例もあるそうです。

人が罹る疫病は、いつも、それまで別の動物のみが感染していたウィルスが突然人間にも感染するようになって発生しています。現時点では、新型インフルエンザ(A/H1N1型)は弱毒性といわれています。しかし、専門家たちはかなり以前から、それよりはるかに強毒性の鳥インフルエンザのウィルスが豚に感染するようになり、そして豚から人間に感染するようになることを恐れています。こうした変異を物理的に阻止するため、欧州連合では、域内において、養豚場と養鶏場の近接を禁止しています。

さて、今回のインフルエンザの病原体ですが、その発生地として各方面から疑われているのが、メキシコのベラクルス州のラ・グロリアの養豚場です。現時点ではその確証はないのですが、唯、この養豚場を経営しているスミスフィールド・フーズについては、同社が経営する養豚場の付近で発生した呼吸器系の疾患について、養豚場の豚との関連についての当局の調査を拒否したり、また、強制調査によってその関連が疑い得ない事実と判明した後もそれを否定し、こうした姿勢をとり続ける同社に対して批判が集中しているそうです。

今回のインフルエンザ騒動も、元をただせば、人間の経済効率最優先の"業"(ごう)が生み出してしまったものかもしれませんね。

「Grippe A : il faut en finir avec les usines à virus, par Marie-Christine Blandin et José Bové」より

(この記事を書いたのは、緑の党の国会議員で鳥インフルエンザに関するレポートの責任者Marie-Christine Blandin氏と農業経営者で欧州議会選挙にヨーロッパ・エコロジー党から立候補しているJosé Bové氏です。)

Tuesday, 19 May 2009

鳥インフルエンザ

本日付のLePointにも、世界保健機構の事務局長チャン博士(Dr.Margaret Chan)の会見の内容が紹介されていて(「GRIPPE A - L'OMS craint un échange de gènes entre virus porcin et aviaire」、やはり、現時点においてはH1N1に比較してはるかに致死率が高い季節性のインフルエンザ用のワクチンの確保を最優先にすべきという方針だそうです。

とはいえ、同時にH1N1のウィルスが鳥インフルエンザのそれと交じり合って、この二つのウィルスによりも人体への危険性が高いウィルスが誕生してしまう可能性も否定しなかったことも伝えられていました。

鳥インフルエンザといえば、5月16日付のSpiegelに、なぜ鳥インフルエンザが人間に感染しにくいのか、英国の科学者による実験の結果、その原因が判明したという記事に載っていました。(「Kalte Nasen lassen Vogelgrippe-Viren frieren」)ロンドンの王立カレッジのWendy Barclay教授のグループによる発見だそうで、その原因というのは、人間の鼻の内部の温度が、鳥インフルエンザが繁殖するには低すぎるのだそうです。(詳しい内容は、『PLoS Pathogens』という専門誌に掲載されています。)

なお、Barclay教授による新型インフルエンザに関する解説が、BBCのサイトに掲載されていました。

12時間で完了する新型インフルエンザのテスト実用化へ

そういえば、5月5日のTF1のニュースビデオで紹介されていましたが、パスツール研究所で、12時間で完了する新型インフルエンザのテストが実用化されたそうです。

Novaritis、新型インフルエンザ用ワクチン製造可能

19日付電子版Le Figaroより

スイスの製薬会社Novartisは、H1N1用のワクチンの製造準備が整ったとの発表を行ったそうです。後は、WHOとアメリカの疾病予防管理センターからのゴーサインを待つだけとのこと。WHOのとしては、まず、世界の大手製薬会社に季節性インフルエンザ用ワクチンの製造に専念してもらい、十分な量が確保できた段階で、今回の新型インフルエンザ用ワクチンの製造を開始してもらいたい模様。そのため、当面は夏の終わりごろがその開始時期と見られています。そのころには製薬会社が、季節性インフルエンザ用のワクチンの製造が完了する見込みのため。なお、新型インフルエンザ用ワクチンは、Novartisのほか、Sanofi-Pasteur(本社:フランス,リヨン)、GlaxoSmithKline(英国)が製造を開始できる状態にあるそうです。

Sunday, 17 May 2009

自殺 他国と日本(その3)

自殺に関するSpiegelの記事とは、2004年2月4日付の同誌の電子版に掲載された「Depressionen werden besser aufgefangen」のことで、リードには、ドイツにおける自殺者の数は、1982年と2002年を比較すると、実に40%以上も減少したと書かれています。(1982年のドイツにおける自殺者数は、18,711人で、2002年では11,163人)その原因として専門家たちは、うつの治療の進展と予防策の効果を挙げているとのこと。

例えば、ミュンヘンの神経科医Ulrich Hegerl氏の調査によると、今日、うつの治療は以前に比べて大幅に進歩しており、それがこうした結果をもたらしているというのです。同氏は、「人は健康であれば、困難な状況におかれていたとしても、希望を失うことはなく、助けを求めようとする」と言っています。興味深いことにHeger氏の調査では、実際、処方される抗うつ剤の量は近年増加傾向にあるといいます。

また、自殺予防に役立つ情報の提供、さらに効果的な予防プログラムも功を奏しているというのが専門家の意見ですが、国の予防プログラムの責任者(当時)のArmin Schmidtke氏は、減少したといっても、いまだに年間11,000人の自殺が発生しているということは深刻な事態に変わりはないと言っています。それでも2002年から7年経過した今日、OECDの統計を見る限りは、幾分鈍化しているようにも見えるものの減少傾向は続いているようです。

因みにドイツ政府が運営している自殺予防に関するサイトのURLは、
http://www.suizidpraevention-deutschland.de/Home.html
で、非常にわかりやすくできています。

日本でも内閣府が運営している同様のサイトがあり、URLは、
http://www8.cao.go.jp/jisatsutaisaku/
です。

Friday, 15 May 2009

自殺 他国と日本(その2)


(グラフ上をクリックをすると、拡大表示されます。)
このグラフは、OECD加盟国のすべてのデータを含んだものではありません。日本のほかでは、変化の仕方に特徴があると思われる9つの国を選んでいます。なかでも特に注目したのは、ドイツです(水色)。ドイツは、一時期10万人当たり20人を超す時期(1978年)もありましたが、2005年では、そのおよそ半分の10.3人にまで減少しています。同様の傾向を示すのが、デンマーク(黄緑)、スウェーデン(緑)、オーストリア(クリーム)です。

これを見て、以前読んだドイツのSpiegelの記事を思い出しました。

自殺 他国と日本(その1)

自殺者が増加傾向にあるということが話題になっています。

先日、OECDが加盟各国の社会の様々な面を分析した『Society at a Glance 2009』が発行され、その中の自殺に関する情報が、Web上で公開されていたので少し眺めてみました。

(http://www.oecd.org/document/24/0,3343,en_2649_34637_2671576_1_1_1_1,00.html#dataの中のSuicidesにリンクされているエクセル文書)

以下に、上記資料に掲載されていた2005年の各国の自殺率(人/10万人)を紹介します。(降順)

24.7 Korea
21.0 Hungary
19.4 Japan
18.4 Belgium
16.5 Finland
14.6 France
14.1 Switzerland
13.8 Poland
13.8 Austria
12.7 Czech Republic
11.9 New Zealand
11.3 Denmark
11.1 Sweden
10.9 Norway
10.9 Slovak Republic
10.4 Iceland
10.3 Germany
10.2 Australia
10.2 Canada
10.1 United States
9.5 Luxembourg
9.2 Ireland
8.7 Portugal
7.9 Netherlands
6.3 Spain
6.0 United Kingdom
5.5 Italy
4.4 Mexico
2.9 Greece


まず、驚いたのは、韓国における自殺率が10万人当たり24.7人とOECD加盟国中最も高いということ。日本は2位のハンガリー(同じく21.0人)の次の第3位(同じく19.4人)です。次に驚いたのは、フランスが上位10位内に含まれているということです。

実は、今回、この資料を閲覧したのは、最近読んだ電子版『LePoint』(5月5日付)の「ÉTUDE - Les Français, champions du monde du sommeil et de la table」の中で、日本人は余暇の55%をTVを観て過ごすと書かれていて、本当にそうか確認するためだったのですが(この記事自体『Society at... 』を基にしています)、そこではフランス人は睡眠時間と食事の時間において世界チャンピオンであると書かれていました。つまり、彼らは世界で一番長く眠るし、また、食事もゆったり摂るということです。そして、やはりOECDのデータによると世界で一番長い有給休暇を(平均37日)取っているとのこと。それにも拘わらず、自殺率においては、上位に位置しているのです。スイスの人から、スイスは自殺率が高いと以前から聞かされていましたが、フランスは、スイスを僅かながら上回っています。どういうことなのでしょうか。それでも、日本に比べるとフランスでの自殺率は、3割以上低いのですが。

次にOECDの統計から、各国における年毎の自殺率の変化をグラフにしてみました。

現代の祭の一側面

今日の午後3時半からのTBSラジオの番組の中で取り上げられた話題。最近、地域の祭りにおいて神輿の担ぎ手が不足している。対応策として、他地域の人に参加してもらうことの是非について、聴取者の方も参加して議論がされていました。いわゆる氏子以外の人に、お神輿を担いでもらって問題はないのだろうかという疑問を持つ人もいるようです。

番組の中では言及はありませんでしたが、《祭》を実行する際の前提である、氏神-氏子というシステムは、かなり昔に崩壊してしまったといってよいでしょう。

もともと、この氏神-氏子システム(伝統的な神道、あるいは古神道と申しましょうか)は、地縁・血縁によってまとまっている日本の伝統的な共同体において発展してきたもので、生まれると即、土地の氏神様の氏子になるわけです。この点では、多少、ユダヤ教などに共通している点もあるかもしれません。しかし、このシステムでは、その土地以外で生まれたり、暮らしている人を氏子集団の中に受け入れるのは非常に難しい、というよりは、そういった人々、つまり他所者を受け入れるということは、もともと想定されていなかったのです。(これは、一般的な意味での神道、さらには日本の民族性を理解するうえで重要なポイントです。)

それに比べて、たとえばキリスト教は、信仰告白、そして洗礼という儀式を介すれば、その人のそれまでの人生や現在の状況にかかわりなく信徒の集団に加わることができます。

祭を実行する側としては、神輿の担ぎ手がいないのは悩みの種ですが、氏子でない人たちの手を借りてでも祭は行うべきという考えが存在する(実際にそういった対策をとっている地域もあるようです)のは、経典も、体系的な教理も、そして信仰告白およびそれを承認する儀式も存在せず、ただ生まれれば、その土地の氏神(柳田國男がいうところの祖霊の融合したもの)の氏子に《自然に》になり、その土地を離れない限り、一生氏子を辞めること(背教?)がない、ある意味ではたいへんおおらかな宗教観が刷り込まれているわれわれだからこその悩みなのかもしれません。