Thursday 17 May 2018

日本人は英語を学ぶべきではない - 所感

正確にいうと,小学校はもちろん,大学において英語教育は無用という意味です.軽々に論じる問題ではないかもしれませんが,はっきり言って全く効果がないので時間と労力の無駄です.

そもそも英語を学ぶべき理由がはっきりしません.なぜ英語を学ばなければならないのでしょうか.多くの人が英語を知れば,はたして,この国は住みやすくなりますか.あるいは,私たちが幸せになりますか.

くわえて,英語で意思疎通や情報収集や交換を行う必要性を説く国会議員や,その指示を受けて政策を立案する官僚たちは,充分に英語を使う能力を持っているでしょうか.彼らは,例えばCNNやBBCのニュースを毎日聞いているでしょうか.もちろん,原語で.

ところで,少なくとも戦後について言えば,英語教育はアメリカによる押し付け以外の何物でもありません.が,それ以前,特に,アヘン戦争以降は,ひたすら強いものにあこがれる習性をもっている日本は,それまで文明国の手本としていた中国に勝利したイギリスを新しい手本にしたため,政治家や官僚は英語が使えなくては,その職務を全うすることができませんでしたし,開国後は,外国人と接する機会の多い公務員(警官,鉄道員,郵便局員,税関吏など)も同様でした.もちろん,彼らと商売を行う両替商や絹の商人なども英語を知っている必要がありました.幸いなことに,当時の政治家はもちろん,官僚,そして,多くの公務員は旧武士層出身者でしたから,英語に近い文法を持つ中国語が理解できる人たちであり,ヘボン博士やフルベッキ博士をはじめとした英米のプロテスタント宣教師たちが,布教が目的であったものの(それと,多かれ少なかれ半文明国の日本を文明国にすることも神から与えられた使命と考えていましたが),彼らに無料で英語のレッスンを提供したので,学ぶ側の目的が明確であり,かつ英語の習得が彼らの実利に直結していたこととネイティブスピーカーによる教育という理想的な環境が形成されていたのです.また,幕末において,鹿児島藩や長州藩が,将来の国の指導者となる,家格は低いものの優秀な若い武士たちを鹿児島藩や長州藩がブリテンに留学させたことは,広く知られているところです.

日本に英語を活用できる人材が必要なら,英語圏から人材を招き,彼らに必要に応じて日本語を学んでもらうほうが,合理的のように思うものです.英語圏でなくても,かつてのイギリスの植民地だった国々や,そうでなくても英語が話せて日本に移住したい人々を積極的に日本に来てもらう方が,国際貢献の視点からも,日本が世界における発言力を強めるためにも,好ましいような気がします.

もちろん,日本人で学校で英語を学びたい人は選択科目として学んでもよいかもしれませんが,それより,まず,しっかりと日本語を身に着けること,そして,自らの価値観,世界観,人間観などを形成する方法を教えることを優先させるべきと思うのです.また,英語を知らなくても,先方が通訳を連れて話を聴きに,または文字で記したものならば,翻訳したいと望むほどの世界に通用する独自の価値を創造する能力を養うことを目指すべきと思うのです.伊福部昭の言葉ですが,徹底的に日本的なものこそが,世界に通用するものなのです.日本固有の伝統,文化,歴史を知らぬまま,英語を知ったところで,何の意味もありません.英語を解する外国の方の目に,中身のない,うすっべらい人間と映ってしまうのがおちです.「わだばゴッホになる」と言って,ほんとうに日本のゴッホになった宗像志功が英語を話したでしょうか.英語は話せても,日本のことを何もしらない日本人よりは,たとえばですが,明治天皇の御製を,もちろん意味や脈絡を十分理解したうえで,毛筆であざやかにつづれるような日本人のほうが,よほど一目おかれます.

言語は,器にしかすぎません.その器の中に入れるものが重要なのです.記号論風に言えば,重要なのはsignifiantではなく,signifiéなのです. あるいは,次のようにも言えるかもしれません.英語も含め,言語とは基本ソフトのようなものであり,それと応用ソフト(アプリケーション)を使って表現するコンテンツを作り上げるのは,人間であり,自らの独自のコンテンツを生み出す能力を育てることこそが大切なのです.

以上,乱文ご容赦ください.

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