今年は,福島県を代表する近代画家の1人橋本章の生誕100年ということで,県内各地の美術館で回顧展が開かれました.限られた時間の中でそれらのすべてを観ることはできませんでしたが,県立美術館で『しんかんせん』と題された作品に目をひかれました.以下は,該作品の出品当時に彼が河北新報のコラムに綴った文章です.新幹線こそ,近代日本の精神的貧困さと文明の醜さの象徴のひとつであると強く感じるひとりとして激しく共感しています.
昨年,私は「国鉄新幹線」という,百号キャンパス四枚をつないだ絵をかき,ある展覧会に出品した.
実は,その展覧会には別な絵をだすつもりでいたんだが,展の一ヶ月ほど前になって急に新幹線の絵がかきたくなり,そうしたのだった.
東北新幹線の橋りょう工事が進んでいるのは知っていた.汽車に乗ればいやでも車窓にその風景は見えるのだし,なによりも,自宅から歩いて五分のところでも工事はなされていたのだから.
鈍感と言えば本当にそうだった.
工事が,政治と経済を先行させたところの強引な施策によるものであることは明りょうだったから,出来上がった時の橋りょうの姿が美しくあるはずがないことは分っていた.しかし私はそれがどれほどに美しくないものか,しかとは想像できずにいたのだった.
こういう強引さを私は許していないつもりだが,どうしようもないといった,あきらめの気持ちが先に立つ.近代の,とくに先進国といわれる国土では大体がそういう成り行きでできたのであって,それを改めようにももう手遅れだとするそれだ.
私をして鈍感にさせた一番の理由は,どうやら私もいずれは新幹線に乗ることになるだろうとする,そのことにあったようだ.科学技術とやらで,汽車を今より遠く走らせるそうだが,また今より上等な車両を作るそうだが,ともに私には全く必要でないことだ.が,といって乗らずにガンバルだけの覚悟もない.
さてと,私に新幹線の絵をかかせる時がやってきたのである.工事がさらに進み,橋りょうが連なって,その全貌を見せてきたのだ.
なんたる醜悪か.
その醜悪ぶりは想像をはるかに越えていた.コンクリートの大物量が横たわる,そのずうずうしい姿に対し私は恐怖を感じた.
そういう状況を描こうとしたのだった.
(「新幹線を描く」橋本章『河北新報』文化コラム計数管より 1981年11月19日)