Sunday, 18 June 2017

靖国神社は東北差別の象徴か - 所感

先日,仕事で盛岡を訪れた際,お世話になっている元市役所職員の方のお招きで市内の肉料理店で夕食をご一緒させていただきました.その際,聴き上手と言ったその方の姿勢の故か,思いがけず標記の話題についての愚見を述べることになってしまいました.

と言っても,別に複雑な話ではなく,元をたどれば,この神社は明治新政府が,クーデターで戦死した自らの側に所属していた藩兵,あるいは官軍兵士を神として祀り,彼らの超自然的な力によって,旧東北諸藩が明治政府を転覆せんがために再蜂起するのを阻止する目的で建立されたものであり,そのため,当然のことながら,戦死した彰義隊や奥羽越列藩同盟に属していた諸藩の兵士は祀られませんでした.そして,明治新政府は,仙台藩の玉虫左大夫や南部藩の楢山佐渡といった東北諸藩の逸材を情け容赦なく,晒し首などのむごい刑に処したのです.その意味で,この施設は,当初は東北差別の象徴だったとも言えなくもない.もちろん,日清以降の対外戦争に於ける戦死者は,日本国籍を持つ者であるなら出身地は何処であろうと皆祀られるようになっているので,爾来,必ずしもそうとは言えないかもしれません.しかし,何か,納得が行かない部分がある.少なくとも,その最初の目的として明治日本という国を創るために命を失った人々だけを祀り,その後は,その新しい日本が行った対外戦争において戦死した人々を差別なく祀るという姿勢の根底にあるのは,単純に言えば,明治維新以前の日本の国,およびそれに属する全ての否定であり,自分たちが創った国こそ,誠の日本であるという思想です.(この「新しい日本」が如何に過去,特に徳川時代に蓄積された文物の上に成り立っていたかと言うことは,ここでは述べません.) 別の言い方をするならば,強者,支配者に無条件で付き随うことをよしとする思想であり,これは,よく言われる「八百万の神を祀る日本は宗教的に寛容な国である」と言う命題と明らかに矛盾しているのです.宗教的に寛容である日本人は,それ以外の分野でも寛容であるなどと主張する方もおられるようですが,甚だしい思い違いに他なりません.強者に従順な姿勢を寛容であると勘違いしているに過ぎないのです.自然災害のデパートであり,かつ豊かな自然の恵みに恵まれたこの島国で育った伝統的な宗教,大陸から道教が輸入された後は,その影響の下に神道と呼ばれるようになったこの宗教は,そこに暮らす人々の内に,ひたすら強者に対する従順と限りなく排他的であり差別的である態度を育んだのです.あるいは,逆にそうした環境の中で暮らす人々が環境に適応して生きるために長い年月をかけて身につけた習性を反映しているとも言えるでしょう.

このように考えると,国民全員が靖国神社の氏子となるべきと述べる松平永芳靖国神社第6代宮司や小堀桂一郎氏の歴史認識がきわめて奇妙なものに見えてきます.

次回,盛岡を訪れたときには,小泉信三元慶應義塾大学塾長がその碑文を記した米内光政元海軍大臣の記念碑を訪ねたいと思っています.

下は,盛岡の先人記念館で見た米内提督が残した書*1)と山本五十六元帥が大使館附武官補佐官として渡米する実松譲(当時少佐,または中佐)に贈ったと思われる明治天皇の御製*2).

*1)「盡其心竭其力致其命」(こころをつくし,ちからをつくし,めいをいたす)
*2)「あさみどりすみわたりたる大空のひろきをおのが心ともかな」

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