Sunday 12 March 2017

普遍的人権という概念が存在しない日本人... 移住先でいやがらせ,恐喝,虐待に遭う福島県からの移住者 (フランス語, ドイツ語)

ふと自由民権運動末期の激化事件のひとつ,福島事件のことを思い出しました.福島県令の元鹿児島藩士三島通庸の県民に対するあまりにも過酷な政策が自由民権運動家や民衆の反発を招き起こった事件です.(余談ですが,長州藩は正式な藩名ですが,薩摩は旧国名としては存在するものの,薩摩藩という藩は正式には存在しません.) また,河北新報という新聞の名称もクーデター軍が用いた東北地方を意味する侮蔑的な表現「白河以北一山百文」に由来しています.宮沢賢治の一連の作品を挙げるまでもありませんが,なぜ,東北地方は昔から斯くも多くの天災や人災に襲われるのでしょう.地域の対立を煽るつもりは毛頭ないつもりですが,幕末のクーデターで自らを官軍と称した西南諸藩は,今の甘えと依存に支配された日本の有司専制的な政治形態を生み出した張本人です.(日本の情緒に基づく封建制度自体が甘えと依存とを育んだと言えます.) そして,第二次世界大戦敗戦間近,ポツダム宣言受諾に最後まで反対し,本土決戦を主張し続けた阿南 惟幾(あなみ これちか)陸軍大臣,梅津 美治郎(うめづ よしじろう)陸軍参謀総長,そして豊田 副武(とよだ そえむ)海軍軍令部総長は,偶然とは言え三人とも大分県出身でした.それに対して,歴史を遡れば日独伊三国同盟の締結に命がけで反対した当時の米内海相,山本次官,井上軍務局長は,それぞれ南部藩,長岡藩,仙台藩という幕末のクーデター軍側から見れば皆賊軍(奥羽越列藩同盟)のメンバー藩の出身者でした.そして,前二者は日本のポツダム宣言受諾に至る過程で中心的な役割を果たしています.真の意味で日本を愛していたと言えるのは,どちらのグループだったでしょうか.どちらのグループも日本を愛していたと言えるでしょうが,前者が天皇を首長とした国家体制と言う意味の国体を維持することを最優先課題としたのが前者,国体の維持は望みつつも国民と彼らが暮らす環境としての国の存続を絶対的な優先課題としたのが後者だったと言えると思います.

まとまりのない文章となってしまいましたが,福島の,特に若いみなさん,どうか自らの郷里と先人と自分自身に対する誇りを失わずにいてください.

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