日本の保守とか右翼(特にネット右翼)などと言われる人たちもほぼ同様で,一般的に厳密な定義はありません.一般に彼らの信条は,親米,より正確に言えば従米ですが,それと彼らの日本の過去に関する陳述とは全く整合性がありません.過去における鬼畜米英と,何故,戦後は斯くも親しくつきあっていられるのか.そこに至る転向を正当化する論理を日本の保守も右翼も提供しません.それは,もし,現在の親米傾向を過去における自らの誤りに気づいた結果と認めるならば,かれらの信条のひとつであるネガショニスムと相容れなくなりますし,靖国神社に祀られている英霊達に顔向けが出来なくなるからでしょう.また,彼らは,第二次世界大戦当時,アメリカが日本に対して実施した無差別爆撃(日本軍もアジア諸国に対して実施しました)や原爆投下,さらに後者に対してジュネーブ条約違反として当時の外務省が送った抗議などについては,どのような見解を採っているのか知りたいものです.Populisme: une notion fourre-tout jamais définie avec rigueur https://t.co/rFwkydL2SW— lavantgarde (@_lavantgarde) 2016年4月21日
ところで,伝統的に日本には,西洋のような歴史的,地理的に普遍的倫理観というものは存在しません.あるとしたら家系の存続と子孫繁栄です.極めて動物的とも言えます.そうした目標に至るための手段は,徹底した環境適応です.自然災害のデパートであると同時に自然の恵みもふんだんという独特の風土において暮らして来たわけですから,無理もないでしょう.こうした環境に適応しようとする日本人の姿勢は,例えばアメリカのような意思を持った'環境'に対しても見られます.ようするに,長いものには巻かれろ的姿勢と言えるものです.あるいは無理を言えば道理は引っ込む的姿勢とも言えるでしょう.強者には逆らわない,自分たちよりもはるかに高い環境適応能力,あるいは環境支配能力を身につけている者は,その事実自体が彼らの行動の正当性の証左なのです.日本人にとって彼らは正義そのものと認識され,彼らに従うことが自らにとって正しい選択になります.(司馬遼太郎の『花神』の冒頭の言葉「もし維新というものが正義であるとすれば,...」が思い出されます.) このように,日本人の行動を規定しているのは適者生存,強者生存といった法則に他ならず,この法則こそが神道,より正確に言うならば,農耕村落共同体的氏神信仰の根幹を形成している世界認識なのです.
このようにみてくると,時折,保守を標榜する政治家たちが過去の日本人の行動について語るときに聞かれる「あのときは,ああするしか仕方がなかった」という言葉の背景も理解できます.彼らは,人間は歴史の主体には成り得ないという極めて諦念的な世界観に支配されているのです.歴史の流れに対しても,環境の変化に対しても,自然災害に対するように人間はあらがうことはできない.そういう暗黙の了解がこの民族を支配しているのです.このような精神文化を身につけた民族に西洋的な市民社会が構築できる由縁はありません.彼らに於いて,歴史は断片化され,その断片一つ一つにおける価値観は全くばらばらで整合性はなく,それらを貫く普遍的な価値体系といったものは持ち合わせていません.そのときそのときにおいて上記のような目標が達せられると思われる行動が善に基づくものとされるのです.一言で言うと徹底した日和見主義(Absolute Opportunism)ですが,徹底した現世主義であり,その意味では儒教的と言えるかもしれません.
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