落語の国から

VI - 音を使ったくすぐりの'構造'

もし,故立川談志師匠が以下の文をお読みになったら,ほぼ間違いなく激怒されるか,あるいは落語の笑いの本質を全く理解していない野暮天の極みとして無視されるかと思いますが,敢えて書かせていただきます.(家元,何卒ご容赦ください.)

パターン1: 類似の発音を持つ事柄を重ねる
例: 「しかしも案山子もあるもんか.」

パターン2: 類似の発音を持つ事柄と同一のカテゴリーに含まれる事柄を付加する
例1: 「そんなことだから,勘当とか,提灯とか言われるんでえ.」(古今亭志ん生『唐茄子屋』の中で徳三郎に対する叔父の言葉.)

*「 勘当」と発音が似ている照明器具の「龕灯」(がんとう)と同じカテゴリー(照明器具)に属する提灯を追加している.

例2: (オフィスでの部下と上司とのやりとり)
部下「怒らないでくださいよ.ジョークですよ.軽いジョーク.」
上司「ジャークだか,ちょうちんあんこうだか知らんが,お客さんからこんなクレームもらっておいて,もう少し真面目にやれ!」

*「ジョーク」と発音が似ている「ジョーズ」によって連想される人食いザメと海中生物という同じカテゴリーに属する「ちょうちんあんこう」を追加している.

パターン3A: 類似の発音を持つ事柄と同一の脈絡に含まれる事柄を付加する(並置)
例1: 「なんだい.お願いだの手水鉢だのって.」
(古今亭志ん生が良く用いるくすぐり.)

* 「お願い」という言葉の発音に似ている「梅が枝」という言葉を含んだ歌「梅が枝の手水鉢.叩いてお金が出るならば...」に於ける「手水鉢」を付加している.

例2: (オフィスでの部下と上司とのやりとり)
部下「一体,僕の人権はどうなるんですか.」
上司「そういう人権とか,ジャガイモとか言う話は,また後でゆっくり聴くから,とにかく早く言って来たまえ.」

*「人権」と発音が似ている「じゃんけん」を含んだ歌「じゃんけん,じゃがいも,さつまいも...」に於ける「じゃがいも」を付加している.

パターン3B: 類似の発音を持つ事柄と同一のカテゴリーに含まれる事柄を付加するのはパターン2と同じだが,付加する事柄は述べたいことが強調されるものを選ぶ (強調)
例: 「検校どころか,めだかにもなれません.」
(古今亭志ん生『三味線栗毛』より)

* 「検校」(けんぎょう)と発音が似ている「金魚」と同じカテゴリーに含まれるが,それよりサイズにおいて劣っている「めだか」を選ぶことで,自分(盲目の マッサージ師の錦木)が検校になることは到底かなわない望みであることが強調される.音という共通性を利用した例えとも言える.以下は,視覚的な共通性を 利用した例えによるくすぐりの例.

(父親と娘の会話)
父「おまえ,何だってな.こないだの全国模試で下から2番目だったそうだな.」
娘「2番じゃない.3番だ.」
父「似たようなもんだ.そうやってずうっと下のほうに潜っててみろ,試験の点だからいいようなもんの,ぼうふらだったら息ができなくて死んじまわあ.」
娘「父ちゃん!自分の娘つかまえてぼうふら呼ばわりすんのかよ!」
- 2015.03.20
V - 幇間的生き方

幇間が登場する噺を演じさせたら,八代目桂文楽の右に出る落語家は古今東西存在しないというのが,恐らく文楽師のファンなら全員認めるところでしょう.また,実際の幇間という職業は,並の人間には到底務まらない非常に難しい職業であることは想像に難くないところです.

ただ,落語の中に登場する幇間というと,代表格の『鰻の幇間』,『つるつる』,『愛宕山』,『たいこ腹』などに登場する一八(いっぱち)師匠は,金銭の報酬やプロポーズの承諾を得ようと懸命に営業努力をするものの,最終的にはその期待はことごとく裏切られ,場合によっては『鰻の幇間』のように経済的損害まで被ってしまいます.唯一の例外と言えるのは,『富久』に登場する久蔵さん位なものでしょう.それでも,最後にめでたく千両富に当選する前には,恐らく上で述べた一八さんのように費用対効果から云ったら,たいへんな'赤字'を抱えていたことは間違い有りません.(相当,借金もあったようですし.)

こうした落語国に住む頑張っている割にはその努力が報われず気の毒な幇間たちのことを思い出したのは,先日,用事があって東京の西新井へ出かけたときのこと.仕事での移動は,大半の場合,横浜市内のため,交通機関内で座れようが座れまいがどうでも良いことですが,さすがに最寄りの東京急行青葉台駅から西新井までというと,できれば座って行きたいものと多少遠回りになりますが,神奈川中央バスで小田急江の島線の鶴間駅へ行き,中央林間から始発に乗ることにしました.巧い具合に中央林間での急行久喜行きが丁度出発するところで,もちろん座席も確保できたことは言う迄もありません.やれやれ,これで長旅も楽だわいと思ったのもつかのま,青葉台で乗車してきた1人のご婦人が私の席の前に立たれました.それほど高齢には見えなかったものの,脇には折り畳まれたステッキが見えたので,さすがに席を譲らない訳には行きませんでした.もちろん,もはや空席はありません.場所を移動して釣り手を掴んでから,しばらく,こういうのをマーフィーの法則的人生,あるいは落語に登場する幇間的人生とでも言うのかしらと頭のなかでぶつぶつつぶやいていました.

これからは,恥ずかしながら柄にも無く説教じみた話になります.用事を済ませ,西新井のホームで別の用事のため向かう半蔵門方面行き列車を待ちながら,ふと気がついたのは,確かに西新井に来るとき自分が経験したのは,言わば鳶に油揚をさらわれたとでも云えそうな残念な出来事だったが,ことによると,自分が席を譲ったご婦人も人生のどこかで,あるいは人生を通じて,何かを得るための努力の結果が自らに返ってこないで別の人のところへ行ってしまった経験をしているかもしれない.さらに想像をたくましくすると,それは,その方の意図するところ,つまり甘んじてそうなることを受け入れたか,あるいは望んだことだったかもしれない.少々大げさですが,これが,宮沢賢治の言う'捨身大菩薩'的生き方なのかもしれない.そして,この自分も他の人の油揚をさらうようなことをしてきたかもしれない.(ほぼ,間違いなく.) そんなことをふと思いました.次の用事で訪れた半蔵門でお会いした方は,思いがけなく鉄道ファンで話がはずみ,帰路についたときは朝の苦い経験のことなどすっかり忘れてしまい,楽しい気分で下りの急行に乗りましたが,立っている乗客も少なくなかったものの,何故かわずかに空席が残っていて青葉台まで座ることができました.幇間的生き方もまた善哉.そんなことを思った一日でした.

- 2015.03.20

 
IV - スタニスラフ・レムの『宇宙創世記ロボットの旅』に描かれた近未来の大阪

昨今,聴く落語というとYoutubeで公開されているものばかりですが,少なくともテレビで放送されたものについての著作権は50年間保持されるはずですから,例えば,初代林家彦六,十代目金原亭馬生両師匠の没年は1982年なので,現在,動画サイトにアップロードされているものの中には著作権法に抵触するものが存在している可能性があります.六代目三遊亭円生師匠も亡くなったのは1979年ですから,Youbute上で視聴できる同師匠の口演の中にも,違法アップロードされているものがないとはいえません.そして,CD代を惜しみ,それらを聴く私のようなものがいるから,こうした違法の可能性がある動画のアップロードが絶えないわけです.ただ,盗人にも三分の理ではありませんが,以下の事情も事実だと思います.つまり,今日,過去の名人たちの口演に接する機会が,市販のCDおよびウェブ上の動画サイトが提供するものを除き,残念なことに他には存在していないということです.

それで,思い出すのは,少々飛躍しますが,大阪で勢いのある維新の党元共同代表の橋本大阪知事の文楽協会に対して示した姿勢です.もちろん,文楽だけが日本の伝統文化の根幹をなすものではありませんが,Twitterで見かけた橋本氏の文楽についての発言が示す,同氏の幼稚すぎる芸能についての認識に唖然としました.文楽自体の内容が判りづらいことは確かです.しかし,文楽がビジネスとして成立しなければ自然淘汰で消滅してしまっても構わないというのはいささか短慮のきらいなきしにもあらずとはいえないでしょうか.文楽協会の側にも,努力すべき点はないことは無いかも知れませんが,それより,問題なのは,それを取り巻く環境です.大げさに言えば,日本社会全体の伝統的な芸能文化との関わり方です.そこに,少なくとも2つの問題があると思っています.

1つは算数の九九のように,伝統的な芸能文化の要素のうち,ポピュラーな歌舞伎や文楽の台詞など,一般教養として覚えておいてもよさそうなものが忘れ去られてしまったということです.そのため,例えば古典落語を聴くにしても,昔は必要なかった説明が今は必要となってしまい,それが話のテンポやリズムを損なっ てしまうことがあります.こうした事態を招いたのは,もちろん核家族化であったのは間違いないでしょう.もう1つは,文楽や歌舞伎といった,今ではとっつきにくいと言われる芸能を大衆化する媒体がなくなってしまったということです.そういった媒体の代表的な例の1つが,川田晴久でした.彼は,広沢虎造の節回しをギター の伴奏付きで再現しました.落語も,文楽や歌舞伎(例えば『忠臣蔵』など)の要素をかなり多く借用しています.そして,逆の場合もあります.もうひとつの例として思い浮かんだのは,初代金原亭馬の助の演じた『七段目』のライブ収録です.冒頭,質屋の主人である父親が番頭に息子,幸太郎の芝居狂いの様子を語りますが,その中で,ある日,店を訪れた角兵衛獅子の子供と幸太郎との会話が再現されます.幸太郎は子供に「して国は?」と訊ねますが,答えを聞く前から客席では笑いがこぼれます.観客達は,それが文楽の『傾城阿波の鳴門順礼歌の段』の名場面であることを知っているからです.このように,以前は多くの人が文楽や歌舞伎の名場面や名台詞を実際の公演は見ていなくても一般常識のように知っていたのです.同時に,歌舞伎や文楽についての知識がなくても,別の,馴染み易い芸能を通じて,それらの源流に近づくことが可能だったのです.今はそうした接点や,言わば《段階的学習》の方法は殆ど存在していません.

維新の党の政策を見る限り,支持できるものも少なくありません.しかし,最終的に彼らが目指している日本とは具体的にどういったものなのかが,私だけかもしれませんが,今ひとつ明確でありません.下手をすると,この人たちが目指している国は,第二次世界大戦敗戦間際に海軍航空隊司令官だった大西瀧次郎中将が本気で主張した二千万特攻の現代版が実施出来る国ではないだろうか,そう思えてこないこともありません.そうなると,その国はスタニスラフ・レムの『宇宙創世記ロボットの旅』で2人の宙道士が訪れた醜怪王や癇癪王が支配する国のようなものになるのではないか,別の言い方をすると,アンドロイド化した人間,あるいはアンドロイドが暮らす国になってしまうのではないか,そんな危惧を覚えてしまうのです.いずれにせよ,政治家が,選挙で選ばれたからといって,すべての要不要,有用無用を自分だけを尺度にして決定してしまう程とんちんかんなことはありません.そんな人間に教育政策を任せたら,とんでもないことになります.さらに,政治家が,それが自分の使命であると信じ込んでいるなら自らの政策を国民に示すことに一切何の意味もなくなります.選挙自体が茶番劇となるからです.そして,そうした政治家が治める国は一党独裁の中国や北朝鮮などよりさらに住みにくい国となります.個人的には,そういう人間に支配される国とは,ほとんどオーム真理教と変わらなくなるのではないかと思うのです.もっとも国民がそれを望んでいるならば仕方ありませんが.

橋下徹大阪市長の生まれたのは東京オリンピックの5年後の1969年.高度経済成長期のまっただ中.経済,金銭がすべての判断の基準となった時期でした.目に見えるものだけが国の豊かさの尺度にならないと感じさせられたのは,以前に2年近く滞在したアルジェリアや観光で滞在したパキスタンでのことでした.イスラム圏のこれらの国々の人々と交わり,人間の本当の豊かさとは目に見えないものの中にこそあることを身を以て思い知らされたのでした.

- 2015.01.01


III - 例外的な鳶頭,『三軒長屋』の政五郎

杉浦日向子さんが新潮文庫の『一日江戸人』の中で紹介されていますが,江戸時代,町の消防署長だった鳶頭は,江戸の三男(鳶頭,力士,与力)に含まれるほど魅力的な男性の代名詞だったようです.ただ,落語の中に登場する鳶頭というと,少なくとも普段はあまり頼りにはならないような人が多いようです.その代表例は『茶の湯』に出て来る鳶頭.ある日,大家さんであるご隠居からお手前への招待が来たとたん,作法を知らないことが世間に知られるとまずいとして引っ越しにとりかかります.また,『寝床』に登場する鳶頭も,やはり大家さんである大店のご主人から,義太夫を披露するので来るようにとの招待を受けると,成田の講中にもめごとがあるといった言い訳をつくって欠席しようと試みます.他の店子たちと同様,大家さんのひどい義太夫から何とかして逃れるためです.

そういった,この人,いざというとき大丈夫かしらと思える鳶頭たちの中で,良い意味で,これぞ鳶頭の典型と言えるのが『富久』に登場する鳶頭.特に八代目桂文楽の演じた場合ですが,金離れが良く,責任感が強く,面倒見が良い,そういった町の住民たちが鳶頭という存在に求めるすべての属性を身につけているように思える人物です.それを特に強く感じるのは,この話のラストシーン.糊屋のおばあさんが住む隣の家から出た火事が燃え移り全焼した久蔵の家から,鳶頭が布団などの家財道具を運び出してくれていたのですが,その中に賞金千両に当選した富の札を収めた大神宮の神棚があることを知った久蔵は,興奮のあまり半狂乱になって鳶頭につかみかかり,挙げ句のはてには泥棒呼ばわりします.しかし,富の札が無事であることを確認した久蔵から事情を聞かされた鳶頭は,一言の文句もいわず,もちろん礼も求めず,「運がいい野郎だ.」と一緒に喜びます.まさにきっぷがよいというのは,こういうことを言うのではないかと思える態度です.久蔵のほうにもお礼として獲得した賞金から一定の額を渡すといった言動もありません.彼が,そんな事を言おうものなら怒り出すという鳶頭の性格を良く知っていたからでしょうし,同時に,そうした野暮な行為は芸人として慎むべきことと十分に心得ていたからだったと思います.

『富久』で描かれる理想的な鳶頭に比較して,異例とも思えるのが『三軒長屋』に登場する鳶頭の政五郎です.何かというとすぐに喧嘩を始める血の気の多い子分たちを束ねているだけのこともあって,人望も厚いと思うのですが,陰で自分のことを馬鹿にした大家,伊勢屋の主人から,同じように馬鹿にされた長屋のもう一人の住人で剣術の指南,楠運平橘正友と組んで詐欺まがいの策略により50両という大金をせしめます.自分たちに恥をかかせ,しかも金にものをいわせて好き放題のことを行う者に対する復讐,あるいはお仕置きと言えないこともないかもしれませんが,いずれにせよ最終的な解釈と首尾よく手に入れた大金の使い途の想像は,私たち聴く者一人々々に委ねられているようです.

ところで,政五郎と言えば,他に大工の棟梁として登場する話があります.知っているものでは,『大工調べ』と『ねずみ』ですが,前者では,自分の下で働いている与太郎が意地の悪い大家の仕打ちにより働くことができなくなったことを奉行所へ訴え,被告となった大家から与太郎への賠償を勝ち取ります.『ねずみ』で登場するのは,まだ子供の二代目政五郎で,左甚五郎が食客となっていた家の主人の政五郎は登場しません.が,やはり面倒見が良く人望の厚い人だったようです.

- 2014.12.19


II - 映画化された落語『幕末太陽傳』

もし,観る前に三代目古今亭志ん朝の『居残り佐平次』を聴いていたなら,佐平次役のフランキー堺が登場するやいなや,気分が悪くなる映画です.理由は,彼の演じる佐平次が志ん朝師の演じる粋な佐平次からあまりにもかけ離れているからです.もちろん,それはこの役を務めたフランキー堺のせいではありません.監督の川島雄三が,この映画を落語に対するオマージュとして制作したわけではないことは十分理解していますが,この映像作家の想像力の乏しさのせいか,『居残り佐平次』という噺の理解があまりにも表層的であり,この噺を聴いた彼の脳裏に再生されたイメージが極めて貧弱だったためでしょう.それゆえ,この映画は単なる落語のアドプテーションに留まらず,結果としてオリジナルについて一般に持たれているイメージを損ねてしまう作品と言えます.(逆に,志ん朝師演じる『居残り佐平次』の素晴らしさを浮き出させてしまうのも事実ですが.)ただ,やはりストーリーに織り交ぜられていた『品川心中』は,小沢昭一の秀逸な演技のせいもあり,落語の映画化としては成功した例と言えそうです.なお,元々この映画は,石原慎太郎という雰囲気や言動,行動は明治時代の壮士のようでありつつ,おしまいには何を考えているのか殆ど理解できない不思議な方が著した『太陽の季節』という小説のコンセプトもそのベースを構成する要素のひとつになっているようなのですが,なぜ,それにさらに落語の要素も加える必要があったのか,その理由もわかりません.ただ,映像作りの丁寧さ,美しさにおいては,溝口健二の作品に通じるところも感じられる作品であることも事実です.(日活,1957年)

個人的に,それほど見事と思っている志ん朝師の『居残り佐平次』ですが,他の師匠が演じると,川島雄三の映画同様,到底聴けたものでなくなる場合もあります.その筆頭に挙げられるのは六代目三遊亭円生の場合.円生師の『居残り佐平次』を聴くと,しけったお煎餅と固くなった羊羹をぬるくなった上に濃過ぎるお茶と一緒に食べているような気分になります.(なかには,それが好物と言うひともいますが,大半のひとには,特にお客様にはとてもお勧めできる代物ではないという意味.)とはいえ,ここは公平を期するうえで,志ん朝師の芸にあまり似合わない噺のジャンルを挙げるなら,大店の旦那や与太郎,子供,あるいは武士が主要な役割を演じる作品です.特に与太郎は,基本的にお得意ではないようです.

さらに,佐平次同様,遊郭専門の詐欺師を題材としたものに『付き馬』がありますが,では,こちらもやはり志ん朝師が演じるものが好きかというと,必ずしもそうともいえず,どちらかというと四代目春風亭柳好の口演のほうが好きです.所詮,好みの問題なのですが,自分でも不思議に思えます.また,柳好師の道具屋などに登場する与太郎も好きです.(柳好師の出囃子は「おいとこ」.)

最後に円生師について加えると,『紫檀楼古木』も好きにはなれません.紫檀楼という人は,おっとりしている人のように思うのですが,円生師が演じると,古木に邪悪性が垣間見えてしまい,聴いている側が噺から投げ出されてしまうので,その後はついてていけなくなるのです.『紫檀楼古木』は,林家彦六師の演出が自然で,全体を通じて整合性があるため好きです.ただ,円生師が『百川』を演じると,登場する百兵衛には,そうした邪悪性が一切ないため,素直に楽しむことができます.『百川』は,これまで聴いた中で円生師の作品が一番好きです.

- 2014. 12. 14


I - 冬に聴きたくなる噺

* ソニーミュージックから『決定版!寄席囃子100』というCDが発売されていますが,以下に紹介する名人たちの出囃子が,Amazon.co.jpのこちらのページで視聴が可能です.(桂文楽: D3-40. 野崎; 古今亭志ん朝: D3-35. 老松; 古今亭志ん生: D3-39. 一丁入り; 金原亭馬生: D1-16. 鞍馬; 三遊亭円生: D3-38. 正札附; 林家彦六: D1-26.菖蒲浴衣 二)

今頃になると聴きたくなる落語をあげなさいといわれたとしたら,なにはともあれ,次の四つをあげます.
  1. 按摩の炬燵
  2. 二番煎じ
  3. 富久
  4. 鰍沢
なお,ランク外として,話全体の季節はいつか判りませんが,『三軒長屋』をあげておきたいと思います.

演者は,初めの『按摩の炬燵』については,迷うこと無く八代目桂文楽,次の二番煎じは三代目古今亭志ん朝,特に,町内を防火のために見回る最初のグループの中の辰つぁんが好きです.三番目の『富久』についても,やはり文楽師,(文楽師は,幇間(たいこもち)の芸でも卓越した才能を発揮されていますが,この話に限らず,大仏餅など盲人が場する話においても,他者の追随を許さない見事な芸を披露してくれていたように思います.)そして,鰍沢についてですが,それぞれのパートで,次のように好きな演者が異なります.

まず,雪道に迷い,ようやく見つけた家の中に入れてもらった旅人とそこの奥さんである元花魁との会話は,郭話については,ご長男の金原亭馬生師がおっしゃるように,まさにそちらの分野における”博士”の称号にふさわしく,限りなく豊富な実体験から醸し出される臨場感からご尊父の五代目古今亭志ん生.ただ,この場面では,馬生師の冷酷な性格が強調される元花魁(月輪のお熊)も,『百年目』の大旦那を演じる際などに垣間見える馬生師の温和な性格と自然と比較してしまうので,なおのこと彼女の冷酷さが増すのですが,それもまた捨て難く思えます.また,お熊が酒を求めに外出したため留守となったところに,過去に彼女の心中の相手となった夫が帰宅したとき(旅人は別の部屋で,すでに寝ている.),ほとんど消えてしまった囲炉裏の火の勢いを木の枝などをくべつつ再び強くしようとする場面は,六代目三遊亭円生の臨場感溢れる演出が好きです.では,総合ではとなると,甲乙つけ難いので,やはり上記全員の師匠方の演じたものをお聴きになることをお薦めしたいと思います.なお,林家彦六(元八代目林家正藏)の少々怪談めいた趣の演出にも惹かれるところがあることも付け加えておきますが,彦六師の古典の演目の中で冬に聴きたくなる話の中に『火事息子』があります.

ランク外の『三軒長屋」ですが,これの演者としては,迷うこと無く志ん生師を挙げたいと思います.この物語の中で,冬になると思い出すのは,上下と分けられた場合の上の部分で,当初,鳶仲間の喧嘩の仲直りのために設けられた宴席で新たに起きた喧嘩のさいの会話で,当事者である一人のメンバーが相手の過去の所行を物語って後者を批判するのですが,それは,ある年の暮れに,困窮した後者が前者の家を訪ねてくるときから翌年正月にかけて起きた一連の出来事でした.そして,今頃の季節になると,私の頭の中に聞こえてくるのは,志ん生師の「ぴゅーっと北風と一緒にへえってきたのはてめえだ.」という一人目のメンバーの言葉です.そのひとことで季節感を表現し,翌年の正月へとつなげてゆく演出は,見事としか言いようがありません.

- 2014.12.13

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