Saturday, 6 May 2017

生誕150周年正岡子規展で知ったこと,思い出したこと,そして考えたこと

  1. 第一高等中学校で夏目漱石と懇意になったのは二人とも寄席好きと趣味が共通していたから.
  2. 病床に臥せっていたため,口述筆記をしてもらうこととなった子規だが,それが明治の口語体文章の発展に少なからず貢献したこと.1.で述べたことと多少関連するが,坪内逍遥が言うように,明治の言文一致の発達に貢献したもう一人と言えば三遊亭圓朝で,やはり寄席とはつながりがある.圓朝と言えば,幕末の有名人,山岡鐵舟とつき合いがあったことで知られている.
  3. 漱石の作品にも多大な影響を及ぼした落語だが,子規も落語のおかげで,自らの過酷な人生を楽しむ術を得たのかもしれない.彼が主宰の発表会“山会”の山は,作品や発表において,受けるところ,笑いをとるところの意味.
  4. 子規が後輩,高浜虚子の虚子の名付け親だったこと.高浜の本名は清,それで虚子にしたとのこと.子規曰く,清と虚は同義語だからとのこと.なお,虚子も松山藩出身.(松山藩剣術鑑の五男.)
  5. 西洋かぶれはやめて日本の伝統に立ち返ろうという編集方針のもとに創刊された『日本(新聞)』の社長兼主筆で子規が世話になった陸羯南は,主君が奥羽越列藩同盟を裏切り鹿児島長州藩らで構成されたクーデター側についた弘前藩の出身.なお,『日本新聞』は,西洋贔屓の政府を批判したため,何度も発刊停止の処分を受けている.(今の日本政府は,日本の古き伝統を重視しつつも,何故かアメリカやロシアの言い成りになっているのが不思議.)
  6. アララギ派は,子規の弟子らによって創立されたが,アララギ派の歌人で日本画家の秋田出身平福百穂とのつながりが見える.四国松山と東北秋田は,周りと異なる行動を採ることが共通項.すでに述べたように,松山は西日本で唯一,クーデター軍におもねることを潔しとしなかった藩で,後に新政府から罰せられている.逆に秋田久保田藩は,早々に奥羽越列藩同盟を離脱,東北に於けるクーデター軍の足掛かりを提供した.特に,平福家のあった角館はお殿様が京都の公家の出身ということもあり,町全体が京都や朝廷に親近感を持っていたらしい.(その意味では,正真正銘の「みちのくの小京都」.)幕末において敵同士と言える両藩だが,周りを気にせずに自分で進むべき道を選び,その道を進む姿勢には好感が持てる.
  7. 子規が古今集より万葉集を評価したのは,前者は平安時代に編纂されたが,後者は天皇の権威が強かった奈良時代に編纂されたものという理由による.子規の,そうした天皇思慕に思いを馳せ,戊辰戦争時,病床にあった父の名代として大村藩軍に鼓手として従軍し,角館で若干15歳で戦死した濱田勤吾少年が常時懐に持っていた,出征の際に父から贈られた歌をご紹介しましょう.

    「ふた葉より 手くれみずくれ待つ花の 君や御為に咲けやこのとき」

    なお,濱田少年は平福家に分宿していました.この歌が書かれた短冊を百穂少年は大切に持っていたそうです.
「正岡子規展」は,横浜市中区山手の神奈川県立近代文学館で5月21日まで開催されています.

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